津軽弘前藩は、近世初頭以来領境をめぐる争いを抱えている。たとえば、秋田藩との間では、矢立峠(やたてとうげ)の帰属と日本海側の領境をめぐる境論が、佐竹家が秋田に封じられた慶長年間以降発生している(福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学国史研究』八四、長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊)。元和四年(一六一八)結局比内(ひない)境は矢立峠の杉、日本海側の八森(はちもり)境では秋田岩館(いわだて)(現秋田県八森町)と津軽岩崎(いわさき)(現西津軽郡岩崎村)の間とほぼ決定し(資料近世1No.三五五)、これ以後両藩間には藩主家同士の密接な交流や領民の人返しの開始などの動きが見いだされる。
一方、津軽領と南部領の領境については、文禄四年(一五九五)、津軽領は狩場沢(かりばさわ)村(現東津軽郡平内町狩場沢)、南部領は馬門(まかど)村(現上北郡野辺地町馬門周辺)とする大まかな領境設定が行われていた(同前No.三五五)。
現在の東津軽郡平内町には、昔から「勝った勝った狩場沢、負けた負けた馬門」という言葉が残っているという。この言葉は、山の入会権をめぐって黒石津軽領狩場沢村と南部領馬門村の間に対立が起こり、それが津軽弘前藩と盛岡藩の対立となり、ついには幕府の裁決を仰いで、比較的津軽領に有利な裁定が下されたことの名残であるという(『平内町史』上)。この争いが津軽・南部領境紛争として有名な「烏帽子山(えぼしやま)紛争」である。烏帽子山とは狩場沢村の東、馬門村の西にある低い山々の集まりである。津軽・南部領境上に存在し、付近の南部領の領民が入り、薪・木材・秣などを得ていた。
正徳二年(一七一二)四月、津軽弘前藩の役人から隣領盛岡藩の役人に対して、烏帽子山の一峰、津軽領堀指(ほりさし)山(現平内町)付近に南部領の人足が入り込んで小屋掛けなどをしているのはいかなる訳なのかと照会する書状が送られた。さらに七月にかけて、合わせて五通の書状が送られた(これらの書状はいずれも盛岡市中央公民館蔵)。それらの内容をまとめると、堀指山での南部側の伐採作業を非難するとともに、元禄十四年(一七〇一)、いわゆる「元禄国絵図」の作成過程において双方の役人が境の峰々について確認しており、南部側の人足が入り込み小屋掛けをしている場所は津軽領であるとして、ただちに小屋を撤去し伐採を中止するよう求めたのである。
図111.藩境紛争に関する書状
正徳三年六月、ついに狩場沢村の百姓たちは、馬門村側の百姓が領境を犯し樹木伐採・草刈りの権利を犯していると幕府に訴え出た。平内は明暦三年(一六五七)以来黒石津軽家の領分とされていたが、黒石津軽家が内分分家であったため、紛争の表面に本藩である津軽弘前藩が立つことになった(『黒石市史』通史編1)。正徳三年十一月二十三日、この事件を担当する寺社奉行森川重興の屋敷に双方の当事者である百姓が出頭し対決した。森川は南部側の百姓に対してのみ被害の点を尋ねたという。さらに絵図などの物件が証拠として提出されたため、南部側の旗色はさらに悪くなったという。しかし、南部側からも証拠が提出されると、森川も南部側の百姓ばかりの落ち度とは言い切れないと考え直した様子だったという。
幕府は現地に検使を派遣し、係争地の検分も行った。これらの動きを経て、正徳四年九月二日、幕府評定所は裁決を下した。裁許状は検使の現地検分の結果が生かされたものとなっている。馬門村が領境として申し立てた「芝崎道山之半腹」は細道で、領分の境といいがたいこと、検分の結果と平内村から差し出された明暦二年(一六五六)の狩場沢村の水帳を照合したところ、「五ヶ所之畑高五反五畝二拾二歩」という記載が符合し、それが「助しらひ畑」と肩書がある畑高の内であること、争点の一つであった金山の間歩(まぶ)(坑道)を検分したところ「広サ六尺余・深サ七八間」で岩山を掘っており、それが平内村の言い分に相応すること、延宝元年(一六七三)嶋地山で馬門村の百姓が材木を切りとった際、津軽領の山廻役人が搦め捕って糾明のうえ、馬門村に引き渡したところ南部側より異儀に及ばなかった点を挙げて、領境に関しては津軽領側の主張を認めた。
しかし、馬門村から堀指山に入る古道が五筋あり、そこは数十年にわたり入会となっていたと認定され、今後「山手」(入山料)として馬門村が毎年永(えい)三貫文を平内村に納めることで、材木・薪・秣を取るために「白石沢より堀差(ママ)川通限之大森迄」の入山を認めるという裁決を出した(「仙台津軽境論記録」盛岡市中央公民館蔵)。この境論の判決の際に作成された裁許絵図(さいきょえず)が当事者である津軽弘前藩と盛岡藩双方の史料の中に残されている(弘前市立図書館・盛岡市中央公民館蔵)。
図112.裁許絵図