安永期の蔵米化

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宝暦八年(一七五八)に、乳井貢は失脚し、宝暦改革も頓挫するが、藩の財政はその後も度重なる洪水地震などの災害もあり、好転することはなかった。同年には知行の三分の一を三ヵ年借り上げし(「秘苑」ほか)、和五年(一七六八)には知行の半知借り上げが行われた(資料近世2No.三八)。しかし藩士の生活への配慮からか、当面一〇〇石につき二〇俵(八石に相当)の手当が与えられている。
 その一方で、宝暦改革でとられた在方の再掌握策は継続され、地方知行制においても一定の再編成がみられる。宝暦八年(一七五八)には全藩的な田畑調査を行い、田畑や樋・橋の場所を記載した「元帳」や百姓に渡す「小帳」が作成された(『平山日記』)。これら帳簿類には貞享の検地以後の移動の状況が記された。これを受けて宝暦十年(一七六〇)には百姓や作人の持の異動を訂正するなどして新しい知行帳四三八冊を改めて作成し、各藩士に交付している。そして、翌年には元文年間に検地を終えた新田地方の村々を新たに知行地として組み入れるなどの処置が行われた。

図133.宝暦10年の知行帳

 そして、安永三年(一七七四)に至り、再び全藩士蔵米化が実施される。「藤田権左衛門家記」によると同年七月二十八日、お目見え以上の藩士の登城命令が下り、家老・御用人が列座する中で藩主名で「御家中御蔵入四ツ物成」の処置が申し渡されたという(資料近世2No.三九・四〇)。これは基本的に年貢率を四ツ物成(四割)として、知行一〇〇石につき米一〇〇俵(四〇石に相当)の支給とするものである。ただし豊凶により検見が行われた。それ以前の地方知行制のもとでは六ツ物成であったから、かなりの減収である。従来から俵子取だった者は知行取に準じて四ツ物成となり、金給で受け取っていた者も米に計算し直されて実施された。また、江戸詰の藩士江戸までの輸送料が差し引かれ、三ツ半物成であった。寺社領に関しては宝暦五年の際と異なり、従前どおりの知行渡しとされた。
 ここでいうたとえば知行一〇〇俵というのは、いわば年俸であるが、年三回の分割支給であった。すなわち年貢が収納された後の十月と十一月にそれぞれ二五俵ずつ支給、残り五〇俵は現米ではなく、十二月に米切手という手形で渡し、「切手紙蔵」で「御蔵奉行」から切手を現米に交換して受領するという方法がとられた。米を藩士が引き出すまでの間、藩による運用をねらったものであろう。さらに安永七年(一七七八)からは知行米は月割りに変更された。ただし「仕送」(借金等の返済か)があるもの、役替などで金を使う者に関しては「皆渡(みなわたし)」も許可された。
 蔵米化は直接的には藩士財政藩財政に組み込むことによって、藩が自由に運用できる部分を増やし、財政難に対処しようとしたものである。もっとも藩側の論理では、貞享検地から既に九〇年以上が経って減石が目立ち、このままでは勤務に差し支えるとして、蔵米制にすることがかえって困窮する藩士層を救うことになるのだと強調している(資料近世2No.三九)。さらに元禄時に藩士が大量解雇された前例があることから、藩士が不安を抱くことを解消するべく、不服がある者は遠慮なく申し出て欲しいと述べている。ただし、おぼつかない申し出をした者はきつく吟味をする、と最後に言い添えているように、基本的には藩士の意向とは関係なく強行されたようである。

図134.御家中知行御蔵入四ツ成渡被仰付候ニ付江戸上方家中渡方共右御用一件調帳
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