龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一)

○東京御発輦(ごはつれん)      2
 明治十一年八月三十日、午前七時三十分、奉送(ほうそう)の皇族大臣参議並に各省の勅奏任官(ちょくそうにんかん 注二)を始め、有位華族(かぞく)の面々は参内(さんだい 皇居に参上すること)して謁見(えっけん 貴人にお目にかかること)を仰付けられ、同じく八時、鹵簿(ろぼ 天子の行列)整ひたる旨の奏上(そじょう)によりて、赤坂皇居御車寄より御馬車を奉(たてまつ)る。御陪従(ばいじゅう 身分の高い人のお伴をする)佐々木一等侍補被仰付(おうせつけられ)、引き続き両皇后にも御見送りとして御輦を召させられ、御門外まで輾(てん きし・る ころがる)らせ給ふ時、茲(ここ)に整列したる陸軍楽隊は一斉に楽を奏す。御行列は警視官数十人騎馬(きば)にて先導し奉り、儀仗兵(ぎじょうへい)、御旗、次に儀仗兵二小隊四列をなして前後左右より御輦に従ひ奉り、両皇后の御輦(柳原典侍陪乗)続いて後に輾り、有栖川宮、伏見宮、東伏見宮北白川宮、閑院宮を始め奉り、三條太政大臣、岩倉右大臣、大隈、大木、寺島、山県、西郷井上の文武大臣、其他供奉(ぐぶ)奉送(ほうそう)の勅奏任官、有位華族、琉球藩侯等数十輌の馬車を連ねて之に続き、更に判任官(はんにんかん)は人車を駆(かけ)りて之に従ひ、最後は騎兵警視官何れも二列、其他供奉の巡査三百余名は御列より少しく後れ随従(ずいじゅう)せり。
 皇居より四谷御門迄の御道筋は近衛歩兵(このえへい)警衛(けいえい 警戒警護)し、半藏御門より竹橋一つ橋を経て万世橋(まんせいばし)迄の御道筋は、東京鎮台(ちんだい 明治の初め各地に置かれた軍隊)の諸隊警衛し奉る。やがて万世橋近くに到らせ給へば、橋内には海軍楽隊並に水兵等整列し、海軍楽隊は一斉に嚠喨(りゅうりょう 楽器の音が高らかに響きわたる)楽を奏す。橋を渡れば教導団の砲兵、歩兵隊の迎送するあり、左に折れ、駒込、巣鴨を経、板橋に向ひて、御輦を進め給ふ。
 
 此日天気清朗(せいろう)にして府下の老若男女は万世橋より板橋の間迄路次(ろじみちすじ)に充満して錐(すい)を立つべき隙(すき)もなく、家々には国旗を掲げ、道を払ひ水を打ちて通御(つうぎょ)を待ち奉り、御輦漸(ようや)く近付けば騷がしかりし群集も、恰(まるで)風波の凪(な)ぎたるが如く四辺寂然(しゅくぜん)として靜まり、只管(しかん)敬意を表し、臣民の至誠を盡(つく)して、奉迎送を為し奉れり。十時五分、板橋の行在所飯田春教の方に著御なる。伊藤内務卿予てより此処に待ち受けられ、御先に立ち玉座に導き参らす。正午十二時、同所を御発輦にて蕨駅に向はせ給ふ。皇后宮には玄関にて御別れを告げさせ給ひ、奉送の方々は門の内外に整列して見送り奉る。両皇后には暫く御休息あり、十二時三十分還啓(かんけい 皇后、皇太子が出かけ先から帰る)を仰出だされ、引続きて奉送者一同夫々に帰京せり。      3
 此日は浦和に御宿泊、翌三十一日は桶川御宿泊、九月一日は熊谷、二日は新町、三日は前橋、四日は高崎、五日は松井田に御宿泊あらせられたり。此日我長野県令楢崎寛直(注三)は行在所に到り天機(てんき 天子のご機嫌)を伺ひ奉りぬ。
 
○信地に於ける 聖上
第一日、九月六日
 午前七時上州松井田駅御発輦、数日来降り続ける雨も、信州に入らせ給ふべき今日よりは幸にも日本晴となり、供奉の方々を初め土地の者共喜び合へる事限なし。朝の程は霧深く閉じ込めたるも漸(ようや)くに晴れ行きて、雨に洗へる妙義(みょうぎ 山)の奇峯(きほう)は霧の上に聳(そび)え、其眺め常に勝りて見え、武藏(むさし 東京都・埼玉県・神奈川県の一部)上野(こうずけ 群馬県)の単調なる平野をのみ過ぎさせられたる人々の敬情(けいじょう)を慰めたり。(妙義山の一峰を白雲山と云ふ)
 ふみ分けて入らん由なき身なれとも
       山の名ゆかし峯の白雲
         一等侍補 佐々木高行
 唐人の筆をたくみと思ひしは
       此山水を知らぬなりけり
         二等侍補 高崎 正風
 渉水穿林路欲迷 千尋絶壁與雲齊
 糢糊金洞斜陽影 一陣天《へう》拂馬蹄
         侍従試補 藤波 言忠
 数月来労苦して略(ほぼ)出来上りたりし碓氷の新道も十余日の降雨には所々破損を生じ、已に東京御発輦前にも県令より御届に及びたる程なりしが、聖上の五料村にて御小休(おこやすみ)、次に坂本駅にて御小休遊ばさる此時迄も、新旧何れの道を取らせらるべきか確と定められざりしが、幸に本日は空晴れ御通輦(ごつうれん)迄に略修繕も届き、県官よりも通御(つうぎょ)を請ひければ遂に新道の方を進ませ給ふ事に決し給へり。至れば独り険を変じて夷(い 平坦)となし、迂(う 遠まわり)を化して直となすのみならず、道燥(かわ)きて泥濘(でいねい どろみち)ならざれば足元も軽く進み、武人割拠の日恃(たの)んで以て蜀道函関(かんかん 箱根の関所)となせし天険(てんけん)も、案ずるより生むが安しなど言ひ合へる者有りし由。坂本駅よりは一層登坂なれば聖上は御板輿(いたごし 注四)にて渡らせ給ひしが、屏風ケ岩辺余程長き間御歩行遊ばされ、其御健捷(けんしょう すこやかですばやい)なる、供奉(ぐぶ 行列に加わっている)の方々も殆ど続き参らす事覚束(おぼつか)なき程なりしとか。栗ケ原にて御小休あり。此処より御昼行在所(あんざいしょ 行幸の際の仮のすまい)たる軽井沢迄はまだ余程遠ければとて、此処の茶屋にては握り飯を多く拵(あつら)へて売りに出だしたるを、或方へ買ひ上げ給ひて随従(ずいじゅう)の人々へも、人夫共へも賜はりたる由。爰(ここ)をも立たせ給ひ山中と云ふ処を過ぎさせ給ふに、道の傍(かたわら)に学校の生徒数名整列して拝礼す。此時杉宮内大輔(たいほ 各省の次官)は御輿近く進みて此処は僅(わず)かに九軒ばかりの小村にて漸く茶店を以て活計を立つる程の僻地なれども、学校を設立し智識を開かんとするは誠に感心の事にて候と申し上げたれば、暫し御輿を止めさせ給ひて御覽あらせられたり。此処を過ぎさせ給へば、坂は益々險しく山は愈々高くして白雲の棚引きたる中を上らせ給ふに、三十余町の間は人家一軒もなし。上り切りたる所は上州と信州との境なる峠町なり。
 碓氷山上りて見れはやとりせし
       麓の里も後の白雲
              芳  樹
峠町にては道路に敷砂をなし、両側に青竹、注連(しめなわ)、国旗、提燈(ちょうちん)等の飾付をなすなど恭しく迎へ奉る。こゝには熊野神社あり。二個の神楽殿を設く、一は上州(群馬県)の地内に一は信(長野県)の地籍に立てらる。御小休(おこやすみ)所は実に信州に属する神楽殿(かぐらでん)に三棟を継ぎ足せるものにして[此新築一棟は佐藤織衛外十三名が造れるものにして六畳一間、二畳一間、内外に御厠(かわや)あり]眺望絶佳(ちょうぼうぜっけい)なり。玉座(ぎょくざ 天子が座る所)は六畳の一間を以て之に充てらる。聖上には大門先にて御下乗(げじょう 乗物から降りること)在らせられ、七十段程の石階を御勇ましくも供奉の方々に先立ち、御足早に登り尽し玉座に入らせ給へり、供奉の高官は神楽殿、其他の供奉員は上州分神樂殿及神職の住宅に入りて休憩す。
 
 御著輿(ちゃくよ)の頃は雲霧(うんむ)全く霽(は)れ東は関八州の風光一眸(いちぼう)の中に集り、西南は軽井沢離山(はなれやま)を隔てて佐久の山々を望み得べく、其様実に箱庭(はこにわ)に対するが如し。碓氷(うすい)の秋は甚だ早きが故に此辺已に秋草咲き乱れ、山風に靡(なび)く様など興(きょう)頗(すこぶ)る深ければ、御機嫌最も麗(うるわ)しう渡らせたりと洩(も)れ承はる。      4
 萩尾花さけるみやまの秋みれは
     野辺も所をゆつるへきかな
               言   忠
此時、土地の者にや、いとも色濃く染め出だせる初紅葉一枝を御前に上(たてまつ)らんとて芳樹翁に歌一首を添へ給へといふ、翁山中の民に似合はぬ優しき心様を愛し
 をりたきし昔の秋のなさけにも
       深さ勝れるもみち葉の色
 聖上明治天皇)には暫(しば)し御休みありて此処を立たせ給へり。是よりは長野県の警部、群馬県の警部に代りて御先導仕(つかまつ)る。少しく下りたる所にて浅間間山を眺むれど、今日は殊更(ことさら)峯に雲懸りて煙の様見えず、
 思ひなき程もしられて浅間山
     峯のけふりのけふはたえたる
              正   風
 秋霧は晴れわたれとも浅間山
     たかねの雲ははなれさりけり
         滋賀重身 徳大寺家従者
 
