[現代訳]

二十四拝順拝図会巻之五
   
信濃国
 越後から信濃へ至る時に、関川と野尻との間に国境の川がある。
 右の方に黒姫・飯綱・戸隠山の山々がそびえているのが見える。
  
 戸隠山は越後と隣り合っていて、黒姫山と並んでいる。まつっている神は手力雄命(たぢからおのみこと)である。天照大神が天の岩屋に籠られた時、暗黒の世界となってしまったので、神々は岩戸の前に集まって神楽を奏し、常夜(とこよ)の長鳴き鶏(どり)を鳴かせたので、天照大神は岩戸を細く開けられて、その神楽をご覧になったので、前もって戸の脇に隠れておられた手力雄の神が、岩戸を取って空に投げられ、天照大神のお手を取ってお引き出し申し上げた。その投げられた岩戸がこの山に落ちとどまったという。そのためここを戸隠山と言うのだという。この山の山頂に洞穴がある。その中に九頭竜権現がいらして、この山を守護しておられる。
 願い事をする者は、洞窟の中へ梨の実を捧げると、たちまち霊験があって、祈願したことはすべてかなうと言い伝えている。ことに口中の病気や歯の痛みに苦しむ者は、遠い国を隔てていても、一生涯梨を食べずに、この戸隠山九頭竜権現に祈念すると、霊験がないということがない。まことに不思議な神様である。
  
 野尻の里に湖水がある。その水は越後の国へ流れ出て、今町(上越市直江津)の浜辺で海に入る。この川を関川という。この湖水も当国の諏訪湖と同じように、氷の張ったその上を、馬も車も楽々と往来する。諏訪の湖は寒中に凍るが、この湖水はそれとは違って、厳寒の時期は水が荒れ波が高くて氷が張らず、早春になってはじめて凍る。湖の中に島があり、弁才天をまつっている。
   
戸隠山
 戸隠山参詣するには、南面より入山し、大門・仁王門を過ぎると、奇石怪岩は苔むして、松や杉の大樹が左右に生い繁り、日の光も漏れてこない。その間の道の傍に人家あって、どの家も板で屋根を覆っている。戸隠山の北面は、真夏でもなお雪が深く、きこりもたやすく登ることができない。この山の北に険しい山があって、阿弥陀が峯(高妻山)という。山中はすべて栂(とが・つが)の大木が繁茂している。
 親鸞聖人はここに登山され、中の院(中社)の行照坊(行勝院)にしばらく滞在され、三尊の阿弥陀仏を感得して、筆を執ってその尊影を写された。今もなお戸隠山の宝物となっている。
 また聖人は、戸隠山からおぼろ月が上ったのをご覧になって、お詠みになったお歌がある。
 戸隠の杉間に月のうつらふは心の玉をみがけとぞ思ふ
 
 妙高山は野尻より西の方の、越後の国境にある高山である。北国のならいとして、積雪で真白であるが、2月(旧暦)の雪解けの時期には、山の字が現れるのを、往来する旅人は眺めて、特別に関心を持つ。
  
月原山明専寺 東派 水内郡柏原(信濃町柏原)にある。
 本尊阿弥陀如来 高さ2尺8寸で、源信和尚の作である。
 本堂9間四方。
 この寺はその昔、三州賀茂郡月原という所にあって、天台宗だったが、親鸞聖人が関東から都に帰られる途中、三河国矢矧(やはぎ)の宿柳堂で教え導かれた時、聖人に帰依し、教えに感激して宗旨を改め、真宗の寺院となった。その後、お弟子の真仏上人もここに来て教え導かれた古寺である。親鸞聖人は九字の名号を3幅お書きになり、1幅はこの明専寺に与え、1幅は現地の五郎大夫に下さり、1幅は播州魚橋安楽寺にお授けになったという。
 当寺はその後、真宗の念仏の道場として続いていたが、天正年間に織田信長公が石山本願寺を攻めて合戦になり、顕如上人が大坂で籠城された時、三河には真宗の門徒が大勢いるので、国主が信長公に気を遣って、真宗を禁止されたことがあった。しかし志の堅固な者は、国主の命令に背いて改宗しなかった。そのために了西禅門などは首をはねられた。その時明専寺とその五郎大夫は、国内退去を申し渡されたため、当国にやって来て、初めは普光寺村(飯綱町)に閑居し、後にまた現在地に移住し、寺を存続させたという。
 霊宝九字名号、十字の名号(親鸞聖人のご真筆)、六字名号(蓮如上人筆)、その他数点は省略する。
   
枕石山願法寺
 水内郡新井村(飯綱町古町)にある。
 本尊阿弥陀如来善光寺分身の如来。聖徳太子の感得である。)
 親鸞聖人枕石御本尊(御首はご自作で、尊体は如信上人の御作である。
 その他の宝物は省略する。
  
 柏原から1里余、新井から2里、平手村(正しくは平出村。飯綱町)という里に、藤兵衛という在家がいる。これは三河の住人の五郎大夫の子孫で、明専寺と同時に信州にやって来て、現在地に住んだ。聖人ご真筆の九字名号を伝えていて、安置している。
  
