高照神社の造営と「名君」信政像の創出

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生前、津軽信政は、幕府の神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり)に師事し、吉川流唯一神道(ゆいいつしんとう)の奥義を極め「高岡霊社(たかおかれいしゃ)」の神号を授けられたという。信政は、春日四神(津軽家がその流れをくむとされた藤原氏の氏神たち)を祀る小社のあった高岡(現中津軽郡岩木町百沢)の地を葬地と定めて、そこに自分の廟所(びょうしょ)を造るよう遺言した。信政の葬儀は菩提寺天台宗報恩寺で営まれ、神道による祭儀によって高岡に葬送された。

図97.津軽信政の墓

 五代藩主津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政の神号をとった高岡霊社(現高照神社)を造営した。一般には「高岡様」として崇敬の対象となり、祭日に藩士たちは拝礼を欠かさないといわれたほどである。藩では社領三〇〇石を付すとともに、諸役人を任命して、霊社を維持する体制をとっている。また、改元、吉凶事、重要な政策遂行の折には、重臣を使者に立てて一つ一つをそのつど報告しており、霊社は藩の精神的よりどころとしての機能を果たしていたといえよう。

図98.高照神社

 「棺を蓋(おお)うて事定まる」という。一般に津軽信政は、藩の「中興の英主」と見なされ、「名君」として語られることが多い。しかし、実際のところはどうであったのであろうか。
 『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』は、元禄時代初期の大名の「紳士録であり、評判記であり、また功課簿でもある」(金井圓校訂『江戸史料叢書 土芥寇讎記』一九六七年 人物往来社刊)と位置づけられている史料である。五代将軍徳川綱吉は諸大名に「仁政(じんせい)」を求め、大名領分への監察もその視点からなされることになった。その評価基準は儒教的・教訓的・道徳的であるといってよい。その評価基準に当てはめれば、津軽家、そして信政の性格や行跡は、綱吉の目指す「仁政」とはかけ離れたものととらえられたようである。
 すなわち、津軽家は、「家風俗不宜」とされ、遠国であることと、家老が「悪人」のため、浪人の再就職先として好まれていないとしている。また、信政個人の評価も、才気と知恵は優れているが、邪で欲深い人物ととらえられている。文武両道を好むことについても、見栄を張るため、はかりごとを専らとするためのものであるとし、「仁義ヲ学ブ似(ニセ)者也」と断じている。さらに、山鹿派の登用についても、家中を二分するものであると評し、まとめとして、「信政ハ、学者ニ似タル不学者也」と断じている。
 さらに、編者の意見を記したとみられる「謳歌評説(おうかひょうせつ)」の箇所においては、信政は「智ニ似タル愚ト云ベシ」とされている。また、家老新参者を取り立てたことも世上で批判があり、「家ニ人ナキト見ヘタリ」と評されているとしている。信政の弟で家老を勤める津軽政朝山鹿派の代表的存在である津軽政実は「トモニ悪人也」とされ、特に政朝が「奸曲邪智ノ小人」で、排除すべき者とされる。そして、「信政ト家老ハ君臣合体ノ悪人」であり、現状では家名は長く続かず、世間から誹謗(ひぼう)されるだけであるという。
 藩内にも信政が独裁的藩主権力を振るおうとする動きに反発する事件も起こった。たとえば、元禄二年(一六八九)、信政の異母弟津軽信章が出奔する事件が起こっている。信章一家は藩境を越えて秋田領に脱出したものの、結局佐竹家から津軽家に引き渡され、一家全員が城内二の丸東北隅の屋敷に幽閉された(信章は元禄十四年に死去し、また一家の者も同様に幽閉されたまま没している)。信章が出奔した理由には諸説あるものの、信政が権力を強化するにつれて一門層の中で拡大したそれに対する不満の一つの表れではないかと推測される(長谷川成一「津軽氏」『地方別日本の名族 一 東北編I』一九八九年 新人物往来社刊)。先にみた宝永期における一門・譜代層の中でまった不満も、同様の理由に根元を持つものであろう。
 手厳しい評価がある一方、信政が「名君」として語られるのは、藩主時代の治績によるものであろう。藩内においては新田開発が推進され、岩木川の治水、屏風山植林山林制度の整備、鉱山の開発養蚕織物の振興、木の植え付け奨励などその後の藩政に大きな影響を与えている。また幕府から課せられた寛文蝦夷蜂起への出兵などの軍役(ぐんやく)・大名課役(かやく)の遂行も、藩政の基盤固めの契機ともなっている。このような政策が、「名君」信政像築の原点といえよう。
 当時、津軽家に限らず、他の諸藩にも「名君」と呼ばれた人物が輩出している。たとえば、水戸藩主の徳川光圀(みつくに)、岡山藩主池田光政(みつまさ)、金沢藩主前田綱紀(つなのり)、会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)などである。信政も含めて、こういった人々に共通する点は、藩政の整備・確立、新田開発などによる農業生産の伸張、大名課役の遂行などにかかわる幕府との関係など、この当時大名領主が負わされた課題に取り組み、以後の藩政の流れを主導する役割を担ったことが挙げられよう(深谷克己『大系日本の歴史 九 士農工商の世』一九八八年 小学館刊)。
 家中内の不満・反発があったにもかかわらず、信政の名君像が形成されたのは、信政の政策が以後の藩政遂行の基盤となったこと、そして、藩によって祀られた信政の神格化に由来するものではないであろうか。