城下での生活

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(天和二年)五月二十一日、午前八時前に碇ヶ関を出発し、途中二度休憩をとり正午に弘前城に到着した。藩主家老に対し、我々を本丸御殿に呼び出しこれまでのご苦労にねぎらいの言葉をかけ、休憩をとらせるようにと命じられた。源五郎の母・次五兵衛夫妻・七左衛門の母・源五郎・介六・佐々木長次郎夫妻が私の帰宅を待っていた。夕飯(昼食のこと)をともにして帰っていった。
 二十二日、朝飯後、北ノ丸(郭か)へ参り、その後、津軽大学・喜多村監物・弥右衛門・唐牛(かろうじ)与右衛門・打越(うてつ)源五郎へ挨拶に行く。
 二十三日、今朝、隣松寺(りんしょうじ)(現市内西茂森二丁目)・耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺、市内西茂森一丁目)へ参詣。午前十時家老に呼び出され、二十二日より一〇日間の休息を与えられた。唐牛与右衛門宅で昼飯をご馳走になったが、成田七郎右衛門田山藤左衛門も来ていた。江戸から帰国に際し雇われてきた者たちが帰っていった。
 二十四日、朝飯後、帰国後初めて百沢次五兵衛を訪ねた。帰りに唐牛甚右衛門・成田七郎右衛門松野小左衛門・喜多村監物を訪ねる。戸田七郎兵衛の母・小寺三郎右衛門村田作右衛門なども来て昼飯をともにする。夕飯すぎ成田七郎右衛門田山藤左衛門種市文右衛門が参る。
 二十五日、午前九時すぎ藩主は仏参(場所不明)、藩主が帰ってから報恩寺(ほうおんじ)(現市内新寺町)へ参詣。昨日、私の組の足軽二人が飛脚となって越後(えちご)国(現新潟県)より到着。昼飯後唐牛与右衛門を訪ね、午後八時まで懇談して帰る。
 二十六日、朝飯後に登城して木村杢之介と会い、越後より来た飛脚について相談。それより柳河(川か)素木立新左衛門岡田帯刀山中六左衛門・唐牛甚右衛門を訪ね、さらに庄右衛門宅へ参り左京よりの書き付けを渡して帰宅。昼飯後に隣松寺(りんしょうじ)へ参り、帰宅後、唐牛与右衛門鑓屋庄五郎が訪ねてきて午後八時まで酒など飲み懇談。
 二十七日、先日の越後よりの飛脚、今日越後へ出発。昼飯後に唐牛与右衛門のところへ行く。木立新左衛門も来ていた。午後八時すぎ帰宅。
 二十八日、今日登城す。午前六時すぎ棟方角左衛門と会い、このたび江戸からお供してきた人たちは休みのはずだといわれ、すぐ帰宅した。昼飯後に触状が来た。それによれば、来月一日に城中で能が演じられるので見物するように、ただし出欠は自由とのことである。午後和田道伯鵜川常雲矢野玄よ(ママ)宅を訪ねる。やがて成田七郎右衛門も来た。暮れ少し前に帰る。七郎右衛門は私宅へ参り、そのうち鑓屋庄五郎もみえ、午後十時すぎに二人は帰っていった。
 二十九日、午前九時すぎ藤先寺(とうせんじ)(現市内西茂森一丁目)の僧侶が掛物を持ってきてくれる。その後、私は喜多村監物を見舞う。打越源五郎宅へ昼飯のころ参る。それから唐牛与右衛門と申し合わせて成田七郎右衛門を見舞う。昼ころ長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)・耕春院(こうしゅんいん)の僧侶が参り、しばらく話をして帰っていった。