 この辺りの吉田(長野市吉田)という所に、覚如上人のお弟子、善教坊の旧跡である善教寺という寺がある。
   
善光寺
 天台宗。院坊。
 本堂(高さ10丈の二重作り、間口15間、奥行き29間3尺、柱数136本)四方四門の号、東は定額山善光寺、西は不捨山浄土寺、南は南命山無量寿寺、北は北空山雲上寺という。南の正面は破風造りで、他の堂舎とは異なっている。
 内陣は真中を区切り、左の間に善光・善佐・弥生前の像を安置し、右の間の御戸帳(みとちょう)の内部にご本尊が鎮座していらっしゃる。これもまた、他の堂塔に本尊を安置するやり方とは違っている。その昔の、善光の家に倣った堂構えだという。また如来が善光にお告げをして、私とお前と一緒に住もうとお示しになったことがあったため、内陣の左右に安置しているという。
 山門(高さ6丈6尺7分、間口11間1尺3寸、奥行き4間2尺4寸)
 二王門(高さ3丈9尺2寸、間口6間4尺6寸、奥行き4間1尺2寸)
 経蔵(高さ4丈6寸2分、6間3尺2分四方)
 本尊は一光三尊閻浮檀金正身阿弥陀如来である。この如来が日夲へお渡りになったのは、人皇30代欽明天皇13年壬申10月13日。本堂の建立は、人皇36代皇極天皇の勅願である。開基は本多善光朝臣である。
   
 (善光寺縁起
 釈尊が東天竺毘舎利城において布教しておられた時、月蓋長者が釈尊の教えに従って西方阿弥陀仏に祈念したところ、たちまち長者の西の楼門に本物の阿弥陀如来が出現された。その時釈尊は目連尊者に命じて、竜宮城から閻浮檀金を取り寄せられ、高台に載せて阿弥陀如来の前に置かれた。如来が金色の光を放ってその黄金を照されると、黄金はそのまま一光三尊の仏体となり、極楽から出現された三尊と左右に立ち並び、どちらがどちらと見分けがつかないほどであった。しばらくして一仏が、他の一仏に声をかけられた。「そなたはこの世に留まって、来世の衆生を済度せよ」と言って、光明とともに西の空へ飛び去られた。残りの一仏は月蓋長者の家に留まり、様々な不思議なご利益を施された。月蓋代々生まれ変わってこの尊像を崇敬していたが、願を立てて転生し、百済の聖明大王に生まれた時、如来も同じく百済国に飛んで来て、大極殿にお入りになった。聖明王はこれを深く信仰してお仕えし、生まれ変わっても崇敬していたが、如来の不思議な考えで、聖明王の後身は日本の信濃国に生まれ、伊奈郡麻績の里の本田善光と名乗った。この如来は善光と深い縁を結んでおられたので、人皇30代欽明天皇の御代に日本にお渡りになった。天皇は深く尊崇されて、曽我(蘇我)大臣に命じて豊浦(とゆら)の里の向原寺に安置されたが、守屋大連は悪逆非道で、向原寺を焼き亡ぼし、如来を豊浦難波の淵に沈めてしまった。その後人皇24代推古天皇の御代、大和国豊浦の宮を警固するため、信州の本田善光が赴任した。3年の任期が終わって本国へ帰る時に、その難波の池の辺りを通りかかると、如来がたちまち水底より飛び出し、善光の背中に移って、「おまえの前身は、天竺では月蓋、百済では聖明王であった。私は阿弥陀三尊で、おまえと深い縁があるので、日本に来て、長年おまえを待っていたのだ。早くおまえの本国に行って、来世の衆生を済度したい」と、明快にお示しになった。善光は歓喜の涙にむせび、そのまま本国信濃にお連れして、妻弥生・息子善佐とともに大切におまつりして信仰した。その後、人皇36代皇極天皇が崩御されて、地獄に落ちそうになった時に、如来がそれをお救いになったことがあった。これにより天皇は深く恩を感じられ、勅命を下して大伽藍を建立し、本物の阿弥陀如来の仏像を安置されたという。(詳しいことは如来伝記に書いてある。そのほか境内の諸堂は絵の通り。)
   
 親鸞聖人はこの霊場に度々参詣された。中でも元仁2年(1225)聖人53歳の4月19日、このご本尊、一光三尊の真仏の分身仏を感得された。これが野州高田山専修寺の尊像、天拝の如来である。その縁起は高田山専修寺の所に書いてある通りである。
 
親鸞松
 本堂右の間、内陣の本堂前の総戸帳の前の結界の内に、大机があり、その上の大きな花瓶に松を一本立ててある。
 伝えられていることによると、親鸞聖人は当寺へご参詣になり、塔頭の僧坊願証院(堂照坊)に逗留されている間、日毎日山にお入りになり、若木の松一本を切って仏前に供えられた。それ以来数百年たった今に至るまで、一日も怠ることなく毎日松を供えるのが、善光寺の恒例となっている。そもそも善光寺の三尊仏は、真の阿弥陀如来が照らされる光の中に出現された尊像なので、これこそ正真正銘の阿弥陀如来である。親鸞聖人はまさしく阿弥陀如来の化身であるので、実際には同体ではあるが、当面は両様に現れて、巧みに衆生を救ってくださるのだという。松は諸木の司とされていて、十八公と呼ばれるが、これは阿弥陀如来の十八本願を表しているという。考えてみると、阿弥陀如来親鸞聖人は同体で、その間に松が一本立っているといういわれは感慨深いものがある。それ故に親鸞松と呼びならわしてきたとということである。
  
