弘前城築城が着手されたのは慶長十五年(一六一〇)のことで、一月に領内に人夫の割り当てを行い、二月に幕府から検使の兼松源左衛門・正木藤右衛門が下向し検分をした。二月十五日に東海吉兵衛(とうかいきちべえ)が縄張りを行い、三月五日に斧立(おのた)ての式を行った。六月一日から城を築き始めた。普請(ふしん)奉行は宮館文左衛門、竿(さお)奉行は谷口仁兵衛が務め、丁場(ちょうば)(受け持ち区域)の割り振りと石垣の築き方は伊東六右衛門・服部孫助が担当した、石垣用の石は長勝寺の南西、石森(現弘前市常盤坂付近)というところから切り出した。この年の六月風雨が強く、難儀をしたが、これは兼平(かねひら)(現岩木町兼平)から石を採ったためだという記録があり(資料近世1No.二八五)、石森以外に兼平からも採石したようである。また、石は大光寺・汗石(浅瀬石(あせいし))・和徳・黒石などの古城からも運んだ。しかし弘前城で石垣が組まれたのは本丸だけであった。木材は碇ヶ関・蔵館・石川の山から伐採し、平川を利用して運んだという。大光寺城や大浦城の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀田(よした)門、現存しない)になった。五層の天守閣・各櫓(やぐら)・門に必要な鉄物は大量に必要だったため、森山内蔵助(もりやまくらのすけ)に命じて、外浜(そとがはま)の小国(おぐに)・蟹田(現東津軽郡蟹田町小国と蟹田)において、南部領から鉄吹きの者三〇人を呼び寄せ鋳鉄をさせている。築城のため、大工などの職人も多数江戸やその他の地域から呼び寄せ、城は一年足らずの内にほとんど完成した。
慶長十六年(一六一一)には城の築造がなったため、堀越より神社・仏閣、大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅が城下に移され、城の内部の二の丸・三の丸・西の郭(くるわ)・袰(ほろ)町に重臣や上級武士の屋敷割りが行われた(資料近世1No.二八三・二八四)。