[ルビ・注記]

説諭要略序   2
 
 筑摩県権令(ごんれい)(注1)永山公(注2)今茲(ここ)三月管下(注3)廻村視学ノ
 挙アリ。其挙ヤ自ラ各校ニ就テ開導(かいどう)(注4)説諭(せつゆ)ス。事
々懇篤(こんとく)(注5)言々(げんげん)(注6)痛切、一モ人民教化ニ関渉(注7)セサル
ナシ。善根隹柄(とりえ)(注8)ナルモノ聞毎ニ心之ヵ為ニ改
リ、之ヵ為ニ澄ミ、墨(注9)亦倍(ママ)従(注10)シテ傍ニ在リ。退
テ之ヲ記載シ数旬(注11)積テ半百(注12)ノ譚話(だんわ)(注13)ヲ得ル。題
シテ説諭要略ト云。然ト雖(いえども)墨素ヨリ不文(ふぶん)(注14)緒論(しょろん)
ヲ詳悉(注15)スルコト不能(あたわず)、只(ただ)其一班(注16)ヲ記シテ後進ノ
一助ニ備(そなう)ト云爾(いうのみ)。
 
  (改頁)   3
 
       筑摩県学務掛
   明治七年六月       権少属長尾無墨(ながおむぼく)(注17)謹誌
 
 

(1)明治二年(一八六九)、府県に権知事(奏任官)が置かれ、知事を補佐して管内の政事務をつかさどった。明治四年、廃藩置県後の府県官制改正により、知事のない府県に置き知事と同じ職務をつかさどった。同年一一月権令と改称。
(2)永山盛輝のこと。文政九年(一八二六)~明治三五年(一九〇二)。薩摩藩(鹿児島県)士族。明治二年(一八六九)伊那県に勤務し、同四年一一月筑摩県参事から権令となる。教育にを入れ、「教育権令」といわれた。明治八年(一八七三)新潟県権令に転出。
(3)権限によって支配する範囲内(地域など)にあること。ここでは筑摩県内のこと。
(4)ひらきみちびくこと。
(5)親切で手厚いこと。
(6)一つ一つの言葉。
(7)干渉に同じ。
(8)取り柄に同じ。長所。
(9)永山に従い廻村視学の様子を記録した長尾無墨のこと。
(10)陪従(べいじゅう)。貴人につきしたがうこと。
(11)旬は一〇日。したがって数十日のこと。
(12)一〇〇の半分。五〇のこと。
(13)はなし。談話。
(14)拙い文章。拙文。
(15)ひじょうに詳しいこと。
(16)一つの区分。班の全体。
(17)高遠藩士。?~明治二七年(一八九四)。万延元年(一八六〇)藩校進徳館の助教に任命。明治維新後筑摩県が設置されると庶務課に勤務した。明治七年権令永山盛輝の教育事情視察に随行して諏訪・伊那の両郡を巡回し、『説諭要略』にまとめた。
 
 
 
  (改頁)
 
説諭要略   3
 
第一回
 今般権令ノ巡廻イタスモ。余ノ義ニ非ス。第一学校勧
 奨
ノ為メ。且ハ新県創置以来。親シク村落ノ民情ヲ取
 ラス。故ニ今般自ヲ臨ンテ。成否ヲ洞察スルナリ。現今
 ノ急務ト云ハ学校ナリ。故ニ
 朝廷ヨリ厚ク御世話アッテ。村ニ無学ノ家ナク家ニ
 無学ノ人ナク
。其旨趣ヲ恢張(かいちょう)(注1)シ。無智ノ民ヲ誘ヒ。開化
 ノ新境ニ入ラシム。サテ天下ノ学ヲ八(七)大区ニ分チ。其
 二大学区ハ尾張愛智(ママ)県ヲ本部トス。我ヵ筑摩県コレ
 ニ属シ。管内ノ土地広狭ヲ計リ四中学区ヲ設ク。
 ヲ称シテ十七番中学区トシ。高島ヲ呼テ十八番中学
 
  (改頁)   4
 
 区トス。飯田ヲ唱ヘテ十九番中学区トス。飛騨高山ヲ
 号シテ廿番中学区トス。則(すなわち)其区内ニ番号ヲ標(注2)シ。設立
 スル校数五百余校ニ渉(わた)レリ。是ヲ官立学校伺トシ。
 部省
ノ許可ヲ得タリ。其盛事ヲ誉(ほめ)テ。各種ノ新聞誌ニ
 掲載ス。普(あまね)ク世人モ知リタレハ。当県ノ美(ママ)目(びもく)ト云ヘシ。
 是ハ皆管内ノ者。尽シテ興起スル所以(ゆえん)(注3)ナリ。然ルニ
 其名アッテ。其実ナカランコトヲ恐ル。故ニ当否如何カ
 アラント。遠ク山河ヲ跋渉(ばっしょう)シテ。村々ヲ巡視セリ。然ル
 ニ到ル処学幟ヲ翻シ。校札ヲ掲ケ。〓語囂々(いごごうごう)(注4)タリ。是レ
 権令ノ歓喜スルトコロナリ。抑(そもそも)学校ノコトニ就キテハ。
 度々布達スルコトナレハ。各(おのおの)承知ノコトナレトモ。先ツ学問
 ノ趣意ヲ諭(さと)サン。夫(それ)学校ハ天下富強ノ基。衆人一身一
 
  (改頁)
 
 家ヲ保全シ。家屋ヲ繁栄シ。土地ヲ蕃殖(はんしょく)(注5)スルハ。皇国ノ
 大基礎ニシテ。学校ニアラスンハ。何ヲ以テ天下富強
 ノ基トセンヤ。西洋各国ノ富ヤ。学校ノ盛ナルニ因ル。
 今ヤ皇国一般建校ノ挙アリ。我筑摩県モ。夙(つと)ニ御趣意
 ヲ奉戴(ほうたい)セリ。教ヲ普ク管内ニ播(ま)カンコトヲ期ス。父兄タ
 ルモノ能(よ)ク此意ヲ体シテ。幼童ヲシテ就学セシムヘ

 シ。村落ノモノ共ハ。兎角(とかく)旧染(きゅうせん)(注6)ヲ守墨(しゅぼく)(注7)シ。朝耘夕〓(ちょうこうゆうしょ)(注8)シテ。
 鋤ノ柄サヱ取レハ。其職ヲ尽ストテ。自ラ許シ。蒼生(そうせい)(注9)ノ学間ナト返テ其弊ヲ生ツト。世々以テ習(ならい)トセリ。今ヤ
 四民同権トナリ。其故ハ士族ニ帯刀ヲ勝手次第卜云。
 農商工ハ袴ヲ許シ。或ハ乗馬ヲ許シ。官員ヲ挙ルニ門
 閥(もんばつ)(注10)ヲ問ハス。兵ヲ徴スルニ士民ヲ不言。皆ナ事ニ堪ユ
 
  (改頁)   5
 
 ル才能ヲ用ユルナリ。学文ハ新智発覚ノ階(かいてい)(注11)。開化通
 暢(つうちょう)(注12)ノ機管ナレハ。人々能ク従事スレハ。他日成器(注13)ヲ取
 リ。上ニ誉(ほめら)レ。下ニ崇(あが)マレ。遂ニ官撰ヲ蒙(こうむ)リ。去年ノ蒼生
 ハ。今年ノ参議。昨日ノ傭夫(ようふ)ハ。今日ノ大輔(たいふ)(注14)トナル。是則
 方今(ほうこん)(注15)御趣意ノ濺(そそぐ)トコロナレハ。現ニ難有(ありがたき)コトナラスヤ。
 其徳性才質自ラ善良ニ帰スルコトナレハ。其父兄ナル
 モノ学資ヲ募リ。成器ノ財本ヲ起スヘシ。半白(注16)ノ野老(やろう)(注17)
 ヲ製(ママ)圧スルニアラス少年輩。必ス就学セシムヘシ。努(ゆめゆめ)
 忽諸(こっしょ)(注18)ニスヘカラス。我管内ヨリシテ。他日国器(こっき)(注19)ニ充ツ
 ヘキ人ヲ出サハ。我ヵ志願茲ニ畢(おわ)レリト。到底(とうてい)反覆。囓(か)
 ミ含メル如ク説キサトサンタリ。
 
 

(1)大いに張りのばす。
(2)しるす。
(3)いわれ。わけ。
(4)書を読む声がやかましいさま。
(5)しげりふえる。
(6)古くからしみこんだならわし。
(7)墨守。古い習慣や自説を固く守りつづけること。
(8)朝夕にたがやす。
(9)人民。
(10)その家の貴賎・地位・格式。家がら。
(11)階段。入門的手引き。
(12)滞るところがない。
(13)よきうつわ。
(14)律令制の八省の次官。
(15)ただいま。現在。
(16)白髪まじりの毛髪。
(17)田舎の老人。
(18)おろそかにすること。
(19)国家を治めるのに足る器量。また、その人。
 
 
 
第二回   5
 
  (改頁)
 
 凡国政ヲシキ。民治ヲ興スモノハ。学校ヨリ先ナルハ
 ナシ。故ニ我管地学校ヲ以。民治ヲ興起スルコトニ著手(ちゃくしゅ)
 ス。去来(きょらい)(注1)統轄ニ労シテ。良今日盛隆ニ及へリ。抑(そもそも)学校ノ
 挙タルヤ。君ニ忠ヲ尽シ。親ニ孝ヲ尽シ。上ハ敬シ。下ハ
 憐ミ。和睦以テ年ヲ踰(こえる)。安楽以テ日ヲ渉(わたり)リ。家ニ奸盗(注2)ノ
 人ナク。野ニ餓〓(がひょう)(3)ノ人ナク。風ヲ易(か)へ俗ヲ移シ。寸善(注4)之
 ニ進ミ。寸悪コレヲ懲ス。コレ斉家(せいか)(注5)脩身ノ学。教化ノ及
 フトコロナリ。サスレハ聴訟(ちょうしょう)(注6)断獄(注7)ノナキ。是民治興隆
 ノ第一ナリ。上ニ訴フニ実事ヲ詳(つまびらか)ニシ。下ニ布告スル
 其状義(注8)ヲ明ニスル文章ナリ。声ヲ標(あらわ)シ。事物ヲ記シ。
 以テ之ヲ他日ニ証スルモノハ文章ナリ。言語ヲ綴リ。
 意想ヲ写シ。以テ是ヲ四方ニ逹スルハ文字ナリ。是上
 
  (改頁)   6
 
 旨下達(じょうしかたつ)誤解ノ弊ナク。サスレハ民治興起ノ第二ナリ。
 天文ノ度数ヲ知。地理ノ経緯ヲ量(はか)り。物理ヲ究メ。物数
 ヲ算スル。算術裨益(注9)ノ学ナリ。凡人算勘(さんかん)(注10)ナケレハ。産業
 立チカタク。今日ニ甚踈(はなはだうと)ク見ユルナリ。故ニ是ヲ学テ
 営基(えいき)ヲ設ケ。財本ヲ開ク。サスレハ民治興隆ノ第三ナ
 リ。摠(すべ)テ見聞博カラサレハ。活開クニ期ナク。学事勉
 メサレハ。義理分明ナラス。爰(ここ)ヲ以テ管内学校ヲ以テ
 民治興隆大基礎トシ。人物教育ノ棟梁(とうりょう)(注11)トシ。他日国器
 ヲナサントス。汝等夫レコレヲ勤メヨ
 
 

(1)過去よりこのかた。
(2)邪悪な盗賊。
(3)飢え死する者。
(4)すこしばかりの善いこと。
(5)一家をととのえ治めること。
(6)訴訟をとりさばくこと。
(7)罪をさばくこと。
(8)ありさまの意味。
(9)おぎない益すること。
(10)数の勘定。計算。
(11)集団の中心的・指導的な地位にある人。
 
 
 
第三回   6
 管内ノ校数五百余校ハ。既ニ文部省許可ヲ得タリ。且
 ツ其村々ヱ渡セシ。単語連語ノ図ヲ始メ。教則書類
 
  (改頁)
 
 翻刻(ほんこく)(注1)ヲ同省ヱ願タルトキ。其砌(みぎり)ハ我ガ管下ノ盛挙ヲ
 絶唱シタリト聞ク。近日文部省ノ官員派出シテ。〓査
 アルヘキト聞ヱタリ。去年ハ鞅掌(おうしょう)(注2)ノ故ニヤ。行旅ヲ遂
 ケス。依テ当秋ハ文部省ニ申請シ巡校ヲ乞フ積リナ
 リ。其先ニ当リテ。権令親(みずか)ラ廻村シテ。其方共ニ説諭
 ルナリ。第一回ニ述ルカ如ク。学制御発行ノ御趣意。無
 学ノ村民ナキヲ期スルハ勿論。其他布達スル学校ノ
 事務。兼テ心得アルヘキナレト。夫(それ)或ハ声ヲ先ニシ。実
 ヲ後ニス。事鉛刀(注3)ニ属シ。実画餅(がへい)(注4)ニ斉(ひと)シカラント。其際
 ヲ〓スルナリ。若シ文部省派出ノ官員アッテ。点〓適
 切ナラサルトキハ。其責メ此権令ニ纏(まと)ヒ。何ヲ以テ陳
 謝セン。今各(おのおの)ニ説諭スル。殆(ほとん)ト二時間ヲ費セリ。孰(いず)レモ
 能(よく)体認(注5)ナシタルヘシ。当秋文部省派出ノ官員来。コレ
 マテ諭シ置シニ。振ワサル校アレハ。其時ノ責(せめ)ハ。我ニ
 アラス。其方共ニアリト知ルヘシト。誡(いまし)メテ父兄ノ項(ママ)
 門ニ(いしばり)(注6)シタリ。
 
 

(1)書物を原本のままの内容で再び出版すること。
(2)いそがしく働くこと。
(3)鉛で作った刀。なまくら刀。
(4)絵にかいた餅、すなわち実際の役に立たないもの。
(5)体験してしっかり会得すること。
(6)頭の後ろの大事な場所に病を刺す石で造った鍼をうつ。
 
 
 