堂照坊
 善光寺の塔頭には、46の院坊がある。その内15坊は妻帯して、如来をお守りしてきた。これは百済国から如来に付き従ってやって来て、常にお仕えしていた僧たちの子孫であるという。世代を超えて如来に奉仕するため、妻帯して如来に仕えてきたという。堂照坊はその15坊の一つである。
 善光寺南門の堂照坊願証院は、その昔親鸞聖人が参詣された時の宿坊である。ご逗留の間に残していかれた宝物が、2点伝来している。聖人が53歳の4月19日に、善光寺如来の分身の金像を感得された時も、この宿坊に止宿されたという。また元祖法然上人も、ここを宿坊として七日間参籠された旧跡である。笹葉の名号(聖人のご真筆である。熊笹の葉に墨で色を着け、これを並べて六字の名号をお書きになった、世に例のない名号である。)
御歯一枚(聖人の御歯である。ご逗留の間に落されたものである。)
紺紙金泥の弥陀経(覚如上人の御筆。)
   
 善光寺の東の方に、犀川千曲川という2つの大きな川がある。千曲川はその源を甲州に発し、浅間山の麓を巡って流れ下る。犀川は当国の鳥居峠の辺りから出て、長沼の辺りで両川が合流し、越後へ流れ下ると信濃川と名を変え、新潟の港から北の海に入る。この川は、北国(ほっこく)にある長流である。この犀川を渡り、千曲川との間を、川中島と呼んでいる。その西を丹波島という。ここは昔治承の末、木曽義仲と越後の住人城太郎資平(助職)の合戦があった古戦場である。東の方に上杉入道謙信が砦を構えた西条山がある。この辺り一帯の畑を合戦畑と呼んでいる。
  
 川中島は永禄年間、甲斐の武田入道信玄と越後の入道謙信が対戦し、双方の智勇の武将たちが討ち死にした大合戦の場所で、その名は有名で諸書に詳しく書かれているので、そのことについてはここでは触れない。
  
 姨捨山は、更級郡(正しくは埴科郡)の屋代宿から戸倉へ行く間の、千曲川の向こう側にある。鏡台山・有明山に連なり、その間に更科川が流れている。
  新勅撰集  今更にさらしなの川のなかれにも浮影みせんものならなくに
 姨捨山長楽寺は、観音を安置している。左の肩に姨石という大岩がある。ここは昔、姨を捨てる目印であったという。大和物語に、「更科の里に住んでいた男が姨を養って、親のように世話をしていたが、その妻は非情で憎み、夫に口出しして、深い山の奥に捨てさせた」と出ている。俊成卿の無名抄には、「昔、姪を子として長年養育したが、姨が年を取って面倒になったので、8月15日の満月の日に、この母をだまして山に登らせて、捨てて逃げ帰った」と出ている。
  古今集  我こゝろ慰めかねつ更科や姨すて山にてる月を見て
  新古今集 今よりは秋をば捨の山桜月と花とのありあけのころ
  
 田毎の月は、更級の姨捨山の山田に映る月影が、田ごとに並んで見えるのを、ここの風景としている。
   
布野長命寺
 西派  善光寺より一里、南掘にある。
 当寺は親鸞聖人の直弟、野田西念坊の子孫で、西派二十四輩の第七番である。本堂12間四方、経堂一棟、坊舎3坊。本尊阿弥陀如来(開基西念坊の百歳での作)。
 西念坊の俗姓は、人皇56代清和天皇の末裔、八幡太郎義家の孫、讃岐守満実(対馬守義親の子である。)という人は、信州高井郡井上の城に住んで、井上次郎満実と称した。その子の井上五郎盛長の息子、宇野三郎源貞親という人である。6歳の時の文治5年(1189)、父の盛長が戦場で討ち死にした。それから母に伴われて、同国水内郡駒沢に移住し、26歳で母も失ったので、貞親は出家したいと頻りに思い、越後国の五智の如来(越後国分寺)に参籠して、よい師にめぐり会うように祈った。満願の七日目の夜、夢ともなくうつつともなく、五智如来がはっきりとお告げになった。「おまえは有為転変のこの世を嫌って、仏道を志したいと思っている。誠に奇特な志だ。幸いなことに、今ここに真の指導者がいる。その名を善信坊親鸞という。その師に従って教えを受けよ」というあらたかなお告げを受けて、急いで聖人の草庵にやって来て、出家の志と如来のお告げを語り、伏してご教導を願ったので、聖人はさっそく貞親に他力本願の不可思議を語り、凡夫往生の心を丁寧にお示しになったので、貞親は随喜の涙にむせび、すぐに信心を起こして、お弟子にしてほしいと願った。聖人はこれをお許しになり、西念と名を付けてくださった。その因縁はもったいないほどである。これより西念は、日夜親鸞聖人に従い、念仏を怠ることがなかったが、後に武州足立郡野田という所に一寺を営んで、専ら念仏往生の教えを伝え、聖人ご入寂の後もいよいよ布教を盛んにしていたが、正応3年(1290)に本願寺第3世覚如上人が関東を巡られた時、西念はまだ存命していて、107歳で覚如上人にお目にかかった。覚如上人はたいそう喜ばれ、親鸞聖人から教えを受けた極楽往生の心を西念にお尋ねになったところ、西念坊はすぐに聖人から直接教えられたことを、少しも滞ることなく語ったので、覚如上人はたいそう喜ばれ、「貴僧は107歳にもなり、極めて年老いていて、忘れてしまったこともあるはずなのに、言葉が明確で、聖人の教えを少しも忘れていない。これは聖人の教えを直接聞いているのと変わらない。いくら称賛しても足りないほどだ。これも全く長生きしたためだから、これ以後この寺は長命寺と名乗れ」と、お命じになった。西念坊はその翌年、108歳の時、3月15日に、これといった病気もないまま、きちんと座って合掌し、「観彼如来本願力」の文を唱えて、念仏を数百遍唱えつつ、息絶えて大往生を遂げた。第2世の覚念坊も聖人のお弟子であった。こちらもまた長命で、延慶2年(1309)に98歳で入寂した。第3世西祐坊の時、建武の乱で寺を破却され、信州駒沢は開基西念坊の故郷ななので、ここに長命寺を再興し、5代を経たが、第7世信貞坊の時、堂舎を同郡布野に移し、享保年中にまたこの南堀に移って、永久に続くようにした。
 宝物○十字名号(親鸞御直筆)〇九字名号(聖人御直筆)○簾の名号(聖人御細工の六字である)○船板六字名号(善導大師御筆)〇六字名号(蓮如上人御筆)西念坊の像
   
