四 執権時頼の東国廻国をめぐって

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 鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』は、正元元年(一二五九)と弘長二年(一二六二)の記事を欠いている。時頼(写真147)の廻国は「微行」であるから、その年時推定は積極的な意味を持たないが、仮に推定を許されるなら、時頼が執権を辞し、比較的自由な時間もとれる正元元年の方が、死の前年の弘長二年よりも蓋然(がいぜん)性が高い。

写真147 北条時頼

 それには二つの史料的根拠がある。一つは正元元年の前年の正嘉二年(一二五八)に、時頼のみならず幕府が長いこと、「東夷成敗」の地としてその経営に当たってきた陸奥・出羽両国の国情にいささか不穏の動きがあった点である。
 すなわち、
(正嘉二年八月廿日)陸奥出羽両国諸郡夜討強盗蜂起事、依其聞、仰面々地頭、可相鎮之旨、所遣御教書也、其詞云、
近日、出羽陸奥国夜討盗強蜂起間、往還之輩有其煩之由風聞尤不便。是偏郡郷地頭等背先御下知無沙汰之所致也 甚無其謂 早其郡知行宿々建置屋舍結番、殊可警固也 且籠置悪党之所々不見隠聞隠之旨、可進沙汰人等起請文者、依仰執達如
   正嘉二年八月廿日     武蔵守
                相模守
    某殿

 『吾妻鏡』は、正嘉二年(一二五八)八月廿日に、陸奥・出羽両国に夜討、強盗、蜂起が発生している報告を受け、その厳しい対策を地頭に命じたのである。
 このような事態の発生は、日ごろより北奥の地に対して、人に倍する関心を持ち、その政治的、経済的関心はもとより、宗教的にも、鎮魂供養の心をたむけていた時頼にしてみれば、黙認しがたきことであったに相違ない。
 この出羽・陸奥両国における正嘉二年(一二五八)の一件が、時頼をして正元元年(一二五九)の東国廻国へと向かわせたと想定するひとつの史料的根拠である。
 いま一つは、正嘉二年八月十六日、諏訪左衛門入道が伊具四郎を殺害し、その諏訪入道の処罰の時の時頼の次の言動である。
今日、諏訪刑部左衛門入道所梟罪也 此主従共以遂不分明白状 爰相州禅室被賢慮、以人之時、潜召入諏方一人於御所直被仰含、(後略)

 時頼が斬罪の決定をしている諏訪入道に、「賢慮をめぐらされ、人なきの時をもって、潜かに諏訪一人を御所に召し入れ」た行為そのものが、時頼の仁政と相俟って、人目を避けながら、「微行」に旅立つ営みを暗示していると思われる。
 この「微行」を暗示して十分な言動も、正元元年の前年のことである。
 ここでは、時頼を東国への旅立ちに誘(いざ)ない、かつそれを暗示させるのは、一つには、正嘉二年における出羽・陸奥両国の世情不安の発生であり、二つにはこの時期、軌を一にして顕在化した「微行」の先兆的言動の二点を指摘するだけにとどめる。
 この二つの根拠は、ともに時頼の東国観ないし言動にかかわる、その意味では、時頼の内なる個人的レベルに関するものである。
 では、時頼の廻国を客観的に確証し得るほかなる根拠は、皆無なのであろうか。実は、客観的にしてかなり決定的な一史料がある。
 それは、徳治三年(一三〇八)八月に草された「平政連諫草」なる一文である。奥付けによれば、平政連とは「出雲介の父」で、正式には「筑前権守政連」という人物である。この政連が時の権力者、長崎左衛門尉こと内管領の長崎高資に対して、表題の示すとおり諫言(かんげん)したのが他ならぬ「平政連諫草」である。
 その内容は、「可行政術事」「早相止連日酒宴、可暇景歓遊事」「可略禅侶屈請事」「固可過差事」「可営勝長寿院事」の五ヶ条にわたっている。この「諫草」が時頼廻国を間接的ながら類推し得る根拠となり得るのは、ほかでもなく、これが幕府内の事情に精通していた平政連の手になるものであることと、時頼廻国とほぼ同時代的史料として極めて信憑性が高いからである。
 この五ヶ条にわたる「諫草」のなかで、時頼の廻国の史実性を類推し得ると思われる一文とは、「可一行政術 事」に散見する次なる文言である。
(一)聖人為世出、賢者為民生 禅閣元当其仁、諸人皆知此理惣以無退屈、猶可勤厚然者、出世之本懐相違、為民之先言可空、