 坂を下りて西の方数町、軽井沢あり。此処にては道を清め砂を盛り、主なる家は国旗を翻(ひるがえ)し提灯(ちょうちん)を掲げて祝意を表し、供奉員(ぐぶいん お供の行列のもの)数百名の爲に割り当てられたるは殆んど全駅也。聖上には御板輿(いたごし)に召され、供奉員は騎馬人力車或は徒歩にて従ひ奉れり。
 行在所(あんざいしょ)は旧本陣たる佐藤織衛の邸内にして「行在所」と厳(いかめし)く記したる表門より遥入りたる処に新築したるもの是也。玄関の次に幅広き廊下を以て二方を廻らす六畳、十畳、八畳の三間あり。玉座(ぎょくざ)は実に其八畳の間を以て之に充てたるなり。而(しこう)して其門前には二人の巡査を配置し、出入を許さるべきは印鑑持参者に限れり。[此印鑑は宮内省より県庁に下し県庁より必要ある者に下したるものなり]玉座の御備付は総て御持越(持参)品のみにて、燃え出づるが如く美麗(びれい)なる絨毯(じゅうたん)を敷き詰め、御椅子(いす)並に御テーブルには、錦を掛けたり。室内の御装飾御用品の備付等に関しては、供奉の高官又は掛官員の外詳(つまびらか)に知ることを得ざれども、前出御画並に御小休用として御持越になりたる目録を一読せば、自ら其模様を推知(すいち)し得べきなり。供奉の大臣、参議、勅任官(ちょくにんかん)及び各庁奏任官(そうにんかん)等の詰所には各十畳六畳の間、其他を以て之に充て、敷物椅子テーブルの準備一も欠くる所なし。以前大名の休泊には総て畳の上なりしに反し今度は何れも靴の儘なりければ、今昔の感に打たれたる土民も少なからざりけん。午后一時頃軽井沢に著御(ちゃくぎょ)在らせらる。此時吾先に龍顔(りゅうがん 天子の顔)を拝し奉らんとて集り来れる者頗(すこぶ)る多く、何れも軒下に整列して最敬礼を行ふ、男は羽織(はおり)袴(はかま)なるが多く洋服を著けたるものを見受けず。佐藤織衛は門脇にて御迎へ奉る。聖上には御乗物の儘玄関迄入らせ給ひ、属従の百官は序(じょ 順序)に従ふて所定の場所に著けり。近衛(このえ)騎兵を初め東京より供奉したる警視(けいし)巡査(じゅんさ)は門の内外は云ふに及ばず、行在所の周囲を厳重に警護し奉り、本県の警部巡査も更に附近の警備に任じたり。
 抑(そもそも)軽井沢は御昼の行在所にして、嶮(けわ)しき坂路の御労(おつかれ)を暫し慰(なぐさ)め給ふなりき、内膳課にて
御買上品は
   内膳課御買上物並代金表
 御膳米(ごぜんまい)一升    九 銭
 醤 油           拾壹銭五厘
 味淋酒           廿二錢五厘
 上 酒             拾参銭
 塩               四 銭
 鶉(うずら) 十羽       七拾銭
 鯉(こい)  二疋  壹円六拾五錢七厘      5
 鰻(うなぎ) 六尾    九拾七錢五厘
 根深(葱)  二把       五 銭
 蓮 根    三本       廿五銭
 百 合    五個      八銭五厘
 氷      三十斤   壹円六拾五銭
        (当時氷ハ軽井沢ニアラズ)
 薪(割木)  三把       六 銭
 柴      二把       参 銭
 水ハ軽井沢ノ長尾ニアリ
 
 御昼聞食し給ひて、午后二時御発輦、沓掛迄の間、東は碓氷(うすい)の山脈に続き、北は浅間の山脚にて、地形は余程高けれども道路は自ら平坦にして、さしたる苦もなし。拝観人は此処彼処に十人二十人程宛群り居て何れも今日の光栄を喜べるが如し。假宿と云ふ辺より西は稍(やや)人里めき来り田畑も少なからず見受られぬ。村社遠近(をちこち)の宮前に社家と見え、十五人許り生壁色の袍(ほう うわぎ)を著し、扇子(せんす)をならしつゝ立ち居たる体(てい)古風にぞ見えたりける。其より西の坂を登り詰めたる広原には四方より出でたる拝観人三四百人群り居たり。追分駅に至れば、近村(きんそん)近郷(きんごう)より拝観に出でたる老若男女(ろうにゃくなんにょ)途(みち)に充満して犇(ひし)めき合ひ、学校の生徒も亦路を挾んで整列し、校旗凡そ十三流を秋風に飜(ひるがえ)し御通輦(つうれん)を待ちて一斉に拝礼し奉れり。
 浅間山ふもとのみゆき今日そとて
     をちこち人そしけくつとへる
              芳   樹
今宵は追分駅に龍駕(りょうが)を駐(とど)め給ふ。
 
 軽井沢より追分に到る間に於ける本日の御模様は松本新聞附録信地御巡幸拝見日記(竹内泰信稿)に詳記せり。此記事は記者が逆に西より東に進みつゝ途中の実况を記したるのものなれば、読者其心して読むべし。
 平原と云ふ村落へかゝる頃、車夫の空車を引いて追分駅へ帰るありし故に、是に駕(が)し、例の車夫等が咄(はなし)を聞きつゝ行くに、前車夫曰く、権公昨夜ノ難題ニ答へタ論ヲ聞イタカ。後車夫曰く、己等(きさまら)知ラネーガ、ドヾドシタト。知ラネーナラ咄(はな)スガナ。今度御通リニ付イテナ、己ガ社会ニ揃ヒノ衣服ヲ作レト云フカラナ、ハー仰セナラ作リマスガ、私一人デハ御請(うけ)ハ出来マセヌ。ソレナラ相談ヲ仕レト云フカラナ、野盆デ議事ヲ開イタ処ガナ、ツイ裸体(らたい)ノ揃ヒガ能カロート云フニ決シテナ、ソレヲ申上ゲルトソレデ御仕舞サ。などと高音に奴鳴(どな)り行くほどに、追分原に至れり。車中より遙(はる)かに向ふを望むに百姓体の者が数百人一方へ向ひて石を抛(なげう)つあり。こは如何なる騒動の起りしならんと近寄り見れば明日生徒が聖上を奉迎をする桟敷(さじき)を作るの騒ぎにてありける。又其処より遙(はるか)かに向ふに方り蝙蝠傘(こうもりがさ)八重にかさなりて数十丁陸続(りくぞく)と来るあり。車夫疾く是を見て曰く、ヤー/\佐久カラ見物騒動が繰り出した、大変だ/\と呼ばはる声と共に追分駅に至りけるが、今夜聖上の御旅泊たるを以て掛りの吏員警部巡査を始め東西に奔走し、其雜沓(ざっとう)中々に吾輩の鈍筆に書き尽すべきにあらず。かゝる景况なれば田舎新聞の探訪記者などに宿貸すべき様あらざる故沓掛(くつかけ 今の中軽井沢)に至りて泊らんと歩を進めて行きけるに、早御荷物と見え竹長持(ながもち)或は菊の御紋の布帛(ふはく 織物)にて覆(おお)ひたる長持を陸続と荷ひ来れり。是昔日封建待代に雲助(くもすけ)と称(とな)へたる奴隷にて、色黒く口と肩とが達者にて、数丁毎に杖を立て憩ひ又行く前に方り唄を唄ふを常とす。其声頗(すこぶ)る筋骨に力を起さしむるの調あり。先鼻棒といふ男音頭を取り前の一節を唱ふ。一曲を挙ぐるに箱根ナアーアヘ、コラ/\、八里ハ馬デモ越スガナーアハヨー。イシ/\/\と担ぎ行くを見て、老人等は路傍に涙を流して云ひけらく、図らざりき今又此唄を聞かんとはなどゝ、うしと見し世を恋ふる人々は芝生上に黒山の如く休み居れり。然るに又向ふの方より上下紅にて中白の大隊旗の如き大旗を数丁毎に飜(ひるがへ)し行列整斉(せいせい きちんとそろう)と繰り出だし来るあり。其数幾千万なるを知らず、近づき見れば皆学校の生徒にて、十中八九新製の洋服を著し帽を被(かぶ)り靴を穿(うが)ち白張の蝙蝠傘(こうもりがさ)を戴(いただ)きて、聖上の奉迎に出でたるなり。其行列の左右に緋(ひ 赤色)の小旗を握り足並に注目して来るは指揮官(常は教員先生)なるベし。女生徒は多く後殿に当れり。食糧提灯等を載せたる車は各隊の間に挾まり宛も三軍出兵の如し。又隊伍を乱し芝原に座したる所の嫁、娘、年増婆、野郎、親父は数万の大隊を散兵に布きたるに似たり。茲にまた遙か東の方に白匁の鎗(やり)日に輝き紅白の旗印(はたじるし)風に飜(ひるがえ)り砂煙の中を馳せ来る者あり。是則ち聖上の御側近くを守護(まも)る騎兵なりしが、今日は非番ゆえ前駆せしなりとぞ。此騎兵の勢に生徒隊は大に蹂躙(じゅうりん)せられ隊伍(たいご)忽ち乱れ容易に整へ難きに至れり。騎兵は敵の隊伍を馳崩(はせくず)すを主とすと、宜(うべ)なる哉、生徒隊の崩れたる又怪しむに足らざるなり。又其中を御巡幸(ごじゅんこう)行列附と題したる小旗を掲げ、印し染の半天(はんてん)を著し洋布包の小笠を葢(おおへ)り、手に図絵(ずえ)御巡幸日誌などを携(たずさ)へ、異風の口上を述ベ、売り來る者あり。其数幾百人たるを知らず。其口上を聞くに、サテ恐レ多クモ是ハ此度一天万乗ノ皇帝陛下、北陸東海御巡幸ニ付キマシテ、供奉(ぐぶ)致サレマス面々ニハ、岩倉右大臣様大隈参議様井上参議様(注五)ヲ始メトシテ文武百官ノ御名前附ガ事明白、宿々駅々御泊リニハ御小休、残ラズ載セテ値ハ二銭など呼び来る者絡繹(らくえき 往来に人馬が続き絶えない)として止まず。また前に挙げたる雲助(くもすけ かごかき雑役人夫)殿は皆浅黄(あさぎ)木綿(もめん)にて、襟(えり)に菊地の文字背に〓の印を染めたる半天を著せり。聞く菊地某は今般の荷物人足を請負ひし人なりと、其家の印ならん。
 
 午後一時沓掛駅に至る。当駅は唯陸続と荷物等の通行するのみにして足を止むる者少なきを以て、旅宿は大概閑靜(かんせい)なり。茲に於て先づ当駅に止宿し、聖上の御行列を拝し奉らんと或る旅店を卜(ぼく)して泊りぬ。      6
 偖(さて)一時三十分頃より荷物の来ること夥(おびただ)しく皆宮内省内膳課、同内廷課、同調度課、警視何部などの札を挿し挾(はさ)み、其札の下辺の横に朱字にて臣の字を書せしもの数多あり。按ずるに臣下の用物を納めたるの印ならん歟(か)。中にも御巡幸会計掛と書したる札を掲げ巡査二名が附き添ひたる長持あり、如何にも重さうに見えたるは必ず御遣ひ払ひの楮幤(ちょへい 紙幣)ならん。今般の御入費は二十五万円余と承はれば此容積あらん。其荷物に交りて兵士巡査の来ること陸々続々たり、巡査は黒のマンテルに白のズボンを穿(うが)ち同じ色の脚袢(きゃはん)を巻き、腰間に銀色鞘(さや)のサーベルを懸け草鞋(わらじ)を穿ちし容体なり。
 又人力車の来ることも夥(おびただ)しく、過半官員自分持の車と見え蒔絵(まきえ)模様などはあらざれ共何れも美麗(びれい)なる車なりき。岸田吟香先生も此群の中に居れり、窪田氏一目是を知る。
 群馬県の巡査数十人来れり、是は白のマンテル、ズボン、白布包の帽にて袖に鬱金(うっこん 濃い黄色)色のガンギ筋を附けて徽(き 旗じるし)とせり、何れも草鞋がけなりき。
 
