開国と箱館警備

726 ~ 732 / 765ページ
嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ使節ペリー(一七九四~一八五八)が下田に、次いで七月にはロシア使節プチャーチンが長崎へと来航した。安政元年(一八五五)三月三日に神奈川(現神奈川県横浜市)において調印された日米和親条約では、第二条でアメリカ船に物資を供給するための港として、伊豆下田(現静岡県下田市)の即時開港と、箱館の翌年三月開港が規定された。この事態に備え、幕府は安政元年(一八五四)六月二六日、松前藩松前崇広(まつまえたかひろ)に対して、「箱館并同所より五六里四方之場所上知」を命じ(『続通信全覧 三一 類輯之部 一五』一九八六年 雄松堂出版刊)、再び幕府は蝦夷地の一部を直轄化したのである。そして同月晦日には、箱館奉行を置いて勘定吟味竹内保徳(やすのり)を任じ、七月には目付堀利煕をも任命した。これ以降展開されていく幕府による二度目の蝦夷地直轄の時期は、「後期幕領期」(「第二次幕領期」)と呼ばれる。
 さて、幕府領となった箱館近辺の警衛体制について当事者たちはどのように認識していたのであろうか。たとえば、安政元年閏七月十八日に箱館奉行竹内保徳幕府老中へ差し出した伺書(『大日本古文書 幕末外国関係文書』七 補遺之部)では、本格的な警衛体制が確立するまで、当分は松前家に従来どおりの「台場御固」などの警衛体制を続けさせるとともに、非常時には箱館奉行から津軽弘前・盛岡両藩に出兵が命じられるよう希望している。同年八月晦日に竹内に対して下された箱館支配に関する細目を定めた幕府老中下知状(げちじょう)(同前、下知状の日付は閏七月十五日付)によれば、異国船が不慮に着岸して不義を働くような事態が発生した場合、鎮圧に人数が必要ならば津軽弘前藩盛岡藩松前藩に人数を差し出させ、箱館勤番の人数に差し加えるようにすることが定められた。すなわち、幕府・箱館奉行は、非常時の箱館警備の軍事力を松前津軽弘前・盛岡三藩に依存しようとしたのである。
 すなわち、幕府は津軽弘前・盛岡両藩に対し、箱館表警衛はこれまでどおり松前家が担当するが、非常時には箱館奉行より通知がありしだい、警衛人数を差し出すよう命じたのである(「箱館表御固之儀御書付」弘図津)。
 さて、幕府とロシア使節プチャーチンとの対露条約交渉では、開港・貿易要求のみならず、北方地域、特にカラフトの領有権をめぐる領土確定問題が提起された。このことは、幕府にとって対ロ交渉の軍事衝突を危惧させた。開港に加え、再び北から襲ってきた外圧という大きな問題が幕府に蝦夷地の上知・再直轄を決断させたと考えられる(菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』一九九四年 朝日新聞社刊)。
 安政元年十二月、箱館奉行堀利煕は、老中に対して、蝦夷地上知実施の際の見込みについて上申した。その想のなかで、津軽弘前藩を含む奥羽諸藩に対して東西蝦夷地警衛勤番を命ずるよう主張し、(その割り当て案については表64参照)津軽弘前藩には西蝦夷地への「援兵」の派を割り当てていた。これら奥羽大名の警衛は、蝦夷地に定住する者が増え、兵員・物資等を運搬する「大艦」ができるまでのものとされた(「蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」『新撰北海道史』五 一九三八年)。いずれにしろ、箱館奉行、そしてその案を認めた幕府も、蝦夷地の大半を幕領化、従来警衛の任に当たってきた津軽・南部内家を含む奥羽大名に警衛の軍事力を負担させる考えだったのである。
表64 堀利煕蝦夷地警衛想(安政元年)
警衛担当大名佐竹義睦(秋田藩)伊達慶邦(仙台藩)上杉斉憲(米沢藩)
松前崇広(松前藩)
援兵担当大名津軽順承(弘前藩)南部利剛(盛岡藩)
元陣屋マシケユウフツ
出張陣屋石狩
ソウヤ
ネモロ
エトロフ
クナシリ
注)蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」により作成。