(二)爰為世不出、為民不生之由、有御返答者、所支證也。方今禅閣、都鄙之間、令大事、貴賤之中、不少諍、兼徳仁豈非民之生、蓋専利国之道

(三)就中先祖右京兆員外大尹(北条義時)者、武内大神再誕。前武州禅門(北条泰時)者、救世観音転身、最明寺禅閣(北条時頼)者、地蔵菩薩応現云々。倩思貴下在生之作法、同為無上大聖之応化一歟、大悲代苦之誓不愆、万歳聞政之心莫懈、

 この「諫草」とは(三)に見るように、平政連が北条義時、泰時そして時頼のことを、各々、武内大神、救世観音、地蔵菩薩の再現ととらえ、長崎高資もこれに見習って「大悲代苦」の仏の誓いにたがうことなく、臣下の意見を容れる「聞政の心」をもつべきことを、幕府の命運をかけて進言したものである。
 平政連がこのなかで最も直接的に言及し、それを長崎高資に諫言しようとした人物は、(一)に見える「禅閣」すなわち九代目執権の北条貞時である。この貞時は時頼の孫、すなわち時頼が最も信愛し、最も後事を託した時宗の子に当たる。平政連は当時の政情を語る上で最も説得的な北条貞時の事蹟を挙げて、長崎高資に進言したのである。「聖人世のために出で、賢者民のために出づ。禅閣(貞時)もまさにその仁に当たる。諸人みなこの理を知る。惣じてもって、退屈なく、なお勤厚あるべし。しからずんば、出世の本懐、相違し、民のための先言、むなしかるべし」というように、民のために世に出た北条貞時の出家の本懐、さらには「民のため世に出づ」の格言のためにも、長崎高資の善政を政連は強く望んだ。
 平政連はこのように、貞時を語ることによって、高資の善政を期待したのであるが、そのなかで、時頼の廻国をも間接的に裏づける一文が(二)である。これは、政連自身、貞時の治世を「民のため世に出づ」と確信しているにもかかわらず、これを長崎高資をはじめ世の人が信用しないならば、ということを想定した文言でもある。つまり、「ここに、世のため出でず、民のため生ぜずの由、御返答あらば」、支證つまり証拠を出そうというのである。政連はついに貞時の執権在職時のことを引き合いに出す。この一文にはおそらく、祖父時頼の時に蒔(ま)かれた「廻国」の種が孫の貞時に継承され、見事に開花、結実したことが婉曲(えんきょく)に表現されているように解される。
 政連はその秘すべき証拠たる事蹟を、こう吐露(とろ)した。
まさに今禅閣、都鄙の間、大事を行ぜしめ、貴賤のうち、少諍すべからず、徳仁を兼ぬ。あに民のための生となさざらん。けだし利国の道を専らにせん。

 貞時は都と地方に、「大事を行ぜしめ」、貴賤に争いのなきよう、その人徳によって計らったのである。これを民のための生ではなく、利国の道でなければ何といおうか。貞時の治世は善政にほかならない。貞時のことをこのように政連は評したのである。
 それでは、この貞時の事蹟のなかの「都鄙の間、大事を行ぜしむ」とは、果たして具体的に何を指しているのであろうか。この文言からだけでは、甚だ不鮮明ではあるが、推測を重ねていうなら、この「大事を行ぜしむ」というのは、都鄙に貞時がときとして秘かに「微行」して政りごとの一助としようとしたまさに「廻国」のことを指すのではないだろうか。
 この計いは、貞時の得宗家にとって祖父の時頼以来の秘すべき伝統的な「大事」であったのではないか。時頼が試みた「微行」が、時頼の死後、約四十年後の今、孫の貞時の世に至っても、なお「大事」なる営みとして、公然の秘密として、得宗家のなかに継承されてきたのであろう。
 とすれば、秘すべき時頼以来の「微行」のことが、「大事」なる二文字をもって、今この平政連という一御家人の口から、初めて公言されたことになる。御家人の口を通して「政術を興行せらるべき事」の一環として、この「大事」=「微行」が開陳されたことの意味は大きい。
 政連は時頼ではなく、孫の貞時の「微行」を指して「大事」としたが、この「大事」なる営みは、右の得宗家に流れる血脈を強調する史料(三)から推しても、貞時の祖父時頼にも十分、遡源するに相違ない。
 祖父時頼と孫貞時がこの「大事」を通して密接不離に結びついていたことは、弘前市の長勝寺(曹洞宗)の梵鐘から明確に立証できる。この「嘉元鐘」とも称される梵鐘は、もと藤崎村護国寺にあった。その梵鐘には、次のように刻銘されている。
皇帝萬歳 重臣千秋    当寺 住持 伝法   沙弥道性 沙弥行心  勧進 都寺僧 良秀
風調雨順 国泰民安    沙門 徳熙 謹書   丹治宗員 平 經廣  大工 大夫入道
嘉元四年丙午八月十五日  施銭檀那見阿弥陀仏  源 光氏 僧 證嚴
大檀那相模州菩薩     沙弥道暁 沙弥行也  沙弥道法 藤原宗直
戒弟子 崇演       平高直 安倍季盛   藤原宗氏 沙弥覺性
(陰刻)(史料六三)