成田山西厳寺
 東派 南堀より30丁、長沼にある。
 本尊阿弥陀如来(恵心僧都御作)。本堂9間。蓮師堂には蓮如上人御自画の真像を安置している。〇当寺開基釈空清、その俗姓は武蔵国忍の城主成田平山の三男で、成田下総守という者である。親鸞聖人が関東をめぐられた時、たまたまご化導を受け、お弟子となって、ここに一寺を建立し、真宗を広め、西厳寺と名乗った。〇十字名号(六本の光明の中に六体の化仏がある。聖人の御真筆)〇十高僧(聖人御筆)〇絵像の阿弥陀如来3幅(1幅は善導大師御筆、1幅は恵信僧都御筆、もう1幅は実如上人の御筆である。)〇大般若経切(弁慶筆)〇亀井六郎への消息(弁慶の筆)
阿弥陀の梵字(中将姫の剃った髪で織られた物。地絹は蓮の糸である。開基成田下総守空清が所持していた。)
  
平林山本誓寺
 東派 長沼より5里半、松代にある。
 本誓寺は新田院護法堂と称する。本堂10間四面、塔頭2坊。
本尊阿弥陀如来(これを瀬踏の阿弥陀と称する。縁起は後に記す。)開基是信大徳。東派二十四輩第十番に属する。是信大徳は、俗姓藤原氏吉田大納言信明卿である。高祖聖人の高弟となり、聖人の指示で奥州に下り、石が森という所に一寺を建立し、これを本誓寺と名づけて盛んに布教した。また縁があってこの信州にやって来て教え導いたが、最後に一寺を建立してこれもまた本誓寺と称した。(是信大徳の縁起は、同じ開基なので、詳しくは奥州南部本誓寺の所に記す。)当寺第4世宗信坊という人は、新田左中将義貞の息子で、徳の高い僧であった。
瀬踏の阿弥陀如来(本尊仏である。)というのは、親鸞聖人は1尺8寸の像を刻み、胎内に1寸8分の金像を納めておかれた。この尊像を笈の中に安置し、千曲川をお渡りになったことがあった。ちょうどその時この川は増水していて、渡れそうもなかった。聖人が川岸にたたずんでおられると、一人の童子が突然やって来て言った。「私がこの川の瀬踏み(川に足を踏み入れて深さを測ること)をしてあげましょう」と言って、そのまま川の中に入って案内した。聖人はその後に付いて渡られたが、陸地を歩くかのように、いとも簡単に対岸にお着きになった。その時その童子をご覧になると、もうその姿は見えなかった。聖人は不思議に思い、もしかしたら笈の中の尊像の魂がご出現になったのではないかと、笈を開いてご覧になると、安置してあった阿弥陀の尊像は、水に入ったかのように、お肌がぬれておいでになったので、感涙を流し、特別に尊崇されたことから、瀬踏みの如来と申し上げている。
聖徳太子の真像(親鸞聖人の御真作)。この尊像を落涙の太子という。開基の是信坊が奥州本誓寺におられた時、弘長2年(1262)11月1日、是信の夢の中で聖徳太子がお告げをされた。「是信よ、都の聖人はこの世での教導を終えて、極楽にお帰りになることになった。私はそれを悲しく思って耐えられない。だからやって来ておまえに告げるのだ。早く上洛せよ」という霊夢に驚き、目が覚めてからこの尊像を拝んだところ、全身から汗を流し、両目から涙を流しておられた。是信は感激し恐れおののき、急いで上洛してみると、果たして聖人は入寂されていた。不思議な霊像でいらっしゃるので、落涙の太子という。今も尊像の両目には落涙の跡がおありになる。
○聖人御真像(御自作である。実如上人の文亀2年の御添状がある。)〇同じく御自画の真影〇寺号の額(聖人の御真筆)〇十字九字石摺十字名号(顕如上人の御添状がある。)以上8点の宝物は、親鸞聖人から是信へ託されたものである。〇四体連座の御影(覚如上人御筆)〇年越名号(蓮如上人がご在世の時、除夜の日この名号を書き、仰せになった。「今日を年越しだと言って祝ったり、歌や連歌などを詠んで喜ぶようだ。私もこの名号を書いて弥陀の本願を歓ぼう」と言って、この名号をお書きになったという。)〇法然上人の御影(実如上人が当寺に止宿された時、夢でご覧になり、描かれたものである。)〇蓮如上人の御影(実如上人の御画)
   
 越後から入って、信州のご旧跡を順拝する巡路は一つではない。一つは善光寺より犀川を渡り、芝村の阿弥陀堂を拝し、千曲川を越えて松代の城下に出、ここから塩崎、稲荷山、麻績青柳、会田、刈谷原、岡田を経て松本の城下に至り、再び越後の高田へ戻る方法がある。続いて関東を巡るには、木曽路(中山道)に出て、桔梗が原、塩尻、下諏訪、和田峠を越して、芦田、望月、塩名田、さらにどんどん行って、浅間山の麓、沓掛、軽井沢碓氷峠などは信州と上野(こうずけ)の国境である。その間の名所は別に記す。
  
