一〇代信順の治世

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本項では最初に一〇代藩主津軽信順(のぶゆき)から一一代順承(ゆきつぐ)の政治基調を概観し、一二代承昭(つぐあきら)の時代に推移させていく(以下の記述は、篠村正雄「近衛家雑事日記(4)」『市史ひろさき』七、長谷川成一「近衛家雑事日記(5)」『市史ひろさき』八などによった)。
 一〇代藩主信順は、寛政十二年(一八〇〇)九代寧親(やすちか)の長子として生まれ、文政八年(一八二五)四月に家督(かとく)を相続した。彼は学問所の充実、儒書・兵書の講読、武芸奨励などに熱心だった一方、素行が芳しくないと評価される面が多い人物であった。特に夜の素行が悪く、毎夜深酒のため朝の起床が遅くなり、参勤交代の際には宿に到着するのが深夜になって、そのつど供の者が難渋したという。このため信順はひそかに「夜鷹様(よたかさま)」とあだなされるようになり、文政九年には家老高倉盛隆(もりたか)(盛正(もりまさ))が諫言(かんげん)のため奥州街道桑折(こおり)宿(現福島県伊達郡桑折町)で切腹するという事態まで引き起こしている。
 信順の治世中、津軽弘前藩が最も対外的に面目を失った事件は、文政十年(一八二七)の轅(ながえ)事件であろう。轅とは輿(こし)の一種であるが、幕府の礼式によると四位(しい)・大広間詰・城持ち以上の大名はこれをいてもよいとされており、信順にも使する資格はあったが、津軽家の場合は将軍宣下(せんげ)(将軍の就任)の時に限ると制限されていた。同年三月十八日に一一代将軍家斉(いえなり)は太政大臣に任じられ、世子家慶(いえよし)も従一位に叙せられたが、その勅使を迎えるに当たり信順は轅輿(えんよ)を使し、一三七〇人余にも上る家臣を率(ひき)いて江戸城に登城し、礼式違反を咎(とが)められて逼塞(ひっそく)(謹慎)処分を受けたのである。

図40.轅輿(えんよ)の図

 文化五年(一八〇八)十二月、表高一〇万石に高直りした当藩では、家格が高まったとして隠居中の前藩主寧親(やすちか)が幕府に轅の使許可を求めていたが、まだ了承されていなかった。加えて、信順は文政九年(一八二六)十一月に将軍家斉の弟田安斉匡(たやすなりただ)の娘欽子(やすこ)を三〇万両ともいわれる巨費を投じて正室に迎えており、将軍家と関係が深まったとの意識があったのであろう。
 轅輿の使を強行した信順は、四月二十五日から閏六月六日まで七〇日間の逼塞処分となり、江戸屋敷の通行は西門の小門に限られ、家臣は月代(さかやき)を剃ることも禁止された。また、国元でもこの間城門の大扉(おおとびら)は閉ざされ、くぐり戸から出入りすることとされた。その他、鳴物停止(なりものちょうじ)(歌舞音曲(かぶおんぎょく)などにぎやかな諸芸や遊技・祭礼などの禁止)や弘前の日市(ひいち)を停止するなど、対外的な恥辱はもちろんのこと、領民にも大きな不便を強いることとなった。
 また、信順が暗君として評価される最大の原因は家臣の対立を収拾できないばかりか、それを助長してしまった点にある。逼塞処分を受けた後も信順の素行は改まらず、彼は鬱憤(うっぷん)を晴らすため、側室の増衛(ますえ)を寵愛(ちょうあい)するようになった。増衛の父甚兵衛は江戸日本橋で大店の油屋を営んでいたが、天保三年(一八三二)娘のため柳島下屋敷の向かいに広大な屋敷を建設した。信順(のぶゆき)は足繁(しげ)くここに通い、贅沢(ぜいたく)な生活にふけったため、江戸で再び人々の評判となり、巨額な出費はもともと苦しい藩庫の重荷となっていった。折しも翌天保四年から大凶作が本格化し、藩財政は未曾有(みぞう)の危機に直面する。江戸用人河野六郎・工藤伝兵衛、勘定奉行武田準左衛門は江戸の商人からの借財でこれを切り抜けようとしたが、商人らは信順の奢侈(しゃし)生活を理由に借財に応じなかった。そこで家老津軽多膳(たぜん)は信順に詰め寄り、天保四年八月に増衛の屋敷の廃棄と彼女の国元送りを承諾させた。
 この事件に先立つ天保三年七月、信順の庇護(ひご)者であり、隠居の身だった前藩主寧親(やすちか)が他界すると、翌八月、津軽多膳貞升(たぜんさだます)は信順に非常倹約二二ヵ条を突きつけている。内容は生産性の上がらない鉄山・銀山・塩田・牧場などの開発運営の中止などが中心であったが、一部に寧親の隠居料一万石の藩庫への繰り入れ、奥女中の削減、小納戸(こなんど)金(藩主生活費)の削減など、藩主の私生活にまで及ぶ緊縮策であったため、信順は不快をあらわにした。結局信順はこの案を受け入れざるをえなかったが、増衛を奪われた件も重なり、津軽多膳に対する怒りは頂点に達していた。
 こ
うした主従の亀裂に付け入ったのが笠原近江皆充(おうみともみつ)であった。彼の父笠原八郎兵衛皆当(ともまさ)は九代寧親の代に江戸家老として活躍していたが、派手な生活を好む寧親に迎合(げいごう)せざるをえず、財政を不健全化させたとして天保元年(一八三〇)津軽多膳らによって失脚させられ、息子の笠原近江も冷遇を受けていた。劣勢を挽回するために笠原は天保四年九月に弘前に下ってきた側室の増衛と接触し、十月には大寄合格用人手伝い・奥通り御免に返り咲いた。同十月九日、国元に下向していた津軽多膳らは笠原を筆頭とする国元家臣団らと財政復旧の会議を持った。この席上、津軽多膳派が今までの緊縮財政を維持するしか特段の思いつきはないと発言したのを、笠原は無能と決めつけ、在国中の信順(のぶゆき)に讒訴(ざんそ)した。もとより津軽多膳を憎んでいた信順はこれを契機に同十一日、多膳派二七人を一挙に罷免・役替えし、後日には入牢・処刑された者も出た。かわりに家老には大道寺玄蕃繁元(げんばしげもと)が任じられ、笠原は御馬廻組頭兼用人(天保五年に家老就任)として藩政の中枢を支配したのである。
 笠原は困窮する農民に鍬鋤(くわすき)一万挺を与えたり(天保五年二月)、家中禄米を三歩引きとして財政難打開を図ったり(同九月)、寺社禄地方知行制(じかたちぎょうせい)から蔵米(くらまい)渡しにすることで削減を企画したが(同十月)、天保の大飢饉に対しては決定的な有効策を打ち出すことができず、多難の連続であった。また、津軽多膳派を弾圧した際の処罰が長く恨みを買い、謹慎中の多膳がひそかに復権を狙うなど、政権の安定を保つことができなかった。津軽多膳は信順が隠居した天保十年(一八三九)に再び家老になるが、これに先立つ天保七年(一八三六)九月、笠原近江は罷免・謹慎処分となった。さらに、家中騒擾や財政難を収めきれないような信順のもとでは蝦夷地警備遂行は困難と判断した幕府が圧力をかけたため、信順排除の運動が広まり、天保十年五月、ついに信順は隠居を余儀なくされた。時に彼は四十歳であったが、無嗣のため黒石藩主九代津軽順徳(ゆきのり)(後に順承(ゆきつぐ))が養子に迎えられ、津軽本家の血統はここに途絶えた。