「標符(通帳)」発行の前提と経過

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標符は大きくは藩札の範疇(はんちゅう)に入り、領内に流通させることで金銀銭を藩庫に蓄え、困窮した財政を賄おうとしたものである。しかし、それが通帳とも呼ばれ、実際通帳の形態をとったのは、それによって領内の物資を配給する役割をも付加されたからであった。つまり、標符がそのまま紙幣として通用するものではなかったことから、その実施に当たっては、多くの関連施策が必要であった。なお「通帳」の読み方は、史料上「通」のみで出てくることも多く、歴史用語としてはその実態からも「かよいちょう」とすべきであるが、慣用的に「つうちょう」と読むことが多い。
 宝暦六年(一七五六)六月十五日、御用達(ごようたし)商人運送役と名目を改めて藩庫に納められた米穀などの物資の運送に当たらせ、町年寄の上に格付けし、元司の直支配とした(資料近世1No.九三一)。運送役の総括(司取(つかさどり))は足羽(あすわ)次郎三郎の息子の長十郎が当たった(『平山日記』)。同十八日には代官大庄屋をも元司の直支配とし、領内の御米蔵を残らず運送役大庄屋の管理とした(資料近世1No.九三二)。さらに同二十二日には運送役の任務を「米穀諸渡方」「金銀銭諸渡方」「諸色御買物代切手払」「御家中御給禄渡方」とする旨を確に打ち出した(同前No.九三三)。つまり、米穀をはじめとする領内の物資の配布・移動は運送役によってなされることとなったのである。
 あわせて、同月、藩は領内の「金銀米銭」の実数書き上げを命じた。後日、その書き上げに応じて藩から分限相応の生活物資を下し置くというものであり、弘前はもちろんのこと、町・在に至るまで領民所持の「金米銭並諸商代物」を残らず書き上げさせている。いわゆる財産調査であり「実数書」としてまとめられた。書き上げられた「金米銭」は足羽長十郎のもとに納められた。また、これまでの貸借や年賦についても書き上げさせ、借金については藩が代わって返済することとした(『平山日記』)。こうして、借金返済の代わりに、領内の主として有力農民や町人からその財産を藩に納入させ、その実務を御用達商人であった運送役に行わせるという態勢が整えられた。換言すれば、藩は領民から没収した財産を再配分しうる体制を築したのである。いわば、藩と一部豪商による一方的な政策であった。
 さらに同六年九月十五日、藩は知行蔵入りに加え、藩士の借金の返済肩代わりと延納分の「皆捨」を発令して、藩士に対しても等しく蔵米の再配分を行いうる態勢を整えた(資料近世1No.九三六)。そして、運送役員数役(いんずうやく)のほかに、富裕な町人をそれらの「下加(したくわえ)」の名目で弘前並びに領内の蔵奉行に任命し、扶持米(ふちまい)・切米(きりまい)の渡し方および収納方の取り扱いを命じている(同前No.九三七)。蔵米の扱いはすべて町人の取り扱いとなったのである。
 このような中、同年九月、一五ヵ条にわたる標符発行にかかわる関連施策が、これ以前に出された施策も含めて「定」として打ち出された(同前No.九三七)。なお、五所川原市飯塚家文書に「宝暦六子年六月 諸産業改仕方書」(『五所川原市史』史料編2上巻)と題する史料があり、内容がこの「定」と同じであることから、その発令は六月とみることもできる。しかし、後述のいわゆる貸借無差別令(たいしゃくむさべつれい)についても、『平山日記』では六月の条にあり、九月の条に記載する「津軽歴代記類」・「封内事実秘苑」と違いが認められる。また一商家一家業令については「封内事実秘苑」では九月の条に、「津軽徧覧日記」では十月の条に記載されている(資料近世1No.九三九)。このような例があるので、「定」発令の時期が六月か九月かは判然としない。ただし、「定」は今後の方針を述べたものと理解すべきであるから、この違いはそれほど大きな問題ではない。要するに、宝暦六年六月から九月にかけて、標符発行の準備と態勢が整えられ、より強力な経済統制実施のための基盤が形成されたのである。
 「定」の主な内容は、①貸借関係を帳消しとすること、②各自所有の金銀や物の数量を書き出すこと、③商売は、これまでの一〇分の一の商品で行うこと、④物資の融通を商家の本業とすること、⑤商売は、財産の一〇分の一を記した帳面で行うこと、⑥各商家は一家業とし、一品のみの扱いとすること。その値段は仕入れ値の平均の一割と定めて取り引きし、利益とすること、⑦他国からの借金については藩が返済するので員数を書き出すこと、⑧年貢米など一切の穀物は大庄屋(おおじょうや)と運送方が買い入れ、それぞれの蔵に納めること、⑨領内の米相場と金銀相場は一定とすること、などである。
 ①が貸借無差別令であり、⑦とあわせると、領内外の借金をすべて帳消しとしている。②は「実数書上」に当たるもので、個人の財産を藩庫に収納するための前提である。その上で、商家の本業は物資の移動・運送にあるのだとして、家業を一品のみに限定し、利益に走らないようにするために商品値段を一定とし、米・金銀相場も一定としている。そして、藩と領民(藩士を含む)の間にあって領民から物資を収納し、また藩とこれら商家の間にあって物資の配分を行うのが運送方であり、そのための引き替えと、流通に使用されたのが標符であった。価格や利益・相場の固定化は、金銀によらずに売買を行うための必要条件だったのである。
 これらは、極めて強力な経済統制であり、乳井への権力集中があってはじめてなされるものであった。宝暦五年(一七五五)十二月の「元司職」就任、同年十月の「無格」については既に触れたが、乳井は、ともに改革推進の中心人物であった用人毛内有右衛門をも退けている。毛内は同五月九日、病気を理由に屋敷に引きこもり、同十二月十日、三度目の辞表を提出し、同十四日、願いどおり御役御免となった(『伝類』)。乳井の急進過ぎる改革と、藩政の私物化に対しての毛内の抵抗であった。
 乳井のもとで、実際にこれら政策を運営する運送役の権力も、これに伴い増長していった。特にその元締めである足羽長十郎の権勢は、商家一家業の申し付けの権限が与えられたこともあって著しかった。乳井と足羽の威勢や、それを皮肉った川柳・狂歌・落書などを記した史料は、枚挙にいとまがない(資料近世1No.九三五・九三七~九三九・九四一ほか)。