 越後より北陸道を経て関東に出るには、善光寺より犀川を渡り、丹波島、さらに千曲川を越え、屋代、戸倉、榊(坂木)、上田田中と行く。その間に園原山という名所がある。そこは小県郡で、この原に帚木(ははきぎ)という名木がある。遠くから望み見るとその形があるように見えるが、近くに行って見るとそれと思われるものがないということで、新古今集の坂上是則の歌に、
  園原や伏屋に生ふる帚木々の有りとは見えて逢はぬ君かな
  「伏屋に生ふる」という伏屋は、小諸の山壇にある。田中宿を下ると、右手の川向こうに布引山がある。左は浅間山の麓で、この山は信州と上州の境にある。険しい峰が空にそびえ、噴煙がいつも絶えない。その煙は駿河の富士山と比べることができると、昔から言い伝えている。伊勢物語に
  信濃なる浅間が岳にたつけぶり遠近人の見やはとがめぬ
 去る天明2年(1782)のころ、この山の山頂から火炎が噴き出して、土砂を散らし大石を飛ばし、あふれる水が湯のように湧き出し、麓で死んだ人々は何千人いたか分からない。上野、武蔵、甲斐の国までその鳴動する音がすさまじく聞こえ、地面に積もった火山灰は、あるいは1・2尺、あるいは2・3尺もあるなど、まことにまれな大事件であった。宝永のころ、富士の高嶺(たかね)からも噴火して、おびただしく土砂が噴き出し、富士山の形が少し変わって、一つのこぶのような山の形となった所を宝永山と言うのだという。こうした高山の常で、噴火して煙が高く立ち昇っているのは、立派な山の状態である。その麓の川を濁り川という。川の流れが常に濁っていて、澄むことはない。これは浅間山の地獄、血の池から流れ出ていると、地元では言い伝えている。さらにここを過ぎると、東海・北陸両道への追分がある。それより沓掛、軽井沢碓氷峠に至る。この峠には熊野三社権現が鎮座している。
   
芝阿弥陀
 松代より半里、芝村にある。
阿弥陀堂(6間に11間)。正中面本尊十字名号(親鸞聖人御真筆)。この阿弥陀堂は社造りで、この地の氏神として尊崇されている。神職を吉池数馬という。十字名号はお厨子に安置されており、以前から開いて拝むことがない。月に3度の縁日があって、近村の男女が群集し、たとえば7日間断食して病気平癒を祈ると、その霊験がないということがなく、霊妙なことはまさに如来のたくみな方便と言うべきだろう。
 本尊の十字名号は、その昔親鸞聖人が鎌倉でご化導の時、吉池某という武士がいた。「武運長久の本尊をお授けください」と願ったので、聖人はしかたなくこの名号を書いてお与えになった。数代後の永禄のころまで、吉池家は代々この名号を伝えて安置した。ところがある武士(熊井弥五郎という武士である。)が、この名号の霊験あることを聞いて、強く所望した。吉池彦四郎は、先祖伝来の宝物で、ことに武運長久の本尊なので、自分の命にも代えられないとして与えなかったところ、その武士はますます懇願し、理不尽にも奪おうとしたので、彦四郎は名号を持って下総国磯部勝願寺へ逃げ込んだ。その武士はあとから追いかけて来て、なおも欲しがり続けたので、しかたなく勝願寺を出て信濃国へ逃げたが、この侍は執念深くなおも追かけて来たので、彦四郎は今や身を隠そうにもどうしようもなく、柴草の茂った野林の中に屈み込んでいると、侍は見つけ出すことができず、もしかしたらこの柴野の中に隠れているのではないかと、その芝草の四方を火を付けて焼き立てた。折から風が強く、火が地面に広がり、黒煙が空を覆って、あれほど広い芝原をあっと言う間に焼き尽くしたので、「こうなっては翼があったとしても、火の中から逃げ出すことは、まさかできまい。長い間の恨みを晴らしたわい」と、喜んで去った。ところで彦四郎がうずくまっていた辺りの芝は、4・5間ほど焼け残っていた。もはや焼け死ぬだろうと思った時、不思議なことに突然にわか雨が降ってきて、猛火が完全に消えてしまったので、彦四郎は、危うい命が助かったのも、ひとえに名号のご利益だろうと、ますます信仰を深めた。今の目の前の急難さえ救ってくださるのだから、ましてや死後に三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)には落とさず、極楽に迎えてくださることに何の疑いがあろうかと、一心に尊崇した。そこでここに草庵を結び、出家して法名を行西と号し、静かに念仏を唱えていた。時に永禄4年(1561)のことだという。武田入道信玄は大軍を率いて出陣し、東の方を望み見ると、芝の中から48本の光がたなびいて見えた。信玄は不思議に思い、その光のある所を捜してご覧になると、行西の庵の中から出ている光であった。庵の内部をうかがい見ると、行西は一人で尊く念仏を唱えていて、壁に掛けた名号からその光が輝いていた。信玄は不思議に思い、庵主に向かって事情を尋ねたところ、庵主の行西はこの年月にあったことを物語り、「この名号は武運長久のお守りで、親鸞聖人の御筆です」と、詳しくお話申し上げたので、信玄ほとんど喜びをこらえきれず、「私は今戦場に向かう時に武運長久のめでたいことに遭ったので、今日の合戦に勝利を得ることは疑いない」と言って、名号に向って合掌して祈り、直ちに戦に臨んだところ、果たしてその日は完全な勝利となったので、いよいよ名号のご加護だとして、その時の陣屋を使って堂を建立し、行西に与えられた。これが柴阿弥陀の由来である。その他阿弥陀の画像、薬師如来の画像がある。鐘の銘に「阿弥陀薬師降応之地」と書いてある。(宝永の記、享保の記ともに縁起、下総国磯部勝願寺の伝である。また越後国高田井波園瑞泉寺がこの柴阿弥陀を支配したという。未詳)
   