 安政二年二月二十二日、松前地を除く蝦夷地全土の上知が松前家に命じられた(同前)。津軽家の、箱館の警衛体制は追っての沙汰があるまでこれまでどおりとされた(「松前東西蝦夷地御用ニ付松前伊豆守上知之旨御書付」弘図津)。二月二十四日には箱館奉行に対して、上知となった東西蝦夷地一円の警衛について、指揮権を委任するという通達があった。東西蝦夷地の警衛も、諸藩の警衛は箱館奉行の指揮下に置かれることになったのである(前掲「蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」)。そして、三月十四日、蝦夷地の警衛は、従来の松前・盛岡・津軽弘前三藩のほかに、仙台・秋田両藩が加わって担当することになった。

図206.東西蝦夷地上知被仰出向後警衛向御書付
目録を見る 精細画像で見る

 この結果、奥羽諸藩は、勤番人数を蝦夷地に派して警衛に当たることとなったのである。また、同時に達せられた警衛の詳細に関する達書では、箱館警衛のために急ぎ「一手之人数」を渡海させること、また陣屋の建設を急ぎ、完成しだい残りの人数を渡海させることなどが命じられている(「箱館表・松前地蝦夷地警衛向之儀口達之覚」弘図津)。この幕府の通達を受けて、津軽弘前藩では、文政期以来、万一の際の蝦夷地渡海準備人数の任務を与えていた三厩勤番人数を渡海させた。(『記類』下)。
 一方、四月十四日、江戸詰の箱館奉行から、津軽弘前藩江戸留守居役に対して、箱館表並びに江差在乙部(おとべ)村から西蝦夷地ヲカムイ岬(神威(かむい)崎、現北海道積丹郡積丹町)までが警衛の持ち場として申し渡されるとともに、勤番兵員の基地である陣屋は、元陣屋箱館千代ヶ台(現函館市千代台(ちよがだい))、出張陣屋を西蝦夷地スッツ(現北海道寿都郡寿都町)に置くこととされた。なお、公式に幕府に届けた蝦夷地への派兵人数は、箱館詰が二〇〇人、スッツ詰が一〇〇人の三〇〇人であったが、実際には、箱館に二〇六人、スッツに一一〇人が派された(「箱館詰并スツヽ詰人数書上」国史津)。
 千代ヶ台の元陣屋は、この年十月に落成した。東西九五間(一間は約一・八二メートル)・南北一〇三間、郭内は東西七二間・南北八〇間、坪数は五万三七一五坪(一坪は約三・三平方メートル)、建坪面積は九七八五坪、周に土居と空を巡らした造で(『記類』下)、亀田川に面した海岸段丘の先端の台地にあった。現在、陣屋のあった場所は千代台公園となっている。

図207.松前箱館千代ヶ台ニ御陣屋造営之図
目録を見る 精細画像で見る

 ここに詰めた勤番人数の役割は、開港地箱館表の警衛であり、またスッツ出張陣屋に派兵された人数には、西蝦夷地惣体の「援兵」としての任務もあった。
 今回警衛・勤番を担うことになった諸藩の警衛担当区域をみてみると、前年末の堀利煕の上申と大きく異なり、箱館表警衛担当が想定された米沢藩が除かれ、五藩によって蝦夷地各所の警衛分担がなされている。これらの諸藩は、前期幕領期(第一次幕領期)に勤番や臨時出兵の実績があり、いわば蝦夷地体験のあったことが共通点として挙げられる。
表65 蝦夷地警衛持ち場割り当て(安政2年)
警衛担当区域元陣屋出張陣屋
仙台藩東蝦夷地シラヲイからシレトコまで
エトロフ・クナシリ両島
ユウフツネモロ
エトロフ
クナシリ
秋田藩西蝦夷地ヲカムイ岬から北海岸通シフトコまで
北蝦夷地、そのほかの島々
マシケソウヤ
津 軽
弘前藩
箱館
江差在乙部村から西蝦夷地ヲカムイ岬まで
箱館千代ヶ台スッツ
盛岡藩箱館
エサン岬から東蝦夷地ホロヘツまで
箱館水元東蝦夷地エトモ
松前藩有川村から木古内まで有川村
注)『大日本古文書 幕末外国関係文書』10により作成。


図208.安政2年時点の警衛区域図