十一日から松前兵との攻防を続けていた土方隊が、大滝峠を越えたのは十四日のことであった。松前兵はこの土方隊をさらに迎え撃つために兵力を投じざるをえなかったが、その間に、今度は榎本武揚が軍艦開陽で上陸を決行した。したがって、江差はまもなく旧幕府軍の勢力下に入ってしまう。これが十五日のことであり、さらに同日館城までも陥落し、焼却処分となった。ただ、旧幕府軍も軍艦開陽を座礁させたうえ、その救助に差し向けられた神速までが沈没するという代償を支払っていた。
この一連の経緯は、江差への官軍諸藩兵の出陣が実行される前の出来事であったため、先日青森で話し合われた作戦は中止せざるをえなくなっていた。
松前徳広の病状も思わしくなかったが、官軍の応援も届かない状況下では、自力で津軽領へ脱出するよりほかなく、松前藩主一行七一人は、熊石村関内で長栄丸を借用して、十九日、ようやく出帆を果たした。
一行が平舘に漂着したのは、二十一日夜のことで、航行中に前藩主崇広(たかひろ)の娘鋭姫(えいひめ)が五歳で命を落としていた。その様子を青森で聞いた杉山上総や西舘平馬(にしだてへいま)は、急ぎ弘前へ迎える準備を整えるように城下へ知らせを送った(同前)。
松前徳広の弘前城下への護送は、重い病状を気遣いながらの行程となった。十一月二十四日、野呂源太より平舘着船時の様子が明らかにされたが、そこには並々ならぬ苦労を乗り越えてきた一行の姿は「見ル人毎ニ涙汲申候」という状況であったこと、食事等の対応の様子、松前藩家老下国安芸(しものくにあき)らの談話、弘前への移転を進言したこと、出兵準備を行っているが援軍を間に合わせることができなかったという説明をしたこと、下国安芸らから聞いた松前における戦争の様子、そして、自害を覚悟で出帆したことや、代々の家宝を海中に投じ無事を祈り、船中の海水を汲み出しながらの航海の様子、鋭姫の埋葬、徳広の病状悪化による行程の遅れ、これらのことが説明されていた(同前)。
図68.松前城
松前藩一行が油川(あぶらかわ)・浪岡・藤崎などを通り、ようやく弘前の薬王院(やくおういん)に落ち着いたのは、二十六日である。しかし、徳広の病状は肺結核の末期状態にあり、吐血を繰り返して翌十二月三日、逝去した。享年二十五、長勝寺(ちょうしょうじ)に埋葬された。
なお、松前藩に残った藩兵は旧幕府軍から降伏を促され、藩主の出帆を知った後の二十日、武装を解除した。松前へ移送された彼らは、帰農する者、旧幕府軍に加わる者、さまざまであったが、多くは藩主の後を追い、津軽領へ渡った。
こうして箱館戦争が始まったが、相次ぐ出兵と官軍の滞陣、戦争の長期化で、既に弘前藩の国力は限界に近づいていた。しかし、政府に業績を認めさせるには、さらに総力を尽くさなければならない状況であった。十一月二十四日、藩は松前落城の様子と領内の防備状況を朝廷に報告し、官軍の応援を要請した(資料近世2No.五五九)。
さらに、同二十五日、藩主津軽承昭(つがるつぐあきら)は藩の財政状況は逼迫しているが、この戦争での成功や失敗は藩国家の存亡にかかわることであり、特に応援の軍勢が参戦してきたときに、決して他藩に武功を譲ることのないようにと家中に一層の奮戦を求めた。重ねて家老が財政状況の理解を求めたうえで、西南諸藩からの応援兵が多数参戦してくる中で、弘前藩がその状況に甘んじるような振る舞いをすれば、他藩から士風が衰退しているとあなどられ、藩の恥となるばかりではなく、朝廷に対しても申し訳がたたないと、さらに勇敢に戦うようにとの口達を出した(同前No.五六〇)。そして、十二月五日、社家隊等の編成が布告される。新たな兵力の補充を迫られた軍政局は農兵隊に続いて社家隊の動員に踏み切ることになった。ただし、この動員は、あくまで補充であり、補助を目的とするものであって、兵力不足を補う処置であったとみることができよう。また、藩内には出兵の防寒具用に充てるため犬狩りまで布令された。
