五月十日午前八時、藩主が山吹ノ間に着座し、熨斗(のし)と大豆が三方(さんぼう)に載せられて差し上げられる。家老・用人・城代が御目見(おめみえ)し、続いて山水ノ間・梅ノ間・浪ノ間で次々と重臣が御目見する。玄関より出る時は、玄関下座敷西の方に家老、同東の方に城代、その後に用人が控え、さらに白砂東の方に大目付(おおめつけ)が、白砂塀重門の前に手廻組頭(てまわりぐみがしら)・馬廻(うままわり)組頭・留守居(るすい)組頭が控えている。
玄関――武者屯(たまり)御門――内南御門――外南御門――下乗橋(げじょうばし)――二ノ郭――三ノ郭――大手御門(おおてごもん)(追手門)と通過していくが、家臣たちが並んで御目見をかねて見送る。
参勤の行列人数は、享保六年(一七二一)幕府が発した諸大名参勤道中の供人数制限令をみると、二〇万石以上は馬上(ばじょう)一五~二〇騎・足軽一二〇~三〇人・中間(ちゅうげん)人足二五〇~三〇〇人、一〇万石以上は馬上一〇騎・足軽八〇人・中間人足一四〇~五〇人、五万石以上は馬上七騎・足軽六〇人・中間人足一〇〇人、一万石以上は馬上二、三騎・足軽二〇人・中間人足三〇人、と規定されている(前掲『交通史』)。これが基準となり、一万石級の大名は一五〇~三〇〇人までが普通となった。
津軽弘前藩の人数はどうであったろうか。文政五年(一八二二)三月の「御参府御供登調帳」(弘図津)によれば、家老津軽頼母(つがるたのも)以下重臣たち、そのほか御中小姓・表右筆(おもてゆうひつ)・御茶道・御絵師・御台所等々を加え、合計七四一人を数え、使用された馬は一一八頭である。
文政五年には表高(おもてだか)(藩の所領の表面上の石高)が一〇万石であるから、一〇万石以上の基準に合わせた人数となろう。しかし、実際には一万石級の大名で一五〇~三〇〇人であったから、弘前の右の七四一人(九代藩主津軽寧親の参勤)は妥当なところであろうか。それにしても、実際に動員された人数は多く、藩の財政に与えた影響は大きかったといえよう。
図108.御発駕御規式
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津軽家の大名行列については、天保十三年(一八四二)の「御行列書」(弘図津)が残されている。これは第一一代藩主津軽順承(ゆきつぐ)が四月十三日に弘前を出発したときのものである。図示すると図110のようになる。一番最後は用人と家老であった(『記類』下)。
図110.第11代藩主津軽順承の大名行列
さて、行列が大手御門から出て、国境(くにざかい)の矢立峠(やたてとうげ)まで進む様子を「御登御道中記」(国史津)を中心に、「国日記」で補足しながらみていくと次のようになる。
図109.御登御道中記
本町(ほんちょう)一丁目(現税務署前の通り)の制札場(せいさつば)(禁止事項を公示した高札(こうさつ)を設置する場所)に、御目見医者・町年寄・御用達(ごようたし)町人(豪商)・牢奉行・町奉行が出て見送っている。同二丁目~五丁目(現弘前大学付属病院前の通り)・親方町(おやかたまち)・土手町(どてまち)へ出ると土淵川(つちぶちがわ)大橋(現蓬来橋)があり、右に制札場がみえる。新土手町(現上土手町)の左側に一里塚がある。松森町(まつもりまち)から富田町(とみたまち)に入ると、橋のそばに町奉行や町目付が出ており、ここまで先払いが置かれていた。
図111.大名行列
「国日記」文化八年(一八一一)十二月二十三日条に(資料近世2No.二五五)、藩士・町人が藩主の行列に出会った際の心得が二点記されて厳しく規制されている。
(1)先払いの足軽が、これまで「ひっこめー」と叫んできたが、今後は「下(した)におれー」と唱えるよう変更になったことを承知すべきこと。
(2)行列の最後尾が完全に通過してしまった後に、隠れ慎むために閉鎖していた門戸を開け、無礼な行為をしないよう心得ておくべきである。
富田町足軽町にくると「町境辻有、出口ニ村隠シ辻有」とみえ、「村隠し」とは、道路を曲げて外から町の中がみえないようにするもので、枡形(ますがた)のことである。やがて三岳堂(みたけどう)がみえ、坂の上に一里塚があり百年山(ももとせやま)に到着し、休む場所がある。ここを過ぎると松が繁っている山の中に休憩所=千歳山の長楽亭(ちょうらくてい)に到着する。藩主はここで休息をとるが、先乗りの組頭・その他、さらに掃除奉行(そうじぶぎょう)・使番(つかいばん)・下役人(したやくにん)・作事受払役(さくじうけはらいやく)・徒目付(かちめつけ)などが出迎える。その後また出発して、小栗山(こぐりやま)村(十二所権現あり)・松ノ木平(まつのきたい)村(一里塚あり)・大沢(おおさわ)村(八幡宮あり)・大沢新田(しんでん)・石川(いしかわ)村(一里塚・右に大仏ヶ鼻という古城跡あり)・鯖石(さばいし)村・宿川原(しゅくがわら)村に到着する。
行列が農村を通るときに、「国日記」元禄九年(一六九六)六月二十六日条や安政六年(一八五九)六月十八日条によれば、藩主が通過する農村には前もって連絡があり、藩主が通りかかった際に、農民は手を止めてはならず、毎日一生懸命に働いているという姿をみせなければならなかった。これは、常に「働く農民である」という姿勢を保つよう藩の指導があったからであろう。
宿川原村からは鶴毛ヶ鼻(つるけがはな)(現剣ヶ鼻(つるがはな))の長い坂を登って大鰐村(一里塚あり)へ着く。この村に続く蔵館(くらだて)村では大日堂(だいにちどう)(神岡山高伯寺(かみおかさんこうはくじ)、現大円寺(だいえんじ))に参詣、本長峯(もとながみね)村・長峯村(一里塚あり)・九十九森(くじゅうくもり)村・唐牛(かろうじ)村・餅ノ木(もちのき)村へ入り、ここから左の道を進んで古懸不動(現国上寺、本尊は不動明王(ふどうみょうおう))に参詣し、碇ヶ関村へ到着。この村には制札場・枡形・山神堂(さんしんどう)があり、その下に一里塚がみえる。富田町足軽町の枡形よりここまで、道の両側に並木松が植えられており、村の庄屋・手代が一行を迎えた。碇ヶ関番所では、碇ヶ関町奉行および諸役人が出迎え、それから矢立峠へ向かったのである。