第四回   7
 生徒ノ学間スルハ。必資金ニ非レハ。才ヲ潤(じゅんしょく)(注1)シ。智ヲ
 扶助(ふじょ)シ。其資金ニアラサレハ不能(あたわず)。ミナ父兄ノ知ルト
 コロト雖(いえども)。又出金ヲ難スルハ聞ヱサルナリ。是真ノ恩
 愛(おんあい)(注2)ニ非ス。実ニ我子ヲ養育スルノ道ヲ失へリ。故(ゆえに)如何(いかん)
 トナレハ。僅ノ元資ヲ吝(おし)ンテ。遠ク利ヲ射ルコトヲ知ラ
 サル愚ト謂(い)フヘキナリ。譬(たとえ)ハ一年ニ十円ノ元資差出
 ト見テ。利子一年ニ一円五十銭ナルヘシ。十年出セハ。
 
  (改頁)
 
 金十五円ニナリ。其家ノ生徒十年勤学セハ。其人乍(たちま)チ
 逹職シテ。一郷上ニ躍レリ。果シテ官員ニ抜擢(ばってき)(注3)セラレ
 ハ。末席ニ繋(つなが)レテモ。官給十五円ハ被下(くださ)ルナリ。サスレ
 ハ。彼カ十年十五円ノ元資金ヲ出シ。人物功磨(こうま)(注4)スレハ。
 官員トナツテ。一月十五円ヲ掌握スルナリ。是今日ノ
 達路(たつろ)(注5)ナリト諭サレタリ。
 
 

(1)うわべをつくろい飾ること。
(2)「おんない」ともいう。情け。愛情。
(3)多くの中からひきぬいて用いること。
(4)よく磨くこと。
(5)とおる路。いたる路
 
 
 
第五回   7
 権令各校ニ就テ。学制ノ御趣意懇々(こんこん)相諭シテ曰(いわく)。我管
 内別ニ郵便ノ法ヲ設ケ。兼テ布逹セシコトニテ。普(あまね)ク知
 ルヘキ筈ナリ。則撫育(ぶいく)(注1)ノ一派ニ出テ。民々ノ疾苦(しっく)(注2)ヲ助
 ケ。村々ノ雑費ヲ除(のぞ)クナリ。故如何トナレ。訴訟願逹
 其人出県ノ費。其休泊料十里内外。壱人ニ付一日カ粗(ほぼ)
 
  (改頁)   8
 
 冗費(じょうひ)(注3)五十銭ナルヘキナリ。然ルヲ此郵便ニ托シタレ
 ハ。目方二目(もんめ)(注4)以下ノモノハ。二銭ニテ達スルナリ。県庁
 其法ヲ以テ。速ニ指揮ヲ下シ。又二銭ヲ以テ。逓送(ていそう)(注5)スル
 ナリ。出県休泊莫大(ばくだい)ノ費用。右ノ四銭ニテ各願意ヲ徹
 セリ。争訟待罪(たいざい)(注6)ノ外。必ス郵送シテ費ヲ省クヘシ。未タ
 人民ノ旨趣ヲ了解セサルヘシ。因(より)テ村民ノ便覧ニ文
 挌(注7)ヲ編著セリ。願ヒ。伺ヒ。届等其文体ヲ相記シ。是ヲ活
 版ニ上セ。近日必ス布達スヘシ。願人等必戸長副ノ奥
 印ヲ取リニ来ルヘシ。其時必ス編著セル。文挌ノ雛形
 ヲ示シ。協義スヘシ。努々(ゆめゆめ)誤テ県庁マテ。空(むなし)ク旅行スル
 ナカレ。爰ニ県官著手(ちゃくしゅ)シテ。満村ノ巨費ヲ省キタリ。汝
 細民此意ヲ体セヨ。冗費五十銭ト見傚(みな)シ。郵便ニ四銭
 
  (改頁)
 
 ノ空耗(くうもう)(注8)ナレハ。四十六銭ハ其家二残ルヘシ。是等ノ余
 金ヲ学校ノ費途ニ備フヘシト諭サレタリ。
 
 

(1)いつくしみ育てること。
(2)なやみ苦しむこと。
(3)むだな費用。
(4)目(め)は匁(もんめ)の別称。
(5)郵便で送ること。
(6)処罰を待っていること。
(7)文体・用語などについての品格。
(8)空しくつきはてること
 
 
 
第六回   8
 筑摩県内ニ於テ。乞食(こじき)物貰ノモノヲ厳禁セリ。邂逅(かいこう)(注1)徘
 徊(はいかい)(注2)スレハ。乍(たちま)チ追放ス。令ヲ敷キ。法ヲ行ヒ。近日一人ノ
 過ルナキハ。汝等得テ知ル処ニシテ。饑餓(きが)ヲ叫フコト無
 キ筈ナリ。右ハ無頼(ぶらい)ノ惰民(だみん)ニテ。輝々(きき)タル文明ノ街ニ
 容(いれ)ラレサルナリ。是ヲ憐テ食ヲ与フレハ。生涯ノ萍跡(へいせき)(注3)
 定マラス。一張(はり)ノ薦(こも)一箇ノ椀ニ親シミ。残食ヲ乞。糟粕(そうはく)(注4)ヲ舐(なめ)リ。橋下ノ天地ニ安シ。且恥(は)シ且懲(こりる)ノ期ナク。其弊
 末(すえ)。昼ハ戸口ニ停(たたず)ミ。覬覦(きゆ)(注5)シ夜ル窃盗ヲナスアリ。天下
 無用ノモノナレハ。コレヲ懲(こら)シ。コレヲ攘(はら)フトモ。决シ
 
  (改頁)   9
 
 テ不愍(ふびん)ノ所為(しょい)ニアラス。反(かえっ)テコレヲ憐ムナリ。故如何(いかん)
 トナレハ。各地ニ貪食(どんしょく)(注6)シテ。人ノ与ヱサレハ。始テコレ
 ヲ悟リ。我苟安(こうあん)(注7)ニテ。此苦界ヲ招キ出セリ。寧(むし)ロ饑餓シ
 テ倒死スルナレハ。改心シテ孰レカカセキヲナシ。縄
 ヲ製スルモノカ。又草鞋(わらじ)ヲ造クリ。或客作(かくさく)(注8)日傭(ひよう)(注9)シテ。残
 年ヲ送ルヘシト。始テ雲霧ヲ排シ。青天白日ヲ拝スル
 カ如ク悔悟(かいご)(注10)シテ。車夫ニ出テ輿夫(よふ)(注11)ニ傭ハレ。人間ノ人
 間タル道ヲ務メシムルニイタル。是全ク乞食ノ悪弊
 ヲ改心セシムルノ策ナリ。加之(しかのみならず)僧侶ノ托鉢修験ノ勧
 化(かんげ)(注12)等ヲ停止セリ。偖(さて)是迄右等ノ物貰ニ。与ヱタル米。一
 日一合施スト見レハ。一年二三斗六舛(ママ)一石金三円ノ
 相場卜見レハ。一円以上ノ金員トナル。一日五合ト積
 
  (改頁)
 
 レハ一石六斗前相場ニテ五円以上ナリ。一日ニ壱舛(ママ)
 施スト見レハ。一年ニ米三石六斗。一石前相場ニテ金
 十円以上トナルヘシ。サレハ各目施米スル多ハ。冗費
 ニ消スルナリ。流俗如斯(かくのごとき)ノ悪シキ弊ニ固結(こけつ)シテ。其出
 ストコロ何トモ思ワス。外ニ又費ヲ省クアリ。助郷人
 馬ノ煩ヲ省キ。信州全国法ト云モノヲ廃シ。又米税金
 税ト替リタレハ。各戸ニ幾多(いくた)(注13)ノ財ヲ余セリ。方今(ほうこん)教育
 ノ善事ニハ勤メテ元資金ヲ募ルヘシ。猶(なお)前回ト同轍(どうてつ)(注14)
 ノ談ナリト。其是非ヲ弁解シテ説諭サレタリ
 
 

(1)めぐりあうこと。
(2)どこともなく歩き回ること。
(3)四方に奔走して一箇所に止まらないこと。
(4)かす
(5)下より上に向ってうかがい見ること。
(6)貪り食うこと。
(7)一時の安を貪る。
(8)賃金などを得て働く者。
(9)一日を限って雇われること。
(10)今までのことを悪かったとさとり、悔いること。
(11)かごかき
(12)仏の道をすすめること。寺の建立・修復のため寄付をつのること。
(13)数多く。
(14)車の通ったあとが同じ。転じて同じ内容の話。
 
 
 
第七回   9
 国ヲ恢張(かいちょう)(注1)シ。家声ヲ隆盛ニスルモノハ。授産(じゅさん)(注2)ノ法方
 ヲ設(もうける)ニアリ。其法起ツテ。国必フルヒ。其産開テ家必起
 
  (改頁)   10
 
 ル。我筑摩県管内ノ如キハ。山間ノ僻地卜雖。其産ス
 ル物品ニ乏シカラス。人民又敢為(かんい)(注3)ノ産ヲ知ル卜雖。其
 資本ニ乏シキ故。コレヲ施スコトヲ不得(えず)。徒手(としゅ)(注4)日ヲ渉リ。
 無産年ヲ踰(こ)エ。遂ニ国家声ノ不振ニ至ル。権令意ヲ
 茲ニ注キ。勧業社ヲ起シ。其法方ヲ設ケ。普(あまね)ク管内ニ敷
 キ。以テ維持ノ道ヲ開カントス。且又人生ノ大患(たいかん)ハ。
 饉
ヨリ大イナルハナシ。而(しこうし)(注5)テ凶歳(きょうさい)ノ来ル計ルヘカラ
 ス。窮民救助ノ法。今日ヨリシテ。其准備(じゅんび)ヲナスコトニテ。
 先般勧業者則ヲ以テ達置(たっしおき)候通。旧高反別一反ニテ米
 一舛(ママ)。雑穀一舛(ママ)ツヽヲ出シ。雑穀ハ村ニ積置。米ハ金ニ
 替テ県庁に出シ。偖(さて)ソノ経算(けいさん)(注6)ハ勧業社ニテ授産ノ法
 ヲ設テ施ス。昨酉(とり)年分一万五千ト今戌(いぬ)年分一万五千
 
  (改頁)
 
 ト。凡(およそ)賦(はか)リ合テ三万円計リ。又申(さる)年未(ひつじ)年官員並ニ有志
 ノ者。積金千八百円アリ。加ルニ是マテ県庁ニアリ
 金員。三万八千七百円アリ。是ヲ勧業社資本ノタメ。大
 蔵省へ伺タルトコロ。無利足ニテ拝借聞済。彼是ヲ算
 シテ。七万円余ノ資金ヲ産セリ。是ヲ以(もって)近日勧業社ヲ
 開キ。適宜ノ場所へ支社ヲ結ヒ。社長事務取扱等ノ諸
 司ヲ設ケ。夫々勧奨シ。窮民ニ授産スルハ五伍(ごご)ノ法ヲ
 以ス。譬(たと)へハ五人ノ内二人貧窮ノモノアレハ。外三人
 ノ者怠惰ヲ督責(とくせき)(注7)シテ。適宜ノ産ヲ勧メ。則勧業社ノ事
 実ヲ述。三人引受資金ヲ借テ。二人ノ者ニ産ヲ授ク。若
 産ニ不利ナルトキハ。三人コレヲ補ヒ弁金(べんきん)(注8)ス。故ニ五
 伍ノ組合タル。同心協一家ノ如クス。其法行ワルヽ
 
  (改頁)   11
 
 トキハ。毫(すこし)モ負債ノ弊ナキニ至ラン。年々元利ヲ積上。
 遂ニ十ヶ年ヲ経ハ。二十六万余ヲ出スヘシ。サスレハ
 資本マスマス蕃殖(はんしょく)シ。期年(注9)ノ富ヲナスヘキナリ。是汝
 等ヲ撫育(ぶいく)スルニ此設ケアル所以(ゆえん)(10)ナリ。カクマテ県庁
 ニ於テモ焦心(しょうしん)(注11)苦思シテ。民ノ救助ヲ起スナリ。前一回
 ニ演(のべ)ル如。学校ヲ設立シテ。学業ニ就(つか)シメ。今マ勧業
 ヲ奨シテ。産業ヲ営マシメ。汝等ヲシテ家ヲ富シメ。汝
 等ヲシテ智ヲ開カシメンコトヲ思フナリ。然ルヲ学資
 金ヲ出シ。又米穀ヲ出セヨト。出々ノニ字ヲ誤認シテ。
 不都合ヲ生ツル勿(なか)レ。此勧業社ノ出穀ハ。下(し)モノミ出
 スニ非ス。権令始メ官員一同相応(そうおう)ニ出穀セリ。必ス上
 下一同協シテ。此財本ヲ設ルナリト。諭シタリ。
 
 

(1)広げて大きくする。
(2)職業を与え、生活の道をたてさせる。
(3)物事をおしきってすること。
(4)自分の以外、何もたのむものがないこと。
(5)そうして。それから。
(6)計算におなじ。
(7)取締り促すこと。
(8)金を返す。
(9)一周年。
(10)いわれ。わけ。
(11)思いわずらうこと。
 
  (改頁)
 
第八回   11
 筑摩県下ノ産物種々アリト雖。養ノ裨益(ひえき)(注1)ニ譲ルモ
 ノナシ。抑(そもそも)我管内ノ地味ニ相応シ養気候ニ適ス
 前回説トコロノ勧業社ニテ。授産中ノ最大トス。汝等
 努(つと)メテ。養ヲ開クヘシ。依テノ培用養ノ裨益ヲ
 示サン。去々申(さる)年筑摩県一覧表ヲ上梓(じょうし)(注2)シ。売サハキタ
 レハ。孰(いず)レモ見タルヘキナレト。田畦(たあぜ)租税ノ高ト。養
 ノ高ヲ比較スルニ。概子(おおむね)田税カ。四十五万円余。夫レヲ
 五公五民ノ法ニテ。四十五万円ハ。民二在ルト見傚(みな)シ
 金九十万円余ナリ。養ノ金高ハ。九十二万円余ニ及
 ヘリ。コレヲ比スレハ。二万円余ハ養ノ高増加セリ。
 田地ハ家毎ニ耕セリ。養ハ家毎ニ非ス。而(しこうして)米ノ価ヨ
 
