伏見築城と奥羽大名

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豊臣秀吉は、文禄二年(一五九三)九月二十三日、奥羽の大名らが朝鮮半島に渡海することなく名護屋に在陣していた時、吉川広家(きっかわひろいえ)宛て朱印状で、「東国・北国」の大名らを上洛させ、普請を下命したことを伝えている(『大日本古文書・吉川家文書』)。また、翌文禄三年正月十六日付の島津義弘(しまづよしひろ)宛て朱印状では、「関東・北国・出羽・奥州果迄」の大名らを上洛させ、普請を下命したと伝えている(『大日本古文書・島津家文書』)。この普請は、伏見指月城の築城のことであるが、秀吉は秀頼の誕生早々、伏見城の拡張工事を企画していた。この築城ではらかに西国の大名らは除外され、東国の大名らを上洛させたうえで普請を行おうとしていたことが知られる。伏見城の普請は、関東や奥羽大名に対し、伏見城下への参勤と、伏見城普請への動員という二つの条件を大名に突き付け、それを強制するものであった。これは、西国大名朝鮮への出兵を命じられたことに代わる奥羽の諸大名に課せられた軍役(ぐんやく)の一種であり、諸大名間の負担の均等化を図ったものであった。朝鮮侵略と伏見城普請とは、軍役の全国的な分担関係によって成り立っていたのである(中川和豊臣政権城普請・城作事について」『弘前大学国史研究』八五)。
 文禄三年正月三日、秀吉は伏見指月城普請奉行衆六人を決定し、各大名の普請人数を決めた。さらに秀吉は、二月一日までに伏見に参着するよう諸大名に下命した。上杉景勝(うえすぎかげかつ)は秀吉から「於伏見惣拇普請」のため人足四〇〇〇人を、佐竹義宣(さたけよしのぶ)は人足三〇〇〇人を伏見に動員するよう下命された。『当代記』によれば、春から伏見城普請として日本の大名衆が上洛していることを記し、『太閤記』では二月初め、二五万人の普請人足が伏見に集まったとされている。しかし、実際は、『当代記』所収の「伏見普請役之帳」によれば文禄三年に普請を課されたのは、大部分が東国の大名らであった。
 奥羽の大名の中で、この伏見指月城の普請にかかわったのは秋田実季だけであった。実季は、文禄三年に敦賀(つるが)城主大谷吉継(おおたによしつぐ)の家臣と考えられる高橋次郎兵衛に「橋板」八二〇間を渡し、十一月五日付で秀吉からこの「橋板運上に対する礼状の朱印状を受け取っている。この「橋板」は、宇治川を挟んで伏見指月城の対岸にある向島に渡るための橋の用材であった。
 これより先、秋田実季は、文禄元年十一月八日に秀吉から、朝鮮出兵用の軍船である大安宅船(おおあたけぶね)の用材運上を命じられている(秋田家文書)。また、翌文禄二年四月十日に秋田氏は、秀吉から下命された材木のほかに自分自身の材木廻漕敦賀豪商道川(どうのかわ)三郎右衛門に命じており、秋田氏敦賀の道川氏と材木売却をめぐって関係を持っていた。翌文禄三年六月十七日の秀吉朱印状によれば、「淀船(よどぶね)材木」つまり淀川を運行する淀船建造用の材木を賦課されている。

図28.安宅船復元模型

 秋田氏は、すでに伏見城普請材木廻漕する以前の名護屋参陣中に材木の献上を命じられていた。実季は、伏見城普請役を免除される代わりに、その用材である杉板豊臣政権から賦課されていたのであり、これは伏見城普請役に代替する役儀として材木調達を命じられたものであった。秀吉は奥羽仕置と同時に秋田領の杉に目をつけ、それを朝鮮出兵や政権の中枢である伏見城の普請・作事に利用しようとしており、秋田杉板豊臣政権を支える一大要素として位置づけられていたのであった。