 此頃吾輩は既に旅店の庭前に彳(てき 少し歩いては立ち止まる)むこと始んど三時間に及ぶと雖も、来る者は荷物、人力車、裸馬(らば)、巡査等のみにて車駕の來る様子もあらざる故将に内に入らんとする時、駅の東の方拝見の人々動揺して、軒(のき)に並列する騎兵の鎗チラ/\見ゆる中に緋に金の菊の御紋を付けたる御旗風に飜(ひるがえ)りて見えける故、拝見の人々は両側に整列して今や遅しと相待ちける。
 偖(さて)前ニ述ベタル如ク、両側ニ並列シタル拝見ノ人々ハ皆東ヲ望ンデ相待ツ所へ騎兵ハ二列ニ並ビ馬ノ足並ヲ揃へ進ミ来レリ、当日ノ服ハ紺ノマンテル、ズボンニ帽ハ赤ノ横筋入、靴ハ象皮ノ自然色ノ長靴ヲ穿テリ、鎗(やり)ハ長サ凡ソ九尺許ニテ穂先(ほさき)五六寸モアリテ常ニ白刀(ヌキミ)ナリ、塩首ノ所へ紅白ノ縮緬(ちりめん)ヲ中へ、カンギ形ニ切リ込ミタル小旗ノ如キ鎗印ヲ附ケ、其下へ象皮ノ紐ノ輪ヲツケ是ヲ右ノ腕ニサシ、石突(イシヅキ)ヲ鐙(あぶみ)ニテ受ケ両手ニ手綱(たづな)ヲ採テ馳驅(カケル)ナリ。サテ其後ニハ御旗ヲ持チタル兵士、騎馬ニテ二列ノ中央ノ所ニ続キタリ。御旗ハ緋羅紗(らしゃ)ニ金ニテ菊ノ御紋ヲ置キ、六尺許ノ黒塗ノ鎗(やり)ニ是ヲ添ヘタルナリ。其兵士ノ服ハ騎兵ト同ジ。ソノ後へ二列ニ並ビシハ近衛(このえ)ノ士官ナリ、服ハ紺羅紗(らしゃ)ニ徽章(きしょう)ヲ縫ヒタルマンテルヲ着シ、帽ハ昨年薩賊ガ唄ヒタル赤帽ナリ。其後ガ則チ聖上ノ御馬車ナリ。二匹ノ馬ハ皆亜羅比亜(あらびや)産ノ栗毛(くりげ)色ニテ本邦ノ馬ヨリ一尺余モ大キク、御車ハ朱塗(しゅぬり)ニテイト低クシテ馭者(ぎょしゃ)ノ座ノミ高キ作リナリ、馭者座ノ後ノ方ニハ何ト名ヅクル物ナルカ、燃エ立ツ如キ本緋ノ総(ふさ)ヲ懸ケ廻シ其上ニ金ノ注連(しめなわ)ノ如キ物ヲ覆(おお)ヒタリ、其美麗(びれい)ナルコト假令(たとえ)ル物ナシ、又左右ノ窓ニハ紫縮緬(ちりめん)ノ幕ヲ引キ、讒(さがしら)ニ中ノ透キ見ユルホドナリシガ、当日ハ両方共ニ御絞リ遊バシテ召サレシ故、畏(おそれ)ナガラモ御車ノ内ヲ窺(うかがい)ヒ奉リシニ、侍従(じじゅう)富小路敬直君御陪乗(ばいじょう)遊バサレテ、聖上ト御相向ヒニ御座ヲ占メ玉ヒ、折フシ敬直君ガ何カ申上ゲル時ニハ御窓ヨリ覗キ外面ヲ御覽遊バレケル故、恐レナガラ咫尺(しせき 極めて近い距離)ノ内ニ龍顔(りゅうがん 天子の顔)フ拝シ奉リタリキ。又御車ノ馭者(ぎょしゃ)ハ金ノ輪筋ノ入リ夕ル江川形ノ笠ヲ被レリ。
 
  畏コ乍(おそれおおきことなが)ラ因(ちなみ)ニ云フ。県庁ニテ拝シタル御写      7
真顔色大ニ異リテ、御色殊ニ白クイトモ/\美麗(びれい)ニ見エ給ヒキ。
偖(さて)、御車ノ後ニハ騎馬ニテ侍従方二列ニ並ビ、続キテ侍医侍補宮内卿次ニ又二列ニ並ビテ吾県令ト宮内大書記官何レモ騎馬ニテ高帽ヲ蓋(かぶ)リ黒羅紗(らしゃ)ノ洋服ヲ召サレタリ。次ニ右大臣ノ馬車ニテ其美麗ナルコト御馬車ニ劣ラズ。然レドモ馭者(ぎょしゃ)ノ笠印ガ銀ノ輪筋ニテ一人ハ無印ナリキ。次ニ大警視(だいけいし)、陸軍少輔(しょうゆう)、太政、内務ノ書記官何レモ騎馬ニテ服帽等モ前ノ方々ト同ジキ様ニ見エタリ。次ニ御乗替ノ馬車ト見エテ小緞子(どんす)ニ菊ノ御紋ノ附キタル油単(ユタン ひとえの布や紙などに油をひいたもの))ヲ覆(おう)ヒ、二馬ニテ引キ来レリ。其後ヘ人力車八九輌続キテ、マタ御寝床ト見エ黒塗ナル欄干(らんかん)状ノ物四方ニアリテ、低ク上ヲ覆ヒタル御台ニ何カ御寝具(しんぐ)ノ如キ物中ニ満チタル馬車一輌、次ニ数百輌ノ人力車連々ト続キ、其何官誰殿ナルヲ知ルベカラズ。ソレニ続キテ紺小緞子ニ菊ノ御紋ヲ印シタル油単(ゆたん)ヲ覆ヒシ御板輿(いたごし)ヲ舁(かつ)ギ来レリ。御板輿ハ白木ニ銀金具ニテ四枚肩ナリ。輿丁(よてい 輿をかつぐひと))ハ黒羅紗(らしゃ)ノ羽織(はおり)立付ニテ紺木綿(もめん)脚絆(きゃはん)ヲハキ、江川形ノ笠ヲ蓋レリ。御駕籠(かご)ハ旧時ノ物ナル故輿丁ノ打扮(イデタチ)モ亦旧時ノ風ナリ。其心ヲ用ヒタルコト知ルベキナリ。次ハ車京巡査数百人列ヲ乱シテ来レリ。其衣服ハ黒ノ絹呉郎ノマンテルニ白木綿ノズボンヲ穿(うが)チ、其上ニ白ノ脚絆ヲハキ、洋銀(ようぎん)造ノ長キさーベるヲ皮ニテ肩ト腰ニ帶ビ、黄筋ノ帽ヲ被リテ草鞋(わらじ)ガケナリ。其後ニハ群馬県並ニ本県ノ巡査等、荷物或ハ馬車人力車(じんりきしゃ)ノ前後ニ交リ陸続ト来り数時間絶エザリキ。大隈参議井上参議並ニ群馬県令モ聖上ノ前後ノ中ニ慥(たし)カニ在セシト雖(いえど)モ、当日ハ詳(つまびらか)ニ知ル能ハザリキ。此頃既ニ五時三十分過ナリ。(中略)十二時眠ニ就キ、纔(わず)カニ二三時間ヲ経ルト早ヤ宿ノ婢僕(ぬぼく しもべ 下男)起キ出デテ飯炊(た)ク騷ギニ、隣席ノ客人モ起キタリシ故、予ガ輩モ床ヲ出デテ、食事畢(おわ)リテ人車ヲ馳セ追分ヲサシテ急ギケルガ、道ノ修繕ノミナラズ、聊(いささ)カニテモ坂路ノアレバ必ズ何坂上リ何丁何間急、或ハ緩、下り何間緩、或ハ急ト記シタル木札ヲ東京ヨリ来ル人ニ向ケテ建テタリ。是レ初メテノ旅人ハ坂路ニ渉(カカ)ル毎ニ其長キ哉否乎(ヤ)ヲ心ニ憂(うれ)フルモノナレバ、一目ニシテ其長短ヲ知ラシメ旅情ヲ煩ハシメザルユエナルベシ。又往々路傍(ろぼう)ヲ顧ルニ、大豆、蕎麥(そば)、稗(ひえ)畑等ヲ踏ミ倒シ、又芝原モ草ミナ伏シテ其上ニ竹皮、薄板、油紙、盃、破片等広キ野原ニ散布シテ昨夕ノ雜踏(ざっとう)ヲ推シ量(はか)ラル、バカリナリ。中ニハ酔客(すいきゃく)ト見工樹下ニ風呂敷(ふろしき)ヲ被リ樹根ヲ枕トシテ酒仙(しゅせん)ヲ気取(きど)ル先生アリ。古宿宿ナドヲ過ギル頃ハ夜全ク明ケ家々戸ヲ開ケリ。
 