さらに藩は、新たな兵力の徴用とともに、軍備の増強を図った。青森沿岸に防御のため砲台を築くとともに、十二月九日、朝廷よりミニエー銃一〇〇〇挺を借用し(同前No.五六二)、十二月十二日には、横浜で小銃二五〇〇挺を購入した。
十二月十五日、清水谷公考は青森総督に任命されることとなり、青森常光寺(じょうこうじ)へ転陣することが決まった。一方、東北戦争の集結で奥羽鎮撫総督府の任を終えた九条道孝ら一行は、同月十八日に東京(七月十七日に改称)へ上った。
また、東北戦争後の処理も進み、弘前藩は盛岡藩領のうち北郡・三戸郡・二戸郡の取り締まりを命じられ、二十九日には、津軽承昭が奥州触頭に任命されるとともに、朝敵諸藩に対する処分が告げられた。ただ、一度は朝敵ではないかという疑いをかけられた弘前藩にとっては、野辺地(のへじ)戦争の敗戦がいまだ尾を引いており、箱館戦争を汚名返上の機会としなければならないという意識が強まりつつあった。それは、慶応二年一月十五日付けの神東太郎が出した箱館進軍渡海についての内状(同前No.五六三)にも表れている。つまり、近代的武力を誇る官軍諸藩が津軽領に滞陣している中で、当の弘前藩が他藩に勝る働きをしなければならず、野辺地戦争の敗戦のうえに、さらに失敗を重ねれば、自身の命運が尽きかねないという危機感が藩を動かしていたのである。しかし、依然として戦況は芳しくはなかった。榎本艦隊に対するような軍備は整っておらず、防御に専念することしかできなかったのである。
明治二年一月二日、藩主津軽承昭は士気を高めるために、青森で木村繁四郎・都谷森甚彌両隊の操練を見分し、さらに、箱館へ進軍する際には渡海も行う意向があることを表明(『青森縣史』第三巻)して、十八日まで青森に滞在した。
そして、神東太郎が東京へ赴き、朝廷に対して軍艦の調達と進軍の際の先鋒の任命を願い出、大村益次郎と話し合いを持った。軍艦を動員して海・陸両方からの攻撃をしかけなければ、蝦夷地に足場のない官軍に勝機はないと主張したのであった。大村も軍艦五隻と、人員・物資輸送のための商船三隻を送る計画があることを明かした(資料近世2No.五六三)。このころ、近衛(このえ)家からも奨励の書状が届けられていた。
しかし、厳寒期であるうえに、軍艦という決定打に欠ける官軍は旧幕府軍の動向を見守るしかなかった。また、承昭の生家である熊本藩細川家から送られた援兵が、悪天候のため品川からの航行途中で溺死するという悲劇も起こっていた。なお、この時の死者は二〇八人という記録がある(『弘前藩記事』二)。
一方、旧幕府軍は着実にその基盤を蝦夷地に築きつつあった。榎本武揚(えのもとたけあき)は英仏両国と会談し、事実上の政権と認められて外交関係を有利に運んでいた。また、総裁以下の役職を設定し、仮の政権を成立させたのであった。しかし、軍用金不足は深刻で、市中に混乱を招いていたことも事実である。そして、そんな仮政権が、旧幕府勢力の一掃を目指す明治政府に認められるはずもなかったであろう。
明治二年二月の段階で、対旧幕府軍のために集結した政府軍の兵数は総員六四〇〇人弱であり、その内半数近くが弘前藩兵だった。郷夫等も含めると総勢一万四〇〇〇余りになる。こうしたことから、弘前藩兵は「弘前ニも五六小隊・相残不申余も皆四方海岸江出張ニ相成申候」(「公私留記」明治二年三月二十七日条)というように、ほとんどが城下から出張して領内各方面の警備に就く状況となっていた。そして上下ともにその長期にわたる多大な負担に限界を感じつつ、戦争の終結を心待ちにしていたのである(同前)。