浅利騒動の停戦命令

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慶長元年(一五九六)二月十六日、浅利氏秋田氏が比内で対峙(たいじ)していた時、秋田方が急に全軍をまとめて兵を引いた。これは浅利騒動の件を聞いた秀吉が、騒動に関する調査と処断を行うと決定したからであった。この時秀吉は、かつて南部領九戸一揆鎮圧以来、日本国中は私戦が堅く禁止されていたにもかかわらず、このような騒動に及んだのは甚だ不届きであると激怒したという(『浅利軍記』)。慶長元年二月、浅野長吉は、豊臣秀吉家臣佐々正孝に対して、秋田氏浅利氏の紛争の停戦を命じるよう指示を出しており、この停戦命令によって浅利騒動の決着は、当事者間の実力による自力解決から、豊臣政権における政治の拠点伏見城に移されることになった。この伏見において、浅利騒動は次のような裁定が下された。
(1)実季は浅利頼平を再度家臣として召し抱えること。また、諸事について文禄二年に木村重茲が下した裁定のごとくせよとの秀吉の意志であるので、秋田方に寝返った浅利氏重臣三人(中野の片山弥伝・八木橋の浅利内膳・十二所の浅利七兵衛)を送還すること。

(2)浅利氏に賦課される軍役物成太閤蔵入地代官所支配も、一般の家臣並みとすること。

(3)頼平は比内に隠居。当面は浅利氏の子と家老秋田氏の城下へ詰めさせ、以後は一般の家臣同様に城下詰めとすること。

(4)浅利騒動が起こってから新たに築城した城を破却すること。

 この裁定によって浅利氏は、再び秋田氏家臣として再確認され、さらに軍役物成の一般家臣並みの上納、子息と家老の城下詰めを強制されることになり、独立化をうかがう浅利氏の動きは牽制される結果となったのである。
 裁定には浅野長吉前田利家が浅利方有利に働いていた。特に浅野長吉については、浅利氏はすでに前年に誓紙を提出して取次を依頼していたのである。また、前田利家については、天正十八年、利家が津軽検地終了後に秋田を通過した際に秋田氏一揆を仕掛けようとし、それに対し自らは加担しなかったと浅利氏は報告しており(秋田家文書)、これによって利家は秋田氏に憤激し浅利方に味方するようになったのである。浅野長吉前田利家は、豊臣政権内にあって分権派の中心であり、浅利氏は政権内の分権派の中心である有力大名浅野・前田氏を取次として、有利に裁定を運びその独立化を企てていたのである。
 これに対し、秋田方に付き、その擁護をしたのは佐々正孝長束正家であった。佐々正孝は秀吉の鷹匠頭(たかじょうがしら)であったが、文禄三年に秋田山からの淀船建造の用材廻漕長束正家とともにかかわっていた人物であり、正孝も事実上政権内では財政面を担当し、集権化を目指す吏僚派(りりょうは)グループに属していたと考えられるであろう。長束正家石田三成とともに集権派の中心人物であり、分権派の前田利家徳川家康らと激しく権力抗争を重ねていた。長束は、文禄三年・文禄四年・慶長元年の三年間、杉板運上にかかわる秀吉朱印状秋田実季へ取り次いでおり、秋田領からの伏見作事板徴収によって政権を強化するとともに、その軍役賦課によって大名秋田氏を中心とする「隣郡之衆」に対する支配を強化していた。
 秋田氏に対する擁護は、秋田氏を支えることによって杉板の円滑な徴収を実現するためであり、当時の取次とは政権を支えるためにこのような自分裁量に基づく大名間との交渉が秀吉によって公認されていたのである。秋田氏の側でもこの正家と交渉を持つことで秀吉からの朱印状獲得を行っていた。朱印状とは比内領を含む秋田山の領有権を保障するものであり、秋田氏はこの朱印状獲得に必死になっていたのである。実季は、文禄期から慶長初年にかけて秀吉に頻繁に呉服・白鳥を贈っているが、その取次を果たしたのは秀吉の右筆山中長俊(やまなかながとし)と長束正家であり、秋田氏はこれら秀吉の側近や奉行衆らを取次として秀吉からの領有権保障を得ていたのである。