参勤交代路と街道の状況

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津軽弘前藩では当初西浜街道参勤交代路として使用していた。天正十九年(一五九一)十月晦日付けと思われる、豊臣秀吉が為信に鷹献上を命じ、沿道へ献上道中支障なきように命じた朱印状(資料近世1No.四一)には、鷹献上経路の書き出しが秋田分領として「八森~の志(し)ろ(現秋田八森町~同能代市)」となっており、津軽領内では大間越から八森へ抜ける西浜街道鷹献上経路となっていた(同前)。このため、藩祖為信時代から西浜街道が重視されたものと思われる。この点は二代藩主信枚、三代藩主信義と踏襲された。松前藩主も同時期には西浜街道参勤交代路として利用しているのである。しかし、四代藩主信政は寛文五年(一六六五)、碇ヶ関から矢立峠を越えて秋田領へ入る羽州街道参勤交代路に変更した。

図84.御国中道程之図西浜街道の御境

 街道の道幅についてみると、「道程帳」の大道筋は、矢立峠~弘前間では矢立峠の部分は一間(けん)半(二・七メートル)から二間、碇ヶ関から石川間は二間が主で三間の所もあり、石川から堀越間は二間から二間半が主で、三間の所もあるという状況であった。これ以降弘前までは四間であった。弘前油川間では大釈迦(だいしゃか)から新城(しんじょう)間の津軽坂山中が二間で、三間のところもあるという状況であったが、このほかは四間となっていた。大道筋の場合四間が基本であったように思われる。四代藩主信政の時代には街道の整備も行われたようで、宝永元年(一七〇四)十月の農村への達し(「要記秘鑑」)では、先年仰(おお)せ渡されたとおりとして、往来の街道幅を五間より広くしてはならない、また脇道の場合は一間から三尺までに定めるとあり、主要街道の道幅は五間で脇道は一間~三尺と決められていたものと考えられる。
 一方、松並木については、「国日記」天和二年(一六八二)三月十五日条に、弘前土手町から碇ヶ関までの道普請に際して、道の両脇に小松を植え付けることと、その保護育成措置が講じられた記事がみえる。元禄十年(一六九七)には小栗山(こぐりやま)・石川宿川原(しゅくがわら)・唐牛(かろうじ)村に松守が置かれ、松並木の保護に当たった。「従碇ヶ関古懸山入り口迄海道筋絵図」(弘図津)には、碇ヶ関から古懸(こがけ)入り口付近の街道の両側には松が描かれており、元禄年間の羽州街道の景観を知ることができる。これに対して、弘前油川間では、貞享四年(一六八七)の「道付」(国史津)に、藤崎の北、飯詰(いいづめ)への分岐点付近に「左右田、並木柳有り」という記述があり、当時この方面では柳が植えられていたものと思われる。時代が下ると、「要記秘鑑」の享和三年(一八〇三)三月二十五日条に、高岡街道(百沢街道のこと)の内駒越村領内に「はんの木」の並木があるが、伐り荒らされているので不届きである旨の記事がみえる。続いて青森・鰺ヶ沢街道への弘前出口の部分に同様にハンの木を植え付けるよう命じ、差し障りがないように厳しく仰せ付けたという記事もある。このように、街道や時代によっては松以外の並木も存在した。

図85.旧松前街道(平舘台場跡付近)の松並木

 現在、「松原」の地名が各地に点在するが、かつての津軽領松並木が現存するのは松前街道の平舘(たいらだて)村の平舘灯台付近と、百沢街道の岩木町新法師から百沢方面にかけての部分の二ヵ所である。弘前市の場合は、羽州街道の名残の松が一本、千年公民館の前にあるほか、旧西浜街道沿いに名残の松が点在しているだけである。