写真83は明治五年(一八七二)に写真士西谷休之助が撮影したという弘前城の姿であるが、当時はまだ桜の木が植えられておらず、下乗橋も古いものである。天守閣の手前に人物が写しだされているが、左端は第一分営の兵士であろう。その他の人物も洋服や羽織袴を着ており、当時の風俗がよく表れている。
図83.写真士西谷休之助が撮影したという弘前城
解体された家臣たちはどうなったのであろうか。帰田法により在地に耕地を配賦された彼らは弘前を離れて農村に移住したはずであったが、帰田法で得られた利益が少なかったためその多くはすぐに耕地を転売して、前述のように弘前に帰った。「士族在籍引越之際地図並官社商現図」(弘前市立博物館蔵)は、廃藩から明治十四年ころまでの弘前市街の各戸の変遷を詳細に表した絵図であるが、それによると旧藩時代の武家町にはほとんど空き家がなく、多くの士族らが弘前を離れずに在住していたことがわかる。もちろん、帰田法により一家をあげて農村に移住し、長くその土地に住んで、農民のほかに警官・教員・村吏などに転身した者もいたが、それは圧倒的に少なかった。士族が近代社会にどのように参画していったかについてはまだ研究が不十分であるが、金禄公債に生計を頼って、城下で消費生活を送っていたと推測される。
すでに幕末のころから市中の治安が相当悪化していたことも前に述べたが、この流れは士族・庶民を問わず、廃藩後も改善されることはなかった。たとえば、明治三年九月に元御雇医師手塚辰太郎の弟精一は勤学登といって家出、脱籍し、横浜までたどりついたが、そこで異人の館に盗みに入って捕縛(ほばく)され、翌四年七月に弘前に送致され揚屋(あがりや)入りとなっている(資料近世2No.六一五)。当時、全国的に脱籍士族による外国人殺傷事件が続発しており、新政府も県や藩に管轄士族の管理を徹底させていたが、藩制の崩壊に伴って脱籍が多発していた。また、士族成田吉太郎と伯父の宗吾は偽の藩札を一〇両造り、生活難に陥っていた国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡大鰐(おおわに)町)門前の三左衛門という者にそれを渡した。吉太郎と宗吾の罪は四年八月に露顕(ろけん)し、身分を庶民に下されたうえで、七二〇日の牢屋入りとされた(同前No.六一八)。さらに四年七月には、士族・卒やその子弟らが夜中に酔って大声で歌ったり、抜刀して通行人を威嚇するなど粗暴な行為を戒める監正署の布達もみえ(同前No.六一三)、士族の風儀がかなり乱れていたことがうかがえる。
一方、庶民でも事情は同様であった。四年九月に鍛冶町の勇助という者が近隣の者を集めて博打(ばくち)場を開帳し、杖刑(じょうけい)(杖で打つ刑)八〇に処せられたが(同前No.六二〇)、こうした罪人や胡乱(うろん)なよそ者はそれまで市中の町役が監視していた。ところが、数の増加により賄(まかな)いや番人の負担が重くなったため、罪人を集める牢獄を建設して、月割りで市・在に費用を割り当てるようにとの上申が出されている(同前No.六一六)。
やがて全国的に文明開化政策が施行されると、市域や青森県の姿はしだいに変化していった。四年九月には穢多(えた)頭長助に対して、今後穢多は民籍に入れることが伝達された。士族も断髪令や脱刀令によって服装が変わったが、最初は相当慣れなかったらしい。明治五年七月、広田村(現五所川原市広田)に居住していた士族高谷官吉は前年より不調法があったとして自宅の一室に籠もり謹慎していた。時節は夏場で暑苦しかったため、官吉は密かに部屋を抜け出し、川端で涼んでいた。官吉は短髪にしていたが、そこに酔った農民三、四人が現れ、彼の短髪をからかって「ジャンボ(刈り)」(津軽地方の方言で短髪刈りのこと)とは毛がないことかと盛んに嘲笑した。怒った官吉は家に戻って刀を取り出し、ついに農民の一人を斬り殺し、六年一月に斬罪に処せられた(「青森県史料」五 国立公文書館内閣文庫蔵)。この事件そのものは悲劇というべきであろうが、過渡期の風俗を考えるうえで興味深い。
その後、秩禄処分・徴兵令・地租改正といった一連の政策により、士族の特権は否定されていった。不平を唱える弘前の士族に対して明治七年(一八七四)四月には集会争論の禁止が告諭され、同九年に青森で最初の県会が行われると、政治の中心は青森に移っていった。それでも明治十年代の政界を主導していったのは大道寺繁禎(しげよし)・本多庸一(よういち)・菊池九郎・笹森儀助などの旧弘前藩士たちであり、国会開設を求める本多らの檄文(げきぶん)「四十万同胞に告ぐ」(明治十三年)は、彼らの意識が津軽を越えて青森県や日本全体に及んだ証明である。さらに明治八年(一八七五)には県庁でりんごの試験栽培が始まり、やがて士族の授産事業として定着していき、同十一年には第五十九国立銀行が弘前に開業した。政治経済的にも弘前は新たな時代を迎えていったのである。