白鳥山康楽寺(西派、院家)
 柴村より2里半、塩崎(長野市篠ノ井塩崎)にある。
 報恩院という。本堂13間四面、本尊阿弥陀如来、坊舎三坊〇開基西仏法師(法然上人の弟子であったが、帰依したことにより親鸞聖人へ付けられたお弟子である。)西仏法師の俗姓は、清和天皇第4の皇子滋野親王から9代の子孫、海野小太郎源幸親(信濃守と称する。)の子である。始めは朝廷に仕えて、勧学院の文章博士進士蔵人通広と言ったが、出家して西乗坊信救と名乗り、奈良興福寺の学問僧となった。後に比叡山に登り、慈慎和尚の門下の一員となり、浄寛と改名した。(木曽義仲の側近で博学多才、しかも能書家として名高く、越中砺波山で義仲の願書を書き、八幡宮へ納めた大夫坊覚明というのは、この人だという。)この時親鸞聖人は範宴少納言の公(きみ)と称して、まだ幼なかったとはいえ、聡明博識で、一度に千語を理解する器として、その評判は一山に広まっていた。そのため慈慎和尚の寵愛も他の人以上で、範宴が凡人でないことを喜ばれた。浄寛もこの君はきっと仏菩薩の化身でいらっしゃると常々敬い尊んでいたが、最近尊い霊夢を2度も見た。一度は範宴の公が仏となって現れておられるのを見た。もう一度は観音菩薩が出現されたのを礼拝していると、たちまち範宴の公に変られたと見て夢が覚めた。それによって浄寛は範宴の公を日に日に尊重するようになった。親鸞聖人が29歳で法然上人の禅室に来て、念仏の真実の教えにお入りになった時、浄寛も密かに従って、共に法然上人の門下に連なってお弟子となり、上人から西仏という法名をいただいた。しかし西仏は本来親鸞聖人に帰依して信仰を深めていたために、法然上人の門下に加わっていたので、法然上人もこれをお知りになって、西仏を親鸞聖人の高弟とされた。(西仏坊は聖人より16歳年長である。)親鸞聖人が越後へ流罪になった時もお供をし、北陸から関東まで付き従ってお仕えした。聖人は都に帰られる時、(文暦の最初の年)西仏に仰せになった。「おまえはすでに高齢にもかかわらず、北陸関東を巡った間付き従って、私の布教を助けてくれたことを実に満足に思う。これからはおまえは国に帰り、専修念仏を広めたならば、それこそ日ごろ私に付き従うよりも百倍もの本望ということだろう」と仰せになったので、西仏にとっては聖人にお別れすることは身を裂くように悲しく思われたけれども、師の言葉の重さに背き難く、謹んで承知し、本国信州へ下った。初めは海野庄白鳥(東御市本海野)に一寺を開き、盛んに真宗を広めたが、後にまた塩崎(長野市篠ノ井塩崎)に一寺を建立し、これを康楽寺と称した。西仏は85歳の仁治2年(1241)正月28日に入寂したという。〇霊宝物九字名号(大師流で聖人の御真筆)〇十字六字名号(同御筆。脇書に善信とある。)〇石摺名号(同御筆。安貞2年とある。)〇三部経(御同筆である。)〇大般若の切(大夫坊覚明筆。これは西仏のことである。)〇愚禿の御影(聖人37歳の御自画。有髪で僧形である。御袈裟に御首巻をしておられる。)〇法然上人の御像。(これは大師が上人の遺骸を火葬にして、お弟子たちが遺骨の灰を黒漆でねり合わせ、それで彩色されたお像である。○伝えられているところによると、比叡山の衆徒がこの像を破却しようとするのを恐れて、お弟子たちから西仏に預けられたものであるという。)〇御伝絵四巻(御伝は覚如上人の御筆、絵は康楽寺2代目浄賀法眼筆。)〇紺紙金泥三尊名号(法然上人の御筆)〇三対連座御影(聖人、西仏、浄賀。当寺3世宗舜の筆である。)〇西仏法師の像(宗舜の作)〇六字御名号正信偈文等(蓮如上人筆)〇聖人御真骨〇大経御延書(聖人御筆)〇半装束御珠数并香筥、尺八、扇子(以上の4品は、聖人が西仏にお譲りになったものである。)〇身代名号(十字名号。親鸞聖人の御真筆である。身代り名号と申し上げるのは、顕如上人が石山本願寺にご籠城の時、三河一国に真宗の門徒禁止が命じられた。これは真宗が信長の敵となったからである。了西という念仏者がいて、深く真宗に帰依し、国主の厳命があったにもかかわらず改宗しなかったので、ついに捕らえられて投獄され、さらし首にされることに決まった。了西はいっこうに困った様子もなく、聖人真筆の名号を懐に入れ、大声で念仏を唱えて斬首の場に出ると、太刀を持った役人が後ろに回り、正に首を討とうとしたが、太刀はまったく切れず、まるで鈍い刀のようであった。これはどうしたことかと、2度3度と繰り返したが、まったく最初と同じであった。了西が目を閉じていっそう大声で念仏を唱える中、いっこうに太刀は切れなかった。あまりの不思議さに、国主に事情を申し上げたところ、「不思議なことだ。命を助けて三河国内から追放しろ」と命令を下され、了西は追放されて信州にやって来たが、どうして私は絶体絶命の斬首を免れたのだろうと不思議に思い、懐中の名号を取り出して拝むと、不思議なことに「帰命尽十方無礙光如来」とお書きになっている十字名号の「帰命」の2字が、絹地とともに切れていた。了西は感激の涙にむせんで、当寺内に草庵を結び、帰命寺と号して念仏三昧の生活をして、大往生を遂げられた。これによって身代りの名号と申し伝えている。了西の子孫は断絶し、帰命寺も廃絶して、その後は当寺の宝物となっている。〇その他の宝物数点は略す。
   
