一方、米穀に関しては組織はやや異なるが、やはり城下の主要な御用達の商人が「御用達元方」として任命され、天保八年十月から始まる「預手形」による買米制に大きな役割を果たした。詳しくは次項で述べるが、弘前では一町ごと、在方では一村ごとに米穀商売を扱う者を設定し、それ以外の者には自由な商売を禁止した(資料近世2No.一六)。これらの米穀の購入状況を御元方勘定奉行に報告し、支払いの仲介に当たったのが御用達元方の商人であり、一般の商品に対する大問屋の役割を果たした。彼らはさらに現金の兌換札(だかんさつ)である「預手形」の発行名義人にもなった。預かり手形による買米制が頓挫した後も、仲買人による米の買い入れは継続された。「国日記」同九年九月二十五日条では、米穀の購入は「大金も取扱」うため、その人選に当たっては御用達に任され、よく穿鑿(せんさく)に当たることと定められている。
もちろん、これら統制を逃れての隠商売も後を絶たなかった。天保後期は相次ぐ飢饉で、無家業の者の隠商売も野放し状態であったが、流通機構を利用して不当の高利をむさぼることもままみられた。現五所川原市の例でいえば、年貢収納以前の米の売買を勝手に行ったり(「国日記」天保八年二月五日条)、米の仲買が安い値段で購入した米を不当に高値で売り、周辺の百姓が難渋するなどの不正もあった(同前天保八年八月二十九日条)。
これに対し、藩は天保八年十一月に米穀の買い入れに公定価格を決めたことから、取り締まりの強化に乗り出した(資料近世2No.一一九)。在方では、五軒組合の相互監視のもと、隠商売をする者がないよう厳重に見張ることを申し付けている。また、抜け荷を監視する別段締役(べつだんしまりやく)と呼ばれる役人が置かれた。別段締役は「国日記」同年十二月二十四日条によると、青森・弘前の周辺、主要な在町・湊町、街道沿いの拠点の村など領内要所要所に置かれ、場所にして五九ヵ所、一二八人に及ぶ。青森の場合、安方町・新町(しんまち)・大野口・堤口・油川、弘前の場合、小栗山・取上(とりあげ)・堅田(かただ)・富田・悪戸(あくど)・駒越など、周辺域にも配置された。特に、黒石領との境界に当たる浅瀬石(あせいし)、廻米の積み出し湊である青森へ通じる鶴ヶ坂・柳久保(奥州街道)、王余魚沢(かれいざわ)(大豆坂(まめさか)街道)ではしばしば抜け荷の摘発が行われている。抜け荷の監視は当然領内だけでなく、領外への移出にも向けられた。秋田領に通じる早瀬野(はやせの)、箱館への不正な津出があった青森、ほかに他湊に通じる十三・小泊などで摘発が行われた。
没収された品物は大豆・水油・たばこ・生鯡・塩鱈・鰈(かれい)など食料品・生活必需品が多く、農・町人の生活に密着したものであった。庄屋自らが炭俵に酒を入れて黒石領に運ぼうとして、摘発されたケースもある。没収品は現物、あるいは売却代金がその村の庄屋などに払い下げられた。摘発された本人は逃亡して行方不明というケースが多い。事実上、商品没収だけで不問にされたのであろう。
しかしその後、藩の買米制が破綻したうえに、取り締まり場所に比して人数が多く、在方では負担が重くかえって法令の趣旨に反するとされ、また分家の黒石領では「双方の融通をさまたげ、不穏な点もある」と逆効果であったらしく、天保九年四月には廃止されている(資料近世2No.一二一)。ただし、抜け荷の取り締まり自体は街道筋では脇道番人や山役人、城下周辺では町同心などにより続けられた。