(二)相撲興行

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 朝廷の相撲節会(せちえ)が承安四年(一一七四)に絶えると、公家に代わって武士も相撲を楽しむようになった。江戸時代になると、諸大名は抱え力士を自慢しあい、屋敷内で相撲をとらせ、見物するのを楽しみとした。京・大坂・江戸の三都市を中心に盛んになったが、江戸では寛永年間(一六二四~四三)の初めには寺社の創建が多く、勧進(かんじん)相撲によって得た利益の一部を寺社や橋の修復に充てた。竹内誠『元禄人間模様』(二〇〇〇年 角川書店刊)によると、元禄十五年(一七〇二)、大坂橋通りで一〇日間興行された時、木戸銭は元禄銀三匁、桟敷四三匁、畳一畳金一〇〇匹であり、収入は約三一〇〇両で、二〇〇〇両を上納し、残金が一一〇〇両であった。また、江戸では、同十二年(一六九九)から円型の土俵が現れた。宝永四年(一七〇七)には、横山町で渡世のため営利興行としての相撲が行われた。
 辻相撲・草相撲は、町内や村の若者たちの力くらべとして、盛んに行われ、見世物としての女角力(おんなすもう)も元禄年間(一六八八~一七〇三)から催されて人気があったが、女子には相撲の見物は許されていなかった。江戸の広小路で毎夜行われる辻相撲がたびたび禁止されたが、元禄年間の経済発展と人口増加による庶民の娯楽として、たびたびの規制にもかかわらず行われるほど人気があった。
 三代藩主信義は、寛永二十年(一六四三)に力士を連れて入封し、正保二年(一六四五)には抱え相撲の立田・沖ノ石・江戸石を江戸へ出した(「津軽徧覧日記」)。沖ノ石は江戸で病死したが、龍田は手柄を立て鬼龍田と呼ばれた。『奥富士物語』にみえる龍田太右衛門は、正徳二年(一七一二)、江戸へ出て鬼鹿毛と相撲をとり、前歯から血を流し、鬼のような形相になって相手を土俵の真中で倒したという。承応三年(一六五四)の相撲興行は、仙台から来た大関日暮・大脇藤縄・小結白藤・立石・熱鉄・捻鉄・あらがね・最上川・浅香山、領内の大関龍田太右衛門・大脇杉の森弥三郎・夜嵐子五右衛門・一二三四五右衛門・釣り金九左衛門・小結掛橋弥十郎・巴長次郎・村雲童子・稲妻金助・小揃久蔵の各一〇人が、行司生々(いこう)十兵衛のもとで作法にのっとり相撲をとった。殿(しんがり)はをつけた桐壺権左衛門が勤め、その壮観なことは前代未聞であったという。
 四代藩主信政は、「相撲は恥を知たる業なれば、武道に叶へる事にて、武芸に寄し物にて有たる」(『奥富士物語』)といって、相撲の規則、作法を正しくさせた。力士は、精進潔斎し、毎晩七ツ時(午後四時ころ)より身を清め、岩木山を拝み、師匠立田の家の前で拝礼し、それより仕度をして相撲をとった。
 貞享元年(一六八四)五月十八日、信政は城内西の郭で申の下刻(午後五時ころ)より相撲を観戦した。「国日記」元禄七年(一六九四)七月六日条に相撲の対戦成績が表9のように記されている。
表9.「国日記」元禄7年7月6日条の相撲対戦成績
早川東光寺村七兵衛
同人胡桃館村助七
同人後潟村弥兵衛
稲妻大組足軽 手塚杢左衛門
同人堀太左衛門家来遠藤権八
同人沖館村弥兵衛
常石横沢村半介
同人亀甲町六助
同人同 町七兵衛
岡町村角兵衛掛橋
唐崎岡町村角兵衛
奥内村有兵衛唐崎
浮雲奥内村有兵衛
同人津軽玄蕃家来作介
同人和徳町吉兵衛
滝川藤九郎家来四兵衛荒浪
同人峯松
夜嵐増館村杢左衛門
同人青女子村左平次
同人八幡館村弥十郎
胴突畑中村六右衛門
瀧川藤九郎家来白戸角太夫胴突
唐崎白戸角太夫
同人浅瀬石村伴左衛門
小和森村弥作唐畸
荒浪小和森村弥作
同人小杉村才次郎
同人桶屋町太次兵衛
峯松和徳町助十郎
同人鬼沢村権太郎
同人川辺村惣兵衛
胴突浅瀬石村万三郎
同人垂柳村勘七
同人西村友閑下人三十郎
夜嵐浜野町惣次郎
瀧川藤九郎家来白戸角太夫夜嵐
同人早川
浮雲白戸角太夫
同人沖館村弥兵衛
同人後潟村弥兵衛
掛橋堀太左衛門家来遠藤権八
奥内村有兵衛懸橋
唐崎奥内村有兵衛
小  結
浮雲後潟村弥兵衛
同人同人
脇  詰
亀甲町六助稲妻
稲妻亀甲町六助
亀甲町六介稲妻
打  留
早川東光寺村七兵衛
東光寺村七兵衛早川
同人同人
合五拾二番 内
      三拾九番御旗之者勝
      拾三番寄之者勝