此両村ノ家々モ皆来客ノ泊リシト見エ膳椀(ぜんわん)ナド縁ヘ積ミ重ネシ家アリ。又最早(もはや)酒宴ヲ開キシ家アリテ戸々賑(にぎわ)ヒアヘリ。将(まさ)ニ追分駅ニ入ラントスル時左傍ヲ省レバ朝霧ノ中ニ旗幟(きし 旗印)ノ如キモノ見ユル故、熟視スレバ浅間山ノ遙拝所(ようはいじょ)ニテ、拝殿(はいでん)ニハ紫ノ幕ウチ廻シ左右紅緑白ノ四手(シデ)ヲツケタル大榊(さかき)ヲオシタテ、大小ノ紅灯(こうとう あかちょうちん)数十個ヲ満面ニ掲ゲ、マタ其ノ斉庭(ユニハ)ニハ敷砂等シテイト清潔ニ見エケル故、其由ヲ問フニ、是ハ先年浅間山ノ焼ケタル年神祇官(じんぎかん)ヨリ御勅使(ちょくし)ノ下向(げこう)アリテ御神事ヲ修セシ所ナリ、コレニ依テ此度執リ繕(つくろ)ヒ聖上ノ御遙拝アラン事ヲ欲シ、既ニ建言セシ者モアリシガ御立寄ハアラザリシトゾ。
偖(さて)、駅ノ入ロニ今般ノ御宿割(やどわり)ヲ左右ニ分チ掲載シタリシ故コレヲ寫ス
 ○行 在 所       柳 澤 五六
 〇警 視 本 部       荒 井 傳平
 ○警視第三部署      同   人
 ○侍   補       荒井彦四郎
 ○同           若林新八郎
 ○警視第二部       荒 井 こん
 ○第 四 部 署       荒 井 清三      8
 〇内務省書記官以下    土屋新太郎
 ○岩倉右大臣       關 多三郎
 〇大隈参議大藏書記官以下 同   人
 ○警視第一部署      同   人
 ○宮内卿同大輔御用掛   同   人
 ○一二三番騎兵      里 見 理平
 ○駅 逓 局       同   人
 ○宮内書記官       土方萬之助
 ○内 膳 課       同   人
 ○三番御厩課      佐々木藤三郎
 ○内 廷 課       小川助三郎
 ○權 少 警 視       同   人
 ○川路大警視       同   人
 ○太政書記官以下     同   人
 ○警 視 医 師       同   人
 ○伊藤一等侍医以下    同   人
 ○陸車少輔以下      同   人
 ○侍 従 華 族       同   人
 ○式 部 少 典      土屋甲子之助
 ○調 度 課       同   人
 ○井 上 参 議       關 喜三郎
 ○内 匠 課       同   人
 巡査人足等ハ略之
右ハ官ノ順序ニ係ラズ宿所ノ家ノ順ニテ記シタルモノト見エ、東京ヨリ右側左側等ノ印モアリタリ。マタ行在所ノ姓名ハアラザリシガ看者ノ便ニ予ガ書キ加ヘシナリ(編者曰、行在所ノ柳澤五六トセシハ誤ニテ實ハ土屋一三方ナリ)夫ヨリ宿内ニ入レバ唯今御発輦ニナリシ処ニテ、両側ニ整列シタル拝見人ガ一時ニ列ヲ乱シテ宿中ニ散乱シ、其雜踏云フ可カラズ。又両側ノ家ニテハ昨夜灯(とも)シタル物卜見エ表面凡ソ六尺毎ニ鍼銅(ハリガネ)ニテ紅燈(こうとう 赤い提灯)ヲ掲ゲ、又何官何誰卜記シタル宿割ノ紙札ヲ貼リシ家殊(こと)ニ多カリシ。此時吾輩(わがはい)ハ御巡幸ニ付キ該宿ニ係ル事務ヲ執リタル某ノ許ニ至リ惣人数ノ高ヲ聞キシニ左ノ通リナリト云フ
聖上 ○供奉官員  八百三十九人
○通人足 千二十七人 ○馬 百十三匹
○本県ヨリ出ダシタル処ノ馬 七匹
 
 偖(さて)、当駅ヲ立チ出デ、車ヲ急ガセケルニ、追分原モ又拝見人ノ列ノ崩レタル時ニシテ道トナク原トナク皆人ニシテ其混雜一方ナラズ。中ニモ例ノ学校生徒ハ昨夕夜中来タリ今朝ノ御発輦ヲ奉迎セシ者卜見エテ、帰路ノ用意ヲナス最中ナリシガ、荷物ハ多クノ荷車ニ積ミ生徒ノ小粒ナル分ハ六人位ヲ一駄(だ)トシテ荒神(こうじん かまどの神 人を陰で守ってくれる神)馬ニテ帰ル者アリ。又中ニモ可笑(おか)シキ思ヒ付キノ運ビ方ハ巾(はば)三尺長サ六尺深サ一尺位ノ箱ヲ拵(こしら)ヘ、是ヲ荷車ノ上ニ附ケ、其中ヘ唐豆ノ表面ノ如ク粒ヲ揃ヘテ並べ、父兄ガ前後ニ付キ添ヒテ押シ行クアリ。或ハ二本ノ垂木(タルキ)ニ三尺ニ四尺許リノ板ヲ整キ前後ヘ竹ヲ曲ゲテ釣リヲ掛ケ棒ヲ通シタル物へ例ノ小粒ノ分ヲ載セ担(かつ)ギ行クアリ。是ハ丁度仏葬ノ時ノ駕籠(かご)ノ臺(ほとつ)ノミニ乗リタル如ク見エテ、所謂(いわゆる)御幣(おんべ)担家ハ中々承知セヌ乗物ナリキ。其他大粒ノ分ハ皆大隊旗ニ続キ足並ヲ揃へ幾聨隊(れんたい)トナク縦横(じゅうおう)帰路ニ就ク、中ニ又例外ニハ学校執事、世話役、又生徒ノ父兄等ハ弁当提灯(ちょうちん)抔(など)ヲ掲へ、人ニ醉ツタル顔付ヲナシテ迂路(うろ)々々スル者幾千万人ナルヲ知ラズ。又嫁娘連ハ今日ヲ晴レノ衣裳(いしょう)ヲ飾り顔ハ丸デ粉桶(こなおけ)へ逆顛(ノメリコン)ダル容体ナレドモ、惜イ哉、今朝燈火(ともしび)ニ向ツテ粧ヒタル故斑点アリテ彪(ひょう)ノ如シ。而シテ又梅花ノ香ニ雜臭ヲ交へ、塵埃(じんあい ちりほこり)卜共ニ来テ鼻ヲ貫キ嘘吸(こきゅう)堪(た)ヘガタキノ混雜ナリ。聖上ニハ御馬車ニ在シテ、屡々(しばしば)浅間山ヲ望ミ給ヒシカド、折節昨日ヨリ山ノ半腹以上ハ雲霧(うんむ)ノ爲ニ覆(おう)ハレ、煙モ更ニ見エザリキ。予(かね)テ写眞師モ御召連ニナリタレバ快晴ニアランニハ山峯黒煙(こくえん)ヲ吐(は)クノ奇影(きえい)ヲ摸捉(もそく 写し取る)アル可キヲ可惜(おしむべき)事ナリト供奉ノ方々モ云ハレシ由。(信地御巡幸拝見日記)[註、原文を改刪(かいさん)セル所アランモ、編者ノ意図ヲ重ンジ訂正セザル所多シ、以下同断(どうだん)、本録同書参照セヨ]
 
 当地に於ける行在所( あんざいしょ)は土屋一三氏[此頃小学校として貸与県より補助金を与へて修繕す]邸内なり。門を入りて右に新築せられたるもの是也。間口五間奥行六間半数室に分れ二方を廻らすに一間半許りの廊下(ろうか)を以てす。玉座(ぎょくざ)は奥の八畳にして上下の床書院(しょいん)等を備ふ。諸準備に至っては軽井沢御昼食行在所よりは更に鄭重(ていちょう)を極めたりと云ふべく、御寝具、朝御手水(ちょうず 手や顔を洗う水)之具、御風呂之具を初め御宿に要する一切の具は悉(ことごと)く御荷物を解きて用意せられしなり。只蚊帳(かや)に限りては盛夏と雖も曾(かつ)て用ひし事なき追分の事なれば、或は之を新調し或は之を借り入れて以て供奉員宿泊所の全部に充実することを得たり。
 天覽に供したる陳列品の数多きと物の奇なることに至つては、到底群馬の比にあらず。概して最も多きは古銅器、書画にして諏訪郡諏訪神社と、小県郡成澤金兵衛の所蔵に係るもの其大部を占め居りしと云ふ。此時県の係員に向ひ、此古器物を図画にして出だすべく命ぜられたりといふ。如何なる御思召(おぼしめし)にや。駅内にては道路には赤色の砂を敷き[(幅一間位)両方に二枚の戸板を立て中に砂を撒(ま)きたるなれば敷砂は甚だ好く整ひ立派に見受けられたり]其両側には盛砂(もりずな)[二間位の割]をなし商売の目標たる掛札(かけふだ)類は一切之を取払ひ[盛砂をなし掛札を除くが如きは封建時代に於て貴人を迎ふる礼也]赤色の丸提灯を掲げ、金巾製の国旗を立てたり。此日奉迎に出でたる等地の小学校[分里学校と称す当時一般に校名は地名に依らず種々意味多き文字を用ひたり]女生徒は木綿縮(もめんちぢみ)、鶯茶(うぐいすちゃ)の一ツ紋なるを揃ひに著たり。髮は銀杏返(いちょうがえし)し等、旧來の形に結び、下髮、束髮等有るべき筈なし。      9
 
第二日 九月七日
 七日晴、午前七時追分駅御発輦、霧最も深き中を肅々と[駅の端に両道有り左は中仙道右は北陸道陛下は右を進ませ給ひし也]結梗(ききょう)刈萱(かるかや)など咲き乱れて秋興多き中を進ませ給へば、ここは何處(どこ)ぞ追分原なり。浅間山より噴き出だせし火山石、路辺に累々たり。三谷(みつや)に近き辺には南佐久、北佐久地方の人民、学校生徒等夜明前より押し寄せ來り、其数幾千なるを知らず。中には、結髮(けっぱつ)の父兄も少なからず。是等の中には、蹄鐵(ていてつ)の響に次いで錦旗(きんき 天皇のはたじるし)の飜るを見るや、豫(かね)て立礼すべしとの逹しは有りたるも生来る土下座に慣れたると、一は御稜威(りょうい 天子の威光)に打たれて自ら地上に蹲居(そんきょ かがむこと)し、遙(はる)かに過ぎさせ給ふ迄顔を上げ得ず。御輦(れん 天子の乗る車)始め行列の大部を親しく拝観せざりしもの数多しとかや。結髪土下座は決して茲に限りたる珍事には非ず。軽井駅より御沿道各所に於ても尠(すく)なからず見受られたるのみならず、追分辺にては当時尚却つて断髪(だんぱつ 注六)を嘲(あざけ)り居たる程にして、小諸領内は割合広く開化主義行はれ、旧習は他に比して早く一洗せられたるのみ。
 