  
大宝山正行寺
 東派御坊所(塩崎から稲荷山、麻績青柳、会田、刈谷原、岡田、この間12里。府中松本にある。)
 親鸞聖人の直弟、了智法師の開基である。了智法師は、その俗姓は宇多天皇の後胤、近江源氏佐々木四郎高綱という武士である。源頼朝が伊豆国で挙兵し、驕れる平家を討とうとして相州石橋山大合戦に敗北し、わずかに主従7騎となって、土肥の杉山(神奈川県湯河原町)まで逃げ延びた時、平家の勇将大庭三郎が大軍を率いてやって来た。この時頼朝はもはや危うかったのに、この佐々木高綱が一人で群がる敵の中に取って返し、寄せ来る大軍を追いまくって、7度も激戦をし、ついに頼朝を救うことができた。そこでこのたびの勲功は抜群のことだと、頼朝は感激のあまり高綱を近くに呼んで、「私がもし天運にめぐまれ、平家を滅ぼして天下を掌握したならば、日本の半分を分けてそなたに与えよう」と言った。果たして頼朝の威勢は日ごとに朝日のようで、あれほど繁栄した平家一族をことごとく西海の波の上に漂流させ、ついには主上と一門を残らず巨魚の腹の中に葬り去り、頼朝は天下を平定して、征夷大将軍の重職を賜り、さらには国々に総追捕使(そうついぶし)を置いて、政治も刑罰もすべて頼朝が手中に収めた。そうなれば佐々木高綱には約束のように日本の半分を下さるはずだったが、そうではなくてわずかに中国地方7か国の長として置かれた。そこで高綱は、約束が違うのを憤り、一方ではよくよくこの世のありさまを考えて、「ああ、この世はただ有為転変がならわしで、今日思ったことも明日には変わってしまう。自分で自分のことを決めても変わり易いのに、まして他人の言葉は言うまでもない。今は歓楽の場に遊んでいても、後では地獄に落ちてしまう。たとえ天下を統一したとしても、ただ夢の中の戯れだと思うと、どうして人を恨むことができようか。五欲(人間の5つの欲)の肴を食べて三毒(3種の煩悩)の酒に酔い伏すよりも、仏道を修めて悟るに勝るものはない」と思って、さっそく高野山金剛峯寺に登り、出家して弘法大師を信仰し、真言密教を修行した。しかし苦しい修行の道は遥か遠くまで続いていて、修行を続けることができず、妄念の闇の中に迷ってどうしていいか分からなくなってしまった。高綱入道が、難解な修行が難しいことを悲しんでいると、前世からのよい因縁が招いたのか、親鸞聖人が越後に流され、他力易行の法を教え広めておられると伝え聞き、急いで高野山を出て、万里の海川を越えて越後に下り、国府の草庵に参上して聖人にお目にかかった。親鸞聖人は高綱の出家した姿をご覧になり、わけもなく目に涙を浮かべられたので、高綱も一緒に涙を流しながら、出家のきっかけや日ごろの思いを述べ、是非ともご教導くださいと願った。聖人は高綱の起実を感じられ、特別に教えて言われた。「あなたは尊いことに仏道に入ろうと真に願っている。これは前世からの因縁によるのだ。そもそもすべてが有為転変のこの世は夢のようで、また幻のようなものだ。しかし庭下薄地の凡夫や造悪不善の族(やから)が、善根功徳の種もまかず、修行や学問の功を積まなくても、すみやかに悟りに至る近道は、阿弥陀如来の誓願に過ぎるものはない。この誓願を深く信心する者は、たとえ三世の諸仏の済度にもれた五逆(5種の重罪)の罪人や、各地の寺院に見放された穢れた女人も、直に極楽に往生して悟りを得ることは、ほんのわずかの疑いもない。早く一念発起の信心によって、称名念仏の正業に努めよ」と、まことに丁寧にご教化された。そこで高綱はたちまち他力易行の旨趣を理解し、往生決定の了解を究め、ついに真のお弟子となって、釈了智と法名をいただいた。この地でしばしば教えを受け、縁があって信州にやって来て、栗林の郷(松本市島立)に一寺を起こし、正行寺と名付け、称名念仏を怠ることがなかった。(栗林という地は松本から1里西南にある。)松本の領主石川玄蕃侯の菩提所であるため、天和年間に松本に移った。〇宝物親鸞聖人御真筆十字名号〇六字名号(蓮如上人御筆)〇四尊連座真影(親鸞聖人、法善、西仏、了智である。絵・讃ともに聖人御真筆で、実如上人御裏書がある。法善は越前国橋立真宗寺の開基、すなわち佐々木三郎盛綱である。西仏は康楽寺の開基で、海野小太郎幸親の息子、進士蔵人通広、後に大夫坊覚明と言った人である。了智は当寺の開基佐々木四郎高綱である。また橋立真宗寺の開基は盛綱ではなく、その玄孫の三郎光実だという異説があるが、今この真影に聖人は正(まさ)しく盛綱入道法善を書加えておられるので、法善坊は盛綱のことに間違いない。この高綱と兄弟であるために、ここに連座させたのであろうか。)〇系図の巻物(高綱の筆である。)〇武田信玄公諸役免許朱印
 異説によれば、佐々木四郎高綱は頼朝公が約束を違(たが)えたことを憤り、謀叛を企てようとした時、西仏坊(大夫坊覚明)がそれを聞いて、高綱へ次のような手紙を送った。
  残水小魚貪食不知時渇 糞中穢虫争居不知外清
このように書いて送ったが、高綱もなかなかの人物だったので、この2句の意味を悟って、謀叛を思いとどまって出家したという。それが正しいかどうかは分からない。
   
