城下に屋敷を持つ町人には、地子銀(じしぎん)・出人足(だしにんそく)(人足役)・時鐘撞茂合(ときかねつきもやい)・木戸番・伊勢太々神楽(だいだいかぐら)への出銭などの町役が課せられた。このうち、屋敷地に賦課された地子銀と出人足は、町役の基幹をなすものであり、弘前城下の場合、それらが交互に実施に移されて町方に賦課された(以下は、長谷川前掲「弘前城下について」による)。
城下建設の時期に、町割りや城普請に人夫が大量に動員されたことが知られるが、成立期の城下での町役は、人足役であって、二万から三万人の動員があった(「国日記」享保元年一月二十九日条)。そして、延宝七年(一六七九)五月に出人足に関する規定が定められ、上役一軒につき九六人から下々役一軒につき三五人までの五段階が規定された。その後、元禄十四年(一七〇一)に地子銀納へ変わり、さらに正徳三年(一七一三)一月には再び人足役に転換した。
人足役は、城下に屋敷を所持した町人のほか、町方と認定された地域に居住した武家にも賦課された。なお、地謡や小鼓打・能役者は、藩主が国元に滞在する時は御用として町役を免除されたが、参勤交代で藩主が江戸にいる間は、ほかの屋敷所持者と同じように町役を負担した。
天和三年(一六八三)には、延宝期と比べて一五パーセントほどの軽減措置が取られた。こうした措置は貞享三年(一六八六)にも取られ、これに併せて、城下各町の町役に関する評価が大幅に変更された。
元禄十四年(一七〇一)には地子銀納へ変更され、城下の町々は一部を除いてすべての町方が地子銀を上納し、ほかに町人足を使用するときは、日雇銭をそのつど上納してそれを補うこととなった(同前正徳六年一月二十九日条)。また、同年六月一日付で、弘前町中の伝馬・人足をやめ、町屋敷に居住する者は御用屋敷(役者屋敷・鍛冶などの御用職人・名主月行事・百人小遣役所など)以外は残らず地子銀を上納することが定められた(前掲『御用格』寛政本下巻)。
人足役を地子銀納にしたことにより、地子銀で町人足を雇用し、それを小遣と称し、約一〇〇人を常抱えとして百人小遣(ひゃくにんこづかい)と呼んだ。百人小遣は、支配頭二人のもとに小頭五人、ほかに小遣一〇〇人が所属した。給禄は、小頭が切米一二三匁三人扶持、小遣は一〇〇匁二人扶持であった(同前)。百人小遣となった者には、農村出身者が多く、その出身地域もさまざまであって、城下出身者には町端(まちはな)のものが圧倒的に多い。
この地子銀納は、正徳三年(一七一三)一月に、その徴収に当たって藩当局の出費が大きいという勘定奉行・郡奉行からの提言を受けて、再び人夫役の徴収に転換することになった(「国日記」正徳六年一月二九日条)。そのとき、人夫の割付は、貞享三年(一六八六)のそれにすることが定められ、百人小遣は解雇された。町扶持人は人足役ではなく、地子銀を上納することが定められたが、御用屋敷は人夫役を免除された(「国日記」正徳六年一月二九日条)。また、町端の北・南横町や、紙漉町・楮町などは、元禄十四年(一七〇一)の時点とはかかわりなく地子銀を上納することと定められた(同前)。
正徳期には、城下の町役を負担する総屋敷数は一八一軒で、上役は一四八余、一ヵ年の出人足は九六人で、名主役・月行事一二、親方町の御用屋敷一軒も役を免除された。中ノ上役は二二余、出人足は七七人、中役は四一〇余、出人足は六七人、下役は四〇四、出人足は五〇であるが、能役者屋敷・人馬請払所・鍛冶役所・具足役所がそれぞれ役を免除された。下々役は三一九余で、出人足は三五人であった。地子銀一〇匁を上納するのが三五、八、七匁が二〇、五匁は九〇、二五匁が三七で、出人足は総数五万九〇七二人余で、一五一軒が町役を免除された。地子銀の総高は一〇貫六〇〇匁余となった。
町役のほか、城下の主な商人たちは、藩が幕府から普請役を課せられるごとに、不時の運上や冥加金をたびたび賦課された。