宝暦の飢饉では、元禄の飢饉以来北奥諸藩で顕著になった、いわゆる「飢餓移出(きがいしゅつ)」の悪弊が被害を大きくした。前年の宝暦四年は豊作だったものの、慢性的な財政難に悩む北奥諸藩では換金のため米穀が根こそぎ上方市場に送られてしまい、国元に確保される量が極端に不足していた。津軽弘前藩の場合、いち早く領内の米穀を確保し再分配を行ったので、他領と異なり飢饉の被害を最低限に食い止めることができたといわれる。飢饉の際、藩政を主導したのは乳井貢(にゅういみつぎ)であったが、彼は前年閏五月に大坂への廻米を止め、国元で米を売却し江戸藩邸に直接送金するという、国元仕送の施策を実施中であった。これは全国的な商品市場からの経済的自立を志向するものであり、凶作の前に領内に一定量の米穀が確保されていた点で、飢饉になった諸藩と対照的であった。
藩は飢饉への対策として、十月に布達を発し、町方では諸役、在方では年貢をいっさい免除し、残らず百姓に収穫した分を与えるよう命じた(資料近世2No.三)。藩士へも知行を止め、すべて蔵米渡しとし、藩が藩士への扶持を一括管理することにした(同前No.三六)。また米穀確保のため、酒造や菓子・飴作りのほか、年始や五節句の餅やちまき作りも制限した(同前No.四)。さらに幕府から一万石を借り入れた。
宝暦の飢饉対策を特徴づける施策として、在方で備蓄されている穀物の強制的な買い上げが挙げられる。前年の豊作の影響で町・在に比較的米が保有されていたことから、藩は余剰米の調査をし、私的な備蓄は利己的な行為で餓死を招く原因として、穀物の自由な売買を禁じた(『平山日記』)。そして藩がこれを買い上げ、貧窮の者に定額の値段で売るように定めた。買い上げの値段は一〇〇文につき二升七~八合だったが、自由な売買だと六〇文につき七~八合(一〇〇文につき一升二~三合)と、倍以上の値段で売れたので、隠売買をする者も多く、配下の手代・手付が在方を巡り、厳しく家捜しをして、さまざまな場所に隠匿(いんとく)している米の摘発をしたといわれる。発覚した者は村払いなどの処分を受けた(資料近世2No.五)。
右の政策の実施に当たっては、同年三月に任命された大庄屋(おおじょうや)・運送方(大庄屋格で金銀米銭の御用を勤める)制が活用され、彼らが穀物の買い取りと売り払いの両方を担った。大庄屋は通常、一つの組に一人ずつ程度しか置かれないので、遠方の場所については村の有力者に下買いを命じて、売買を扱わせた。『平山日記』には農民から集めた米を不当に蓄財して貸付を行う大庄屋の例などみられるが、買い上げは比較的順調に進んだようである。一般的に米の買い上げ政策は形を代えた収奪策として、農民の警戒心を惹起(じゃっき)することが多いが、宝暦時の施策は公権力の介入による食料の再分配といってよい積極的な飢饉対策であったと評価されている(菊池勇夫『近世の飢饉』一九九七年 吉川弘文館刊)。
宝暦改革に辣腕(らつわん)を振るった乳井の指導力が飢饉でも発揮された形だが、一方でこれらの対策を支えていた豪農層の経済力も見逃せない。国元仕送制度自体、藩内での米の買い入れについて豪商・豪農層の負担に依拠していたが、翌宝暦六年に窮民扶助のため、上方から米穀を買い付けた際に、その費用を捻出したのは豪農層であった。板柳村の安田次郎兵衛、五所川原村の原庄右衛門、蒔苗(まかなえ)村の蒔苗七右衛門らは一〇〇〇両に及ぶ献金をし、そのほか「町・在の金持」から五〇両~三〇〇両を上納させたという(『平山日記』)。いわゆる新田地方では宝暦五年十一月に、鶴田村の兵蔵ら七人が村々の難儀の者に米・金銭・塩・味噌・薪などを扶助することを藩に申請し、許可されている例がある。彼らは自分たちで行き届かない場合は大庄屋に申し出て、来年の収穫で返済するように達しを受けた(『五所川原市史』史料編2上巻)。
乳井はその後、標符(ひょうふ)発行による経済混乱の責任を取らされ、宝暦八年(一七五八)に失脚し、退役・蟄居(ちっきょ)に追い込まれた。藩経済の自立を目指した経済政策も挫折し、津軽弘前藩の経済政策も再び三都依存体制への回帰を余儀なくされ、再び「飢餓移出」による天明の飢饉の悲劇が起こされたのである。