人質徴収

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天正十八年(一五九〇)七月二十六日付で伊達政宗に宛てられた木下吉隆からの書状では、秀吉が宇都宮に到着し出羽・奥州の仕置を行うために、政宗と最上義光宇都宮へ出頭することを求めた(「伊達家文書」五二四号)。このとき、あわせて足弱衆(あしよわしゅう)(大名の妻子)の上洛も求めている。さらに、七月二十七日には南部信直も妻子の在を命じられ(資料近世1No.一六 なお、以下の記述は長谷川前掲書による)、八月二十七日には出羽仙北戸沢氏にも妻子の上洛が求められている。最上氏も、八月に最上義光が妻子を伴って上洛を果たしているが(「伊達家文書」五六六号)、これは、大名自身の上洛、すなわち、参勤を含んだものであった。豊臣政権の意図は、単に人質徴収のみを目的としたものではなく、夷島(えぞがしま)・日の本(ひのもと)に至る大名すべてを参勤させて京都に居をえさせ、妻子と軍勢をそこに居住させることにあった。
 大名とその妻子である足弱衆上洛は、各大名に個別に命じられてはいるが、七月晦日付の秀吉の朱印状では、出羽・奥州の両国はいうに及ばず、「津軽宇曽利(うそり)・外浜迄」の足弱衆を在洛させるための上洛を命じている(資料近世1No.一七)。豊臣政権にとって「津軽宇曽利・外浜迄」という表現は、出羽・奥州の外にある境界領域という地理認識によるものであり、特に、宇曽利は、十六世紀中ころには津軽・外浜とともに日本の果て(日の本)として認識されていたという。小田原参陣中の四月十一日に表した「出羽・奥州日ノ本之果迄」の仕置、すなわち、日本の支配を完了させようとする秀吉の想が、大名と足弱衆上洛という形で具体化された。したがって、当仕置は奥羽仕置ではなく奥羽日の本仕置と呼ぶのが妥当であろう。豊臣政権は、全国規模での軍事動員が可能となり、最終的には、文禄元年(一五九二)の肥前名護屋への出陣、慶長元年(一五九六)からの秋田伏見作事杉板廻漕(かいそう)へとつながる、まさに「際限なき軍役」に結びついていた。なお、夷島については、朱印状を発給して出仕を求めるにとどまっているが、これを拒絶した場合は、軍勢を派して成敗することを言しており(同前)、出仕は最早避けられない状況にあった(『新羅之記録』下巻によると、蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は秋田実季とともに天正十八年十二月に上洛する)。
 さて、上洛を命じられた北出羽の大小名は、天正十八年(一五九〇)九月中ころから十月末にかけて起きた、仙北由利・庄内の一揆を鎮圧してから上洛を果たしている。出羽由利郡の小名衆は十二月末までに上洛し、このときに領知宛行(あてがい)の朱印状が発給され、北出羽秋田実季ら天正十九年一月に領知安堵された大名衆も、同じころに妻子を伴って上洛を果たしたと思われる。また、津軽為信も、前田利家に伴われて十二月に足弱衆を伴って上洛している(資料近世1No.二七)。一方、陸奥の大名の場合、ほとんどの大名が九月ごろまでに足弱衆上洛を行ったと考えられる。しかし、検地の後に起きた葛西・大崎一揆和賀・稗貫一揆の影響で、天正十八年末にこぞって上洛した出羽のような余裕はなかった。ともかく、足弱衆上洛は、最も貫徹度のいものであったということができる。