 今日初めての御小休(こやすみ)所は、馬瀬口村と称する一農村にして、行在所(あんざいしょ)は高山重三郎の住宅其儘(まま)なり。十二間に六間、室数八、外に大なる土間あり。門前には小高き所に「御小休」の札を立て、門には紫縮緬(ちりめん)に菊の御紋章ある幕を張る。又玄関前には国旗二旒を直立し、靴拭ひを置き、菊御紋章紫縮緬の幕を掲げ、その左より土蔵、門、長屋に亘りては幕を張り、御目障になるべきものを蔽(おお)ひたり。玄関を上れば十畳、次は八畳にて、玉座(ぎょくざ 天皇の御座所)に充(あ)つ。以上二間は天井初め壁に至る迄白張となせり。
 御小休所、行在所御用の品々は凡て二揃を持ち越され、交互に用達することなれば、早きは御著輦の前日、遅くも其早朝に於て飾付け準備整ひ居らざることなし。当所に於ては前夜之をなせり。玉座の床には掛物せざるが礼なりとて何も掛けざりしが、次の十畳間には小諸藩主牧野氏が四代将車より賜はりたるを、曾(かつ)て当家に送られたる法眼古叟筆両龍の大幅を掛けおけり。供奉(ぐぶ)の休憩所には他の十畳二間を以て之を充てたり。調度は之を新調し、或は役所学校等の備品を転用せり。当地にても略同様と知るべし。
 七時四十分御著輦。主人は門前立札の辺にて迎へ奉る。聖上には御輦の儘(まま)玄関に著かせ玉座に入らせ給ひて西に向ひて、御テーブルを前に御椅子に寄らせ給へば、徳大寺宮内卿(注七)は稍(やや)東に向ひテーブルを控へて椅子に著かる。御帽子と神器とも覚しき物を書院に置かれたるやに言ひ伝ふ。
 玉座の先庭に接する所四畳の間あり。陛下は御縁側に出御ありて庭中の泉水に飼へる魚類の遊泳せる様を興有りげに御覽ぜ給へり。残暑堪へ難き時に当り冷しき皇居を離れ給ひて茲(ここ)に十日に近き御旅路、御汗を拭ひ奉る涼風さへなく、御目を喜ばせ奉るべき風光だになきを、而も常に金殿玉楼(ぎょくろう)の中に住はせられたる御身に在しながら、御苑中の一亭にも如かざるいぶせき御宿泊所にて御休泊あらせらるゝ事、吾々臣民が野に伏し山に寝ぬるともいかでか其御辛労の程を察し奉るべき。今此小魚の自由に遊泳するに、興に入らせ給ひしを洩れ承はり、一種言ふべからざる感慨の胸中に湧出するを覚えたり。
聖寿万歳
 
 暫時の御休息にて、此処をも御発輦在らせらるれば、村端にて僧侶数十人席を敷き坐して、鳳駕(ほうが 天皇の乗り物)を迎拝するを見る。東京御発輦以來緇流(しりゅう 僧のこと)の奉迎するもの斯の如く多きは其類なかりきと云ふ。是より車駕の到る処、左右の路傍拝観人を以て充満せざるは無く、実に人を以て万里の墻(しょう かきね)を築くと云ふも過言に非ざるべし。平原、四ッ谷等を經て、一里余り進ませ給へば、小諸駅の手前に松林あり、唐松と名づく。老松幾千となく道の両側に聳(そび)え立てる様、荘厳の中に雅致(がち 風流なおもむき)を含めり。[此松は凡て皆赤松にして加賀侯甚しく之を愛したりしを以て初めは之を加賀松と称びしなりとか伝ふ]道より少しく右に入り、千曲浅間を眺め得べき景勝の地を選びて御野立(のだて 天皇の野外の休息所)場を立つ、小諸町の造営する所にして、普請はこの間際俄に始めたるものなれば、御著輦の前夜迄火を点じて辛うじて出來上りたるなりとか。大小二棟あり、何れも皮を剥(は)ぎたる儘なる椹(さわら)の丸木を柱とし、護謨(ごむ)を引きたる西洋布(かなきん)にて屋根を葢(おお)ひたり。其小さきは之を玉座に充て、高く床を設けたるも、他の大臣参議の休憩所となしたる方は床を敷かず、只土間に腰掛を設けたり。雨天ならば此処に御小休無き筈なりしも幸今日は好天気なれば千歳経し老松も嘸(さ)ぞや身に余る光栄を感じたりけん。林中には御野立も有り、殊に拝観には最上の場所なりければ、四方より雲集したる人々は林中に充満し老松は恰も人を根にして生えたるが如く、御野立の場所を除きては小学校生徒数を知らず整列せり。白鼠色或は紺浅黄(あさぎ)等揃ひの洋服を著け白帽なるものあり、袴羽織のものもあり、女生徒も麗(うる)はしき振袖袴なるあり、中には白妙の衣に紫の袴を一様に揃へたるもあり、山中なりとのみ思ひ悔り居たりしに、此様を見ては眼を覚まし給ふ供奉員も有しとか。[小諸小学校の男生徒は木綿(もめん)縮鼠の霜降にて背広モーニング折衷形の洋服に靴を穿ち女生徒は紫袴を著けたり]路上は人力車滞にて爪も錐(すい きり)も立つる余地なく、例の御巡幸日誌や、絵図を鬻(ひさ)ぐ連中は処々にて広告を述べ、又飴売あり、桃柿柘榴(ざくろ)胡瓜(きうり)白瓜甜瓜(まくわうり)西瓜(すいか)を売るもの、枇杷(びわ)葉湯等、稀には氷を売る者もあり。殊に可笑しきは御巡幸御行列の覗き眼鏡(めがね)にて、村娘、里婦争ひて之を覗き、此巡幸の方が綺麗(きれい)なり等噪(さわ)ぎ合ヘり。暫くの御休にて、唐松を御発輦在らせ給ふ。      10
 
 此林中ニ充満シタル拝観人ハ各帰路ニ就キ東西ヘ両分シテ散乱セリ。然レドモ学校生徒ハ例ノ如ク隊伍ヲナシテ上下赤中央白ニ校名ヲ記セル大旗ニ続ク訳ナル故、雜沓(ざっとう)ノ中卜雖モ足並ヲ揃へ車モ塵(ちり)モ意トスル能ハズシテ徐々路端ヲ歩行セリ。其洋服ノ新製ナル、其帽、靴ノ新求ナル、我輩ノ意中ニ父兄ノ散財ヲ計ラシムル程美麗ナリ。又女生徒ノ隊中ニ美服美蝙蝠(こうもり)傘ヲ揃ヘ之モ矢張男子ノ如ク、足並ヲ正シテ行ク隊有リ、其奇観ナル古市ノ伊勢音頭モナカ/\及ブベカラザルノ揃ヒナリ。若シ後世小諸ニ於テ民権党ノ兵ヲ挙グル有ラバ、薩州ノ例ニ做(なら)フテ女軍隊卜出掛クルモ足並丈ハ屹度(きっと)間ニ合フ少女ナリ。然レドモ其精神ハ保證セズ。
 (信地御巡幸拝見日記
 
 長野県下ニテハ学校生徒ノ拝見ニ出デタル者大抵皆洋服ナリ。女生徒ハ紫ノ袴(はかま)ヲ穿(は)キタリ。上田近辺ニテハ洋服デナイ生徒モ見エタリ。又女児ハ赤ノフランネルノシヤーツ許ヲ著ケ、袴ヲ穿キタルモノ多ク見エタリ。揃ツテカンカンノウデモ踊ラセタランニハ面白カラン。(車京日々新聞所載岸田吟香通信
 
 以て奉迎当日に於ける生徒の服装と之に対する世人の感想とを略知するに足るベし。然して当日奉迎に出でたる生徒のうち洋服、振袖等を著け、或は赤シヤツ紫袴等を著けたりと称する者は其実小数なるが如く、男子の袴すら尚全体に行き亘(わた)らず、只女子の一般に新しきを著けたるのみなりしと。又教師の中には稀に燕尾(えんび)服シルクハツト等を著用したるもの有りしが如きも、洋服は如何なる種類にても羽織袴以上のものにして、背広迄を礼服と考ヘ得意に著用したるもの、是生徒にして山高を冠(かぶ)り燕尾(えんび)形の洋服を著けたる者と、好個の対照なりとせずや。教師の服装は県下一般に羽織袴にして、人民の側にても亦一般に羽織袴は上の部なりとす。
 斯くて一時御巡幸熱に浮かされ、聖旨に悖(もと)りても洋服を揃ヘ美服の新調等に心を用ひたる者尠からざりしも、猶之を概評すれば、未だ質実なる我信州人の気質は此間一種の特色を発揮し、決して失墜(しっつい)せる事是無かりしといふベく、吾人は殊に之を田舎の人民生徒に於て然りとせんとするもの也。      11
 
 小諸町にても道を清め盛砂(もりずな 儀式や貴人を出迎えるとき,車寄せの左右に高く盛った砂)をなし、道の両側には縄(なわ)を張りて、拝観人を制し、行在所、供奉員休憩所割を示したる立札は之を本町光岳寺辺に立て、通の中央にありし水道を両側に移し、戸々に国旗を立つるなど、準備をさ/\怠なかりき。(御著輦の前日に於ける町の景况を記したる文に当日迄も殊に繁忙を極めたるは日章の旗を染むる職人なり。受取に来りたる人々店前に雜沓す日の丸の輪に形糊(カタノリ)を置きて乾かすの最中なりきとあり)
 行在所は旧本陣上田宇源治の邸内、曾(かつ)て御殿の有りし所に新築したるものにして、当町の公費による。(行在所其他一切の諸準備は皆町全体の力にて之を成せり。行在所の新築は聖上を迎へ奉りたる後、町役場に使用)御門は旧来のものにて新築せしは間口四間、奥行六間の平屋造、柱には栂(とが)を用ひたりしといふ。玄関より二ツの階段を上り、順次に六畳、八畳、十二畳の三間あり、之に沿ひて左方には十疊、四疊、八畳、四畳の四間あり。十二畳と四畳との先は続きたる廊下にして、後記の八畳を以て玉座に充て、玉座の前後四畳二間を除き、他は之を供奉員の詰所とせり。玉座には上下の床を設け、床板は檜(ひのき)の臘引(ろうびき)、狩野元信筆鯉の滝登り一幅を掛く。[之は無落款なりしが故に差支なしとの事なりき]又敷物は絨毯(じゅうたん)に天鵞絨(びろうど)を縁に付けたるものにして、其他の諸室には羅氈(らせん)を敷き詰めたり。
 市中ノ景况ハ流石(さすが)ニ城下ノ跡ダケアリテ、道路家屋ノ華美ナル、日章国旗ノ新築ナル竿ノ玉ノ舶来ナル、店ノ屏風ノ名筆ナル、マタ婦女子ノ別品ナル、紅紛ノ粧ノ巧手ナル、番頭小僧ノ鐘音切(ヂヤンギリ)ナル、中々追分宿ノ及ブ所ニ非ザルナリ。
 此時吾輦モ昼飯ヲ喫セント欲スルニ市中ノ茶店ハ悉ク洋服先生ニ占有セラレ、幾度問ヒテ見テモ飯モ洒モ鬻(ウ)ラザル故、謂レナク不食ニ居ルモ損ナリ、イザ車中ヨリ善光寺ノ如来殿ヲ遙拝シ、一飯限り断食ノ願掛ヲモ仕ラント、窪田氏ニ相談セシガ、差シ当リ願ヒ立テル廉(かど)ニ困リ殆ド当惑ノ中へ、頻リニ胃ノ腑ヨリハ飲食ノ催促来レバ、コレハ一番失敬乍ラ先駆(さきがけ)ノ功名ト出掛ケ、向フノ茶屋ヲ乗取ルガ勝算ダト、車夫ノ尻ヘ一鞭(むち)アテ一目散ニ駆出シタルニ、向フノ方ヨリ一輌ノ馬車ニ数十人ノ東京巡査前後左右ヲ執囲ンデ砂煙ヲ立テ駆来ルアリ。サア大変ガ出来タニ違ヒハナイ、方角違ヒカラ馬車ガ来ルト大騷ニ騷ギシガ、何モ大変ナ訳デハナク、大隈参議殿ガ聖上ニ従ツテ行在所へ到リシガ、御自分ノ安在所ハ夫ヨリ遙カニ前ノ方ナル故、既ニ通行セシ所ヲ再ビ帰ル途中査公ニ警護ヲ命ゼシナリ。茲ニ於テ吾輩ハ畏ナガラ行在所ノ前ヲグワラ/\ント乗り越エテ漸ク場末ノ一店ヲトシ、飢渇ノ急ヲ救ヒタリ。(信地御巡幸拝見日記
 
