第二次藩政改革

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このような旧体制を温存させていた弘前藩を、新政府が傍観しているわけはなく、続く第二の改変は明治二年(一八六九)十月に求められた。新政府は明治元年七月に岩代(いわしろ)国白石(しろいし)に陸磐城両羽按察使府(さんりくいわきりょううあんさつしふ)を設置して新政府の出先機関とし、中央集権化のために民政取り締まりや藩政改革促進を実施させていたが、按察使府長官坊城俊章(ぼうじょうとしあき)が二年十月七日に来弘したのである。坊城は弘前に来る前に巡察官から藩治状況に問題ありと報告を受けており、到着とともに藩首脳に改革促進を督促し、それを受けて同十日には公正至大の朝意を体し、人材登の道を開くべしとして、上士三等以上の藩士による投票で新藩庁職員の改選を断行した。
 開票の結果は表22のとおりであるが、大参事から権少参事まで選出された者は前後の経歴をみればわかるように、いずれも藩庁の中枢部を占めていた門閥層であり、戊辰戦争も彼らの主導で乗り切った。この人事は坊城の立ち会いのもとで行われたものであるから、彼らの存立基盤はより強固に確認されたといえるが、同時に大きな問題を発生させた。それはこの公選の結果、元家老津軽済(図書(ずしょ))が落選し、非常な不満が噴出したことである。津軽済は明治元年に家老に就任した人物であり、他の旧家老と比べれば経歴が浅く、藩治職制の定める定員の関係から落選したと思われる。彼自身は表立った反意を表明したわけではないが、津軽家一門の者が無役に落ちたという事実は、大参事西館融(にしだてとおる)・山中泰靖(たいせい)(逸郎(いつろう))らに反対する勢力に直接利された。
表22.藩庁人員一覧(表中のMは明治の意)
明治2年5月時(役職・禄高役料等)

西館融(800石)
山中泰靖(500石外300石)
杉山龍江(1000石)
大道寺繁禎(1000石)
津軽済(900石)



津軽平八郎(御手廻組頭・500石)
山野茂樹(同上格用人兼・300石)
山田誠(御手廻組頭・500石)
佐藤源太左衛門(御馬廻組頭・300石)
戸田清左衛門(同上・300石)
沢与左衛門(同上・300石)
高倉六郎次郎(同上・800石)
白取務(同上・300石)
木村千別(御馬廻組用人兼・300石)
森岡金吾(御馬廻組用人兼・600石)
楠美太素(御馬廻組頭格・200石外100石)
山崎主計(御留守居組頭・140石外160石)
加藤武彦(御留守居組頭格・200石外100石)



西館孤清(用人・100石外200石)
桜庭太次馬(用人手伝・10両4人扶持外240石)
神盛苗(用人手伝・150石外150石)
都谷森逸眠(勘定奉行用人手伝・200俵)
小山巴(同上・100石外200石)
工藤嘉左衛門(同上・150石外150石)
岩淵惟一(同上・150石外150石)
佐藤清衛(同上・200俵)
対馬幸吉(同上・100石外50俵)
三橋左十郎(御側御用人・250石外50石)
明治2年6月12日時(同)

西館融(800俵外100俵)
山中泰靖(500俵外200俵)
杉山龍江(1000俵)
大道寺繁禎(1000俵)
津軽済(900俵外100俵)

山野茂樹(300俵外50俵)
山田誠(500俵)
楠美太素(200俵外150俵)
西館孤清(100俵外200俵)
三橋左十郎(250俵外100俵)



神盛苗(150俵外100俵)
都谷森逸眠(100俵)
小山巴(100俵外100俵)
岩淵惟一(100俵)
佐藤清衛(100俵外100俵)
桜庭太次馬(62俵1斗外100俵)
工藤嘉左衛門(150俵外100俵)




津軽平八郎(隊長・500俵)
佐藤源太左衛門(同上・300俵)
戸田清左衛門(同上・300俵)
沢与左衛門(同上・300俵)
高倉六郎次郎(同上・800俵)
木村千別(同上・400俵)
森岡金吾(同上・600俵)
山崎主計(文武知局事次席・140俵)
加藤武彦(軍務知局事・200俵外100俵)


織田虎五郎(会計司・100俵外30俵)
対馬幸吉(会計司・100俵外70俵)
大道寺繁禎(公議人執政兼)
北原将五郎(公用人文武司務上席兼)
一町田大江(公用人会計司兼・200俵)
樋口小三郎(公用人市政司兼・80俵3斗4升外70俵)
赤石礼次郎(公用人四等銃隊司令士次席・100俵)
明治2年10月10日時(同)


西館融(400俵外400俵)
山中泰靖(400俵外400俵)



杉山龍江(400俵外250俵)
大道寺繁禎(400俵外350俵)
西館孤清(100俵外650俵)


山野茂樹(200俵外250俵)
楠美太素(200俵外250俵)
岩淵惟一(150俵外200俵)
佐藤清衛(100俵外350俵)



桜庭太次馬(62俵1斗外337俵3斗)
神盛苗(150俵外250俵)
都谷森逸眠(100俵外300俵)
小山巴(100俵外300俵)