 六月朔日、午前七時ころ登城し、月次(つきなみ)のお礼が終わり、九時すぎから能が始まり、それを見物して帰宅。今日城下の町々へ、各家々で氏神を祭り、八月十五日より八幡祭りを行うようにとの命令が出された。
 二日、午前六時、馬場へ行き馬に乗る。庭普請もする。矢野玄よ他友人が訪ねてくる。彼らは昼ころ帰っていった。
 三日、昨日で江戸からお供をした者たちの休みが終わったので、麻でお礼に登城。その後北ノ丸(郭カ)へ喜多村監物を見舞う。昼ころ与力(よりき)の子佐藤長四郎(十六歳)・高木七之丞(二十二歳)が参る。明日は親の祥月命日のため風呂をわかす。成田七郎右衛門が来たので二人で入浴し、午後十時すぎまで語り帰っていった。
 四日、午前六時前に唐牛与右衛門家老津軽監物の死亡を知らせてきた。六時すぎ悔やみに参る。帰宅後岡田帯刀(たてわき)より廻状がきていた。それによれば、監物死亡により午前九時すぎご機嫌うかがいに登城せよとの大目付よりの指図である。監物は午前四時に死亡し、二十五歳であったと大湯市兵衛が語っている。また監物の死亡時刻は、午前一時であると唐牛与右衛門が語っており、前者と違っている。午前九時すぎ藩士が登城し、監物の死亡につき記帳。今朝親の祥月命日につき、隣松寺の小僧一人と蘭庭院(らんていいん)(現市内西茂森二丁目)の僧侶が来たので食事を出す。今日は出番
 五日、午前八時、明番となり帰宅。朝飯後に長勝寺へ参詣。帰宅後、山中六左衛門岡田帯刀が来訪し、組の者の相談をする。
 六日、朝飯後、唐牛与右衛門・片山弥兵衛・山田清左衛門矢野玄よ九戸十右衛門古郡玄節が訪ねてくる。皆が帰った後、弥兵衛とともに本行寺(ほんぎょうじ)(現市内新寺町)へ参る。食当たり気味で腹の調子が悪く、本行寺より帰宅。夜~翌朝まで腹痛で薬を飲む。
 七日、医者中村道救が子息の宣春を伴って往診に来る。唐牛与右衛門が参り、昼飯を出す。午後五時出番、翌日、午前八時まで勤務する。
 八日、櫛引源左衛門成田七郎右衛門伏見屋六右衛門等来訪。源左衛門・七郎右衛門とともに貞昌寺(ていしょうじ)(現市内新寺町)へ参り、喜多村監物の位牌へ焼香する。帰りに西福院(さいふくいん)(現西福寺のことで貞昌寺塔頭(たっちゅう)、市内新寺町)に立ち寄ると、大変よい寺である。午後二時、唐牛与右衛門へ参り昼飯を食べ、その後与右衛門・小倉作左衛門北村武左衛門などと監物の悔やみに参る。その後弥右衛門を訪ねて忌中の見舞いをする。さらに津軽大学を訪ね、午後十時すぎまで話して帰宅する。ちょうどその時、百沢次五兵衛が来訪、しばらく語って帰る。
 十日、朝飯後、唐牛甚右衛門を訪ねたが不在、それより上原春節田山藤左衛門新屋縫殿丞八木橋杢兵衛櫛引源左衛門・甚右衛門・源右衛門・唐牛弥太左衛門などを訪ねる。帰宅後、唐牛与右衛門村田久七が参り昼飯を食べ帰る。午後六時より出番。午後九時、戸田左五兵衛が登城。松前からの使者と木村助左衛門が今帰ったことを高屋権兵衛をもって申し上げる。
 十一日、我家の風呂へ油柳雪・山田清左衛門・片山弥兵衛が来て入る。この風呂へ田山殿も来て、皆で昼飯をともにし帰る。村田久七宅へ夜咄(ばなし)のため、唐牛与右衛門成田七郎右衛門山田清左衛門鑓屋庄五郎・片山弥兵衛が同道し、夜の十二時に帰宅。
 十二日、今朝すぎ九戸十右衛門を訪ね、その後次五兵衛へ参り、話をしている内に津軽玄蕃殿より手紙が来てすぐ行く。今日玄蕃宅へ甚右衛門・刑部左衛門・松田五郎左衛門中村道救上原春節が参り、風呂に入り夜十二時までおり帰る。今日、栗原泰稽(芸)が玄蕃に呼ばれ、銀二〇枚一〇人扶持、家は須藤太次右衛門本家を下さるよう仰せ渡された。