 玉座は申すに及ばず、供奉高官の詰所に用ふるもの等、大抵御持越品なるが多かりしも小諸に限り総べて町にて整へ置けるを用ひさせられたるが如し。テーブルは行在所用は檜其他は松にて新調し、椅子は新に買ひ入れたるを備へたり。又県より送り来れる茶若干、味淋醤油各徳利一壺宛、一升宛、袋入にて米二升と土地にて整へたる魚類、野菜の類を内膳課に収め、県より給せる氷、小諸にて浅間より取寄せたる雪は共に内膳課初め供奉員の用に供へたり。新築したる行在所の外旧来の本宅は二階建にて頗る広ければ、供奉員中重なる者の休憩所は此邸内に設けられたり。
 聖上には拾時貮拾分行在所に著御、御昼食を召して拾貮時参拾分頃御発輦在らせ給ふ。当日は窓の御幕下りて有りければ髣髴(ほうふつ ぼんやり見えるさま)天顔(てんがん 天子の顔)を拝し得る許りなりき。西原、芝生田(しぼうだ)、赤岩、片羽など呼べる家並稍(やや)揃へる村落を通御。午後一時十分牧家[一に朴屋とも書す]の御小休所に著御在らせらる。当村も所謂(いわゆる)間宿(あいのしゅく)にして、戸数僅なれば休憩所の割当は農家の藁屋(わらや)に迄及び、青豆畑を刈り上げ、杭を打ちて横木を給び、以て馬を繋ぐ場所を設けたる程なり。有名なる力士雷電(注五)は此附近の地に生れたる者にて、行在所の東数町に其石碑あり、万面人の傷つくる所となり、文字復読み難きに到れり。之は石の一片を缺(か)き取りて所持すれば、雷電の霊之を守るとか云へる迷信より出でしなり。行在所は蓬田幸三郎の家宅なり、昔より続ける古き茶屋にして、加州侯の休憩所たりし事も有れど、其構造は他の本陣等に比ぶべくも非ず、間口六間、奥行九間ありて六間に分る、家の左側に門有り、玄関を上りて右折し八畳一間を通れば更に八畳の間あり、之を玉座とす。玉座には軸物を掛けず、只蘭(あつヽぎ)(笏に造る木)の生花を飾りしのみ、門には菊御紋章(ごもんしょう)、紫縮緬(ちりめん)の幕を絞り、玉座初め供奉員の詰所等に於ける飾付け準備は御持越品のみにて、大抵用を弁ぜられたるも御厠に限りて新築し、御発輦後宮内の掛官は其中の物を収めて、村社童女神社内に埋めたりと云ふ。
 
 午後一時二十五分牧家御発輦、同四十分田中駅に著御在らせらる。中央を流るゝ用水には、行在所の上下一町許りに之が覆ひをなし樹木を植え、戸々簾(すだれ)を撤し障子を取払ひなどして、駅の体裁可なりに見えたり。御通路は北側の道にて、敷砂等例の如く用意し、当日人民の通行を禁じたり。      12
 行在所は旧本陣田中重右衛門方なり、昔時は本海野にも旧本陣有りて、上半月を田中にて勤め、下半月を海野にて勤めたり、当時海野の方は学校となり居たりしが故に、こゝを選ばれたるならん。門を入れば三間半の大玄関あり、上りて二十四疊、十八疊、十二疊の三間有り、又是等に並びて右方に八疊四間有り、廊下を以て二方を囲ひ、奥の八疊には上下の床有り、玉座に充て花を生けて飾り置けり、玄関を初め一面に赤色の絨毯を敷き、玉座は殊に美麗なるを用ひられたり。又当行在所は甚だ広きを以て供奉員の大部分は皆此内に入り、只判任以下が水砂糖等用意せし家の縁側に腰を掛け休みたるに過ぎずと云ふ。
岩倉殿(いはくらでん)[岩倉右大臣は当時恐れられたる者なり、井上参議大隈参議など呼ぶも右大臣に限り必ず岩倉殿と呼べり]のみは行在所に入らず、海野駅矢島吉太郎方に致りて休息せり。矢島吉太郎は曾(かつ)て巨金を投じ、、学者を聘(め)して、高山彦九郎の伝記を編纂し、二部のみ印刷して版木を毀(こぼ)ち、一部は自ら之を蔵(おさ)め、一部は之を宮中に上(たてまつ)り、錦を賜はりたる事など有りて、岩倉殿の知遇を辱ふせり。此度の御巡幸に就きては行在所たらん事を望み岩倉殿亦力を添へたるも時機外れたれば如何ともする能はず、御代理と云ふ訳ならねど厚意を以て、岩倉殿独り此処に憩(いこ)はれたるなりと云ひ伝ふ。
 
 田中御発輦、本海野駅に到る。十町許りの路には田畑の嫌ひなく溝を穿(うが)ちて灌漑(かんがい)用水を引き、水を撒(ま)き、本海野に入らせ給へば田中駅と同じく拝観人、学徒生徒等数多道の左側に控へ、遙かに錦旗を見、体を屈し、礼拝する事久しきを経て、頭を挙ぐれば御輦已に遠く去りて親しく拝するを得ざりし者尠なからず。生徒敬礼の指揮は教師の号令に依れり。教師生徒共に大抵羽織袴なり。生徒の帽は鼠又は茶色にて縁無く庇は鼈甲(べっこう)[実は馬蹄(ばてい)]なりしと
 斯くて御輦は人垣の間を進み、新田、大屋を過ぎ午後三時二十分岩下村の行在所に著御在らせ給ふ。行在所は尾崎惣作の家宅なり。当家には曾て仁和寺宮、御守殿など泊らせられたる事有り。門を入り玄関を上れば八畳四間方形に接し、其一間は一段高く新築したるものにて、上下の床書院有り、皆一面に白張なり、俄に始めたる普請なれば壁の乾かざるに苦しみしも幸に打ち続ける好天気、八月末迄に出来上るを得たり。前記四間に接し、尚十二畳外一間あり、御著輦に先だち、宮内官来りて諸事分掌の上、準備を整へたり。門には菊御紋章、紫幕を掲げ、玄関に逹する迄は薄縁を敷き、玉座の下なる徳大寺宮内卿の詰所初め、其他供奉員の詰所三間には絨毯等の敷物を用ひずして畳の上に新調のテーブルを置きたりとか。思ふに当日は追分より上田迄の御道中にて、六ケ処に御駐輦(ごちゅうれん)有る事なれば供奉員に對する諸準備は自然幾分の省略簡易にせられたるならん。玉座には敷物テーブル、椅子等総て御持越品を用ひ美々しく飾付けをなせり、床には唐画ならば差支なしとの事故、大金を出して求めたる三幅対の唐画を借り入るゝ積なりしも偽筆の由にて見合せたり。
 
 昨日ヨリ御巡幸ノ事務ニ係ル駅村ノ吏員ト覚シキ者ニ洋服ニ馴レザルト、舶来靴ノ買被リデ足ノ痛イ様子ヲ見ル、按ズルニ皆金満家ニハ相違アラザレバ、張込ンダ洋服ヤ靴ノ価ハ聊(いささ)カ惜ムニ足ラズト雖モ恐ラクハ懲(こ)リテ子孫ニ誡(いまし)ムル言アリテ、守旧ノ弊風ヲ遺シハセン歟。呵々。海野駅モ矢張リ学校生徒ノ俄揃ヒト拝見人ノ押シ合ヒハ中々田中駅ニ譲ラズ、殊ニ当駅ノ入ロナル海野神社ニテハ神事ガアリシト見エ、本拝ノ両殿ニハ幕打チ廻シ、新シキ注連繩(しめなわ)ヲ張リ、幟(のぼり)ヲ建テ、燈籠(とうろう)ヲブラサゲ、社内ヲ美麗ニ粧ヒ、又拝殿ハ忠臣蔵初段カト疑フ許リ、素袍(すおう 直垂の一種で礼服)、大紋(だいもん 諸大夫以上の式服)、立烏帽子ノ先生威儀蕩々(とうとう)ト列バレタリ。偖(さて)又御鳳輦(ほうれん 天皇の乗り物の美称)ハ人垣ノ間ヲ進ミ、大屋村ヲ過ギ、午後三持二十分岩下村ノ尾崎惣作ノ方ニテ御小休アラセラレタリ。当村モ間ノ宿ナリト雖モ家並中々揃ヒ金持然トシタル構ヘナリ。      13
 此時村ノ東ニ方(あた)リ田ノ畔道(あぜみち)ヲゾロ/\ゴタ/\ト嫁ヤ娘ノ駆ケ行クアリ、車中遙(はる)カニ是ヲ見ルニ中々通用ノ騒ギニ非ズ、是ハ近在ヨリ今朝早ク御通輦(ごつうれん)ヲ拝見ニ来リシガ、午時ニ至ルモ御鳳輦(ごほうれん)ノ来ラザル故、或神社ノ社内へ行キ、村ノ若衆ト弁当ヲ開キ、一瓢(こ)ノ濁酒、一重ノ野菜、暗ニ顔氏(がんし 注六)ヲ気取ル楽ミ最中、唯今御通輦(ごつうれん)ナリト報ジラレ、周章(しゅうしょう)狼狽(ろうばい)路辺ニ至リ拝シ、畢(おわ)リテ又其処ニ至レバ、村爺(じじ)娘嫁ニ謂(い)ヒテ曰ク、皇帝陛下ヲ拝シタリヤ。嫁娘答ヘテ曰ク然リ、而レ共(しかれども)二人並ビ座シ給ヒシヲ以テ其何レガ聖上ナルヲ知ラズ。村爺怪(あや)シミ又問ヒテ曰ク、然ラバ聖上ニハ如何ナル所ニ在(あり)シ哉。嫁娘曰ク二馬ノ後方高キ処ニ笠モ服モ同ジ打扮(よそおい)ニテ、手綱(たずな)ヲ採リテ居給ヘリ。村爺笑ツテ曰ク夫ハ馭者(ぎょしゃ)卜云フ人ニテ 聖上ニハ非ザルナリト。嫁娘驚イテ曰ク左様カネ爺サン然ラバ此裏道ヲ奔走(ほんそう)シテ今一度拝ミ直シヲ致サント畔路ヲ奔(はしり)リタルト云フ。呵々
信地御巡幸拝見日記
 