  (改頁)   12
 
 リ優(まさ)レルハ何ソヤ。其裨益知ルヘキナリ。且又ハ一
 坪ニ六株栽(うえ)テ。一株一銭五釐(りん)卜見ルトキハ。一坪価九銭
 トナル。コレヲ三百坪ニシテ。千八百株ニナリ。是則チ
 二十七円ノ代価ナリ。又一株ヲ一銭卜見レハ。一坪ニ
 六銭三百坪二十八円トナル。極(ごく)上田ノ収獲米。三百坪
 ニテ五石卜見ナシ。代金ニ積ミ(注3)。一石三円卜見テ。十五
 円ニナル。然レハ。ノ代価十八円ニテ。三円余ハ
 方ニ益アリ。今ヨリシテ。畑ニハヲ植ユヘシ。且ツ彼
 ノ塢(う)(注4)テ。此ノ畔ヲ余サス。栽培シテ養巨益ヲ取ルヘ
 キナリ。何卒(なにとぞ)勧業社ノ法ヲ以。所々ニ製糸塲ヲ設ケ。紡
 車器械ヲ始ムヘシトナリ
 
 

(1)利益となること。
(2)図書を出版すること。
(3)みつもる。
(4)どて。つつみ。
 
 
 
第九回   12
 
  (改頁)
 
 筑摩県管内ノ各校ヲ巡査(注1)シ。其学資ノ足サルトコロ。
 村落窮乏ニシテ。勧奨ニ道ナキトキハ。村民ヲシテ一
 月(ひとつき)一日(いちにち)学校ノタメニ勤ムへシ。各(おのおの)客作(かくさく)(注2)シテ。得ルトコ
 ロ償金。概子(おおむね)十二銭五釐(りん)内外タルヘシ。其金ヲ十二月(じゅうにかげつ)
 算シタレハ。壱円五十銭。則是一割五分ノ利子ニテ。十
 円ノ元資ヲ産出セリ。汝ラソレ之ヲ勗(つとめ)テ。学費ヲタス
 ケヨト説諭アリタリ。
 
 

(1)まわって調べること。
(2)賃金を得て働く。
 
 
 
第十回   12
 権令ソノ管内ヲ巡廻セシトキ。師範講習所教員ト。予
 科生徒十歳以下ノ者数名ヲ拉(したが)ヱ。村々各校へ立寄リ。
 親シク説諭イタサレタリ。此童子ハ皆下等小学。教科
 卒業ノ生徒ニシテ。到処(いたりしところ)八級(注1)ヨリシテ。夫々学業ヲ相
 
  (改頁)   13
 
 示シタリ。書取問答(注2)影響(注3)ノ如クナレハ。各校へ集会ス
 ル人民座(ママ)ロニ感激ニ堪タリ。偖(さて)其温習(おんしゅう)(注4)止ンテ。権令自
 ラ彼ノ童子ヲ指シ示シ。コレヲ見ヨ。彼ノ童子ハ孰(いず)レ
 モ八九歳ニシテ。此技〓(ぎりょう)ヲ挟(はさ)(注5)ミタリ。算ヲ問へハ。算声
 ヲ発シ。字ヲ叩(たた)(注6)ケハ。字響ヲナシテ。皆目撃スルカ如ノ
 才能アリ。凡(およそ)人ハ文ヲ読ミ。字ヲ写シ。物ヲ数(かぞえ)ルカ。今日
 活用ノ急務タリ。故ニ朝意ノ濺(そそ)クトコロ。専ラ学問ニ
 アリ。汝等幼年ヲシテ。就学セシメヨトテ。奨励シタリ
 シカハ。村々ノ学校大ニ振ヒ。皆干円有余ノ元資ヲ募
 リ。教員ヲ講習所ヨリ招シ。俄(にわか)ニ旧来ノ教方ヲ除却(じょきゃく)シ。
 正則ヲ踏(ふ)ミ。一轍(いってつ)(注7)ノ教則ニ至リシト云。嗚呼文意足ラ
 サルトコロハ。形状ヲ以(もって)ス。而(しこうし)テ通常ノ人了解スルニ
 
  (改頁)
 
 至。况(いわん)ヤ山間ノ頑民(がんみん)。何ホト口ヲ極メテ説諭スト雖。氷
 訳(ママ)(注8)スルニ至ランヤ。然ルニ其所作形状ヲ以テ。此児ハ
 八歳ナレト。此ノ文ヲ綴リ。此童(わらべ)ハ九歳ナレトモ。此算
 ヲ能(よく)スト。汝ラノ子モ就学勉強セヨ。此ノ童子ノ如ク
 ナルソト。世ニ有用ノ者トナレハ。貴キ人トナルヘシ
 ト。目下ニ指シテ示シタレハ。頑蒙(がんもう)疑怪(ぎかい)(注9)ノ念。俄然卜氷
 解シ。村校ノ盛大ニ至レリト云。権令頑民共へ鼓舞(こぶ)著
 手(ちゃくしゅ)ノ一策ナリ。
 
 

(1)下等小学は八級から一級まで。毎級六ヶ月で卒業し、つぎの級へ進んだ。
(2)下等小学の教科・学習内容の一部。
(3)反応・変化があらわれること。
(4)繰返して復習すること。
(5)おびる。もつ。
(6)問う。たずねる。
(7)同じ轍(わだち)。転じて同一。
(8)訳(譯)は釈(釋)の誤り。氷釈(ひょうしゃく) こおりが解けること。
(9)うたがいあやしむこと。
 
 
 
 
第十一回   13
 権令廻村シテ。管内ノ塩尻町村(注1)ヲ過(とお)リ。其学校へ立寄。
 学校ハ天下富強ノ基。土地ヲ繁栄ニスルノ大礎ナリ
 ト。第一回ニ述(のべる)ヵ如ク反覆(はんぷく)説諭セシトキ。右村川上滝
 
  (改頁)   14
 
 三郎妻。町江ト云モノ。傍(かたわら)ニ在リテ聞キ。頗(すこぶ)ル感銘シタ
 リ。折節(おりせつ)(注2)放学(ほうがく)(注3)ノ時間。天油然(ゆぜん)(注4)ト掻曇(かきくも)リ。驟雨(しゅうう)(注5)降リソヽキ。
 俄(にわか)ノコトナレハ。帰途雨具ノ用意モナク。寒垢離(かんこり)(注6)坊主ノ
 如ク。溢レハテヽ。右往左往ニ馳(は)セ帰レリ。妻町江ナル
 モノ。其体容(たいよう)(注7)ヲ目撃シテ。感念(かんねん)(注8)ヲ起シ。今ヤ人民教育ノ
 沢。卒(ママ)土(そっと)(注9)ニ漲(みなぎ)リ。難有(ありがたい)御趣意ノトコロ。此驟雨ニ隔テラ
 レ。幾多ノ難義ニ相罹(あいかか)リ候段。イトナケカハシトテ。自
 ラ紡績ノ余資(よし)ヲ出シ傘拾本ヲ差出シ。生徒ノ雨具ニ
 供シタリ。嗚呼(ああ)物ノ感情ハ。物ノ切処(せっしょ)(注10)ヨリ起ル所謂(しょい)(注11)ニ
 シテ。尋常有富ノモノヽ献金ト違ヒ。感情ノ極ヨリ発
 スルトコロニシテ。婦人ノ至情(しじょう)(注12)感スヘシトテ。権令其
 奇特(きとく)(注13)ヲ誉メタリ。
 
 

(1)塩尻村(現塩尻市)のこと。
(2)おりふし。折々。
(3)放課。
(4)雲などがさかんにわき起こるさま。
(5)にわか雨。
(6)寒期に神仏に祈願し、冷を浴び身体のけがれを去って清浄にすること。
(7)からだ。すがた。
(8)心を動かし思うこと。
(9) 率土のこと。国のはて。
(10)山路などの難所。要害の地。
(11)世にいう。俗にいう。
(12)誠。まごころ。
(13)行いが感心なこと。
 
  (改頁)
 
第十二回   14
 権令廻村シテ伊那郡飯沼村(注1)ノ校ニ至リシトキ。生徒
 多人数テーブルニ凭(よ)(注2)リ。教師ノ鞭ヲ揚(あげる)ヲ竢(ま)ツアリ。座
 中ニ衣(ころも)海(うみまつ)(注3)ノ如ク。髪夜叉(やしゃ)(注4)ノ如ク。一箇ノ醜童(しゅうどう)アリ。定(さだめ)
 テ温習未熟ノ事ト思ヒシニ。サハナクテ。書取問答
 術
ノ技ニ至ルマテ。影響(注5)ノ如クナレハ人々感ニ堪(たえ)タ
 リ(注6)。方今文明ノ街ニテ此貧童ニ此技〓(ぎりょう)アル。全ク朝旨
 ノ濺(そそぐ)トコロニシテ。今鶉衣(じゅんい)(注7)蓬髪(ほうはつ)(注8)モ他日錦衣彩冠ノ看(かん)(注9)
 ヲナシ。国器(こっき)トナルヘキモ計リカタシト語ラレタリ。
 
 

(1)現飯田市
(2)よりかかる。
(3)朝鮮のこと。
(4)インド神話で森林に住むとされる神霊。鬼神。
(5)反応・変化があらわれること。
(6)深く感動するさま。感に堪えない、と同じ。
(7)みすぼらしい着物。
(8)のびて乱れた髪。
(9)ながめ。
 
 
 
 
第十三回   14
 権令管内ノ各校へ巡廻ノトキ。講習所ノ予科生徒ヲ
 携(たずさ)へ。村校へ就ク毎(ごと)ニ。正則ヲ踏(ふま)シメ。其技〓ヲ示サレ
 
  (改頁)   15
 
 タリ。満黌(まんこう)(注1)ノ看客(かんきゃく)感セヌモノナカリケリ。茲ニ諏訪郡。
 下古田村(しもふったむら)(注2)ニテ。座中一人ノ老農。最初ヨリ心(しんじ)ヲ澄シ
 テ聞イタリシカ。感激ノ極ニヤ鼻打カミ。涙ヲ拭(ぬぐ)ヒ。懐
 中(かいちゅう)ヨリ楮幤(ちょへい)(注3)ヲ出シ。コレヲ半紙ニ包ミ。上ニのし字ヲ
 記。県官学務掛リノ前ニ。蠢々(しゅんしゅん)(注4)進ミ寄リ。演述スルヨウ。
 先程ヨリ幼童ノ学技ヲ見シニ。実ニ方今文明ノ域ト
 云ヘキナリ。頑民今老タリ。然レトモ。孫モ数輩(すうはい)(注5)アレハ。
 速ニ御趣意ヲ奉戴(ほうたい)(注6)シ。就学セシムヘシ。アラ難有(ありがた)キ御
 代ヤナト。件(くだん)ノ金ヲ差出シテ。コハ今ノ童子ニ餞(はなむけ)(注7)セン
 トナリ。其景況。口訥(とつ)(注8)ニ言(げん)少シト雖モ。其赤心(注9)顕レタリ。
 学務掛り。懇々相諭シ。此教場ニ左様ノ所為(しょい)(注10)ハアルマ
 シキト。其楮幣ヲ差戻シタリ。嗚呼(ああ)田舎人ノ信タチテ。
 
  (改頁)
 
 事ノ訳ハ了解セス。一図(いちず)ニ勧学ノ善挙ニ感シ。相撲(すもう)或
 ハ俳優ニ纏頭(てんとう)(注11)スルカ如ク。彼学童ニ感シテ。差出タル
 コソ可笑(おかしく)又可憐(かれん)ナリ。
 
 

(1)校舎いっぱいの。
(2)現茅野市。
(3)紙幣に同じ。
(4)虫がうごめくように。
(5)数人。
(6)つつしんでいただくこと。
(7)贈る。
(8)口べたなこと。
(9)まごころ。
(10)おこない。
(11)芸妓に対する花代・祝儀
 
 
 
 
第十四回   15
 第九回ニ掲載スルカ如ク。権令各校ヲ巡査シテ。寒村
 ニテ勧奨ニ道ナキトキハ。村民ヲシテ。第九回ニ掲載
 スルカ如ク猶(なお)丁寧ヲ加ヱテ説論アリタリ。皆大ニ感
 悟(かんご)(注1)セシ村アリト云。爰ニ伊那郡沢底(さわそこ)村(注2)ニテハ。其説諭
 ヲ感沁(かんしん)(注3)シ。一村九十七戸。毎月廿五日。天満宮祭祀トシ
 テ。人馬ヲ督促シテ。山カセキニ出ルノ届アリ。其益金
 ヲ積ミ。一年ノ益。百五十円ヲ得ル卜云。則(すなわち)元資千円ニ
 向フ。是臨機(注4)ニ学資ヲ得ルトコロナリ。其学校盛大ナ
 
  (改頁)   16
 
 ル堀(ママ)指(くっし)(注5)ノ間ニアルヘシ。因テ思フ。民物ノ情状未タ旧
 習ヲ釐革(りかく)(注6)セサル村々ハ。学校ノ有益措(おい)テ不問(とわず)。况(いわんや)ヤ
 資
ヲ募ル。甚(はなはだ)窘却(きんきゃく)(注7)ス。而テ村芝居。或ハ歌舞妓等。ノ端
 緒(たんしょ)(注8)
 ヲ奨スレハ。勃発(ぼっぱつ)勧喜ス。是風俗ノ古(ママ)著(注9)スルナリ。其害
 金ノ出ツル。噴泉(ふんせん)ノ如ク。未(いま)タ村ノ疲弊ヲ見ス。然レハ
 学資ヲ課出スト雖。何ノ難(かた)キコトアランヤ。畢竟(ひっきょう)(注10)其方法
 設ケ方ナキ故ニ。口(くち)難儀ヲ鳴ラシ。行ヒ因循(いんじゅん)(注11)ニ渉レリ。
 今権令ノ説諭尤法則ヲ示ス。亦当ヲ得ニアラスヤ。
 
