さて、右の課題を解決するため、家老津軽主水、用人毛内有右衛門、勘定奉行乳井市郎左衛門(後に貢)、目付兼平理左衛門らを人的支柱とした津軽弘前藩宝暦改革が、宝暦三年(一七五三)八月から始まった。中でもその中心は勘定奉行乳井であった。乳井の勘定奉行就任は同年一月十一日であり、乳井の就任によって勘定所の吟味が万事改まった(「徧覧日記」宝暦三年一月十一日条)とあることから、勘定所においては既に改革に向けて動き出していたといえよう。
①御調方役所(おしらべかたやくしょ)の新設 まず実施されたのが、行政組織の再編成であった。いわゆる機構改革であり、役所の無駄を省きながら、改革推進のための中心的な役割を果たす役所・組織を新設した。役所名は御調方役所で、勘定所に続く所に一〇坪ほどで建てられた。仕事内容は「勘定所惣調方御用」であり、勘定奉行佐藤伝左衛門に惣調方を命じ、同役の乳井に手伝いを申し付けている。最高責任者の「惣司(そうじ)」は用人の毛内有右衛門が就任した。宝暦三年(一七五三)八月から九月にかけて組織された(資料近世1No.八九六)。
さて、惣調方御用の内容であるが、それは勘定所がこれまで扱ってきた藩財政にかかわるすべてについての調査であり、家中すべての役知・役料・勤料をはじめ、家中借米高、過去二〇年間の御金蔵の勘定などの調査提出を諸役所に命じている(資料近世1No.八九六・八九七)。田畑の収納高調査については、同四年一月二十七日に反別帳・貞享検地帳・取ケ帳などの回収指示が出され、また同年閏二月には田畑調べ方が命じられている。財政収支の把握の上で、組織の再編成や今後の対応を練ろうとした意図がうかがえる。
それでは、この勘定所惣調方御用実施の理由はどのようなものであったのだろうか。「国日記」宝暦三年八月十五日条によれば次のようにある(同前No.八九五)。これまで勘定方の仕事は「累年混雑」しており、「御増減并御省略」についてどれほど命じても、紙の上だけの名目のみで実効はなく、また取り締まり方も行き届かず、現在のような財政難に陥っている。そこで、一度倹約の実を立てることが必要であり、それによって長期にわたる財政策の取り締まりや掌握を行うために、このような惣調べを実施するというのである。したがって、勘定所をはじめ諸役所に様々な提出を求めていくことから、役所は勘定所の中に置くのではなく、別に設置することとなった。これが「御調方役所」である。御調方役所は勘定所はもちろん、他の役所の内容にまで踏み込んだ調査を行っていくわけであり、御用係以外の御調方役所への出入りを禁じ、調査は極めて内々の御用として進められていくこととなった。
この動きは速やかであった。同年十月二十七日には、勘定所役人の勤務の在り方について、その怠慢さを指摘するとともに無駄を省いた。また、普請方・山方・植木方・十歩一流木払方の役所を山方に統合したり、地方(じかた)・知行方(ちぎょうがた)・借米方(しゃくまいがた)の役所を地方に統合して、効率的な組織改革に取り組んでいる(同前No.八九八)。さらに、同年十二月二十七日、翌四年から実施するとして、主に勘定所の職務内容の統廃合に関して一八ヵ条を発表し、細分化されていた役職を統合しながら、御調方役所に権限を集中していった(同前No.九〇〇)。米方役所・飼料役所の引き取り、貸方役所・山方役所・作事方役所は御調方役所扱い、内分金蔵(ないぶんきんぞう)事務は上納方金蔵事務扱い、紙御蔵・三御馬屋(さんおうまや)の仕入れは商人に一任、米蔵勘定をはじめ金銀米銭の諸扱いは御調方役所を通して実施、蔵方と切米方の統合、などである。なお、上納方金蔵事務は、同六年六月十八日に引き取りとなり、御調方役人の差配(さはい)(とりさばき)となっている(同前No.九三二)。
②乳井貢(にゅういみつぎ)への権力集中 宝暦五年の大飢饉は藩政の動向に大きな影響を与え、改革路線は後述するように、「通帳(かよいちょう)(標符(ひょうふ))」の発行を中心とした政策に移っていくが、その実現を可能にしたのが、乳井貢への権力の集中であった。宝暦飢饉における乳井の功績がその背景にあったことも見逃せない。
宝暦五年(一七五五)十二月二十三日、江戸において調方勘定奉行の乳井は「元司職(もとししょく)」を命じられ、財政の最高責任者となった。次いで翌六年七月一日、藩主信寧(のぶやす)から「貢」の名を拝領、同年十月十一日には用人次順の格式であった元司職から「無格(むかく)」の元司職となった。藩制の役職の枠にとらわれない、役職体系の外に自らをおいて、独占的な権力を掌握したのである。「標符」発行は、「無格」となる一ヵ月前の九月十五日であった。
貢への権力集中はそのまま「元司職」への諸権限の集中につながった。同六年六月十五日には御用達(ごようたし)商人を運送役(うんそうやく)と改め、町年寄の一段上に格付けした上で元司支配とし(同前No.九三一)、また同十八日には代官と大庄屋を郡奉行支配からはずして元司直支配とし(資料近世1No.九三二)、政策遂行に向けて権限の集中を図っている。
さて、右に述べたような、御調方役所の設置による行政組織の再編成と、元司職乳井貢への権限集中による強力な政策推進体制の構築によって、宝暦改革の諸政策が推進されていくことになる。以下、綱紀粛正・倹約奨励、経済政策、農村政策、寺社政策についてみていくことにする。