幕末期にはさまざまな問題が噴出したが、これまで述べてきた新興宗教の流行の裏には既存の宗教統制の低下が原因として挙げられよう。藩は寺社奉行を頂点として、仏教は薬王院(やくおういん)・百沢寺(ひゃくたくじ)・神宮寺(じんぐうじ)・袋宮寺(たいぐうじ)・最勝院(さいしょういん)といった大寺院が中心となり、本山・末寺制度を通して、一方神職は神明宮(しんめいぐう)をはじめとして八幡宮神官小野若狭・熊野宮神主長利薩摩(おさりさつま)を社家頭(しゃけがしら)に任命して弘前や在方の諸宮を管理させていた(藩政時代の宗教組織については本章第四節参照)。ところが、後の明治初年の神仏分離以前は神社・仏閣といっても、在村の小堂・小庵まで含めるとその数は無数といってもよいくらいに存在した。神社だけでも安政二年(一八五五)段階で少なくとも一一三三社が確認されており(田中秀和『幕末維新期における宗教と地域社会』一九九七年 清文堂刊)、その半数以上が無人の小社であり、寺院側の小庵の存在を考えれば管理が緩むのは無理からぬことであった。
こうした無人・無住の小堂・小社は怪しげな旅の僧侶や山伏(やまぶし)・修験者(しゅげんじゃ)などの格好(かっこう)の巣窟(そうくつ)となった。少し後の史料ではあるが、明治四年(一八七一)九月、旧弘前藩租税署は寺社取り締まりの建言の中で次のような状況を述べている。つまり、神仏分離の結果管内には廃社も多くなり、各所の庵寺(あんでら)には出所不明の旅僧が住み着き、その姿は僧俗の区別がない。先年から旅人の取り締まりには留意してきたが、今もって悪い癖が直っていない者も多い。彼らは妻子を伴い、生計を立てるためにずる賢い商売や非道な取り引きをしたり、悪人に宿を提供し、博打(ばくち)場を開いている。まったく僧侶とはいいがたい、というのである(「民事局当務日誌」明治四年九月十四日条 弘図津)。
破戒僧(はかいそう)の領内横行は何も明治初年に限ってのことでなく、他領からの怪しい旅僧に宿を提供したり、安易に弟子を取り立て、在村や浦々の末寺・末庵に寄住させることは、それ以前にも繰り返し禁止されている(資料近世2No.四九六・四九七)。しかし布令の効果はなく、時には怪しい僧侶により凶悪な犯罪が行われたとの風聞が立った。安政六年(一八五九)十月、西福寺(市内新寺町)の弟子で駒越(こまごし)村弁次郎の子は無宿となり、覚随(かくずい)と名前を変え、黒石に托鉢(たくはつ)に出かけた。ところが風体(ふうてい)がいかにも怪しげだったため住民より井戸に毒を流したと騒がれ、町目付に捕縛(ほばく)され、詮議(せんぎ)を受ける羽目になった。覚随が毒を入れた事実はないと判明したが、多くの者が無頼(ぶらい)僧や無宿者などとなって領内外を浮遊し、世情を乱すと警戒されるような状況が目立ってきたのである。
ではどうしてこの時期に他領からの密入国者が増加したのだろうか。その最大原因は往来の増大にあったと思われる。寛政年間の一八世紀末期から、弘前藩がロシアの接近に伴う蝦夷地警備問題に巻き込まれたことはすでに通史編2第四章第二・三節でも詳しく述べられている。蝦夷地警備は藩財政・軍事などに決定的負担を与えたが、交通面に与えた影響も甚大(じんだい)であった。街道の宿場や関所は諸藩や幕府の兵士・役人で混雑し、物資や伝馬(てんま)なども大量に領内を通過して蝦夷地に向かった。本来、関所ではそこを通過する旅人を詮議(せんぎ)し、行く先や宿泊地・滞在日数などを確認し、早継(はやつ)ぎで次の関所に書類を送付しなければならなかった。書類を受けた関所では本人であることを確認し、領外に送り出すのである。
しかし、あまりにも通行人が増加したためこの人別(にんべつ)改めの機能は極度に低下した。津軽領最大の関所は羽州街道沿いの碇ヶ関(いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村)であったが、ここでは形式的に旅人調べをすることしかできなくなり、山間部の間道を通って領内に入り込む者や、反対に密出国する者を摘発する余裕がなくなった。また藩では蝦夷地に農業労働力を吸収されることを恐れ、旅人が理由もなく新田地帯である現西北津軽郡に通じる脇街道へ出入りすることを禁止していた。旅人の中には好条件をちらつかせ、松前や江差などの鯡(にしん)場に農民を連れて行こうとするブローカーも多かったからである(坂本壽夫「幕末弘前藩における経済諸資源の移動について」『青森県史研究』三)。藩とすれば事あるごとに旅人規制を発し、怪しげな者の出入りを阻止しようとしたが、蝦夷地警備に人材を奪われ、町方や関所・湊目付などに人を配置できずなかなか実効は上がらなかった。覚随(かくずい)のような無宿僧はこのような藩体制の間隙(かんげき)をついて生まれたのである。また、怪しい旅人は何も僧侶に限らなかった。記録には囲碁・将棋師、俳諧・書画の遊芸者、料理人・医師・経師(きょうじ)(表具師)・塗師・織師・浄瑠璃語り・祭文(さいもん)読み・軍書語(軍記物を読み聞かせる芸人)などが絶えず出入りし、馴染(なじ)みとなってついには地元の女性を妻にしている者もいたという(資料近世2No.四九〇)。
一度失墜した藩の権威を回復することは困難であった。宗教面に限っても、たとえば寺社の建物へのいたずらが相次いだ。嘉永二年(一八四九)五月の国日記によると、山王宮(市内田茂木町(たもぎまち))に子供たちが入り込み、柵や境内の樹木を切り倒したり、何者かがゴミや不浄物を捨てているとある(同前No.四七八)。また、嘉永元年、桶屋町(おけやまち)の八三郎という町人は勝手に稲荷神を勧進(かんじん)し、町内の者から依頼を受けて病気平癒(へいゆ)の祈祷を行ったとして三〇日の戸(こ)締め(謹慎処分)を受けている(同前No.四七七)。体制は急速に自壊に向かい、それとともに人々の精神も伝統的権威や既存の価値観に縛られることなく変化していったのである。