大法山正行寺
 西派御坊所  同国の同所にある。
 開基は佐々木四郎高綱入道了智である。系図は東派の正行寺と同じである。高綱開基の寺が2つに分れたと思われる。どちらからどちらが分かれたかは、分からない。
  
木曽山長称寺
 東派  同国の同所にある。
 開基は義延坊念信(俗姓は木曽太郎義基)。覚如蓮如の両上人巡錫(じゅんしゃく)の霊場である。少し昔、越後の国からここに移住したという。〇義延坊念信は親鸞聖人の弟子だともいう。また真仏上人の門弟で、聖人の孫弟子だとも言い伝えている。どちらが正しいか分からない。
  
宮川神社八幡宮の社  (松本より3里半、中条村にある。)
 神社の伝えによれば、親鸞聖人の弟子、諏訪郡丹後守源幸政、法名宮川浄喜坊の郷里だという。〇宝物九字十字の名号〇三方正面如来〇聖人四十歳御木像〇後光六字名号〇浄土和讃○日の丸名号(右は聖人から与えられた。教如上人と琢如上人の鑑定書があるという。)
   
〇美濃国より信濃に入り、東国に至る道を木曽街道(中山道)と言う。まず美濃の落合から馬籠に至る。この間に石橋がある。美濃と信濃の境である。坂があり馬籠峠という。ここから山道にさしかかり、木曽の御坂、妻籠山、三戸野、野尻など、険しい山坂が多い。
  出る岑入る山の端の近ければ木曽路は月の影ぞみぢかき
須原と上松の間に今井村がある。これ木曽義仲の家臣、今井四郎兼平の古郷である。上松の上、福島の下は木曽川御岳川が合流する所で、有名な木曽の棧(かけはし)はここの断崖に架かっている。
  生すてふ谷の梢を蜘手にてちらぬ花ふむ木曽のかけはし
宮ノ越に義仲の古跡がある。それより、藪原(やごはら)、鳥居峠、奈良井、贄川、本山、洗馬、塩尻、諏訪に至る。ここから碓氷峠までの街道は、既に前に記してある。
〇上諏訪に鎮座する神は、建御名刀命と申し上げる。下諏訪におまつりする神は、下照姫と申し上げる。諸社一覧に旧事記を引用して、次のように書いてある。「天孫降臨があった時、建御名刀命は仰せに逆らって従わなかった。経津主の神は岐神(ちまたのかみ)にこれを追いかけさせた。建御名刀命は逃げて、信州諏訪に至って降参を願って言った。『この諏訪の郡を以て私に下されば、謹んで天孫の命令に従いましょう』経津主の神は天孫に告げて、それをお許しになった。この諏訪明神がそれだという。」
〇諏訪湖は並ぶものがない名湖で、西は飛騨山の高嶺が並び立ち、東は駿河の富士の高嶺を遥かに望み、湖水の周囲は3里あるとはいっても、山々が重なり合う中にあって、その風景のすばらしさはとても表現できないほどである。中でも珍しいとされるのは、冬は湖上一面に厚氷が張り詰めるので、人馬は皆氷の上を往来し、上下の諏訪を往還するのに道が数里近くなるので、土地の人はこれを便利に使っている。霜月(旧暦11月)の初めから湖上に氷が張り、その中旬には神渡りということがある。この神渡りがあってから後は、人は皆恐れることなく馬を走らせ、車を引いて、昼も夜も湖上を渡るが、昔から今まで、氷が割れて人馬が湖水に落ちたという例を聞かない。これは諏訪の神が、配下の神狐に命じて、はじめて渡ることを教えられると言い伝えている。春2月の末に、再び神狐が氷を渡る。これまた明神が人馬の往来を禁止されるのだと言って、それから湖水を渡る者はない。堀川百首、顕仲の歌に、
  諏訪の湖の氷の上のかよひ路は神のわたりて解るなりけり
また顕昭の袖中抄には、「信濃の諏訪の明神が一宮という女神のもとへ、師走の晦日の夜、お通いになる証拠として、諏訪の湖は凍って、旅人も徒歩で渡る。晦日の夜、お渡りになった印が氷の上に見えて、立春の朝に解ける」と書いてある。また一説に、氷の上に鹿の足跡があるのを、神がお渡りになった印だという。土地の人も、これより渡り始めるという。