図34.角力場

 この相撲は七月一日に予定されていたが、雨で延期になった。寄の者三〇人に、木村八左衛門より土俵内で刀・脇差を帯びることを禁止するなどの注意があった。藩主より行事善三郎に麻、力士には赤飯が与えられ、相撲場所は、夏は東、秋は西を上位と定め、御旗の者・寄の者へ場所を振り当てた。
 御旗の者とは、もとの旗本衆で、手廻衆ともいった御旗参士であり、延宝八年(一六八〇)、足軽二八組に改編した時、御旗足軽組の二組五〇人は御旗奉行の配下となった(山上笙介『津軽の武士1』一九八二年 北方新社刊)。彼らは、切米扶持・居宅を与えられた抱え力士であるので、ここでは四股名(しこな)を持った者がそれに当たるとみられる。寄の者とは、藩士の家来と領内各地から集められた力自慢の者とみられる。結果は五二回のうち御旗の者が三九回勝っているところから、抱え力士が断然強かった。翌日から百石町川原で相撲が行われているところをみると、この時の力士による興行があって領民が見物したようである。
 元禄八年(一六九五)の凶作により、抱え力士は召し放しとなり生活の支えを失った。このため、同十年に御旗の者を救済するための勧進相撲の許可願いが出され、百石町川原で盆の内の興行が認められた。同十一年御旗の者早川四賀右衛門は、草履の売買で細々と生活していたが、とうとう妻子を養うことができなくなり、秋田領へ出かけ、檜山で切米三両・五人扶持を得ていたことが、藩庁で問題となった(「国日記」元禄十一年七月十七日条)。また、宝永二年(一七〇五)と同五年には、菊地銭之丞から、厩町に屋敷を与えられ、町役も勤めてきたが、大破した居宅の修復費を捻出できないため、相撲興行の利益をこれに充てる願いが出され、認められた。
 元禄十二年(一六九九)に葛西太左衛門・成田無仁左衛門から、弘前・鰺ヶ沢浅瀬石川原の三ヵ所での相撲興行の願い出があった。この両名は、『奥富士物語』の桜川太左衛門・黒塚無仁左衛門とみられる。桜川太左衛門は、大男・大力量の者で諸国で修行を重ね、御旗小頭になった。黒塚無仁左衛門も御旗小頭であった。ここに、早川というしたたか者がいて、津軽を脱け出し、江戸へ出て大相撲の幕の内になり、その後、津軽へ帰り親方となって弟子を育て、北横丁川原で相撲興行を行った。この時、桟敷から黒塚が飛び降りて褌を締め、早川と相撲をとった。見物人が手に汗を握るなかで、黒塚は双手差しのまま早川を逆さに落としたため、早川は即死した。この黒塚は、沖ノ石・稲妻とともに、隠居した平戸藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)が信政より借りて相撲をとらせたこともあった。これまでみてきたところから、三ヵ所の興行主が御旗小頭であったことがわかる。この中で、鰺ヶ沢は着船が少なく、多くの見物人が期待できず延期となり、代わって広須新田が認められた。後に五代藩主となる信寿の見物も予想されることから、葛西・成田の両名は四、五日前より広須新田へ出かけ、近在の者を集めて相撲の作法を教えることになった。両名は、この後、同十三年に弘前・青森鰺ヶ沢、同十五年に弘前・鰺ヶ沢・板屋野木・浪岡で相撲興行を行った。
