文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は、陸奥国梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町)に移封されていた松前家当主松前章広(まつまえあきひろ)に対して、旧領の蝦夷地一円を戻す旨を達した(『通航一覧』八 一九一三年 国書刊行会刊)。これにより幕府の蝦夷地直轄はひとまず終止符を打った。ゴローニン事件の解決以降、蝦夷地警衛の体制は縮小へと向かい、文政元年(一八一八)以来、蝦夷地警衛の勤番地は、津軽弘前藩が松前、盛岡藩が箱館のみにそれぞれ限定されていたし、蝦夷地への渡海地である三厩に配備されていた出張人数も文政四年四月に弘前へ引き取り、非常時に三〇騎一備(都合三六五人)を繰り出すこととなっていた(資料近世2No.一五一)。さらに、松前氏の蝦夷地復領に伴い、蝦夷地に派兵して警衛の任に当たっていた津軽弘前・盛岡両藩は翌年現地から兵を撤収し、蝦夷地警衛体制は新たな展開をみせることになった。
幕府が従来の蝦夷地政策を転換するに至るまでには、いったいどのような背景が存在していたのだろうか。
まず、文政年間になると海外情報が幕府の手に入るようになったことがある。これらの情報の例として、たとえば、文政元年(一八一八)、浦賀に入港し通商を求めた英国船「ブラザーズ」に幕府が派遣した阿蘭陀通詞(オランダつうじ)足立信頭と馬場佐十郎は、ナポレオン戦争とオランダ本国の情勢などを聞き出し、また文政四年、天文方高橋景保(かげやす)がオランダ商館長からゴローニンの幽閉記を入手し、馬場らが翻訳に着手している。これが「遭厄日本記事(そうやくにほんきじ)」である。これらの情報を幕府要人が知ることで、ある程度の国際情勢を踏まえた政策判断がしやすくなったといえる。(『日本歴史大系』3・近世 一九八八年 山川出版社刊、なお松前家復領に至る政治的な背景については、多く同書による)。
次に、ロシアの姿勢に変化がみられたことを幕府が察知したことが挙げられる。この時期のロシアの動きをみると、ナポレオン戦争を戦い抜いた後、皇帝アレキサンドル一世が、一八一四・一五年のウィーン会議の立役者の一人として「ウィーン体制」の確立に寄与し、ヨーロッパの君主たちに対して、キリスト教の愛と親睦の精神で同盟する、いわゆる「神聖同盟(しんせいどうめい)」を提唱したことに代表されるように、ロシアの対外政策の基調は欧州の新秩序形成に向いていたといえよう(和田春樹『地域からの世界史 一一 ロシア・ソ連』一九九三年 朝日新聞社刊)。ゴローニン事件が解決したことで、レザノフ来航以来続いてきた対露緊張が緩和され、また派遣されることになっていた国境画定の使者がついに現れなかった事実や、そしてさきにみた海外情報の収集とによって、しだいにロシアが日本と蝦夷地にほとんど関心を持っていないという判断に幕府は傾いていったとみられる。
また、幕府による蝦夷地経営および幕府・東北諸藩による警衛でもたらされた会所や運上屋を通したアイヌ支配と、各所に置かれた勤番所による警衛体制は、この時期にはエトロフおよびカラフト(北蝦夷地)の南端部までの政治的・軍事的実効支配をもたらしていた。その結果、蝦夷地内のアイヌ民族はこの支配の下に置かれ、幕府の恐れていたロシア側に結びつくという可能性がもはやほとんどなくなり、高度な政治判断で蝦夷地直轄を続ける意義が薄れ、経営効率や採算の面からの消極論が強まってきた(菊池勇夫「海防と北方問題」『岩波講座 日本通史』一四・近世四 一九九五年 岩波書店刊)。