津軽済(参政役免→M3.6.18無役入)
三橋左十郎(参政役免→M3.6.18権少参事)
木村千別(隊長→M3.3.20権大参事助勤)
山田誠(文武局長→M3.5.17会議局局長)
工藤嘉左衛門(参政役免→M2.10.7家令)
加藤武彦(軍監→M3.7.3権少参事)
津軽平八郎(隊長→M2.10.13無役入)
佐藤源太左衛門(隊長→M3.6.18無役入)
戸田清左衛門(軍監→M3.6.18無役入)
沢与左衛門(隊長→M3.6.18無役入)
高倉六郎次郎(隊長→M3.6.18無役入)
白取務(隊長→M3.6.18無役入)
森岡金吾(隊長→M3.6.18無役入)
山崎主計(会議所副長次席→M3.7.8無役入)
明治3年12月時(同)廃藩後の動向


西館融(200俵)M4.9免官,後に家令
山中泰靖(150俵)M4.8免官,隠棲後M21年没



杉山龍江(350俵)M5.7県権典事
M10年後各地郡長歴任
大道寺繁禎(200俵)M4.9免官
郡長歴任後M12年県会議員
西館孤清(330俵)M6家令


山野茂樹(100俵)M4.9免官
養蚕・りんご事業に参画
岩淵惟一(80俵)M5.1県大属
後三重・愛知属官
佐藤清衛(90俵)M5.1県大属
神盛苗(130俵)M7年家令
木村千別(220俵)M4年兵部省七等出仕
東北第一分営地方司令官



桜庭太次馬(100俵)M6.12家令
都谷森逸眠(180俵)M4.11免官
加藤武彦(160俵)M4.9兵部省七等出仕
M5年隠棲
三橋左十郎(100俵)M5年旧県事務取扱
養蚕事業



小山巴(80俵)M8年没
一町田大江(80俵)各地郡長歴任
後弘前中学校初代校長
織田虎五郎(80俵)M4.9授産開墾施行専務
北原将五郎(80俵)M4.10県11等出仕
M8.10第五大区長
楠美和民(80俵)M6.9県権少属
赤石礼次郎(80俵)M13年県会議員
M24年弘前市長
飯田巽(60俵)M5年大蔵省出納寮14等出仕
岩田平吉(60俵)M4年兵部省出仕
M9年辞職
長谷川弥六(60俵)M4.9県13等准格歩砲兵調方
芹川甚次郎(70俵)M4.11県12等出仕
M6年第四大区長
今栄六(35俵)M6.4開拓使権中主典
長尾又右衛門(30俵)M4年旧藩財務調方
長谷川良八(30俵)M13年県会議員
葛西才助(40俵)M4.11免官
大道寺源之進(110俵)M4.9免官
松野茂右衛門(80俵)不明
樋口小三郎(60俵)M4.11県11等出仕
喜多村弥平治(80俵)M4.9免官,以後無職
神源治(80俵)不明
海老名孝吉(30俵)不明
安藤友作(家禄不明)不明
梶真雄(40俵)M7.8第15中学区取締
笹権六郎(110俵)不明
横嶋彦八(80俵)M4.9免官
注)分限元帳(嘉永4年改)」「分限元帳(明治2年改)」(いずれも弘図津)より作成。

 すでに前項で述べたように、この対立は安政年間からの政権闘争に根ざしていたが、戊辰戦争時でも奥羽列藩同盟の帰属問題など、事あるごとに表面化していた(幕末の政情については本章第一節を参照)。特に反首脳部の急先鋒であったのは元用人で長い間無役の冷遇を受けていた山田登で、彼は旧御馬廻組津軽平八郎や旧御留守居組頭山崎清良(せいりょう)らとともに、この選挙が無効であるとの声を高めていった。
 さらに、首脳選挙が実施された翌十一月に、藩は再び藩知事承昭(つぐあきら)の自筆書と執政の口達を出し、家禄四〇〇俵以上の者の一割削減と新たな藩庁組織制定を布達した(資料近世2No.五七八)。藩庁議定堂文武局民事局会計局陸軍東西浦(ほ)からなり、六月の組織と比較すれば、文武局から陸軍という軍事部局が独立し、以前は会計局で管轄していた青森鰺ヶ沢深浦十三湊管理などの運輸通商部門が東西浦に昇格したことになる。加えて、この組織改編で特筆すべきは「奥職制一列」が定められ、奥向が廃止されて藩主家の家計が完全に藩庁組織と分離されたことにある。藩治職制の規定では藩主の家計に回せる費は藩歳入の一〇分の一と定められ、従来のように藩主の贅沢(ぜいたく)な私生活が藩財政を圧迫するといった心配はなくなった。ただ、この当時、藩主家が歳入の一割も使える例は極めて稀であり、この規定は窮乏化する藩主家にとってはかえって幸いな結果となった。
 こうして第二次藩政改革は進んでいったが、同年は冷夏が災いして損耗率平均約七四パーセントという凶作に陥っており、藩士たちの家計は非常に苦しくなっていた。そこに改革によって家禄削減がより進んだことは、ますます彼らの不満を高じさせ、反首脳勢力の主張が強くなっていたのである。