 まず、この梵鐘の寄進者である大檀那の崇演とは、前執権北条貞時である。
 前にも触れたように、この貞時の祖父時頼が弘長二年(一二六二)、津軽田舎郡藤崎に霊臺寺を復興して護国寺と改めていた。のち、この護国寺を蘭渓道隆のよる建長寺の末流として、関東祈禱所化した。銘文中の「当寺 住持 伝法 沙門 徳煕」の当寺とは護国寺であり、沙門徳煕とは春容徳煕のことであって、道隆の弟子である。
 このように、長勝寺に現存する梵鐘とは、紛れもなく時頼とその護持僧の道隆の法交の産物である護国寺に遡源するものである。その延長上に、時頼の孫、貞時による嘉元四年(一三〇六)の梵鐘の鋳造であることを考えあわせると、祖父時頼と孫貞時の不即不離のつながりは、なお一層強まる。貞時は当時の得宗による幕政の専制化を図るためにも、この得宗家領の津軽において、御内人の結束を固める目的をも兼ねつつ、この鐘を鋳造したものと考えられる。
 近年の研究成果によりながら、銘文中の人物比定を試みると、次のようになる。
 施銭檀那の「見阿弥陀仏」に続く「沙弥道暁」とは、下総国の御家人山川氏の一族で、山川五郎光義の出家名である。以下の「沙弥行也・平高直」は、本拠を関東に置きながら、この時期に津軽地域の郷・村の地頭職に就いていた人物であろう。
 「安倍季盛」は、福島城の築城者と伝えられる安倍貞季と考えられる。「沙弥道性」「沙弥行心」「平經廣」は、平姓の津軽曽我氏であろう。「丹治宗員」は、御家人丹治党の安倍行員の近親の者である。「源光氏」は弘前市中別所の正応元年(一二八八)の板碑(写真148)にも見える人物で、光氏の姓は不明であるが、そのころに高杉に跋扈(ばっこ)していた高椙氏に出自する可能性もある。

