図186.文久3年大光寺組金屋村当戸数人別田畑共取調帳
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この面改めでは、領内の正確な人口把握のため詳細な基準を設け、一般的な人別帳にみられる田畑の所持面積や所属する家族形態・五軒組合・旦那寺(だんなでら)などのほか、職業や家族の構成員の領内外への移動の様子などを細かに申告させている。全領的な調査は、天明飢饉の後の寛政三年(一七九一)にも例はあるが、武士は除外されていた。これに対し文久三年時は武士人口も含んだ徹底したものであった。一般的に津軽領には宗門人別帳があまり残存しておらず、寛政の調査の帳簿も四八箱・一三〇〇冊余に及んだというが(『記類』下)、ほとんど残っていないのが現状である。しかし、文久の面改めは、時代が近いせいか、総括帳が弘前市立図書館蔵八木橋文庫に架蔵されているほか、個別の町村の帳簿もいくつか残り、当時の町村の構成を浮かび上がらせるほか、出稼ぎや通婚などにみる人の動きを伝える好史料となっている。
藩にとって一番の関心は、領民の出稼ぎの実態とともに、身分秩序の再確認であった。文久三年六月二十五日にこの面改めを実施したときの三奉行の指示がある(資料近世2No.一三九)。そこでは単なる人別の把握でなく、幕末の政情不安な情勢の中で、「下々の者の風儀が悪くなっているので、有事の際に対処できない」と風儀の悪化を嘆き、百姓が農業の名目で実際は商売をしたり、あるいは武士の子弟が町人地に家屋敷を買ったり借りたりして商売をするなどの、「人別はもちろん、職業や家業、田畑等に至るまで皆錯乱している」という、身分秩序の混乱を矯正しようとする目的が述べられている。したがって百姓・町人のみならず、寺社、家中の藩士なども対象となった大規模な調査となった。そこには村や町にどのような者が家を構え、どのような家業を行っているか、藩で把握し、もし不都合な場合があれば矯正させる意図があった。特に武士の商売は藩にとっても望ましいことでなく、隠居や子弟が「田屋所(たやしょ)」(農地の耕作・管理のために置いた施設)を見分するという名目で農村に引っ越したがるのは、農業のためでなく店を出したり小商売をするため、と喝破(かっぱ)している。百姓のみならず、武士層にも貨幣経済の浸透がみられ、内部から身分秩序を壊しつつあったことがうかがわれる。寛政十年(一七九八)の藩士の在宅制度廃止後も、次、三男を分家して百姓身分で農地を耕作させている例は見受けられるが(浅倉有子『北方史と近世社会』、中野渡一耕「『横山家文書』に見る藩士土着制度の一断面」『市史研究あおもり』2)、農業を行うことより、農業を名目として商売を営むことを問題視しているのである。
調査に当たっては、在方は代官所手代や庄屋など村役人、町は町役人、寺社は門前(もんぜん)庄屋が取りまとめることになっていた。在方に住んでいる武士はそのまま村役人が報告した。続く七月四日には、具体的に取り調べるための留意点を「面改取調方」名義で作成し、寺社奉行・九浦町奉行に冊子にして配布した(資料近世2No.一三九)。これによると、面改めの予備調査的な人別調査が既に前年の八月に行われていたことがわかる。
この条文の前文で、特に田畑を所持しないのに大勢の家族を養っている者など包み隠さず報告するよう指示するなど、やはり職業の実態の把握に主たる関心が寄せられている。また家中・在方・町方を問わず、他領からの奉公人の実態、出稼ぎや他領への移住の実態の把握も重要な要件であり、これらについて包み隠さず報告するように述べられている(第一条)。もっとも第八条では他領の者を勝手に借家等に住まわせるのは不埒(ふらち)であるが、許可するので出身地を吟味して正直に申告するようにと述べている。このように多少の違法性に目をつぶりながら、できるだけ実態に即した調査をしようという姿勢は、持船の調べでは名目上他領の船にしている場合(第四条)、屋敷の調べでは無届けの分家(第一三条)、さらに勝手に屋敷地や畑を潰して新居を建てた場合(第一四条)などにもみられ、通常なら処罰の対象になる事項もいったんは無視して調査を指示している。
また関心事の一つは、前述のとおり武士や修験・神職の商売行為の把握である(第一〇条)。面改めについてこのような連中が調査を嫌がり、隠れてしまうことがあるので、このようなことの起こらないよう村・町役に厳重に申し付けている(第一二条)。なお、生活に困窮した下級武士・足軽の妻女が、内職同様に青物(野菜類)を触れ売りして処分されている例が「国日記」にみえる(資料近世2No.一二四)。彼らへ仲買同様に青物を買い集め、売り渡していた足軽も同様に処分されている。しかし、この場合の処分は「慎」という軽微なものであることから、商売そのものは決して珍しい行為でなかったことが推測される。