 

(1)感じてさとること。
(2)現上伊那郡辰野町。
(3)心にしみること。
(4)時と場所とに応じて手段を講じること。
(5)屈指 多数の中から特に指を折って数え立てられるほど、すぐれていること。
(6)改める。改革。
(7)困ってしりぞける。
(8)事のはじまり。いとぐち。
(9)固着 かたくしっかりとつくこと。
(10)つまるところ。
(11)古い習慣に因り循(したが)っていて改めようとしないこと。
 
 
 
第十五回   16
 筑摩県管内伊那郡。赤須村(注1)戸長(戸長)北沢八郎。其男へ新嫁
 娘ヲ招スルノ日。百般ノ失費ヲ省キ。節〓(せっけん)(注2)ヲ旨トシテ。
 婚姻ノ式ヲナセリ。其顰(ひそみ)(注3)ニ傚(なら)ヒ。同村農小町谷三郎。並
 
  (改頁)
 
 池上伊兵衛同様費(ついえ)ヲ省キテ。婚姻ヲナセリ。其一類ハ
 申ニ及ハス満村ノモノ。且ツ怪ミ且譏(そし)リ。喋々(ちょうちょう)(注4)吝嗇(りんしょく)(注5)ヲ
 鳴ス。終(つい)ニ親類ノニ触レタレハ。其モノ一日戸長ニ
 謂テ曰(いわく)。翁ノ家豪農ナル。普ク人ノ羨(うらやむ)トコロナリ。此
 度ノ新婚諸事ヲ省キ。且招客ノ大礼ヲ闕(か)ク。人以テ其
 所為(しょい)(注6)ヲ唾罵(だば)(注7)ス。翁自ヲ三思(さんし)(注8)シテ。某(それがし)等卜商議(注9)シ。村内ノ
 者ヲ招飲セヨ。翁日。我ナストコロ。鼠輩(そはい)(注10)ノ為ニ質素ヲ
 示シ。有益ノコトヲ謀(はか)ラントス。折節シ権令。遠ク民情洞
 察ノ為。此村ヲ過(おとず)レリ。其学校に就テ。説諭アリタリ。戸
 長並某其緒ニ就キ。一札ノ願書ヲ捧(ささ)ケ。嫁取り祝儀
 費ヲ省キ。其村学校へ資金。八郎ナル者ハ五十円。三郎
 治ナルモノハ十円。伊兵衛ナルモノハ五円。献金願出
 
  (改頁)   17
 
 タリ。権令其志ヲ嘉尚(かしょう)(注11)シ。自ラ褒詞(ほうし)(注12)ヲ下シ。猶其筋(すじ)へ御
 賞賜(しょうし)(注13)アランコトヲ申請セリ。論(ろんじて)曰凡人ノ礼節。冠婚葬祭
 ヨリ大ナルハナシ。然ルニ人民分限(ぶんげん)(注14)ヲ顧(かえりみ)ルヘキニ。奢
 侈(しゃし)(15)風ヲナシ。淫酒度ヲ放チ。就中(なかんずく)(注16)婚姻ノ挙。莫大ノ失費
 ヲ募(つのる)ヲ以。世習(せしゅう)(17)トシ。是レカ為負債スト雖。終身一度ノ
 大礼ヲ鳴シテ意ニ芥(かい)(ママ)セス。戸長北沢八郎。爰ニ見(みる)アリ
 財省シテ学校ニ差出シタリ。其下ニ立ツ細民スラ。其
 轍ヲ踏ミ願出タリ。然レハ其村ノ学費ヲ資(たす)ケ。永ク人
 民教化ニ備フ。是村民ヲ招飲シテ。珍膳ヲ供スルニ及
 ハス。豈(あに)(注18)一夕(いっせき)ノ轟飲(ごういん)飽食(ほうしょく)ヲ問ハンヤ。
 
 

(1)現駒ヶ根市
(2)費用を省いて質素にすること。
(3)憂えて眉をひそめる。
(4)しきりにしゃべるさま。
(5)物を惜しむこと。けちんぼう。
(4)しきりにしゃべるさま。
(4)しきりにしゃべるさま。
(6)すること。
(7)くそみそにののしる。
(8)深く思案すること。
(9)相談すること。協議。
(10)取るに足りない卑しいやつ。
(11)たいそう褒めること。
(12)褒めることば。
(13)賞して物を賜うこと。
(14)身分の程度。身のほど。
(15)おごり。ぜいたく。
(16)そのなかで。とくに。
(17)世のならい。
(18)(反語)なんで。どうして。
 
 
 
第十六回   17
 権令。身ニ洋服ヲ著(つ)ケ。足ニ革履(かわぐつ)ヲ穿(うが)(注1)チ。イト軽装ニ出
 
  (改頁)
 
 タチ。管内ヲ廻村ナシタリ。敢(あえ)テ尊傲(そんごう)(注2)ノ風ヲ示サス。是
 民ノ費ヲ省キ。疾苦ヲ厭(いと)フナリ。山間ノ村落。到ラサル
 ナク。露ニ寐子(いね)(注3)。雲ニ起キ。其風土ヲ熟視シ。民情ヲ洞察
 シタリ。諏訪郡山浦(注4)ト云処。地勢高燥(こうそう)。山谷ヲ隔テ村落
 参差(さんさ)(注5)タリ。山圃坡畦(はけい)(注6)ヲ顧回(こかい)(注7)スルニ。樹ノ一根ヲ栽(うえ)ル
 ナシ。就テ村民ニ問フニ。此辺養ノ稗益ヲ知ル者
 リ
ヤ。曰知ラス。示シテ曰。第八回ニ載スルカ如ク。説諭
 アリタリ。皆一同始メテ其稗益アルヲ知リテ。彼ノ畔(あぜ)。
 此塢(つつみ)マテ余サス。ヲ栽付ンコトヲ期。其憤発(ふんぱつ)不日(ふじつ)(注8)成功
 ヲ遂ンコトアルヘシト云。苟(いやしく)モ上ニ立テ。下ヲ維持スル
 モノ。只県庁ニ座シテハ。下情ニ踈(うとく)ク。実際ニ取リテハ。
 親臨(しんりん)(注9)ニアラサレハ。其実ヲ挙(あげる)コト不能(あたわず)。養ノ功徳(くどく)(注10)国家
 
  (改頁)   18
 
 最大ナル。皆人ノ知ルトコロニシテ。此山村ノ如キ毛(もう)(注11)
 モ容(い)レサルナリ。愚ト謂ツヘキ。今伯楽(はくらく)(注12)ノ一顧ヲ得テ。
 乍(たちま)チ僥倖(ぎょうこう)(注13)ヲ得ルト云。
 
 

(1)衣服・はきものなどを身につける。
(2)おごりあなどる。
(3)寝る。
(4)現茅野市
(5)そろっていない様子。
(6)つつみやあぜ。
(7)振り向いて見回す。
(8)まもなく。
(9)天子などが自らその場に臨むこと。
(10)神仏のめぐみ。ごりやく。
(11)わずか。
(12)人物を見抜くのある人。
(13)思いがけないしあわせ。
 
 
 
第十七回   18
 筑摩県管内ノ赤須村(注1)農。中坪三九郎老母ゆかト云モ
 ノ。平常貞順ニシテ。人ノ善挙ヲ聞テ楽ミ。国ノ善政ヲ
 聞テ喜ヒ。荏苒(じんぜん)(注2)老境ニ踏ミ込。遂ニ病ニ罹リ。医薬験(注3)ナ
 キヲサトリ。親類並ニ我子ヲ招キ。我病ノ起リタルヲ
 知リ。今ニモ黄泉(よみ)(注4)へ旅立ヘシトテ。枕ノ下ヨリ。封物ヲ
 取リタシ。息モ絶ユケニ示シテ曰今迄ハ人ニモ語ラ
 サリシカ。コヽノ洗濯カシコノ縫針ト。縷(こまか)キ日傭(ひよう)(注5)テ積
 立テ。金五円蓄ヘタリ。大廩(たいりん)(注6)ノ片粟(へんぞく)(注7)ナレトモ。是ヲ以。世
 
  (改頁)
 
 ニ稗益ノ用途ニ出シ。老婆カ多年ノ志ヲ表スヘシ。仄(かすか)
 ニ聞。学校ハ。人民御教育ト伺ヘリ。左様ノ費途へ献シ
 タキナリ。我ナキ後ニ。誤テ寺ナトニ布施(ふせ)スル勿(なか)レト。
 言フ声サヘニ細リツ丶。遂ニ鬼籍(注8)ニ就キニケリ。折節
 権令廻村シテ。其村ヲ過(とお)リタリ。其子三九郎母ノ遺言
 ヲ奉シ。右ノ金額校費ノ廉(かど)へ献納致度ト。涙共ニ願出
 タリ。人ノ将ニ死ナントスル其言ヤ善卜。是古人ノ確
 言(かくげん)(注9)ニテ。鄙野ニ稀ナル婦人ノ奇特(きとく)ト。権令感シテ三九
 郎ヲ呼出。母ノ遺志ヲ褒(ほう)シタリ。
 
 

(1)現駒ヶ根市
(2)歳月の次第にすすみ行くさま。
(3)ききめ。
(4)死後、魂が行くというところ。
(5)一日を限って雇われること。
(6)大きな蔵。
(7)わずかな粟。
(8)死亡する。
(9)はっきりと言い切った言葉。
 
 
 
第十八回   18
 筑摩県管内伊那郡。大平ト云村(注1)ハ。里ヨリ三四里山間
 ヲ隔テ。極メテ僻地ニ三十八戸計リ住居スルナリ。素(もと)
 
  (改頁)   19
 
 ヨリ田地ナト云モノ絶テナク。皆ナ山圃ヲ穿(うが)(注2)チ。
 種(う)へ。平常ノ食物トナスナリ。其他ノ営業。柴薪(しばたきぎ)ヲ雲間
 ニ樵(と)リ。炭竈(すみかまど)ヲ月下ニ焼キ。人民陋習(ろうしゅう)(注3)開化通暢(つうちょう)(注4)ニ踈(うと)ク。
 文字ナト措(おい)テ不問モノ丶如シ。然ルニ客歳(かくさい)(注5)北方村(注6)卜
 云ト。争境ノコト起リ。事遂ニ訟庭(しょうてい)(注7)ニ渉レリ。其訴状甚困
 却(こんきゃく)シ。村内無智ノ者多キニ。且慨(がい)(注8)シ且恥チ。何トソ一学
 校ヲ設立致タキト。心ヲ焦(しょう)スト雖。山中ノ孤村他郷ノ
 応援モナク。資金ノ募策(ぼさく)(注9)如何ニセント。村民額(ひたい)ヲ集メ
 談論ノ折柄。権令廻村シテ元資金ノ法方説諭アリ
 レハ。其緒ニ縋(すが)リ。一同憤発。月ニ一日人馬ヲ督促(とくそく)(注10)シテ。
 薪炭ヲ採リ。其償金ヲ学校へ差出。三十八戸。壱人十二
 銭五釐ノ目途(もくと)(注11)ニテ。其元資金三百八十円ヲ得ル卜云。
 
  (改頁)
 
 嗚呼(ああ)貧夫廉(注12)ニ。懦夫(だふ)(注13)モ志ヲ立。此一柱礎ヲ起セリ。今ヤ
 文明ノ海波及シテ。山中ノ民物ヲ潤ス。古今未曾有(みぞう)(注14)ノ
 僥倖(ぎょうこう)ニアラスヤ。
 
 

(1)現下伊那郡阿智村
(2)穴を掘る。
(3)悪い習慣。
(4)滞りなくとおす。
(5)去年。
(6)現飯田市
(7)法廷。
(8)なげく。
(9)募集する策。
(10)せき立てること。
(11)めあて。見込み。
(12)倹約。
(13)おくびょうで、いくじのない男。
(14)いまだ曾て起こったことがないこと。
 
 
 
第十九回   19
 権令廻村シテ。管内第十九番中学区。飯田学校(注1)ニ到リ
 教員生徒ハ勿論。大区長正副戸長。其他学校世話役。及
 判頭(はんがしら)等ヲ募集シ。一座羽萃(うすい)(注2)鱗次(りんじ)(注3)ス。自ラ高壇ニ上リ。親
 シク学校ノ稗益。人民教化ノ御趣意。皇国ノ基礎タル
 コトヲ説論アリタリ。今ヤ四民同権。聖明親治(しんじ)(注4)ノ盛代ニ
 際シ。官員ニ挙(あげ)ルニ門閥(もんばつ)ヲ論セス。兵役ニ徴スルニ士
 民ヲ不問(とわず)。皆国中ノ人材ヲ撰挙セラルヽナリ。蒭蕘(すうじょう)(注5)ノ
 者。達識(たっしき)(注6)ナレハ。擢(ぬい)テ官員トナス。今勅奏ノ二官員ニ草
 
  (改頁)   20
 
 莽(そうもう)(注7)ヨリ出ツルモノアリ。是ヲ以テ知ルヘキナリ。人ニ
 区別ハアラサルコトニテ。只才智ヲ性分(注8)ノ外ニ求ムル
 モノハ。只学フト学ハサルニ有ルナリ。汝等同シク。卒(ママ)
 土(そっと)(注9)ニ眠食シテ。今日聖恩ヲ蒙(こうむ)レハ。自他ヲ不論(ろんぜず)。就学シ
 テ。他日国器ニ充ツヘキナリト。領民ニ噛ミ含メル如
 ク。説諭ノトキ。座ニ感激セシ。飯田。田町岡真吉ナル
 モノ。髪結ヲ以テ。渡世セシカ。今マ末座ニ説諭ヲ聞テ。
 私心窃(ひそか)ニ思ヨウ。我少壮ヨリ。放蕩(ほうとう)(注10)ニテ学問ヲ不好(このまず)。
 活
ノ道断テ。此賤業(せんぎょう)ヲ以テ世ヲ渉リ。今日開明ノ街ヲ
 踏ミ。文化ノ蠧民(とみん)(注11)トナリ。可恥(はずべく)ノ至リナリ。最早半生ヲ
 誤リタレハ。我ハ我ニテ止ンナレト。少年ヲ教育セス
 ンハ有ヘカラス。自ラ悔悟シテ。願書ヲ認(したた)メ。十円ノ元
 
