為信は、この戦功を口実に実季を説得し、比内から没落して為信のもとに十数年身を寄せていた頼平(よりひら)(近義)を比内に帰還させ、知行主にすることに成功した。この間の状況を実季は、徳川家康重臣阿部伊予守正勝に宛てた慶長四年(一五九九)の申状で以下のように報告している。浅利氏は数代安東氏の家臣であったが、親の愛季に対し逆心を企てたため浅利勝頼を成敗した。浅利頼平は、その成敗された勝頼のいとこである。この浅利氏没落の時、頼平は津軽へ逃れ、以後十数年ばかり津軽氏が抱え置いた。その間、浅利氏の知行は安東氏で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平に返付し家臣に召し抱えた。そのため、浅利領は「御検地之御帳面御朱印」に登録され役儀を務めてきた(『能代市史』資料古代・中世一、中世二。以下、本節にかかわる史料はすべて同書掲載史料による)。
天正十八年七月以後の奥羽仕置において、秋田の検地奉行として木村重茲、津軽の検地奉行として前田利家、仙北の検地奉行として大谷吉継と上杉景勝がそれぞれ派遣された。秋田の検地奉行である木村重茲は、同年の八月ころから検地を実施し、十一月中旬に上洛している。前田利家も同じ期間に検地を行って帰国、上洛している。なおこの時、出羽国では庄内藤島一揆、仙北一揆が起こっているが、同年中に鎮圧され、翌天正十九年正月十七日、湊安藤太郎(実季)宛てで秀吉朱印状が発給された。実季は出羽国檜山郡一職と秋田郡の内において合計五万二四三九石二斗七升三合を宛行(あてが)われるとともに、二万六二四四石八斗三升の太閤蔵入地の代官を命じられた。
図33.戦国末期の北羽の大名・小名
安東氏と津軽氏は、湊合戦により秀吉の惣無事令違反は明白であったが、豊臣政権は両氏の領地没収の方針を転換して領地安堵の方針に切り替えた。それは、すでに文禄元年(一五九二)からの朝鮮出兵へ向けて日程が具体化しており、それに必要な金(きん)や秋田杉などの鉱山・木材資源の円滑な徴収とその利用が第一とされたからである。奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵に必要な金や秋田杉運上の役が賦課されるのは当然であった。
この太閤検地によって浅利氏の旧領である扇田(おうぎた)村、独鈷(とっこ)村、花岡(はなおか)村、中野(なかの)村、八木橋(やぎはし)村、杉沢(すぎさわ)村、十二所(じゅうにしょ)村などの村々も検地を受けている。この時、実季は、浅利領にも太閤蔵入地を設定し、七〇〇〇石の内、五〇〇〇石を浅利氏の知行、二〇〇〇石を太閤蔵入地としてその代官に任じた。
浅利頼平は、この比内帰還後の天正十九年(一五九一)七月七日、早速独鈷村の肝入役(きもいりやく)として越山作内(こしやまさくない)を命じる黒印状を出し、村落支配に乗り出している。また同年七月二十日には、浅利氏三家老の一人である片山弥伝(かたやまやでん)に対し、太閤検地については秀吉が派遣した検地奉行に全面的に委任すること、また、「天下」(豊臣政権)によって保障された上は知行について心配ない旨を述べ、「いつわり」のないことを書状でもって懇切丁寧に説いている。浅利氏は旧領に帰還したとはいえ、いまだ独立的な片山氏を家臣として強固に統制するまでには至っておらず、豊臣政権が派遣した奉行による検地により所領の回復を実現し、さらにその後も豊臣政権に全面的に依存することによって家臣団統制や領地支配を実現しようと必死になっていたのである。後の片山氏ら重臣の安東方への寝返りは、浅利氏帰還の時からすでにその伏線が存在したのである。
なお天正十八年、浅利領からは帆柱(ほばしら)三本、金子(きんす)一枚、大鷹一羽等が、秋田実季家臣に渡され、翌十九年には代物六九貫三〇〇文が実季家臣岩倉右近に渡されている。浅利氏は、比内に帰還した直後から秋田方へ軍役・物成(ものなり)を務める家臣としての位置に置かれることになったのである。また、浅利領には太閤蔵入地が二五〇四石設定されていたため、天正十八年分は木村重茲が直接受け取り、翌十九年分は一割七分に当たる四二五石八斗を安東氏へ納入するよう下命されている。