 十三日、午前十時に城より廻状が来て、急煩(きゅうわずらい)の際の届け出は長柄(ながえ)奉行以上は大目付(おおめつけ)へ、寺社奉行より以下は目付へ差し出すようにとのことである。正午に林吉兵衛が参りしばらく語っていった。彼は狂言師である。午後六時出番、翌朝八時まで勤務。今日庭の踏石を修理する。
 十四日、朝飯すぎ長勝寺へ参詣し、隣松寺へ立ち寄り話をして帰宅。昼飯後八幡宮へ参拝。そこから百沢小左衛門を訪ね、夜の十二時すぎまで話をして帰宅。
 十五日、午前七時登城。今日素登城、栗原泰芸(ママ)が初御目見(はつおめみえ)、そのため正午まで城へ詰める。正午すぎ山中六左衛門とともに袋宮寺(たいぐうじ)(現市内新寺町)へ参詣。神楽があり、小寺三郎右衛門嶋口半左衛門吉屋久四郎竹屋半四郎竹村宗甫などもいた。しばらく休んで帰宅。昼飯後、長勝寺耕春院隣松寺僧侶が来訪、午後十時すぎまで相談し帰っていった。
 十六日、昼ころに大湯彦八打越源五郎唐牛与右衛門を訪ねる。今夜当番、午後六時登城し翌朝八時まで勤務。
 十七日、昼飯後、関治介手柄茂太夫・木村喜之介・佐々木長右衛門中川小隼人秋元定右衛門浅利儀太夫などを訪ねる。夜、成田七郎右衛門へ相談に行き十二時に帰る。
 十八日、今朝馬場へ行く。その後、木立新左衛門とともに唐牛与右衛門の所へ行き朝飯をいただき、それより笹森勘解由左衛門を訪ね、さらに高倉休羽・竹森郷右衛門を訪ねて帰る。昼ころ片山弥兵衛が参り、昼飯すぎ山田清左衛門が来て、両人としばらく話をし、午後三時前に帰っていった。昼ころ、唐牛甚右衛門より手紙が来た。それによれば、西ノ郭にある木を伐採するために、枝つき(ママ)に三組から一人ずつ合計三人を選び、二本柳孫左衛門へ名簿を提出せよとのことである。そのため土干しに出す予定の三人は枝つきを免除するよう六左衛門より連絡があった。
 十九日、朝飯後、小倉作左衛門へ参る。八木橋弥一右衛門妻子の願いについては、高屋権兵衛と申し合わせた後に申し上げるようにとのことであった。その帰りに岡勘解由(かげゆ)の留守を見廻り、さらに源五郎を訪ねてしばらく話をして、石山勘丞久保田源介杉山武介などを訪ねて帰宅。正午から庭木を植え直す。午後五時すぎ出番
 二十日、午前八時明番(あけばん)となり、すぐ馬場へ行く。帰りに唐牛与右衛門木立新左衛門がいっしょに我家に来て相談をした後に帰る。昼飯すぎ(時刻不明)に青沼与四右衛門宅で以前からの約束で昼飯をご馳走になる。唐牛与右衛門木立新左衛門・弥兵衛も来ていた。今日、越後国より組の佐々衛門が来訪し、越後国で組の小頭源左衛門・左次兵衛が今月四日より病気になり、十一日に死亡したと伝えてきた。
 二十一日、左次兵衛が御用人中へ申し上げたいことがあると言って出てきたが、今日は寄合い始めにつきそのようなことはできないといわれ、そのまま帰った。今日、隣松寺唐牛与右衛門新屋縫殿丞木立新左衛門・庄五郎・弥三とともに振舞いに行く。
 二十二日、山田清左衛門が来てしばらく話をして帰る。その後、百沢小左衛門三上伝之丞が訪ねてきてしばらく語る。昼飯後に佐々木長次郎の妻が参る。午後六時より出番