  (改頁)
 
 資ヲ他ノ生徒ノ費途ニ献シ度ト。願出タリ。其素志(そし)(注12)感(注13)
 ニ触テ起ル。奇特ナリト褒ラレタリ。
 
 

(1)現飯田市
(2)羽のように多くのものが集まる。
(3)鱗のように多くのものがならび連なる。
(4)親しく治める。
(5)草刈と樵夫。
(6)すぐれた見識。
(7)民間。在野。
(8)生まれつきの性質。
(9)国のはて。
(10)酒にふけって品行が修まらないこと。
(11)悪いことをする民。
(12)かねての願。
(13)心を動かすこと。
 
 
 
第二十回   20
 権令。管下諏訪郡。巡廻ノ節。人民ヲ諭シテ。博覧会ヲ勧
 奨シタリ。人智才芸世に稗益アル言ヲ竢(ま)タツト雖。土
 地亦隨テ富潤(ふじゅん)(注1)セン。汝ラ振テコレヲ勗(つとめ)ヨトナリ。人民
 大ニ喜ヒ。速ニ願書差出。同郡正願寺ニテ。五月十七日
 ヨリ六月五日マテ。願出タリ。此時ニ当リテ。本。飯田。
 高山。高遠。大町。福島。陸続(りくぞく)(注2)博覧会ノ挙アリ。各会ヲ以テ。
 比較スルニ。優レルモノ二ツアリ。鵞湖(がこ)(注3)ノ。富士ノ山。
 
 

(1)富み潤うこと。
(2)ひっきりなしに続くさま。
(3)諏訪湖のこと。
 
 
 
第二十一回   20
 権令。遠ク山河ヲ跋渉(ばっしょう)シテ。民物ヲ察諭(さつゆ)(注1)シ。行々飯田ニ
 
  (改頁)   21
 
 到リ。其学校ニ就キ。生徒ヲ試〓セシニ。八九歳ノ幼童
 出藍(しゅつらん)(注2)ノ誉アリ。其ノ名ヲ問ヘハ。第十九大区長。上柳喜
 一ノ男。同苗緑ト云フモノナリ。従容(じゅうよう)(注3)座ニ就キ。其温習
 一モ不誤(あやまらず)。権令感シテ。其日ヨリコレヲ携へ去リ。村々
 ノ学校ヲ巡査シ。毎事(まいじ)(注4)。件(くだん)ノ童子ニ正則ヲ踏マシムル
 ニ。書取問答筆算速(すみやか)ナリ。権令其才能ヲ怪シミ(注5)。学務掛
 ト商議シ。別ニ問題ヲ起シ。教師ヲシテ。口命(こうめい)(注6)セシメ。是
 ヲ質詰(しつきつ)(注7)セシニ。速ニ筆記シテ出セリ。中ニ難字モアル
 ニ。毫(いささか)モ誤リナク書キ取タリ。前程ノ成器(8)如何カアラ
 ント歎シタリ。此ノ土地昔ヨリ文士ヲ出ス。太宰台(だざいしゅんだい)(注9)
 等コレナリ。今此奇童(きどう)(注10)ヲ挙ク。抑(そもそも)地質ノ然ラシムルカ。
 将(は)タ文運隆盛ノ期ニ際スルモノカ。
 
 

(1)調べ諭す。
(2)弟子が師よりまさってすぐれていること。
(3)ゆったりと迫らない様子。
(4)事ごとに。
(5)不思議に思う。
(6)言葉で命じる。
(7)質問しただす。
(8)よいうつわ。
(9)延宝八年(一六八〇)~延享四年(一七四七)。江戸時代中期の儒学者。飯田藩士の子。名は純、台は号。出石藩に仕え、後荻生徂徠に学ぶ。経書・経済に通じ、近世中国語にも詳しかった。
(10)不思議な児童。
 
  (改頁)
 
第二十二回   21
 権令。諏訪郡廻村各校生徒ノ書ヲ点閲(注1)セシニ。筆
 格天品(2)ニ出ツ。古来ヨリ諏訪郡輩出スル所ノ書家。親
 和(しんな)(注3)雲和ノ輩アリ。其他近世ニ鳴ルモノアリ。是地質天
 性ノ然ラシムルナルヘシ。前回ニ記スル同話柄(わへい)(注4)ナリ。
 
 

(1)一点一点調べる。
(2)すぐれた作品。
(3)三井親和。元禄一二年(一六九九)~天明二年(一七八二)。高島藩士の子として江戸に生まれる。篆書にすぐれる。
(4)話題。
 
 
 
第二十三回   21
 権令伊那郡。下市田村(注1)学校ニ就キ。老若男女ヲ徴集シ
 テ。説諭スルトキ。人々感泣(かんきゅう)(注2)自憤(じふん)シテ。其ノ校へ献金願
 出タリ。多クハ村老田婦(でんぶ)(注3)。貧困ノ者ナレトモ。御趣意ヲ
 奉戴(ほうたい)シ。素志ヲ表(あらわさ)ル訳ニテ。富家ノ百金ヲ出スヨリ太(はなは)
 タ難キ情状ナリ。万人ノ標的。後来ノ亀鑑(きかん)(注4)トテ。奇特ノ
 段ヲ挙テ。内務文部ノ両省へ申請シタリ。下市田村風
 
  (改頁)   22
 
 俗ノ純質人民教化ニ赴(おもむく)ノ勢(いきおい)猶(なお)シルヘキナリ。
             伊那郡下市田村
 一金壱円             上沼久四郎
   今年八十八歳ニナリ草履(ぞうり)艸鞋(わらじ)ヲ造リ貯置(ためおき)シ金
   トテ献納願出タリ
             同 郡 同 村
 一金壱円             林 治郎八
   年々ノ皮ヲ拾ヒ売却シ其貯ヲ以テ献納願出
   タリ
             同 郡 同 村
               上沼常次郎曾祖母
 一金二円               ソ ノ
   今年八十六歳ニ相成積年木綿糸ヲ取リ貯置シ
 
  (改頁)
 
   金ヲ以テ献納願出タリ
             同 郡 同 村
               佐ヵ木半左衛門父
 一金二円             佐々木幸作
    多年藁(わら)仕事ヲ以テ設候右金額献納願出タリ
             同 郡 同 村
                  橋部慎蔵母
 一金二円              ツ  ナ
    平日心掛塵糸(ちりいと)ヲ取集メ木綿ヲ織リ其代価ヲ以
    右金額献納願出タリ
             同 郡 同 村
                 中村平九郎母
 一金三円              タ  ミ
    多年紬キ糸ヲ引賃銭貯置右金額献納願出タリ
 
  (改頁)   23
 
             伊那郡下市田村
                 島伊三郎妻
 一金三円              ム  メ
   紡績ノ余資ヲ貯置右ノ金員(きんいん)(注5)献納願出タリ
             同 郡 同 村
                 寺澤弥源次母
 一金三円              フ  ユ
   今年七十八歳ニ相成今日迄多年木綿糸ヲ牽(ひ)キ
   右金額献納願出タリ
             同 郡 同 村
 一金三円             林 彦四郎
   今年七十四歳ニ相成トイヘトモ〓約ヲ以テ日
   ヲ送リ右金額ヲ貯へ献納願出タリ
 
  (改頁)
 
             同 郡 同 村
                大澤福右衛門母
 一金五円              カ  ネ
   養ヲ勤メ生糸真綿ヲ売リ右ノ金額献納願出
   タリ
             同 郡 同 村
                多 賀 司 妻
 一金五円              イ  マ
                木村重左衛門母
 一金五円               チ サ
                橋 新兵衛妻
 一金拾円               ヨシオ
   右ハ三人紡績ノ余資ヲ以右金額献納願出タリ
             同 郡 同 村
 
  (改頁)   24
 
               小川九兵衛亡後妻
 一金拾円              リ  キ
   洗濯日傭或ハ縫針ヲ以テ貯置シ右金額献納願
   出タリ
 
 

(1)現下伊那郡高森町
(2)深く感じて泣くこと。
(3)農家の女。農婦。
(4)手本。模範。
(5)金額。
 
 
 
第二十四回   24
 伊那郡座寺村(注1)ハ。孰(いず)レモ豪農多ク。風俗モ純美ナリ。
 頃(このご)ロ山ノ麓ニ盛大ノ学校ヲ新築シ。美ヲ尽シテ。落成
 シタリ。其費用二千円ニ及フト。称シテ一郡ノ一大学
 校卜云。或日権令其学校ニ到リ。当村及近村ノモノヲ
 呼集タリ。茲ニ師範講習所ノ教員。飯田正宣(まさのぶ)(注2)卜云。予科
 生徒三四名ヲ携ヘテ。兼テ権令へ陪従(べいじゅう)シタリ。則(すなわち)温習
 ヲ示サント拉(らつ)(注3)タル。生徒ヲテーブルニ就カシメ。前講
 
  (改頁)
 
 ニ学制発行ノ旨趣ヲトキ。迂遠(うえん)(注4)ノ学問ヲ排シ。有為(ゆうい)(注5)ノ
 講習ヲ演シ。鞭(むち)ヲトリテ満座ヲ見渡スニ。蝟集(いしゅう)(注6)ノ人民。
 皆ナ頭髪依然ト髻(もとどり)ヲ存シタリ。飯田正宣其固結(こけつ)(注7)ノ風
 俗ヲ易(か)ヘント。故サラニ単語・第六篇ヲ掲ケ。件(くだん)ノ生徒
 ニ鞭指シ。課シテ頭ト云処ニ至リ。此ノ絵ハ裁髮(さいはつ)(注8)左右
 ニ掻分(かきわけ)テアリ。何ノ差別ヲ以テ斯(こ)ハイタスソ。生徒ノ
 曰(いわく)費ヲ省クト知レリ。未タ根拠ヲ不知(しらず)。願クハ先生教
 ヲ奉セン。飯田曰。凡人ノ精神頭上ニ止ル。頭上付スル
 蓄腦骸(ちくのうがい)ハ危所ナリ。故ニ聊カ鉢ヲ底ツキ。脳ニ障レハ。
 即座ニ息ハ絶ユルト云。鳥獣ト雖ミナ然リ。五体最大
 ノ可厭(いとうべき)ノ機管ナリ。智ノ因テ生ツルトコロ。識ノ因テ
 明ラカナルトコロ。皆此ノトコロニアリ。其機(き)(注9)タルヤ
 
  (改頁)   25
 
 能ク見。能ク聞キ。鼻能ク嗅キ。口能ク味ヒ。皮膚能
 ク感ス。脳獨リ能ク此五者ノ報告ヲ集メテ。之ヲ処分
 スルナリ。故ニ天賦(てんぷ)(注10)ニ厚キ。骸骨ヲ組タテ。被肉ニ毛髪
 ヲ生シテ。其髑髏(どくろ)(注11)ヲ護セリ。即精神ノ宿スルトコロナ
 リ。然ルニ日本人ハ窮理(きゅうり)(注12)ニ疎ク。髻ヲ戴(いただき)テ。上(ママ)発気ヲ碍(がい)(注13)
 シ。半額ヲ剌リ。邪気ヲ引込ナトノ弊。甚其精ヲ養フニ
 疎ク。加之(しかのみならず)(注14)無用ノ暇ヲ費シ。無為ノ財ヲ散シ。愚ト謂フ
 ヘキナリ。人々健康ヲ保チ。且智達ヲ求メントナレハ。
 速ニ截髪(さいはつ)(注15)シテ。野蛮ノ醜態ヲナスナカレト。単語図中
 ノ問答ニヨセテ。語リタレハ。満座感激シテ居タリシ
 カ。後チニ聞ケハ。人民争テ截髪ニナリタリト。此話柄(わへい)
 ヲ流シテ。風俗ヲ改ルナリ。教化ノ勧奨老手段(注16)ト謂ツ
 
  (改頁)
 
 ヘキナリ。
 
 

(1)現飯田市
(2)弘化四年(一八四七)~?。江戸に生まれる。幕府の開成所で英学を学ぶ。明治六年(一八七三)開智学校英学科の設置にあたり赴任。小学師範科取調べのため上京し、帰県後は筑摩県師範講習所(師範学校の前身)を設立して、明治九年まで教授にあたる。
(3)引っ張っていく。
(4)道が曲がりくねって遠いこと。
(5)役に立つこと。
(6)はりねずみの毛のように多く寄り集まること。
(7)かたまること。
(8)髪をきりそろえること。
(9)はたらき。
(10)生まれつき。天性。
(11)しゃれこうべ。
(12)物事の道理・法則をきわめめつくすこと。
(13)さまたげる。
(14)そればかりでなく。
(15)髪をきること。
(16)ものなれた。
 
 
 
第二十五回   25
 権令伊那郡上穂村(うわぶむら)(注1)ノ学校ニ到リシトキ。末タ新築ノ
 挙ナク。仮リニ村寺ニ設ケタリ。此寺ヲ安楽寺ト云。最
 大ノ梵宇(ぼんう)(注2)ニテ。イト壮観ヲ極メタリ。権令生徒ノ学業
 ヲ〓査シ。且不就学ヲ勧奨シ。其末緒風諭シテ曰。昔シ
 仏寺ヲ建立セシニ。皆僧侶ノ方便(ほうべん)(注3)ニテ。勧誘シ。此立派
 ナル寺ヲ営メリ。即是村民誑惑(きょうわく)(注4)ヲ受ルヲ不知(しらず)。莫大ノ
 財ヲ費シタリ。是モ当時ノ勢タルヘシ。今ヤ文明ニ遇
 逢(ぐうほう)(注5)シ。汝小民何ト心得タルヤ。因果応報ノ邪説に拘泥(こうでい)(注6)
 シ。地獄極楽ナトノ詭説(きせつ)(注7)ヲ信スルカ。中ニハ心得違ノ
 者モアルヘシ。抑仏ハ死スル先ヲ頼ミ。現在生キタル
 