 宝永元年(一七〇四)に富田町月行事長右衛門から家計と見物人相手の商売への助成のため、相撲興行の許可願いが出た。しかし、八月十五・十六両日の興行は経費の半分も収益を得ることができず、翌年、再び近在の者を集めて相撲をとらせた。
 宝永二年から相撲は自由にとってよいことになったが、他国より呼び入れるのを禁止した。しかし、富田町月行事長右衛門と石渡(いしわたり)の橋守長兵衛の秋田湯沢の力士一〇人、富田町月行事伝右衛門の仙台の力士一〇人による興行は認められた。
 享保九年(一七二四)には、盆の三日間に興行が認められたのは、弘前・新町・新町川原・同後川原・鍛冶町川原・新鍛冶町川原・田茂木町・蟹田村・石渡村・鰺ヶ沢港・舞戸村・白銀村・境松村の一三ヵ所で、興行主も御旗の者、町人・橋守・名主庄屋・百姓とさまざまであった。
 寛政元年(一七八九)、一〇〇石取りの笠井園右衛門が、下鍛冶町の相撲宿の前を通った時、透き見(すきみ)した、しないで喧嘩になり、笠井は七瀬川力士を突き殺した。この事件により笠井は知行没収となり、生涯外出することを禁じられた(『御用格』「封内事実秘苑」)。
 寛政九年(一七九七)、土手町瓦師伝八から林村生まれの与四郎が江戸相撲で東ヶ嶽となっており、奥州巡行の途中、両親の墓参に立ち寄るついでに、興行したい旨の願いが出された。旅興行の相撲は禁止であるが、特例として認められた。
 文化三年(一八〇六)には、桟敷は四奉行目付町年寄町目付町同心の分は意しなければならないが、作事奉行・屋敷奉行・代官の分は興行主の判断に任せることになった。これは、役目以外の藩士も大勢で見物に押し寄せたことによる。
 同十年(一八一三)、青森町の孫助が弘前紙漉町喜平次屋敷で催した江戸相撲の札銭は一人五分、上桟敷一間四匁、下桟敷一間三匁であった。弘化三年(一八四六)には松前から帰る途中の柏戸宗五郎一行の興行があった。
 文政元年(一八一八)、江戸藩邸では津軽生まれの抱え力士大関柏戸(のち伊勢海)利助の病気が重くなったので、その功績により、老母・妻子に生涯五人扶持を与えた(「江戸日記」文政十三年十二月一日条)。嘉永二年(一八四九)・同四年には利助と関係があったことから、秀ノ山雷五郎組の荒馬吉五郎の興行があった。安政四年(一八五七)には利助の二七回忌に当たるとして、階ヶ嶽龍右衛門一行、文久元年(一八六一)には年寄伊勢海五太夫が、大関陣幕・梅ヶ枝とともに松前の帰りに利助の墓参に立ち寄り、ついでに興行を願い出て許された。

図35.柏戸利助

 勧進相撲といっても、興行主の生活のためであり、果たして寺社への寄進に結びついたものか、その実態はわからない。渡世のためとしているのは、明らかに生活のためであった。「国日記」によると、江戸相撲を「吊相力(つりすもう)」と記録しているが、津軽で行われた相撲との違いは不明である。川原や空き屋敷で催されてきた相撲が、幕末には普光寺(ふこうじ)境内が使われるようになった。普光寺住吉宮の南隣りに位置し、寛政八年(一七九六)に無住となり、翌年取り壊されたので、その跡地は格好の場所となった。ここでは、嘉永三年(一八五〇)に馬上軽業(かるわざ)、安政六年(一八五九)に仙台生まれの大軽業、文久元年(一八六一)に仙台からの女曲馬乗軽業が行われた。
 武士・庶民にとって、相撲は鍛錬のためばかりでなく、娯楽としての要素が強かった。幕末には相撲に軽業が加わるようになった。