津軽領内のアイヌ民族

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津軽弘前藩江戸幕府の命令によって提出した「正保国絵図」の下図を貞享二年(一六八五)三月に写した「陸奥国津軽郡中絵図」(青森県立郷土館蔵)のうち、津軽半島夏泊半島には、「犾村(えぞむら)」の記載がみられる。津軽半島では、今別(いまべつ)村(現東津軽郡今別町)と、野田(のだ)村(現青森市)から小泊(こどまり)村(現北津軽郡小泊村)に至る津軽海峡に面した地域に、また夏泊半島では、田沢(たざわ)村から茂浦村(いずれも現東津軽郡平内町)の間に「犾村」がみられる。現在の北海道地方を除き、近世国家においてアイヌ民族の居住が確認されるのは、津軽領津軽・夏泊両半島、そして南部領下北半島という、いずれも現在の青森県域のみである。その点からすれば、北奥地域は、近世国家の中でも、異なった民族が共存していた特異な地域である(森田稔・長谷川成一編『図説青森県の歴史』一九九一年 河出書房新社刊、長谷川成一他『青森県の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)。
 寛文九年(一六六九)時点の津軽領内のアイヌの家族について記した「御領分犾之覚」(寛文九年十一月六日付)によると、津軽半島の各所に「犾家数〆四拾二軒」があった(「津軽一統志」巻十下、『青森県史』資料編 近世一 二〇〇一年 青森県刊)。彼らと北海道に住むアイヌたちの間には近世初頭まで津軽海峡を挟んで活発な交流関係があったものと推定される。たとえば、寛文九年、石狩の「犾大将ハウカセは「我々先祖は高岡へ参、商仕候」と述べている(同前)。「高岡」は弘前の古称である。このことから、高岡という地名が弘前に変わり、それが津軽領内で普遍化してきたと考えられている正保期には、すでに両者間の自由な交流が途絶しかかっていたといえる(浪川健治『近世日本と北方社会』一九九二年 三省堂刊)。

図92.「陸奥国津軽郡中絵図津軽半島犾村

表17 津軽領内のアイヌ
村  名軒数(軒)
うた村1
ほこ崎村1
五所塚村2
つなしう村1
おこたらへ村7
砂ヶ森村6
ほろつき村1
小泊村4
山派村1
松ヶ崎9
びくちよま村2
藤崎1
かまの沢村3
宇鉄2
たつひ村1
合 計42
注)津軽一統志」巻10下より作成。

 それには、松前藩商場知行制(あきないばちぎょうせい)の確立が影響している。松前藩は夷島(えぞがしま)を和人の定住地である「松前地」とアイヌの人々の居住地である「蝦夷地」に分け、「蝦夷地」を藩主はもとより、上級家臣層知行として分け与え、アイヌ交易の独占的な場とした。これが「商場知行制」である。この制度が整ってくる寛永期を境に、アイヌの人々はそれまでのように自由な交易をすることができなくなり、松前藩による一方的交易条件が押しつけられたのである(榎森進『増補改訂 北海道近世史の研究』一九九七年 北海道出版企画センター刊)。
 津軽アイヌの人々は、田を所持せず、畑は屋敷まわりの零細なものに限られていた。この状況では、せいぜい野菜・穀類等を畑地で生産し自給することが可能であった程度であり、米など自給できないものは専ら購入する形をとっていた。
 その購入資金は、漁労を中心とする猟、交通路近くでの宿、領内海運=「小廻(こまわし)」への従事で得ていた(浪川前掲書)。このうち、漁労は生活に深く結びついており、アイヌの人々の「渡世」の主柱であった。彼らは蝦夷地にも出漁していた形跡がみられるが、これについても松前藩運上金を納めなければならなかった(ただし船役などは免除された)。近世中期になると蝦夷地への出漁はごくまれなものとなっていたようである(榎森前掲書)。一方、宿を営むことは、交通が不便という条件により副業として認められたものであり、藩でも往来確保の一政策として認めたのである(「国日記」元禄元年八月二十九日条)。
 一方、「小廻」への参加は、藩による強い規制のもとで許可されていた。アイヌの人々の持船は「犾船」と称され、家長層の持船や数人乗りの小舟が基本的なものだったと考えられる。この「犾船」は、青森湊にのみ入津を認められていた。積み出される米および酒については、青森城代ないし青森町奉行の差紙が搬出の必要条件であった。その搬出すべき米は青森御蔵にあった津軽弘前藩蔵米が充てられており、勘定奉行が藩側の払米責任者となり管理に当たっていたのである。このことからわかるように、アイヌの米購買の造は、彼らの飯米要求を代官(居住地の関係から後潟組代官)が郡奉行に取り次ぎ、青森御蔵からの払米を認める場合はその量と価格を藩中枢(この期では財政方の中心である元締方)で決定し、勘定奉行を通じて青森御蔵犾船に売り渡す、という形をとっていたのである。
 このように津軽領内のアイヌの人々は、藩権力によってさまざまに規制を加えられていたのであり、領民との日常的な接触・連繋(れんけい)は、特に生産面において実質的に遮断されていたのである。