  (改頁)   26
 
 人ヲ教育スルニ。此寺ニ布施(ふせ)(注8)スルト違ヒ。学資ヲ出サ
 ス。教場ニ尽セス。生ルヨリ死スル方楽(たやす)キナルヘシ。
 余り地ヲ易ヘタルコトニテ。可憐(かれん)ナリ。今右ノ時勢ニア
 ラス一同憤発シテ。此寺ノ如クナル。学校ヲ新築致ス
 へシト。有リケレハ。満村感悟(かんご)(注9)シテ。贅金(ぜいきん)(注10)ヲ費スコトヲ悔(く)
 ヒ。俄ニ学校新築ヲ企テ。其区内学区取締。小町谷某ナ
 ルモノ。絵図面ヲ以学務掛マテ伺出タリ。実ニ庶績(しょせき)(注11)緒
 ニ就キ万方(ばんぽう)化(か)(注12)ニ嚮(むか)ヒ。邪導妄説ヲ郤(しりぞ)ケ。真教真理ヲ崇(あがめる)
 ト謂(いい)ツヘキナリ。
 
 

(1)現駒ヶ根市
(2)寺。寺院。
(3)目的のために利用する便宜的な手立て。
(4)あざむきまどわす。
(5)であうこと。
(6)こだわること。
(7)いつわりの言説。うそ。
(8)僧に施し与える金銭または品物。
(9)感じてさとる。
(10)よけいな金。
(11)いろいろな功績。
(12)生育する。
 
 
 
第二十六回   26
 筑摩県管下飯田支庁下。巖戸社(いわとしゃ)於テ。博覧会ノ挙アリ
 頃ハ四月ノ下旬ニ属シ。恰(あたか)モ花柳ノ好時節ニテ。其場
 
  (改頁)
 
 大ニ繁栄シ。人民蟻〓(ぎふ)(注1)シテ参観スト云。権令廻村シテ
 飯田支庁ニ滞在シ。一日其場ヲ過レリ。天造人作万物
 千品陣列ス中ニ。目ヲ怡(よろこ)ハスハ。銀釜(ぎんふ)銀瓶(ぎんへい)数品ト。金杯
 大小数箇アリ。皆無垢(むく)(注2)ニテ。紫ノ朱ヲ奪フ(注3)モノニ非ス。
 コハ四方ニ誇ルヘキモノニ非サレトモ。皆持主ハ。飯
 田市在ノ富家ヨリス。信山僻地ノ開場。夥多(かた)(注4)貴貨ヲ持
 テリ。
 
 

(1)蟻附(ぎふ) 蟻のように集まりつくこと。
(2)まじりもののないこと。
(3)「朱を奪う紫」に同じ。悪人が行いの正しい人間のふりをして人を欺くこと。
(4)多い。多くの。
 
 
 
第二十七回   26
 権令創県以来学校ノ事。眠食ヲ忘ル丶迄ニ勧奨ヲ加
 タリ。下民其意ヲ了解シ。各校隆々興リ生徒駸々(しんしん)(注1)進歩
 ス。今茲四月権令廻村ノ挙ヲ起シ。各校ヲ〓査シ素ト
 朝廷ヨリ依頼ノ人民ナレハ。我子ノ如ク撫愛(ぶあい)(注2)シ。喜テ
 
  (改頁)   27
 
 生徒ノ成器ヲ俟(ま)ツトテ述懐ノ歌アリ曰。
  ヤヘモクラ(注3)中ニ生立(おいたつ)撫子(なでしこ)ノ花ノ盛ヲ待ソ楽シキ
 又宿ヲ飯田支庁下ニ投セリ。学区取締ノ下平兼造ナ
 ル者。老実ノ者ニテ。旧来知遇ヲ蒙(こうむ)リタレハ。牡丹(ぼたん)ノ盆
 栽ヲ齎(もたら)シ来リ。一夕ノ覧看(らんかん)(注4)ニ供シタリ。此花不思儀ニ
 モ夜ニ入テ開キ。紅白交映シ。清香人ヲ撲(う)ツ風情ナリ。
 燭(しょく)(注5)ヲ採リ旅疲(りょひ)ヲ忘ルヽマテニ喜コハレタリ。権令一
 首ノ歌ヲ読メリ。
 オモヒキヤ人ノ心ノ深見草(注6)見ルモエナラヌ花ノ盛ヲ
 
 

(1)物事が速く進むさま。
(2)かわいがる。
(3)繁茂しているむぐら(雑草)。
(4)見ること。
(5)あかり。
(6)牡丹の別称。
 
 
 
第二十八回   27
 権令廻村シテ。晨(あした)(注1)ニ伊那郡。羽広村(注2)ヲ発シ。行々与地ノ
 原(注3)ヲ経過シ。一帽一筇(きょう)(注4)ノ軽装ニテ。歩行イタサレタリ。
 
  (改頁)
 
 後トヨリ距離一丁(ちょう)(注5)計ニシテ。人足ノ両掛ヲ担ヒ。傍(かたわ)ラ
 ノ者ニ噺(はな)スヨウ。我ハ此ノ下タ街道ニ出テ。雲助(注6)同轍(どうてつ)(注7)
 ノ傭夫ヲナシタリ。然ルニ維新前ハ。例幣使(れいへいし)(注8)ノ通行。或
 ハ幕吏ノ経過ニ。大ニ苦メラレタリ。皆従者ノ意ニ出
 テ。兎角銭ヲ諞賺(へんれん)(注9)。其穽中(せいちゅう)(注10)ニ陥リテ。損毛不少(すくなからず)。彼レハ輿
 夫(よふ)(注11)ニ出。カシコノ駅放レニテ。某(それがし)ヲ落セシトテ。自ラ転
 ヒ出テ吹掛(ふきかけ)(注12)ヲ言。大諞賺ニ逢。我ハ彼処ノ橋辺ニテ両
 掛ヲ従者ニ触テ。大ニ怒ラレ。酒代ヲ償テ内済ナソ困
 難アリ。例幣使幕吏ノ通行卜聞ハ。駅内戦慄(せんりつ)(注13)先ツ問屋
 場ニ銭ヲ積ミヲケリ。宿内ノ不調法ハ。皆銭沙汰ナリ。
 発駕(はつが)(注14)ノ後ハ其賦銭(ふせん)(注15)必ス我等ニ課シ来レト。迷惑何ト
 モ譬(たと)フルニ物ナシ。然ルニ御一新以来。左様ノ弊害ハ
 
  (改頁)   28
 
 止ミテ街道平カナリ。聞ク先ニ立チ玉ヒシ殿ハ。筑摩
 県
権令公ナリト。信飛両国ノ大守四十万石ヨノ殿様
 ナリト云。以前ニ比スレハ。前駆(さきがけ)後従行列アルヘキニ。
 単騎独行此ノ迂路(うろ)(注16)ヲ踰(こ)ヱタマフテ。学校ノ御世話
 リ
ト云。アラ難有(ありがたき)コトナリト。イツシカ山寺村(注17)ノ泊ニ著
 キタリ。学務掛此物語ヲ聞ナカラ。行々感激シ。今此ノ
 賤者(しずもの)(18)ノ物語ニテ。皇沢(こうたく)(注19)ノ余波始テ率土(そっと)ニ漲(みなぎ)ルヲ見ル。
 四民蒼生(そうせい)(注20)豈(あに)壤(じょう)ヲ撃チ。腹ヲ鼓(うち)(注21)テ感戴(かんたい)セサルヲ得ンヤ。
 
 

(1)夜明け。
(2)現伊那市。
(3)現伊那市
(4)杖。
(5)町に同じ。約一〇九メートル。
(6)江戸中期以後に、宿駅・渡し場・街道などで駕篭かき・荷運びなどに従った人夫。
(7)同様。
(8)朝廷から毎年のきまりとして神に捧げる幣帛(へいはく・神にささげるものの総称)のために派遣される勅使。江戸時代は特に日への使いをいった。
(9)たくみにだます。
(10)おとしあな。
(11)輿を担ぐ人。
(12)誇大に言う。値段を高く言う。
(13)恐れて身震いすること。
(14)駕篭に乗って出立すること。とくに貴人の出立をいう。
(15)夫銭。夫役に出ないかわりに納めた金銭。
(16)遠回り道。
(17)現伊那市。
(18)身分の低い者。
(19)天子のめぐみ。
(20)人民。
(21)鼓腹撃壌(こふくげきじょう) はらつづみを打ち、土くれを打つ。平和で安楽な生活を喜ぶこと。 
 
 
 
第二十九回   28
 権令。諏訪郡ヘハ。国幣(こくへい)中社(注1)ノ祈年祭ニ毎年両度ツヽ
 参詣イタサレタリ。其都度(つど)最寄ノ小校ヘ立チ寄リ。奨
 励ヲ加ヘタレハ。夙(つと)ニ御趣意ヲ奉戴シ。毎校完全ナラ
 
  (改頁)
 
 サルハナシ。然ルニ合併ノ校多分アリタル処。今般権
 令迴村ノ駕(が)(注2)ヲ迎へ。馬首(注3)へ訴(うったえ)雨ノ如シ。皆各村献金ヲ
 増加シ。資金ヲ募集シ。割(かつ)校(注4)願出タリ。其勢昔群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)
 シテ敵地ヲ争フ勢ニテ。学校ヲ振起ス。権令其憤発ヲ
 盛ニシテ分校ヲ免シタリ。
 
 

(1)諏訪神社のこと。明治四年(一八七一)国幣中社となる。
(2)乗り物。車馬のこと。
(3)馬の首。
(4)学校の分離。  
 
 
 
第三十回   28
 筑摩県管下。設立ノ学校。五百余校アリ。皆ナ学幟(がくし)(注1)ヲ樹
 テ。普ク紅白段染ヲ以。揚標(ようひょう)(注2)シタリ。権令廻村シテ。遠ク
 山河ヲ跋渉(ばっしょう)(注3)シタリシニ。学幟迎へ。学幟送ル。百里ノ行
 途旗影ヲ踏サルハナシ。就中(なかんずく)舟ヲ債(かり)テ天龍川ヲ泝(さかのぼる)ニ。
 東西ノ村落ハ樹ノ中ニ隠見シ。学幟参差(さんさ)(注4)。風ニ翻(ひるがえる)。日
 ニ映シ。其眺望奇(き)(注5)卜謂ツヘキナリ。心有(こころある)族人ハ。学校ノ
 
  (改頁)   29
 
 世話行届シトテ。感慨ヲ起サルハナシ。
 
 

(1)学校の幟。
(2)標(しる)しをあげる。
(3)遍歴すること。
(4)並び続くさま。
(5)めずらしい。
 
第三十一回   29
 権令管内ヲ廻村シテ。其実地実景ヲ視ルニ。村社ノ頭
 ニ舞台ト唱ヘシ。一宇(いちう)(注1)ノ広場アリ。是ヲ人民ニ問ヘハ
 頃ロ学校設立ノ挙ニ当リ。是レヲ以学校トナシ。其経
 営。轍ヲ易(かえ)。轅(ながえ)(注2)ヲ改メ。教場ヲ成シタリ。然ルニ無智ノ村
 民窃(ひそか)(注3)ニコレヲ排シ。抑(そもそも)此舞台ノ起ルヤ。貧生ノ我等ニ
 賦銭ヲ課シ。木石運輸ニラヲ労シテ。茲ニ初テ落成
 シタリ。夫モ一芝居ノ動作ヲ催シ度ト。若キモノ一同。
 躍(じゃくやく)(注4)シテ。此功ヲナセリ。窃ニ某(ぼう)ノ振付ヲ頼ミ。忠臣蔵
 ヲ習ヘリ。某ハ由良之助。何某ハ阿軽。我ハ勘平ニ役割
 ヲ設ケタリ。初舞台ニテ大当リヲ期シ。居リシニ。豈(あに)料(はからん)
 
  (改頁)
 
 ヤ其事停止セラレ。一幕モ絞(しぼ)リ揚(あげ)ス。学校ニ成タルコ
 ソ。イト無慈悲ノ苛政(かせい)(注5)ナリト怨言(うらみごと)ヲ吐クアリト聞キ。
 又村々巡廻セシニ。処々ニ舞台ノ学校所ト変スルアリ。或ハ細民ノ演技ヲ好ムヨリシテ。同シク前件ノ蕪
 論(ぶろん)(注6)ニ渉レリ。権令如斯(かくのごとき)ノ校ニ就キ。就学説諭ノ折柄。今
 日来テ始テ此学校ヲ見タリ。従前ハ舞台卜見受タリ。
 今ヤ贅物(ぜいぶつ)(注7)ニ属セシモノ稗益ノ塲ニ用ユルハ。村中ノ
 奮発宜シキヲ得タリ。方今文明ノ化路(かろ)(注8)ニ左様ノ儀ハ
 有マシキナレトモ。中ニハ心得違ノモノアリ。劇場ノ学
 校ニナリタルコトヲ愁フルコトアリト。甚タ心得違ノコト
 ナリ。抑演劇ノ挙タルヤ。一理アルヲ以テ。教部省ノ許
 可ヲ得タリ。素ヨリ勧善懲悪(かんぜんちょうあく)(注9)ヲ以テ。領民ニ示シ。教化
 
  (改頁)   30
 
 ノ一端ニナルヘキ旨趣ニテ許サレタリ。然ルニ芝居
 ヲ見テ君ニ忠ヲ尽シ。親ニ孝ヲ尽スコトヲ聞ス。物ノ了
 解セサルニアリ。只無学ノ者ハ奢侈(しゃし)(注10)ヲ見テハ喜ヒ。淫
 奔(いんぽん)(注11)ヲ見テハ動ク等ハ。其弊害多ク。反テ毒ヲ被(こうむ)ラセル
 ナリ。其様ナル者ニハ。决テ村芝居抔ハ免サ丶ルナリ。
 然レトモ一張一弛(し)(注12)ノ寛典ヲ以。勉強スル者又楽ミモ
 ナクテハナラス。其訳ニテ。学校盛ノ村々ハ。取糺(とりただし)ノ上
 免許スヘシ。故又如何トナレハ。人々学間ニ進ミタレ
 ハコソ。義理詳明ナリ。義理詳明ナル者其芝居ヲ見レ
 ハ。善悪邪正隨テ弁解(べんかい)(注13)シ。邪ヲ排シ。正ニ移リ。世ニモ稗
 益不少(すくなからず)。果テ学校ヲ嫌フ悪少年等。其説諭ヲ聞キ。サテ
 ハ我等カ欲スル芝居ハ。学校盛大ノ村ニアラサレハ
 
