土着策と蝦夷地警備

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津軽弘前藩蝦夷地への出兵と警衛については、既に、本節一において述べたが、その経緯は寛政元年(一七八九)以降藩政に直接かかわってくるものの、実質的には同九年以降問題化されてくる。これを、土着策との関連でとらえたとき、重要な位置を占めてくる。つまり、土着策の起点は寛政二年であり、その廃止は藩士を実際に松前に派した同九年十一月から半年後に行われているからである。ここに、土着策の実施に関して、寛政元年の事件は何らかの促進的要因を持ち、逆に同九年以降の松前派兵は阻止的要因を持ったものと考えることができるのである。
 そこで、これまでみてきた土着策による家中成り立ちと、蝦夷地出兵の関係をとらえてみると、従者(武家奉公人)確保の問題が浮かび上がってくる。
 寛政元年のクナシリ・メナシの戦いに当たって、藩は合計一六五〇人の出動態勢を整えている。「松前御加勢御人数一式調帳」(寛政元年九月 弘図古)によれば、そのうち一五九人(中間(ちゅうげん))が給地百姓から、一二〇四人(器械持夫、鉄炮等雑器持夫・浮夫(うきふ))が蔵百姓から出されることになっている。これを動員百姓総数の割合でみると、それぞれ一一・七パーセント、八八・三パーセントとなる。和四年(一七六七)時の給地蔵入地石高比率が、二四・〇パーセントと七六・〇パーセントであるから(「田畑不熟損毛御届一件」弘図古)、蔵百姓の動員が多いことになる。たとえば役長柄奉行の建部菊太夫は松前出仕の支度金として一五両の借用を藩に願い出ているが、同時に郷人夫の貸し付けも申し出ている(「松前御用諸書付留」寛政元年七月条 弘図古)ことからも知られるように、蔵百姓を貸郷夫(かしごうふ)として藩士に与えていたのである。つまり、軍役規定どおりに従者や武器を用意すべきところを、貸郷夫をもって名目を立て、規定どおりの従者の動員を許容していたのである。
 表41は、このときの各役ごとの従者数と、それに占める藩からの貸人の比率を一覧にしたものである。大量の従者が藩から貸与されていたのであり、それによって軍団編成がなされ、松前派兵が可能となっていたのである。
表41 寛政元年各職従者数一覧
役職名a従者数b貸付人b/a×100
役旗奉行5(人)4(人)80(%)
足軽大将10  7  70  
役長柄奉行5  4  80  
士大将63  52  82.5 
番 頭5  4  80  
兵 士3  3  100  
検 使6  5  83.3 
目 付6  5  83.3 
注)松前御加勢御人数一式調書」(弘前市立図書館蔵)により作成。小数第2位を四捨五入。

 この従者の要望とともに、藩士の窮乏を背景として、松前出仕において必要とされる武具の準備が、藩士にとってはかなりの重荷となっていたことが多くの史料にみられる。たとえば、派兵藩士からの前金無しの武具の修理願いの取り扱いが郡・町・勘定奉行の間で論議されているのをはじめ、拝借金の申し出も殺到した(「松前御用諸書付留」中に多くみられる)。
 このように、藩士が藩の軍役にこたえられない状況の中で、藩は何らかの形で軍役貫徹の方法を講じなければならなくなっていく。つまり、どのようにしてその肩代わりの問題を解決するかということであり、同時に藩士が自らの財政の中で定められた軍役負担をどのようにしてなしうるかということである。したがって、各意見書の中にみえる蝦夷地問題を引用した危機感や、土着策の実質的展開を意図した寛政四年令の中の軍役貫徹条項などは、この課題を念頭に入れたものとすることができる。つまり、土着策実施の背景・目的の一つに松前出兵があったのである。
 それでは、土着策実施によって、この従者確保の問題は解決されたのであろうか。寛政九年(一七九七)十月「御人数割調帳」(弘図古)によれば、総人数三三九人のうち各藩士の従者と器械持に当たる人夫が一六一人で、そのうち四一人が掃除小人からの貸し付け、一二〇人が「御蔵給地百姓打混、在割之上」貸し付けることとしている。もはや、給地百姓によって従者を賄っている態勢ではない。しかもその従者数は、藩の家中軍役(かちゅうぐんやく)規定を守った寛政元年の出兵と比較して約三分の二に削減されている。さらに、渡海を目前とした十月二十五日、士大将山田剛太郎に差し出した重臣杉山源吾(すぎやまげんご)の書面には、一〇〇石から八〇石までの在宅者は百姓一人を召し連れること、それができない八〇石以上の藩士の不足分については藩が貸し付ける。八〇石以下の知行取切米金給については、すべて藩が貸し付けるとしている(「松前箱館御固御用留帳」弘図古)。
 すなわち、寛政元年段階で課題とされた、給人による給地百姓の動員は何ら解決されていないのであり、むしろ八〇石以下については、藩の全面的軍役援助の下で松前出兵がなされるという状況になっていたのである。藩による軍役の肩代わりを、藩士たちは蝦夷地警備の継続化の中でどのように克服していくか、具体的には、特に家臣団統制の強化と藩財政の拡大が、その後の中心的課題となった。享和期以降の積極的な新田開発殖産興業、そして寛政末年以降の藩校の展開は、これら課題への対応として位置づけられるのである。