藩財政の自立を目指す宝暦改革が失敗したあと、藩は再び家老森岡主膳、側用人大谷津七郎・山口彦兵衛らの主導のもと、上方への年貢米廻米を強化する政策をとった。安永から天明期にかけては藩士には知行の強制的借り上げ、農民に対しては年貢米以外の余剰米を安値で強制的に買い上げる買米制が実施された。統制を外れた不正な売買や流通を防ぐため、湊町や在方に米留(こめどめ)番所を設置し、津留(つどめ)・穀留(こくどめ)の処置が講じられた。弘前では和徳町の山本四郎左衛門が藩の買米を担当し、家中の知行米や津出米の管理・販売なども行うなど特権的立場を持つ御用商人となっていった。
安永年間は米価も高く、買米制のもとで一俵=一六~一七匁で安価に買い取った米を、江戸では一石=一両(一両=銀六〇匁とすれば、一俵四斗入は二四匁に相当する)で売るという状況で、財政上一時的な成果をみせ、森岡らの権勢は一層高まった。しかし、その結果、「領分有之孕米(はらみまい)」(領内の備蓄米)、「公之廩米(くらまい)」(藩庫の米)まで払底する状態になった。
大飢饉の前年、天明二年(一七八二)は不作の年だったのに、藩は例年のとおり、領内からの米の買い上げとそれに基づく廻米を強行しようとした。天明元年に町人が米を隠匿していた事件があったため、取り立ては厳重を極め、納入できない場合は、借金させてでも村の責任で納めさせるという、生産量を無視した収奪が行われたのである。
青森は廻米の積み出し拠点港として藩の流通機構の一角を担っていたため、廻米強行の危険性を真っ先に察知できる立場にあった。したがって凶作の兆候が明らかになった七月になると、青森町の町人は廻米船の出航差し止めと廻米の町中への払い下げをたびたび訴願したが、町奉行は藩の政策に配慮して、取り次ごうとしなかった。
これ以前、天明二年暮れに、藩は払底気味の飯米の流通・価格管理を強化すべく、青森に二軒の米売場を開設して、町内の小売米は同所から仕入れることと定めた。また、各町へ「通手形」(米留番所を通過できる手形)を発行して、移入できる総量を一ヵ月当たり二〇〇〇俵に規制した。藩は翌三年一月に、一匁につき米一升四合(一俵当たり二八匁強)の公定価格を定めていたが、御用商人の米の買い占めと天候不順による凶作の予兆もあいまって、米価高騰に歯止めはかからず、買受所により自由な商売も妨げられ、流通も閉塞し、飯米(はんまい)購入に頼る青森町人、ことに多数を占める日雇い層の生活を直撃した。さらに凶作の影響による商業不振と、七月十日の青森大火は、一層状況を悪化させ、打ちこわしを誘発する引き金になったのである。
米相場は、騒動の直前の七月十八日には、一匁につき米八合(一俵当たり五〇匁)まで上昇している。一方、このころには青森町人への十分な飯米の確保も困難になっていた。騒動の願書によると(資料近世2No.五四。以下騒動の主要部分については同書による)七月十八日から翌日にかけては米売場にも米がなくなり、町内の店の小売りも停止に追い込まれた。町方で調査したところ、正月から七月まで、青森米留番所が許可する月二〇〇〇俵、計一万四〇〇〇俵という総量のうち、実際には四~五〇〇〇俵しか飯米として販売されていないことがわかり、米売場を詰問したところ、手形通り一万俵余の米が青森に搬入されていることが判明したという。この差の原因を一部商人の買い占めとみた町方の不満が爆発し、ついに飢渇に及ぶとして、打ちこわしが起こったのである。