財政の面からみれば幕府の蝦夷地直轄経営は黒字であったが、陸奥国梁川に移された松前藩、および現地派兵を命じられた盛岡・津軽弘前両藩には深刻な財政窮乏をもたらしていた。
津軽弘前藩の蝦夷地警衛費は、対露関係がもっとも緊張した文化四~六年(一八〇七~一八〇九)にピークを示し一万両を越える額となっており、警衛体制が縮小していくにつれて減少を示している。一方、それを藩財政全体の面からみると、安永年間の藩財政と比較して文化・文政期の藩財政には新たな財源がないため、藩財政の根幹を揺るがすほどの重さでのしかかった警衛費の負担をカバーしようとして、藩が宝蔵に貯蓄していた「宝蔵囲金(ほうぞうかこいきん)」の取り崩しをしたり、緊縮財政をとって捻出しようとしても限られた効果しかなく、幕府の公金(関東郡代拝借金・囲籾代り拝借金・貸付方よりの拝借金)貸付や、寺社からの借財である祠堂金(しどうきん)、町人からの借財に頼らざるをえなかった。借財の総計は文政二年(一八一九)時点で一〇万九〇〇〇両に達していたという。
幕府も警衛に当たる大名家の財政難という事態を、ただ見過ごしていたわけではない。幕府がとった政策は、蝦夷地御用米の津軽弘前・盛岡両藩からの買い上げや拝借金の貸与である。御用米の買い上げでは津軽弘前藩の願い出により、御用米代金の一部を前渡ししている。これは藩財政の繰り合わせに役立つとともに、無利息であることも手伝って有利な条件と認識されていた。また、文化四年(一八〇七)十二月、蝦夷地への異国船渡来により、領内街道の往来が激しくなり、出費が増大したことを理由として金五〇〇〇両が津軽弘前藩に貸与された(前掲『通航一覧』七)。この拝借金も無利息で、町人からの借財などよりは藩にとって有利な条件であった。ただ、この拝借金が藩財政に与えた影響は、当時の松前奉行が同時に金七〇〇〇両の拝借を許された盛岡藩ともども、藩財政の補填にはならないと上申しているように(岡本柳之助編『日露交渉北海道史稿』一八九八年 田中三七発行)、劇的に状況が変わるといった性格のものではなかったようである(千葉一大「文化年間における盛岡藩への拝借金」『日本歴史』六二〇)。このように、警衛費の捻出は、そうでなくとも財政難にあえぐ藩にとって大きな問題であった。
さらに、文政元年を境に幕閣の世代交代がみられた。この時期、松平定信の改革路線を引き継いだ「寛政の遺老(かんせいのいろう)」と呼ばれた老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)・牧野忠精(まきのただきよ)を中心とする人々の死去・辞任が続き、将軍家斉の側近として台頭し、幕府財政を預かる勝手掛(かってがかり)老中となった水野忠成(みずのただあきら)を中心とする次の世代へと政治担当者が代わっていった。このことは寛政年間以来続いてきた幕府の海防への関心を薄めることにつながった。
水野忠成は、幕府・大名の経済的繁栄と幕府・大名間の円滑な関係の実現を常に念頭に置いていた。それは、彼の言行をまとめた「公徳弁」や「藩秘録」(金井圓校注『丕揚録・公徳弁・藩秘録』一九七一年 近藤出版社刊)からもうかがわれる。つまり「内政志向」、「内向きの政治」の展開が彼の政治的立場であったといえよう。そんな彼の目には、ロシアの脅威の解消が内政本位の政策を展開する絶好の案件と映ったのである。
そこに松前藩の復帰工作が展開された。松前藩は、将軍家斉の実父一橋治済(ひとつばしはるさだ)や、水野忠成を頼って運動を展開し(北海道庁編纂・発行『新撰北海道史』二―通説一 一九三七年)、多くの幕府要人・公家などにも贈賄運動を展開した。結果として、水野は松前藩の工作を受け入れ、蝦夷地全土を復領し、津軽・南部両家の警衛の人数もそれぞれ自領の渡海口に引き揚げさせたのである。