  (改頁)
 
 許シ玉(たまわ)ツト。然ハ銘々日傭シテモ。元資金張込学校盛
 大ヲナシテ。一芝居モ許可ヲ得ヘシト。云モノ終ニ善
 キ道ニ踏入リ。学校ニ尽シ。漸次其習性トナリ。ハシ
 メ俳優ヲ好(このむ)モノ。反(かえっ)テ彼レヲ排シテ。学校ヲ尊奉(そんぽう)セシ
 ト云。
 
 

(1)一棟の家。一軒。
(2)牛車などの前に長く並行に出した二本の棒。
(3)こっそりと。人知れず。
(4)こおどりして喜ぶこと。
(5)苛酷な政治。
(6)安んじる考え。
(7)贅沢な物。
(8)育つ路。
(9)善事をすすめ、悪事をこらしめること。
(10)ぜいたく。
(11)性関係のみだらなこと。多情。
(12)ゆるむ。
(13)物事のすじ道を説いて明らかにする。
 
 
 
第三十二回   30
 権令伊那郡。山本村(注1)へ到リ。其泊所へ。本県ヨリ羽檄(うげき)(注2)ヲ
 馳(は)セテ。帰県ヲ促ト云。依テ其状ヲ布逹シ。帰路ニ赴ム
 キタリ。然ルモ矢村(注3)ト云ハ。兼テ先触状ヲ以山本村
 翌日ノ泊ヲ命シタリ。其村大ニ喜ヒ。地方官長ノ親臨(しんりん)(注4)
 トテ。老若男女頸(くび)ヲ引テ(注5)竢(ま)チ受タリ。然ルニ右ノ件ニ
 テ馬首ヲ帰路ニ向ケラレタリト聞キ。失望大方ナラ
 
  (改頁)   31
 
 ス。就中其村学区取締。原九右衛門老母等。ヲ落シ。願
 書ヲ以権令ノ帰途ヲ庶(さえぎ)リタリ。其文言切ニ出タリ左
 ニ記。
      記
            第二十大区七小区
              伊那郡矢村
               原九右衛門母
 一金拾円                  美 南
                   七十七年九ヶ月
               同  人  妻
 一金拾円                  加 登
                   四十五年六ヶ月
               原 勘兵衛妻
 
  (改頁)
 
 一金拾円                  武 免
                   四十五年六ヶ月
               千葉直四郎伯母
 一金五円                  勢 無
                   五十年二ヶ月
               佐藤平蔵嫁
 一金三円                  登 母
                    十八年五ヶ月
 右ハ鄙婦(ひふ)(注6)等皆老母ノ親類ニ御座候。朝ニ紡車ヲ課シ。
 夕ニ縫裁ヲ促シ。貯置(ためおき)シ金額ニ御座侯。婦人ノ身ヲ以
 テ。男子ニ魁(さきがけ)(注7)シ。奉願(ねがいたてまつり)侯ハ恐入侯得共(おそれいりそうらえども)。村内学校へ献金
 仕度(つかまつりたく)。賤婦(せんぷ)ノ志願ハ子ヲ養育スルノ外ニ出テス。常々
 心ヲ摧(くだ)クコトニテ侯ヘハ。苟(いやしく)モ善拠ヲ聞テ人ノ勧奨ヲ
 
  (改頁)   32
 
 竢(また)ンヤ。常々原九右衛門ヨリ承リ候。方今(ほうこん)人民教育ハ
 学事ヨリ先ナルハナシ。ユレニ依テ県庁厚キ御世話
 アリタリト聞。今般権令様。御廻村ニテ。民情並学校ノ
 成否御〓査被遊(あそばされ)候ト。斯ニ於テ鄙婦大旱(だいかん)(注8)ノ雲霓(うんげい)(注9)ヲ望
 カ如ク。渇希(かっき)(注10)シテ。御枉駕(おうが)(注11)ヲ竢チ。素志ヲ逞(たくまし)(注12)フセントス。
 然ルニ俄(にわか)ニ御帰県ノ挙アツテ。我村ヲ過(とお)リ玉ハスト。
 老婆始一同素志訴フルニ道絶テ。遺憾至極(しごく)奉存(ぞんじたてまつり)候。追
 願影ヲ逐(おわ)ントシテ嶮路数里ニ隔(へだて)ラレ。老脚困難罷在(まかりあり)
 候。幸イ九右衛門御陪従罷在候間。飛歩(ひほ)(注13)ヲ以是ヲ托シ。
 御泊迄願出候。人民教化ノ一端ニモ相成候ハ。難有奉
 存(ありがたくぞんじたてまつり)候。憐レ村婆鄙心(ひしん)(注14)聞食(きこしめし)。御採択奉願上候以上。   一
           第二十大区七小区
 
  (改頁)
 
              伊那郡矢村
               原九右衛門
  明治七年五月二日            母
     長 官 御 名
 前書之通願上度旨申越候間奥印仕奉差上候以上
                  学区取締名
 
 

(1)現飯田市。
(2)急を要することを示すための鳥の羽をつけた回状。
(3)現下伊那郡阿智村。
(4)天子などが自らその場に臨むこと。
(5)首を長くしてまつこと。
(6)田舎の婦人。
(7)他に先立って進む。
(8)きびしい日照り
(9)雲と虹。雨には雲と虹がつきものであるから、雨の代用語。
(10)ひじょうに強く望むこと。
(11)乗り物をまげて立ち寄る。人の来訪をいう。
(12)さかんにする。
(13)足を早めて歩むこと。飛脚のことか。
(14)とるに足りない思い。
 
 
 
第三十三回   32
 文明ノ余波。漲(みなぎり)テ村間ノ婦女ニ及。各校ニ就テ訂(ただ)スニ。
 六七歳ノ小娘ト雖。小学ノ教書ナト暗誦(あんしょう)セリ。十年前
 ノ事ヲ追懐(ついかい)スルニ。女子ハヲロカ。男子スラ文字ナト
 措(おい)テ不問(とわず)モノヽ如シ。然ルニ山間僻土(へきど)ニ至マテ。校ナ
 キノ邑(むら)ナク。学ナキノ男女ナキハ。実ニ皇徳ニ被(こうひ)(注1)ス
 
  (改頁)   33
 
 ルコトニテ。難有コトナリ茲ニ伊那郡。河野村(注2)ノ校ニテ。二
 人ノ閨秀(けいしゅう)(注3)ヲ見タリ。其テーブルニ凭(よりかか)リタル風姿。
 ヲ床上ニ插(はさ)ミタルニ異ナラス。其正則ヲ踏ミ。書取問
 答筆算ノ速ナル。又奇代ノ女丈夫(おんなじょうふ)(注4)ナリ。其名ヲ問ヘハ。
 片桐久次郎ノ長女。セキ路。河野小藤治ノ孫。カネノト
 云。其齢ヲ問ヘハ。共ニ十四歳ト三ケ月ナリ。近(ちかご)ロ村人
 ノ評トテ。不幸娘卜云。最早二七齢ニテ新婚ノ期近カ
 ルヘキニ。此娘不幸ニシテ。漸ク良遇(りょうぐう)(注5)ヲ誤ルヘシ。如何
 トナレハ。此婦人ノ才稽(さいけい)(注6)ニ比較スル夫婿(ふせい)(注7)ハ何人ソ。学
 才智優レル人ニアラサレハ。駕御(がぎょ)(注8)シカタカルヘシ。
 識者又評シテ左ニ非ス。此婦秀才ヲ以テ鳴レハ。厚給
 ノ官員ニ媒(なこうど)(注9)ヲトルヘシト。街説アリタリ。
 
 

(1)徳が広く行き渡る。
(2)現下伊那郡豊丘村。
(3)学芸に優れた婦人。
(4)才能が人よりすぐれた立派な女性。
(5)良い出会い。
(6)才能と考え。
(7)夫のこと。妻が夫をよぶことば。
(8)自分の思うように他人を使役すること。
(9)男女のあいだで結婚をとりもつ。
 
  (改頁)
 
第三十四回   33
 筑摩県下伊那郡ニ。旧幕ノ旗下(はたもと)アリ。其ノ封地(ほうち)(注1)各五六
 千石アリ。山吹村(注2)ノ座寺。山本村(注3)ノ近藤。阿島村(注4)ノ知
 久。伊豆木村(注5)ノ小笠原等是ナリ。各土地奉還(ほうかん)シテ。帰農
 ニナリタリ。然ルニ今般権令廻村シテ。旧封地ヲ過リ
 説諭ノ時ニ当リテ。呼出セシニ。更ニ従前ノ権ナク。頓
 座(とんざ)(注6)膝行(しっこう)(注7)シテ敬事セリ。流石(さすが)ニ上ニ立シ人ナレハ。又下
 ニ屈スルヲ知レリ。夫ニ相反シテ其家従(かじゅう)(注8)ノ帰農中ニ
 ハ尊傲(そんごう)(注9)ノ風ヲナシ。霄壌(しょうじょう)(注10)位ヲ易(か)ユル笑フヘキナリ。
 
 

(1)領土。
(2)現下伊那郡高森町。
(3)現下伊那郡飯田市。
(4)現下伊那郡喬木村。
(5)現飯田市
(6)中途でいきづまって、くじけること。
(7)ひざまずいて膝で進退すること。
(8)家来。召使。
(9)おごりたかぶる。
(10)天地。
 
 
 
第三十五回   33
 権令学校説諭ノトキ。勧奨スルニ資金ヲ出セ卜言ハ
 ス。談論中風諭(ふうゆ)(注1)シ。彼ヲ賺(すか)(注2)シ。是ヲ励シ。結末自憤シテ出
 
  (改頁)   34
 
 スノ策略ヲ施セリ。故如何トナレハ。素ヨリ頑愚(がんぐ)蒼生(そうせい)
 ニ。只顧(ママ)ラニ威迫(いはく)(注3)製圧スルトキハ。疑念ヲ生シ。心得違
 ノ村モアルヘキトテ。諭サレタリ。先ツ其学校ニ付キ。
 其村正副戸長(注4)並学校世話役。及判頭ヲ呼出。学校ノ旨
 趣ヲ説諭シ。先ツ戸数人口ヲ督(とく)(注5)シ。就学不就学ヲ〓シ。
 此戸数ニテハ。此就学不足卜覚ヘタリ。六歳ヨリ十三
 歳マテ。就学ノ御趣意ナレハ。此ノ人数就学シテ。一年
 ノ入費何程。此ノ教師ヲ頼ミ。一年給料何ホト。書籍器
 械其他営繕(注6)ノ入費。何ホドト云其見込ヲ以伺ヒ出ヨ。
 其経算不立(たたざ)レハ学制御発行御趣意ニ戻(もと)(注7)レルナリト
 諭サレタリ。其説諭ヲ聞キ。件ノ出納皆算シ得レハ。千
 円以上ノ利子ニアラサレハ盛大ナルコト不能(あたわず)。因テ村
 
  (改頁)
 
 々自憤シテ。千円ヲ闕(か)ク村アラサルナリ。然レハ資金
 ヲ厳諭(げんゆ)強課(注8)セスシテ。自カラ出金シテ学校ノ基礎ヲ
 立ツル。至仁(しじん)ノ手段ナリ。
 
 

(1)遠まわしにそれとなくさとすこと。
(2)なだめすかす。
(3)人をおどして従わせようとすること。
(4)明治初期町村に置かれて町村の行政事務をつかさどった吏員。
(5)しらべる。
(6)建築物の営造と修繕。
(7)そむく。
(8)強く負担を割当てる。
 
 
 
第三十六回   34
 筑摩県管内。伊那郡林村(注1)大原伴衛ハ。有声(注2)ノ豪農ナリ。
 常々陰徳(注3)ノ志シアリ。能ク貧民ヲ救助スト云。或僧一
 日語曰(かたっていわく)。君陰徳ノ志シアル。カツテ知レリ。仏経ハ。千万
 無量。請フ某(それがし)ノ寺近日火災ニ罹(かか)レリ。資金ヲ布施(注4)シ。以
 テ冥福(注5)ヲ求メ玉ハスヤ。伴衛排シテ聞サルモノヽ如
 シ。折節権令此ノ林村ヲ過リ。其学校ニ就テ。説諭ス。伴
 衛感激シテ。志ヲ得タリ。即座ニ五百金ノ資金ヲソノ
 校費ニ献納願出タリ。昔僧ノ方便ニテ。富家ヲ叩キ。右
 
  (改頁)   35
 
 ノ金額タヤスク訛出(かしゅつ)(注6)セリ。蠱惑(こわく)(注7)ノ甚シキナリ。今学校
 へ献金シ村内ノ民物ヲ潤シ。生徒教育ヲ助ケタルハ。
 陰徳溟々(めいめい)(注8)ノ中ニ積ミ。陽報瞳々(どうどう)(注9)ノ中ニ出ツ。可知(しるべき)ナリ。
 豈因果応報ノ空理(くうり)(注10)ヲ問ハンヤ。
 
 

(1)現下伊那郡豊丘村
(2)有名。
(3)人に知れないように施す恩徳。
(4)僧に施し与える金銭または品物。
(5)死後の幸福。
(6)誤って出すこと。
(7)人の心をひきつけ、まどわすこと。
(8)薄暗いさま。
(9)無心に見るさま。
(10)実際とかけ離れた理論。
 
 
 
