「出頭人」の台頭

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近世の幕政や藩政において、「出頭人(しゅっとうにん)」と呼ばれる存在があった。主君の意にかない、そのもとで権勢を振るう人々を指していう言葉である(木昭作『日本近世国家史の研究』一九九〇年 岩波書店刊)。
 この時期の津軽弘前藩にあっても、信政の意にかない、そのもとで権勢を振るった二つの「出頭人」グループが存在した。一つは兵学者儒学山鹿素行(やまがそこう)(一六二二~一六八五)の一族やその薫陶を受けた「素行派(そこうは)」と呼ぶべき人々、もう一つは、財政・検地等のエキスパートで、領外の幕領検地や領内検地などで実務的な能力を発揮し、やがて藩の勘定方・郡方を掌握し、藩主信政の在職後期の藩政を左右することになる人々である。この「出頭人」たちは、藩政の確立と藩主権力のより一層の強化を目指す信政にとってまさに自らの意にかなった人材であり、藩政の重職に登用したとみることができよう。
 ここではまず、「素行派」と呼ぶべき人々の存在についてみてみよう。信政の後見を勤めた津軽信英は素行の門人になっており(入門時期不)、やがて信政自身も思想的な支えをそこに求めるようになっていく。
 『山鹿素行先生日記』(素行会編・発行 一九三七年、以下『素行日記』と略記)によれば、万治三年(一六六〇)十月十二日、素行は初めて江戸津軽弘前藩邸を訪ね、この時から信政との交流が始まった。以後、寛文六年(一六六六)十月三日に素行が播磨赤穂藩浅野家に御預けとなるまで、両者の往来の記事が『素行日記』に散見する。一方、後見役であった信英の素行に対する傾倒は、寛文元年、旗本山口直治を通して、津軽家召し抱えを申し出たり(「配所残筆」『日本思想大系 山鹿素行』一九五九年 岩波書店刊)、遺書に素行を厚遇するよう特記していることからもうかがえる。素行が御預けになっていた時期にも信政は連絡を取り続け、延宝三年(一六七五)素行が赦免されると、親交はいよいよ深まるとともに、津軽家に素行の一族や門人召し抱えられたり、役職登用が非常に顕著となっていく。こういった人々はいわば信政の側近であり、その意味では側近を重視する意向を強く打ち出したものであった。

図89.山鹿素行画像

 信英の死後、藩政を掌握することになったのは家老高倉盛成(たかくらもりなり)らである。この四人の家老は藩成立時の譜代重臣層の家系ではなく、藩成立以後、新規に召し抱えられて重臣層にまで到達した家系の出身であり、いずれも先代信義時代、および信英後見時代に家老として登用された人々である。うち倉は寛文四年に引退し、その後を受けて神保長治家老に就いている。
 「素行派」の役職登用という路線が色濃くなったのは延宝七年以降のことである。先にみた用人職設置で最初に任命された田村幸則山鹿素行の甥に当たる。さらに、延宝八年(一六八〇)一月十一日、信政の実弟で、叔父津軽信隆の養子となった津軽政朝家老になった(「江戸日記」延宝八年一月十一日条)。彼もまた素行の弟子である。しかし、信政時代の家老はこれまで藩主家の血統につながる一門衆からは登用されず、藩の成立以降召し抱えられてきた譜代勢力が占めていた。北村・渡辺・傍島・神保四家老の後も、寛文十二年(一六七二)には譜代勢力出身の進藤正次(しんどうまさつぐ)が家老に就いている(「国日記」寛文十二年十二月朔日条)。この人事はそれを打ち破るもので、信政が自己の政策を強力に推し進めるために一つの布石を置いたといえよう。
 同年十月六日、北村・渡辺・進藤の三家老は、信政より長年の労をねぎらわれ、家老職を免じられた。しかし、三人の持つ番方の地位は取り上げられず、また、渡辺は翌年正月十一日には城代に新任されている。この処置は、信政が先代以来の家老を行政から遠ざけ、三家老がよって立つ政治的基盤であり、これまで藩権力の中枢を担ってきた新興譜代勢力の反発を抑えるために、番方の重職で処遇したといえるだろう。また、三家老番方専任となったことで、役方番方の組織の完全な分離が実現したという見方もできよう。
 三家老更迭と同日、北村統好の次男で山鹿素行二女鶴の夫でもある喜多村宗則(きたむらむねのり)(一六五八~一六八二)に対して、役儀はないままで津軽政朝の手伝いおよび御用見習いを命じ、また間宮・木村・唐牛の三用人に対しては、先例を尋ねる事があったら三人の前家老に尋ねるよう命じている。それまで三家老が果たしてきた職務を用人に吸収させるねらいがあったものと思われる。宗則は幼少から信政に近侍していた人物で、その取り立ては信政の側近・「素行派」登用路線の一環とみられる。宗則はこの後延宝九年二月に津軽姓を下賜され、信政から一字を拝領し津軽監物政広(つがるけんもつまさひろ)と名を改め、さらに天和二年(一六八二)に家老に昇進した。ただ同年六月に死去したため、藩政には十分な力を発揮しえずに終わった。
 もう一人の素行の女婿、山鹿興信(やまがおきのぶ)もこの時期取り立てられた人物である。興信は素行の甥で、寛文元年(一六六一)、十五歳で素行の養子になったという。翌年安芸三次(みよし)藩主浅野長治(ながはる)に召し出され近習となった。これは長治が素行の代わりに興信を出仕させたものである。興信は寛文八年(一六六八)に素行の長女亀と結婚し、この年から配流中の素行のもとをしばしば訪問している。素行が赦免された延宝三年には三次藩を辞したものと思われ、妻子を連れて江戸へ移住し、素行ともども津軽家江戸屋敷へ出入りするようになり、信政や津軽政朝喜多村宗則などの師を務めた。藩では延宝六年五月十二日、合力米として以後月に米一〇俵を興信に与えることを決めている。『素行日記』によれば、翌七年九月十二日着の素行宛て信政書状に、「一昨日八郎左衛門(興信)為家臣之列云々」と記されていたという。「江戸日記」にこのことはみえない。延宝八年九月二十三日、興信は江戸を立って津軽へ下向。翌延宝九年一月十一日、国元において興信は召し抱えのうえ、家老に任じられ、知行一〇〇〇石を与えられた。次いで津軽大学と称するよう命じられ、信政の諱(いみな)「政」を拝領した。彼は「政実(のぶざね)」と名のるようになり、以後も破格の待遇を得ている。
 この時期に形成され藩政を握った「素行派」は、藩主の側近である素行の親族・弟子を藩主権力を強めるために登用した。