写真148 正応元年の板碑

 「僧證嚴」「沙弥道法」「沙弥覺性」らは不明であるが、「藤原宗直」「藤原宗氏」は、平賀郡乳井郷にいた藤原姓の小川(河)氏と想定され、「勧進 都寺僧 良秀」も、小川氏一族の出身と考えられる。
 このように、北条貞時は得宗家の専制化の道を、津軽護国寺においても具現化したのである。
 つまり、前の平政連の吐露した貞時の「大事」とは、この嘉元四年(一三〇六)の梵鐘鋳造も含む貞時自身の「微行」を指していたのではなかろうか。政連の「諫草」が進言されたのは、そのちょうど二年後の徳治三年八月であった。さらに一歩進めていえば、孫の貞時は祖父時頼の「大事」を偲んで、嘉元四年の梵鐘を鋳造しつつ自らも「微行」したのであろう。
 なぜならば、貞時が祖父時頼の「微行」を先例にしていたことが、『太平記』巻第三十五の「後ノ最勝園寺貞時モ、追先蹤又修行シ給シ」という一文によっても史料的に立証されるからである。
 時頼廻国の可能性を、時頼個人の二つの根拠と、客観的なものとしての「平政連諫草」および嘉元四年の弘前長勝寺の梵鐘銘文を通して、検討してきた。
 時頼の廻国はあくまでも、人目をしのぶ「微行」であるがゆえに、直接的な証拠を残さず、それゆえ、史料が現存しないのは当然の結果である。それでも、「火のない所に煙は立たない」という摂理をもとに、何がしかの「火と煙」を求めた結果、時頼の廻国は史実としてかなり確度の高いものであることが、ほぼ示し得たと思われる。時頼の廻国は決して「虚構」などではなく、史実そのものと見倣(みな)し得るものであったのである。
 いっぽう、『古典文庫』所収の「地蔵菩薩霊験記」巻九之五には「往日、鎌倉ニ安藤五郎トテ武芸ニ名ヲ得タル人アリケリ。公命ニヨリ夷嶋ニ発向シ、容易夷敵ヲ亡シ、其貢ヲソナエサセケレバ、日本ノ将軍トゾ申ケル。(中略)爰ニ彼ノ五郎、年来地蔵ヲ信ジ、長三尺ノ地蔵ヲ造立シ安置シ奉リ、誦経礼拝ヲコタラズ(下略)」に始まる「建長寺ノ地蔵夷嶋ヘ遊化ノ事」なる仏教説話が収められている。この説話は、北条時頼の直接的な廻国という形をとらないものの、安藤五郎のよる津軽に至るまで、建長寺の地蔵信仰の形式をとった一種の時頼廻国説話が流布していることを示している。この仏教説話が前の幕府の「禅密主義」仏教政策をその背景にもつであろうことは、ほぼ察しがつこう。
 前の唐糸御前護国寺の建立のように、この説話には天台宗から臨済宗への改宗という山場はないが、幕府の「禅密主義」仏教政策と表裏した時頼廻国伝承と深くかかわっているという点で、その説話の根幹はまったく同一であるといってもいい。
 直接的な改宗を伴わないが、時頼の廻国をとおして幕府の「禅密主義」なる仏教政策が宗教的祭祀権の行使という形で現実化した例として出羽国由利郡象潟蚶満寺に伝わる
 象潟干満寺者
  八幡菩薩降臨之砌也、従当寺目通四方二十丁余準先規令寄附之状如件
      正喜元丁巳年
        八月十三日
                道崇(花押)
という史話(『秋田県史』資料古代中世編)も挙げることが可能である。
 幕府による「禅密仏教」政策の北奥地域への遂行は、ひとり臨済禅への改宗だけではない。「褝密仏教」という臨済禅と真言密教の総和の上に成り立つ仏教政策である以上、真言密教の扶殖も当然存したことは論を俟(ま)たない。
 『日蓮遺文』が伝える次の二史料に注目したい。
(一)文永五年(一二六八)の比、東には俘囚をこり、西には蒙古よりせめつかひ(責使)つきぬ。日蓮案云、仏法不信なり。定て調伏をこなわれんずらん。調伏は又真言宗にてぞあらんずらん。(史料五八二)

(二)真言師だにも調伏するならば、弥よ此国軍にまくべし(中略)ゑぞは死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ(史料五八三・写真149)


写真149 佐渡御勘気御抄
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右の二つの史料の大意を、「文永五年の比、東に俘囚が反乱を起こし、その過程ないしはその結果、堂塔を多く造営もした津軽蝦夷管領=安藤五郎はゑぞに殺害された。それは安藤氏が真言宗を信奉したからである」とみるなら、そこには前述した津軽山王坊や藤崎・碇ヶ関・大鰐地区の寺社群という二大宗教拠点における天台宗から真言宗への一大改宗事業が存したに相違ない。
 古代の安倍氏の血を引く津軽安藤氏は「因果の道理を弁(わきま)へて」二つの拠点地域に多くの堂塔を造営した。「蝦夷管領」という幕府の行政的使命により、安藤氏は自ら幕府の掲げる「禅密仏教」政策を、天台宗から真言宗への改宗事業として試みたのである。その結果、ひとつの宗教拠点である津軽山王坊においては、ゑぞのために殺害される羽目になったが、おそらくいまひとつの巨大な宗教メッカであった藤崎・碇ヶ関・大鰐地区においても、大聖不動明王聖観音を筆頭とする天台宗系の諸社と、国上寺久渡寺にはじまる天台宗系寺院群は、いずれも真言密教へと首尾よく改宗を遂げたに違いない。古代において、桓武天皇坂上田村麻呂-最澄の三者によって彩られてきた北奥天台宗的仏教世界は、ここに装いも新たに真言密教系の世界へと変容することとなったのである。
 『津軽一統志』の「神社 仏閣」項が、天台僧=円智上人にかかわる大聖不動明王聖観音国上寺久渡寺などの天台宗寺院を真言宗寺院として誤認してしまったのは、鎌倉時代における天台宗から真言密教寺院への改宗一大事業自体が、近世の『津軽一統志』の編集時には、まったく忘却の彼方にあり、伝承もされていなかったからであろう。しかし現実には北奥においては、その古代から中世にかけて先の「滿蔵寺」の沿革に例をみるように、「平堂教院」→「靈臺寺」→「護国寺」→「滿蔵寺」と寺名のみならず、その宗派名も天台宗臨済宗曹洞宗というように変転していたのである。
 幕府の宗教的祭祀権の現実化の結果、北奥仏教界が天台宗的系的古代世界から真言密教系の支配する世界へと変貌していったことは、ほぼまちがいない。その変貌の一端を知る資料として、『新撰陸奥国誌』の伝える「中別所村の東、フネン沢の畑中に、石碑四十余枚あり」を受けて『大日本地名辞書』が記した石碑についての一文に注目してみたい。
四十余碑石、草茅榛棘の裏に没し、傾倒殷壊狼藉を極む。(中略)一碑、高一丈六寸幅一尺三寸厚九寸、右志者於現当為二世之追善石塔 (梵)三本立之以余薫普及法界衆生而已
弘安十年丙寅八月日 紀中納言末孫橘範綱敬白