第三十七回   35
 権令。管内伊那郡。本曾倉村(ほんそぐらむら)(注1)ニテ。学校試〓アリ。一少年
 アリ。従容(しょうよう)(注2)座ニ就キ。傲然(ごうぜん)(注3)鞭ヲ採テ生徒ヲ指揮ス。問題
 ヲ起シ。書取ヲ命ス。権令其人ヲ問へハ。大草村(注4)。高坂彪
 衛ノ男。豊次郎ト云一少年ナリ。当年十三歳ナリト云。
 此者ノ家従前壱人百姓ニシテ。大草日曾利村(注5)ヲ私領
 セル豪農ナリ。今ヤ維新門閥ヲ廃スト雖。又此ノ一秀
 才ヲ出。所謂(いわゆる)将門(しょうもん)(注6)将ヲ出スモノカ。
 
 

(1)現駒ヶ根市
(2)ゆったりとして迫らぬさま。
(3)おごりたかぶるさま。
(4)現上伊那郡中川村。
(5)現上伊那郡中川村。
(6)大将の家柄。
 
  (改頁)
 
第三十八回   35
 権令。村々各校ニ就キ。携(たずさえ)タル予科生徒ニ正則ヲ踏マ
 シメ。是ヲ満座ノ人ニ示ス。書キ取ノ時聞ニ至リ必ス
 問題ヲ設ケ。コレヲ石盤ニ書キ取ヲシメ。満座ニ示ス。
 其文言必ス風土ヲ洞察シ。善ヲ暗指(注1)シ。悪ヲ暗弾(注2)シテ。
 信賞必罰(しんしょうひつばつ)(注3)ヲ風諭(ふうゆ)ナシタリ。
 
 

(1)それとなく指すこと。
(2)それとなくただすこと。
(3)賞罰を厳格に行うこと。
 
 
 
第三十九回   35
 権令伊那郡。大島村(注1)ヲ過リ。其夜学校世話役。山岸平八
 ナル者宅へ投宿アリシニ。其居間新タニ戸ヲ製シ。腰
 帯ニ障子ヲ取リ。上下ノトコロニ単語連語ノ図ヲ十
 六枚張リ置ケリ。常ニ其中ニ座シ。我カ児ニ口授(くじゅ)(注2)シタ
 リト云。是モ教化ノ一端ナリ。
 
 

(1)現下伊那郡川町。
(2)口伝えに教えを授けること。
 
  (改頁)   36
 
第四十回   36
 筑摩県管下勝間村(注1)。中原豊太郎ナルモノ。才能ノ聞ヘ
 アリ。県カツテコレヲ挙テ。第十八番中学区取締ヲ申
 付タリ。夙(つと)ニ御趣意ヲ奉戴シ。人ニ学問ヲ勧奨スルニ。
 己レ先ツ憤発シテ。毎歳金二百五十円ノ利子ヲ差出。帰化嚆失(ママ)(注2)ヲ示シタレハ。村民コレニ雷同(注3)シ。出金シテ。
 礎(いしずえ)ヲ居へ。基ヲ樹テタリ。
 
 

(1)現伊那市
(2)嚆矢(こうし) 物事の最初。はじまり。
(3)同意すること。
 
 
 
 
第四十一回   36
 筑摩県管内。大島村(注1)ノ富岡良胤卜云者。先般講習所へ
 入校。卒業ノ期ニ至テ。十余名卜共ニ落第ニナリタリ。
 父ハ守胤ト云テ。第十八番中学区取締ヲ命セラレタ
 リ。平日人ヲ督責(とくせき)(注2)スルノ任ナレハ。且ツ父ニ恥チ。我何
 
  (改頁)
 
 ノ顔(かんばせ)アリテ。見(まみ)ヘンヤ。自ラ憤(いきどおり)テ父ニ壱封ノ書ヲ寄セ。
 暫時ノ暇ヲ乞。我業不成(ならずん)ハ誓(ちかっ)テ不帰(かえらず)ト。某ノ学校ニ到
 リ。其教師ト協義。学事勉強スル数日。訂(ただす)ヲ講習所ニ請
 ヒ。遂ニ免状ヲ得テ帰校シ。生徒ニ授ク。時ニ権令巡廻
 シテ大島村ノ校ニ至ル。生徒駸々(しんしん)(注3)進ムヲ見ル。教化ノ
 不問(とわず)シテ顕レタリ。曩(さき)ニ落第ノトキ免状ヲ得シモ
 ノ。反テ怠リ生徒ノ不進ヲ見ル。今富岡氏ノ功ヲ奏ス
 ル憤発圧製(あっせい)(注4)スルトコロナリ。
 
 

(1)現下伊那郡川町
(2)取締り促すこと。
(3)物事が速く進むさま。
(4)おさえてつくる。
 
 
 
第四十二回   36
 筑摩県管内。旧称入ノ谷郷ト云。芝平村(しびらむら)(注1)。荊口村(ばらぐちむら)(注2)ハ。四山
 重畳(ちょうじょう)(注3)ノ間ニアリ。人屋(じんおく)渓間ニ結ヘリ。僻地謂フヘカラ
 ス。日ニ樵兄漁弟(しょうけいぎょてい)ニ親ミ。山川ノカセキヲ以日ヲ送リ。
 
  (改頁)   37
 
 邂逅(注4)ニ士人(注5)ノ通行スレハ。村内呼応シテ。見物ス。其景
 況(いわんや)殆(ほとんど)桃源仙舍(とうげんせんしゃ)ニヒトシク。世間ニ踈(うと)キモノヽ如シ。況
 ヤ文字ナト措テ不問ナリ。然ルニ今般権令廻村シテ。
 其景ヲ見ルニ。山林ノ間ニ学旗ヲ翻シ。一校アリ。到
 リ見ルニ机案(きあん)(注6)陣列(注7)。生徒蝟集(いしゅう)(注8)シ其業ヲ試〓スルニ。盤
 上ノ鳥跡(ちょうせき)(注9)速カナリ。山間ノ民物如斯ノ開化ニ至ル。抑
 聖旨ノ濺(そそ)クトコロト雖。将(まさに)県治ノ勧奨ニヨルモノカ。
 
 

(1)現伊那市
(2)現伊那市
(3)幾重にも重なること。
(4)思いがけなく出会うこと。
(5)教育または地位のある人。
(6)つくえ。
(7)陣の配列。
(8)ハリネズミの毛のように多く寄り集まること。
(9)鳥の足跡。
 
 
 
第四十三回   37
 筑摩県管内。荒町村(注1)ノ学校ニツキ。権令説諭ノトキ。生
 徒ノ父母ヲ呼出シ。懇(ねんごろ)ニ御趣意ヲサトサレタリ。皆叩
 頭(こうとう)(注2)感銘シテアリシナカニ。末座ノ方ヨリ声ヲ放(はなち)テ。申
 請スルヨウ。賤妾(せんしょう)(注3)ハ当村有賀虎三郎妻トウ。同辰五郎
 
  (改頁)
 
 妻モン。ナリシカ。共ニ夫トハ留守ニテ。コレヲ計リ問
 ニ暇(いとま)アラス。今マ人民教育ノ道ヲ伺奉(うかがいたてまつ)リ。感喜躍踊(やくよう)(注4)踏
 舞(とうぶ)(注5)ヲ知ラス。母ノ身トシテ誰カ子ヲ思ハサランヤ。生
 徒学費ノ為ニ。今帯ニ挟ミシ。些少(さしょう)二円ノ金アリ。是ヲ
 此校へ献納イタシタシ。学区取締ノ前ニ真心表シテ。
 差出セリ。権令其志ヲ褒メタリ。
 
 

(1)現本市。
(2)頭を地につけて拝礼すること。
(3)自分のことを謙遜していう。
(4)おどり上がる。喜び勇む。
(5)明治時代、ダンスの訳語として用いられた。
 
 
 
第四十四回   37
 権令伊那郡田村(注1)ヲ過リ。北原正三郎ノ宅ニ宿セリ。
 此辺ノ豪家ナリ。曾テ学制御趣意奉戴シ。金百円ヲ献
 納セリ。先般御賞賜(しょうし)トシテ。桐章(とうしょう)ノ銀盃ヲ賜リタリ。然
 ルニ是ヲ開クニ期ナク。大切ニ秘メ置ケリ。今般幸ニ
 権令ノ駕(が)ヲ迎へ。件(くだん)ノ銀盃ヲ捧テ。余瀝(よれき)(注2)ヲ拝戴シタリ。
 
  (改頁)   38
 
 権令其ノ志ヲ感シ。額面ノ大字ヲ揮(ふる)(注3)ヒ。下付シタリ。
 
 

(1)現伊那市
(2)さかずきの酒の余ったしずく。
(3)書画をかく。
 
 
 
第四十五回   38
 田村北原正三郎ノ物語リナリト云。権令山室村(注1)ニ
 泊ト聞キ。其駕ヲ迎ヘント山踰(こえ)シニ到リシニ。途ニテ
 老夫婦ノ荷負テ過ルヲ見ル。正三郎問テ曰。権令様被
 為入(いらせられ)シヤ。曰知ラサルナリ。只殿様来レリト云。曰御
 諭
始マリタリヤ。曰知ラサルナリ。只御談義アリト云。
 此翁媼(おうおう)(注2)カヽル頑蒙(がんもう)(注3)ノ言ヲ発ス。是旧染(きゅうせん)(注4)ノ可憐ナリ。方
 今学制ノ御発行。鄙野(ひの)(注5)ニ至ルマテ。校ナキノ地ナク。爾
 来(じらい)(注6)少年逹識(たっしき)(注7)シテ。如斯(かくのごとき)鄙言(ひげん)(注8)ナキコトト思ワレタリ。古今
 ノ変遷見ヘキナリ。
 
 

(1)現伊那市。
(2)じいさんとばあさん。
(3)かたくなで事理にくらいこと。
(4)古くからしみこんだならわし。
(5)田舎のこと。
(6)それより後。
(7)すぐれた見識。
(8)俗っぽい言葉。
 
 
 
第四十六回   38
 
  (改頁)
 
 高遠旧知事。夙ニ庠序(しょうじょ)(注1)ヲ設。進徳舘ト号シ。藩士ヲ勧学
 ス。故ニ廃藩後学士ヲ東西ニ招請スル。筑摩県管内半
 ヲ出スト云。是レ知事ノ処断(しょだん)(注2)ニ出ツルナルヘシ。権令
 高遠ヲ過リ。進徳小校ニ就テ。〓査ス。旧県ノ参事青山
 稠禄ナルモノ。当時隠迯(いんとう)(注3)ト雖。学校盛挙ヲ嘉(よみ)シ。旧知事
 ノ遺志ヲツカントテ。教則二十有余種ヲ献本願出タ
 リ。権令是ニ接シ。其志ヲ褒シ。猶内務省へ申請シテ。御
 賞賜アラント諭サレタリ。
 
 

(1)中国古代の学校。ここでは藩校をさす。
(2)さばいてきめること。
(3)隠逃に同じ。世をのがれ退く。
 
 
 
第四十七回   38
 権令廻村ノ挙ニ当テ。石盤(注1)ナト種々ノ製ヲナシ。其校
 ニ献上処々ニテ願出タリ。木盤或(あるいは)練盤或鉄盤等アリ
 売銭大ニ利ヲ得ルト云。中ニモ黠商(かっしょう)(注2)ノ俄ニ小富貴ヲ
 
  (改頁)   39
 
ナスト。是ハ小児ノ袴(はかま)ヲ沢山ニ仕入。権令廻村前ニ村
 々へ学校試〓ノ日入用ヲ鳴シ。売代(うりしろ)ロナシ(注3)。大利ヲ得
 ト云。是文明開化ノ商ナリ卜誇ル卜云。
 
 

(1)粘板岩の薄板に木製の枠をつけ、石筆で文字・絵などを書くようにしたもの。
(2)わるがしこい商人。
(3)物品を売って金銭にかえる
 
 
 
第四十八回   39
 今般権令管内伊那諏訪両郡ヲ巡廻シ。二百三十余校
 ヲ巡〓ス。殆(ほとんど)六十余日ヲ経タリ。一日三里ト見倣(みな)シ百
 八十里ヲ跋渉(ばっしょう)ス。〓語(注1)声送テ〓語迎フ。尽(ことごと)ク学幟ノ影
 ナリ。
 
 

(1)〓唔(いご)。書を読む声。
 
 
 
 
第四十九回   39
 権令今日ハ彼ノ校。明日ハ彼ノ校ヲ過レリト。満村喜
 ヒ叫ヒ。乳ノミ子ニ袴ヲ著(つ)ケ。母カツレテ校ニ登(のぼ)セ。或
 ハ半里トモ通ヘヌ小児ニ袴ヲ著(き)セテ。翁カ脊逐(せおう)テ。校
 
  (改頁)
 
 ニ著(つ)ケ。皆試〓ヲ受ルトテ。後村前村呼応。甚(はなはだ)賑(にぎ)ヤカナ
 リ。其景況(注1)毎日目撃シテ。六十日ヲ経過セリ。人民教育
 ノ街。亦愉快ナラスヤ。
 
 

(1)そのあたりの様子。
 
 
 
第五十回   39
 筑摩県管内。各校元資金。摠計(そうけい)(注1)二十六万円余ニ及ヒシ
 ヲ賞讃シテ。各種ノ新聞誌ニ掲記ス。海内(かいだい)(注2)普ク人ノ知
 ルトコロナリ。然ルニ権令一タヒ。諏訪伊那両郡ヲ巡
 廻シテ。説諭ノ緒ニ就キ。届出ルトコロノ元資金又三
 十一万四千三百三円八十三銭九釐アリ。追テ安曇筑
 摩ノ両郡。飛騨一円ヲ巡校奨励セハ。五十万以上ノ資
 金ヲ募ルナルヘシ。嗚呼(ああ)説諭ノ及フトコロ。管下人民
 ノ憤起。亦大ナラスヤ。長尾無墨(ながおむぼく)陪従(べいじゅう)シテ親ク感視ス
 
  (改頁)   40
 
 ルトコロ。其事蹟ノ消ンコトヲ恐レ。倉卒(そうそつ)(注3)筆ヲ採リ雪鴻(せっこう)(注4)
 ノ跡ヲ記スル斯ノ如シ。
 
 

(1)総計に同じ。
(2)国内。
(3)あわただしい様。
(4)高潔な大業。