町方支配

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城下の町方に対する法令が下されたのは、その内容は不ではあるが、寛文元年(一六六一)閏八月のことであった(以下は、長谷川成一「弘前城下について」同編『弘前城下史料』津軽近世史料一 一九八六年 北方新社刊による)。町方に対する法令は、延宝九年(一六八一)一月二十一日の七八ヵ条からなる「条々」(長谷川成一校訂『御用格』寛政本下巻 一九九一年 弘前市刊)によると、大きく「五人組之事」「町人作法之事」「道橋之事」「伝馬馬次駄賃銭人足諸役之事」「商売物之事」「失火之事」「公事之事」「父子之事」「跡式之事」「奉公人之事」「喧嘩之事」からなり、これによって城下の町人の生活は隅々にわたり規制されることになった。
 町方の支配機は、町奉行のほかに、町年寄町名主・月行事町役人によって成された。町奉行は、御用人の支配のもとにあり、定員は藩政前期を除いて二人、石高は二〇〇~三〇〇石であった。そして、その職掌は、主に城下の町政を担当し、商業の統制・物価の監督、戸籍調査、犯罪人逮捕の指揮であった。
 寛文五年(一六六五)十月六日付で、町奉行福士甚左衛門に宛てた「覚」(『御定書』四六)は、
  ①伝馬人足のこと②町中諸公事訴訟のこと
  ③他国からの旅行者のこと御用金賦課のこと
  ⑤升樽極印打(ごくいんうち)支配のこと⑥粒油・水油支配のこと
  ⑦城下での買物監督⑧諸職人支配のこと
  ⑨酒・麹役支配のこと居鯖(いさば)(魚屋)支配のこと
  ⑪紺屋役布役のこと⑫籠奉行支配のこと

 という内容を持つ一二ヵ条からなり、町奉行の職務を細かく規定している。そして、これら町奉行の職掌は、明治維新に至るまで、基本的にはほとんど変化しなかった。
 一方、町年寄以下は、「町役」と呼ばれた町人である。町年寄町名主・月行事という呼称は、天和期ころから一般的に用いられていたが、延宝期ころまでは、町大組頭(町名主に相当)・町小組頭(月行事に相当)といった呼称が通用していた。慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」にみえる「くみかしら」は、「いさばがしら」「かうやがしら」といった職種上の組頭を除けば当時の月行事を指すものと思われる。
 さきに紹介したように、町年寄は松井・松山両家が世襲しており、その屋敷ははじめは親方町にあったが、宝永二年(一七〇五)に、松井家は長鍛冶町、松山家東長町へそれぞれ移転し、以後は変わらなかった。町年寄には、物書三人・小六人・人馬割所での小四人が付属していた。そして、これら小への給銭を出す町内は、本町(ほんちょう)・東長町(ひがしながまち)・土手町茂森町・新町の各町内であった。
 町名主は、藩政前期には大組頭と呼ばれ、その職掌は、町触れや申し渡しを徹底させ、人別改め火の用心を担当した。延宝期の城下の町方は、親方町支配分・土手町支配分・横町支配分・亀甲町支配分・紺屋町支配分・新町支配分・重盛町支配分の七組に分かれ、大組頭七名による支配のもとにあった。これら町支配分のもとには、小組が置かれ、総数で五七組の成であった。しかも、各小組には、月行事に相当する小組頭が置かれて町内を差配していた。これら町方の組には、時期によって多少の変化があり、たとえば、宝暦期では、本町・鍛治町・冨田町・楮町(こうじまち)・東長町和徳(わとく)町(本町・東長町以外はすでに正徳期にはみえる)が加わっていた(近世資料1No.一一五四)。あわせて、町名主・月行事の人数も時期による変化がみられる。また、他領の城下と同じように、町名主と月行事町役が免除された。正徳期、町名主の小は、支配の町人から一人ずつ一一町から出され、各町内の屋敷持(町役としては中役)四軒が給銭を負担した。城下の火災に際しては、町年寄の指揮のもとで、町を単位として消火に当たり、各町内の町印が描かれた旗が持ち出された。さらに、城下にはこのほかに、町中馬頭と称した、おそらくは馬の売買や伝馬の手配・監督をその職掌とする者たちがおり、二二人の馬頭がいた。
 城下の治安は、町内ごとに木戸(きど)を設置することで、夜間の出入りの規制・不審者の詮議を行った。木戸は、慶安期には六一ヵ所、正徳期には四九ヵ所に設置され、番人が常駐するのが二一ヵ所、そのほか小人や雇入れの者を置いたものが九ヵ所あった。元禄六年(一六九三)には、九三ヵ所の木戸(うち二三ヵ所が立詰め)があり、元禄九年(一六九六)には、新たに黒石町から大浦町へ抜ける道に木戸が一ヵ所建てられている(同前No.一一五〇)。これら木戸の維持は、すべて町役をもって充当された。また、火災に際しての町印の描かれた旗の補修や、年に二度行われるキリシタン改めもすべて町役により賄われた。