 岩下の御小休所も須叟(しゅゆ しばらく)にして御発輦となれり。奉迎者は道の両側に整列して絶間なし、上田町は流石(さすが)五万石の城下丈け有りて、戸々国旗を立て紅燈(こうとう 赤い提灯)を掲げ店には屏風を引き廻したり。中にも海野町近辺は紅燈の外、更に硝子(がらす)燈を加へ、其体裁一層華美(かび)に見え、奉迎者の衣服も織物の名産地たるに背かず、中々立派なるのみならず、風貌(ふうぼう)容姿(ようし)共に頗(すこぶ)る都めきて、供奉員の注意を引けり。御沿道中軽井沢追分辺は概して山林僻地(へきち)の質朴(しつぼく)なる様を顕(あらわ)し、田夫野人(でんぷやじん)など書き記されたるも、小諸近傍よりは頗る開化(かいか)めきて、洋装せる者も割合に多く、諸事争ひて新奇を誇らんとする傾き有り。其花やかに行き届きたる装飾準備は宛然(えんぜん たおやかなさま))富と美とを代表したるが如く見えたり。
 上田町旧本陣は数年前に焼失し、旧藩主の住はれたる奥の御殿は已に取払はれ、表役人出務の所たりし、建物のみは尚存するも、広間大書院等は少しの修繕位にては御用に立つべしとも思はれず。当路者(とうろしゃ 枢要な地位にある人)の苦心少なからざりしが、当時上田町の学校[町民子弟の学校なり、士族の為には別に松平学校とよべるものあり]は本陽寺を假用し来り頗る不便にて新築の必要に迫られし折柄なりしを以て、町民一同は俄(にわか)に奮起して校舎を新築し以て行在所(あんざいしょ)に充てんことを評定せり。西洋的大家屋の建築に慣れざる時世に於て俄普請(にわかぶしん)をなす事なれば、其騷動(そうどう)一方ならず、御臨幸(ごりんこう)間際に到り漸(ようや)く出来上りたるは三階立にして、其上に望楼(ぼうろう)あり。当時容易に見るべからざる大建物なりき。(注八)御巡幸の節其模様を記せる文に
 其善美ナル最高ノ突楼ハ雲際ニ聳(そび)エテ太郎山卜拮抗(きっこう)シ、粉壁(ふんぺき しらかべ)ノ白色ハ千曲川卜清キヲ爭ヒ、楼上ノ欄干(らんかん)ハ鉄ノ唐草(からくさ)形ニシテ花実(かじつ)ヲ結ブカト疑ヒ、玄関ノ鳳凰(ほおう)ハ主上ノ聖ヲ表シ飛ブガ如ク舞フガ如シ。又庭前ニハ奇草(きそう)珍木(ちんぼく)ヲ植エ、限ルニ鉄唐草(からくさ)ノ墻(しょう 垣根のこと)ヲ以テシ其華麗(かれい)ナル我輩ノ禿筆(とくひつ)ニ尽ス事遠ク及バズ。(信地御巡幸拝見日記
以上の形容は少しく支那流にして阿房宮(あぼうきゅう 秦の始皇帝の宮殿)の賦を読むが如き感なきに非ざるも、明治拾壱年頃にありては見る者一般に略如上(じょじょう)の想をなしたるならん。二階の西北隅を以て玉座に充て、サルヲガセ(草の名)を床飾に備ふ。三階には書画類古器物などを陳列し、又見事なる盆栽数多を飾り置けり。四階なる望楼よりは四方御観望の便に備へ奉らんが爲、精巧の地図を製し置けり。又学校の左側には新築の女工場、前面には第十九銀行有り。其構への周囲には数百の紅灯(赤い提灯)を二行に掛け列ね、燦然(さんぜん)たる様目も醒めんばかりなりし。
 
 午後四時頃行在所(あんざいしょ)に著かせ給ふ。聖上には御機嫌最も麗はしく更闌(こうたけ)くる迄、供奉員を召して宴を賜はれり。頃しも秋旻(しゅうびん 秋の空)全く晴れ渡り、冴え冴えせる明月は此良夜を如何の感無くんばあらず。供奉の面々は何れも歌を詠じ詩を作りて旅情を慰めたりと云ふ。桜井宮内省書記官は今宵の行在所は郷里の事にあれば何がな御意にも叶ふべき、土地の産物を奉らんと思を焦がし、実弟森田斐雄(あやお)に其事を托し生きたる儘の鶉(うづら)五十羽程を鳥籠に入れて、内膳課及び供奉大官に贈呈せり。其他内膳課の御用となりし品の中にては、鮎も御覚え芽出度(めでたく)、殊に上田製の酒は甚しく御意に叶ひ、是亦長野迄持ち行かれたりと云ふ。内膳課員中御料理をうけたまはる者は昔時の鳥帽子姿なりしと。三階には見事なる盆栽を並べ、織物、書画類、物産、古器物等を陳列せり、宮内省御買上品は上田縞(うえだじま)、白紬(つむぎ)、白斜子(ななこ)等にて縞物多く供奉員又各々求められたり。      14
 物価の騰貴(とうき)宿屋の繁盛人力車の払う払底等は左の記文を見て知り得べし。
 御巡幸ニテ部物価ニ影響ヲ生ジタル事、上田ハ殊ニ甚シク、一円ニ一貫二百目ノ蝋燭(ろうそく)ガ六百目、二円以下ノ子供洋服ガ二円七八十銭、三十銭以下ノ子供帽ガ一円十七八銭、五十銭以下ノ子供靴ガ八十銭余ニ到レリト其他推シテ知ルベキナリ。小諸モ亦斯ノ如シト云フ。(信地御巡幸拝見日記
 
 偖(さて)我輩ハ旅店ヲ見付ケ止宿セントスルニ、悉(ことごと)ク洋服先生ニ乗取ラレ、更ニ宿屋トテハ有ラザル故、如何ニセント迂路附(うろつき)廻リ漸(ようや)ク常盤木村[編者曰く現今の上田町は御巡幸当時に有りては一町数ケ村に分れ居たりが常盤木の如き今は上田町の中にあり]ノ田中某ト云フ旅店ヲ尋ネ一泊ヲ乞フ。主人曰ク老若男女雜席ニテ苦シカテズバ止宿シ給ヘト。雜居ハ随分面白カラント心得、泊リ込ミシガ早ヤ二階モ座敷モ塞(ふさ)ガリシト見エ、昇口ガ我輩ノ安在所故、社長[編者曰ク松本新聞ノ社長窪田某]ト共ニ麦種子ノ御訴訟然トシテ此処ニ居リシガ、旅客昇降ノ混雜ニテ草稿ヲ作ル能ハズ 依リテ主人ニ之ヲ訴ヘシカバ、特別ノ儀ヲ以テ親類預ケニ処セラレタリ。其拝見人ノ遠方カラ無暗ニ飛ビ出シタル事推シテ知ルベキナリ。(同上)
人力車ヲ雇ハント処々フ探シタルニ更ニ一輌モ有ラザル故、秋葉ノ茶店ニ憩ヒ、下婢(かひ)ヲシテ車ヲ需(もと)メシムルニ、漸(ようや)ク一輌有リテ引キ来ル、其賃銀ヲ聞クニ一里拾五銭ニテ則チ長野迄一円五拾銭二人分三円ナリト言フ。(同上)
 
第三日 九月八日
 午前六時三十分御発輦在らせ給ふ。町内或は其近郷近在は云ふに及ばず幾山河を隔つる女鳥羽の辺(松本)、御嶽の麓(木曽)よリ二三十里の遠きを事ともせず、此盛典に合せんとする者、原町よリ御沿道筋に累り合ひて奉送し、其賑なる事言語に盡し難く古今未曾有なりしと云ふ。
 長野に至る迄道路の修繕よく行き届き、家並多き宿駅村落にては殊に砂を敷き、或は盛砂(もりずな 儀式や貴人を出迎えるとき,車寄せの左右に高く盛った砂)をなし、国旗を掲ぐる等奉迎の諸準備一も欠くる所なく、奉迎者の服装は小諸上田と異り、寧ろ質朴にして田舍じみ、学校生徒に至りては、男子は成るベく羽織を整へしめたる如くなるも、概して袴のみを著け、女子に袴あるは殆んど見受けられず。父老の結髪(けっぱつ 髪をゆうこと)は頗る多く、原付辺にては斬髪(ざんぱつ ざんぎり)三分結髪(けっぱう)七分位なりしと。思ふに当時生産力有り志気振ひ居たりしは小諸上田町附近にして、長野は只参詣人多き梢々大なる宿場たるに止まり、現時の如く繁栄を極め流行の中心となる能はざりしならん。
 龍駕(りょうが)輾((てん きし・る ころがる)らせ給ふ事約二里、鼠(ねずみ)駅の御小休所瀧澤漸の家宅に著き給ふ。七間に分れし中最も奥の八畳を以て玉座に充て、御厠は方六尺の板囲を以て中に黒色漆塗にて衣桁の如くなるを組立て上より緞子(どんす)を蔽ひ、御便器御腰掛など用意せられたりとぞ。
 美麓に装飾せられたる玉座に当家にて供へたるは青葉に鶉の画にて無落款なり。予て其筋より樽に入れて[一斗五升入位のもの]氷を送附されたるも炎暑甚だしく、剰(あまつさ)へ荷造りなど不充分なりしかば大抵は溶け失せて、只僅かに一小塊を剰せるに過ぎざるに、供奉員等渇熱(かつねつ)に堪へず、頻(しき)りに氷を呼ばれたも応じ難く頗る窮迫に陥りたりと云ふ。
 
 鼠御発輦坂木(坂城)に御小休在らせ給ふ。玉座は旧本陣宮原生吉邸内の所謂御殿にして、此際檜栂(ひのきとが)を以て大修繕を加へられたるものなりき。此処にては諸所に設けありたる市神を取り払ひ、或は坂には昇降の嶮夷(けんい けわしいこと)、間数など記せる立札をなし、或は寺の屋根瓦に菊の御紋章(ごもんしょう)を附けたるは悉く塗り埋めたり。菊御紋章の貴きは、何時の世にても変らねど、旧幕時代にありて、朝威振はず制裁自ら薄らぎて僅かの口実を楯とし、菊花御紋章を乱用する者漸(ようや)く夥(おびただ)しく、善光寺如来堂の天井の如きも菊花御紋章にて飾り有りしも、此際俄かに他の紋紙を以て其上を貼りたりと云ふ。鼠駅にて渇を忍び、千曲の水に恨を残せし供奉の面々も此処に積み上げし白妙の雪に旱(かわ)きし喉を濡(うるお)して尚余りや有りけん、御発輦後庭中尚山の如かりしと。坂木学校生徒二百余名は横町に於て奉迎し、御小休中裏道よリ横吹新道第三号橋に到り、其前後に整列し奉送し奉れり。坂木を出づれば横吹新道(よこぶきしんどう 注九)とて千曲川に沿ひて開きたる四百間余の新道あり。      15
 