 これによれば、中別所に残存する四十余の碑のひとつとして刻まれたこの碑は、かの文永・弘安の役の直後の弘安十年(一二八七)のものである(写真150)。幕府がその襲来の難を除くべく、真言密教に大きな期待を寄せて、種々の祈禱を修したことは多言を要しまい。この幕府による元寇を対象にした真言密教祈禱のほかに、北奥においては蝦夷反乱が幕閣の頭を悩ませていた。その折も採り入れられたのは、やはり真言密教の祈禱修法であった。

写真150 『古碑考』
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 とすれば、右の弘安十年の造碑は、対元寇を考慮したものとも、また蝦夷反乱を憂慮したものともとらえ得る。『大日本地名辞書』は、四十余碑の最古は弘安二年のものともいう。推測を逞(たくま)しくするなら、北奥中世の宗教界における真言密教化の営みは、現地にあってはこうした日々の造碑などを通して行われていたのではあるまいか。
 古代の北奥仏教界が桓武天皇坂上田村麻呂-最澄を中心軸に天台宗系色に染め抜かれたのを、いま中世のそれは、鎌倉幕府北条時頼-「禅密仏教」によって彩られようとしている。
 それにつけても、北奥の地域は古代と中世の別を越えて、ある一定の傾向に傾斜しやすく、染まりやすい風土なのであろうか。それは当該地域と公権力なりの外なる条件との相対的関係によるところが大きく、そう一概にはいえないであろう。鎌倉時代には、鎌倉幕府北条時頼-「禅密仏教」という政教図式が、宗教的祭祀権の行使という形で、北奥地域に投入されたのである。
 かといって、北奥の全域がその図式化を受けた訳ではない。たとえば「恐山」(写真151)の「地蔵堂」について、『大日本地名辞書』は「貞観中、慈覚大師の開山と称すれど、享禄三年(一五三〇)、田名部円通寺、宏智聚覚和尚中興の後は、曹洞宗に属す」と伝えている。

写真151 奥州南部宇曾利山之絵図

 これによると、恐山は古代において、最澄の高弟円仁=慈覚大師によって開かれた後、享禄三年に曹洞宗に改宗するまでは天台宗であり続けたことになる。
 この事実をもって、鎌倉時代における「鎌倉幕府北条時頼禅密仏教」という政教構図の北奥地域への投入を、挫折・破綻と見なすのは甚だ早計である。前近代におけるかかる施策をローラー作戦の如き近代的な画一主義の視角から論ずるのは、非歴史的であろう。
 ことの本質は、鎌倉幕府の公権力としての宗教的祭祀権の現実的行使が北奥地域になされたか否か、に存するのであり、その現実的行使における多寡が重要なのではない。「鎌倉幕府北条時頼禅密仏教」という宗教政策が、政策としての位置づけを保持しながら、量的ではなく、質的に現実になされたか否かが、より本質的で重い意味を有すると考えられる。
 その点からいっても、「恐山」における天台宗の未改宗は、古代的な慈覚大師信仰=天台宗の保持の強烈な連続性を示すものであり、これをもって鎌倉幕府の宗教政策の限界や挫折をいうのは正しくない。広域な版図(はんと)のなかで、拠点を中心にその施策が実施されたことの方が、決定的に大きな意味を有することはいうまでもない。