文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその中に取り込んでいった。寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は大浦城下賀田(よした)から、安盛寺(あんせいじ)は深浦から移転させた。また、為信は実父守信の菩提寺として耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺(そうとくじ))、そのほか、最勝院(さいしょういん)、西福寺(さいふくじ)を創建している。慶長七年(一六〇二)の為信の棟札(同前No.一五一)が現存する弘前神明宮は、初め堀越城内に創建、のち、弘前城内へ移転されたものとみられる。別に城内に祀った稲荷宮が、現在堀越にある稲荷宮であり、この地の熊野宮は為信の再興したものという(資料近世2No.四一二)。
図188.神明宮棟札
天正十四年(一五八六)に為信は深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社、南津軽郡尾上町)へ参拝し、別当神宮寺(じんぐうじ)の所領を安堵し、祈願所としたが、翌十五年には領主の命に別当が従わないのは反乱に結びつくとして、それまでの天台宗を真言宗に変えてその勢力を抑えた(「津軽一統志」、「記類」)。慶長六年(一六〇一)には、領民の信仰を集める岩木山三所大権現の別当百沢寺下居宮(ひゃくたくじおりいのみや)(現岩木山(いわきやま)神社)を再建して寺領四〇〇石を寄進し、同九年には百沢寺大堂を再建した(資料近世1No.九六・一七一)。
為信は慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の戦いに出陣したが、このころは南部氏との抗争も影をひそめ、津軽地方を確実に配下に収めた。このような状況の中で、翌六年には堀越城の西の清水森に横七間、縦一五間の仮の仏殿を建て、中央に須弥壇(しゅみだん)を設けて大乗経典千部転読の法会を行わせた。敵味方を問わず、これまでの戦いで戦死した者の名前を記し、一三〇人余の僧侶に供養させた(「津軽一統志」)。
このように、為信は統一に当たって寺院勢力を利用して敵を攻略し、古くからこの地方の信仰を集めていた旧勢力でもある深沙宮・百沢寺を再建して懐柔し、敵味方の戦死者の法要を行うことで領民を支配に取り込もうとした。