 二十三日、午前八時明番。朝飯後、北ノ丸(郭か)へ土のご機嫌うかがいに参る。その後に甚右衛門を訪ねたが不在なので、片山弥兵衛の所へ行き八幡宮の祭りの準備をみて帰宅。今日、山中六左衛門に招かれご馳走になる。林十内唐牛与右衛門和田道伯鵜川常雲も招かれていた。午後四時すぎに帰る。その後大浦町(おおうらまち)で馬に乗り、成田七郎右衛門を訪ね午後十時に帰る。今朝、金右衛門と杢太夫が江戸へ出発、伊勢や(ママ)源兵衛へ渡す金子三〇両を持たせる。利子が三両のため合計三三両である。山形では小平次へ六両渡すことになっている。
 二十四日、今朝、六左衛門・帯刀が登城。唐牛甚右衛門へ足軽の一日の勤務人数の書付けをみせたが一一四人である。そのため長勝寺報恩寺火消番は勤めがたいと申し上げる。このことは黒土刑部左(ママ)も聞いていた。今日、唐牛八三郎の前髪取りのお祝いに行く。その時、奉公について、今年中にも藩主江戸登りがあったならば、お供を勤めたいと申し上げると、甚右衛門はもっとものことだと話していた。
 二十五日、午前九時に藩主報恩寺へ参詣。藩主が帰った後に仏参。帰りに岡田帯刀唐牛与右衛門とともに道救宅へ立ち寄り、さらに山口惣三郎の所へも立ち寄って帰宅。午後二時に唐牛与右衛門へ参り昼飯をご馳走になる。木立新左衛門もみえた。午後六時出番、午後十時すぎに終わる。
 二十六日、今朝、国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)・橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町)からの守札を鳴海安太夫が奉る。岡田帯刀は登城せず、組の者たちが各御門の勤方の書き付けを用人中へ申し上げる。午前九時帰宅。昼ころに片山弥兵衛・庄五郎とともに誓願寺(せいがんじ)(現市内新町(あらまち))へ参る。泰(秦か)新右衛門も来ていた。昼飯すぎ彼らとともに浜の町の橋(現富士見橋か)を見物に行き、川原で酒を飲み、午後八時に百沢小左衛門宅で湯づけをご馳走になり帰宅。今日昼すぎに岡勘解由(かげゆ)が江戸より帰る。
 二十七日、今朝馬場へ行く。その後、岡勘解由を訪ねしばらく話をして帰る。その折、山中六左衛門宅をも訪ねる。唐(唐牛)与右衛門もいっしょであった。
 二十八日、午前六時登城、御礼を申し上げ、午前九時終わる。帰りに北ノ御丸(郭か)の大学(津軽大学)などへお礼を申し上げ帰る。飯後(時刻不明)竹盛郷右衛門を訪ねる。介之丞の子六之介十七年忌の弔いのためであった。帰りに評定所(ひょうじょうしょ)へ参る。足軽どもの勤番を今後大組の勤務場所四ヵ所にするよう唐牛甚右衛門が命じられた。午後六時出番
 二十九日、大学(津軽大学)よりご機嫌うかがいの手紙来る。相変わらずとの返事出す。岩木川の増水の問い合わせあり、増水なしと申し上げる。今日、木立新左衛門宅へご馳走になりに行く。唐牛与右衛門新屋縫殿丞青沼与四郎鑓屋庄五郎も招かれていた。帰宅後午後六時前に出番、これは山中六左衛門が忌中のため交代したからである。
 以上のことから、
(1)友人の来訪と、こちらから友人への訪宅、見物などのため友人と同道、その他の交際。
(2)勤務時間(午後六時~翌朝八時。隔日が原則と思われる)。
(3)藩主のお供をして寺院への参詣。
(4)登城し、藩政に関わる仕事。

などが記されており、上級藩士の生活の一端が知られよう。