 千曲の凉風と四阿の嵐とは共に炎塵(えんじん)を誘ひ去りし其間を御輦は浅間を残し飯綱を迎へて甲越の二雄が互に此処を先途(せんど 勝負を決する大事の場合)と爭ひし川中島に進ませ給ふ。
 今日の御昼行在所は下戸倉にて、北国街道中要領の宿場にて、大廈(たいか 大きな建物)軒を並べたり。玉座は旧本陣柳澤嘉一郎の邸内表門の衝に泉水に沿ひて新築せられ、幅二間、長四間之れを二間に仕切り、別に御厠を附す、構造設備等最も善美を盡したりと雖も、之れ下戸倉一般にて造営せんとせしを嘉一郎進んで単独其経営に当りしなり。奉迎当日尚未だ完備に至らず。殊に御厠の設備に関して先発官の意見区々に別れ工事進捗せず、主人自ら其設備に鞅掌(おうしょう 忙しく働いて暇のないこと)せり。然るに当日十時半頃に至り、輾声(てんせい)行在所にて止みたるに驚き、戸を開きて出でんとすれば忽ち見る眼前に金色燦然(こんじきさんぜん)たる神人の立たせらるゝあり。恐惶(きようく)出づる所を知らず、只途低身平頭(ていしんへいとう)命を待つのみ。「誰何」の玉音に対し主人なる旨答へ奉りけるに苦しくなし通れとの有り難き御声の下に御前を横ぎり、本宅に退きたりと云ふ。
 当家主人の考にて、池中に釣の準備をなし置けり。聖上親しく釣を垂れ給ひしに、「最初の程は一尾も上るものなし、是れ魚の糸を引くや否や、忽ち竿を上げ給ひしによる。供奉官の中其要領を言上するものあり。之を守らせ給ひければ池中の優物二尾を獲させ給へり。御満足の程龍顔(りゅうがん)に溢れたるを拝し一同喜びに堪へざりしと、内一尾は内膳に命じ、御昼の料に供し、一尾は次駅に運ばしめらる。
 
 上田行在所陳列品中二寸五分許りにて、中央に穴の通ぜる天然石あり。天磐笛(あまのいわふね)と名づけ戸隱山にて拾ひたる物なりと。供奉員等取りて吹きけるに笛の音を発せず。其持主なる塩尻村原昌言(注七)なる者は巧に之れを吹く由、畏(おそれおお)くも叡聞(えいぶん)に達しければ、下戸倉の行在所に召させ給ふ。昌言光栄身に餘り玉座の御次にて吹奏し奉るに、河鹿(かじか)の音に似たりと仰せられければ之れより此笛を河鹿と改称せり。
 下戸倉より姨捨山(おばすてやま)近く見ゆ。頃しも秋の初めつ方にて、供奉員の中にても殊に敷島の道(和歌の道)に通ぜらるゝ人々は上りて見たく思はれたるも心の儘ならず。
 すへなしや今宵何をはすてゝしも田毎の月を見んと思へと        芳  樹
然る中を徳大寺家従者滋賀重身只一人結束(けっそく 身支度すること)して姨捨山に向へり。
 
 十二時御発輦、学校生徒数百名は拝観の人民と相連りて奉送す、路傍には新しき里程標など立ちて、是は御巡幸につき各所共に斯くの如くせしものと見えたり。是より一里二十余町の間を輾(てん きし・る ころがる)らせ給へば、屋代駅にて、御小休所は旧本陣柿崎源左衛門の家宅なり、御門と玄関とには紫の幕を掲げたる事例の如くなるも、門より玄関に到る間は砂を敷きたる儘にて、其上に玉歩を移させ給ひ、玄関御次ぎには白布を敷き玉座(ぎょくざ
天子が座るところ)にのみ絨毯(じゅうたん)を用ひたりとか。当家にては御洗米(ごせんまい 神仏に供えるために洗ってきれいにした米)凡そ一升を三宝に盛りて床に供へ、獅子の支那画を巻きたる儘にて違ひ棚の上に安置したり、御洗米には御手を附けられ、軸物も天覽在らせられたりとか洩れ承はる。      16
 御発輦(ごはつれん)後御洗米の配与を望むもの頗(すこぶ)る多く又先には馬瀬口村にても御発輦在らせらるゝや、拝観に来りたる者、先を爭うて門内に押し入り、玄関先の砂を掘りて持帰り、爲に地上凹(くぼみ)を生じたりと。其効果の程や定かならねど、君を敬し慕ふ心の程顕(あらは)れて、幽(ゆか)しとも優しとも。御次の間の外は此処の休憩所は中央の畳四枚を上げて、椅子テーブルを備ふるなど、其趣他と大に異りたり。屋代には松代附近一帶の各小学校生徒初め、父足等の集り來りて迎送する者最も多く、高野武貞[莠叟と號す]の日記に
  ○屋代新村安兵衛丸屋予(かね)て招待するを以て彼の宅に到りたるは、七時なるべし。憩ふ事少時已に戸倉発輦の風説あり。皆街に出で立ち待ちて、蹲踞(そんきょ うずくまる)して待ち待てども絶えて通御(つうぎょ)の様子なし。街を遊覽すること数次学生等は本陣より下に十三校、各学銘旗を立て並列重畳(ちょうじょう)せり。本陣の門側に御小休と云ふ札を立つ[古事の供家老より小なり]両側毎戸国旗を掲げ、其竿に藁繩(わらなわ)を引き渡し、白紙の幣を挾みたり。殆ど祭礼神事の景况なり、陸続(りくぞく)来るものは長持幾十百なるかを知らず。多くは車に載(の)せたり。又小にして大の重さと見ゆるもの多くあり。之は兵隊の手銃と弾薬包ならん、午に近き頃より、騎兵四五或は七八騎宛列をなさずして來る。皆旗儉(きけん)と劍を帶びたり。又其前後巡査多く来たる。[三百人と列帳にあり]皆鉄室洋装の刀を帶びたり。[棒は携へず]長短一ならず、蓋し日本刀を洋装するものならん。午后過ぎて近衛騎兵(このえきへい)八九十騎許り、二行に來る。其次に方二尺許りの紅旗金菊章(きんきしょう)のものを掲げ來たる。之れ御旗にて之より敬礼を行ふべしとの定めなり。其次直ちに車駕[黒塗りのもの之れ略式の車なりと云ふ]なり。窓中容儀を拝し奉る。[写眞の御影より真容は勝りたりと見奉る]次に新式の車、朱漆(しゅしつ)金飾(きんしょく)皆二馬に加す。次は岩倉右大臣、其次は又騎馬の官員、騎兵、人力車等頗る混雜して整々堂々たるの威儀(いぎ)ある事なし。之より後、又雜物車載、人擔(じんたん 人が担う)其数を知らず。斯の如くして初めより駄馬有事なし。故に宿駅駄馬一疋も見ざるなり数日の奉迎只之のみなり。………午前より頗る駿速(しゅんそく)騎馬の者皆移り足に乗り来れり。已むを得ず、路傍に蹲踞(そんきょ)して拝観し再び屋代に帰り、両孫女をも此に呼来し、一同帰路に就き、未だ黄昏(たそがれ)ならずして帰宅す。路上人の言を聞く、数日の経営毎戸費す所数金にして只一瞬間に通御畢(おわ)りたり。神祭にして観物なきが如し(中略)○騎兵等の未熟鞍上に堪へで落ちざるを大手柄とする体なり。槍なり刀なり之を使用すべきとは思はれず、又県官警視等諸官も騎馬に熟せず云々。
是は事実に相違せる点なきにあらねど、当時の実况を精細に写し、且当時旧藩士族等が時世観の一端を探り得べきなり。
 
 屋代駅より十七八町にして、千曲川に架せる船橋(注十)有り。御板輿(いたこし)に召し替へて渡らせ給ひ篠ノ井を経て旧本陣伊藤盛太郎方に著御在らせらる。表門と中門とには紫の幕を掲げ、中門を入らせ給へば、中庭には老松古欅(こけん 古いけやき)枝を交へて茂り、其下に大なる平石立岩などあり。御上り口には緋緞子(どんす 紋織物)の幕と、白緞子の幕とを重ねて絞り上げ、十五畳なる御次間を通御ありて、八畳の玉座に入らせ給へり。玉座の中央には高麗(こま)縁の厚き畳二枚を並べ高座を設けたり。清人高乾筆花鳥の軸物を巻きたる儘にて床に供へたり。
 原村御発輦丹波島区会所[旧本陣柳島ひでの邸宅]構内なる御小休所に著御在らせ給ふ。此御小休所は古松生ひ茂れる庭内池の辺に新築したるものにて、二間に分れ、廊下を以て本宅に連る本宅には旧御殿其他の諸室依然として存在し供奉員の休憩所となれり。
 丹波島の船橋(注十)を御板輿(いたごし)を以て越させ給へば千曲と犀との両河合する所に出で給ふ。此川の南の河原に拝観人雲霞(うんか)の如く群集し、学校生徒は二列に並列し、校名を記したる旗幾旒(いくりゅう)となく河風に吹き靡(なび)かせ、教員は左手に小旗を取り、右手に帽を脱ぎ、御輦を見て一斉に拝礼す。此処には二つの仮橋と二つの船橋とありて、御輿を渡し奉る。北の河原に進めば此処にも長野町迄二十町許りの間にも、拝観人のみにて錐(すい)を立つる由もなし。
 長野町に入りては国旗を掲げ、紅灯(こうとう 赤いちょうちん)を吊し掛札を撤し、或は金屏風を引き廻して店頭を飾り、或は階上を鎖して隙間の目張(めばり)をなし、或は軒下に蓙(ござ)を敷き、其上に平伏して迎へ奉るものあり。御馬車台の上高く座せる二人の中何れが至尊(しそん 天皇のこと)なるかを甄別(けんべつ はっきり区別する)するに苦しめるあり。騎兵の槍鋒の御旗燦爛(さんらん)たる御輦の外拝し熊はざるものあり。実に千熊万状を極めたりと雖も、一としで皇室の尊崇(そんすう)奉迎の至誠より出でざるはなし。      17
 
 大本願門前には正住職権少教正久我誓圓は不在を以て副住職権大講義大炊御門誓薫は中衆(なかしゅう 浄土宗十五坊)一同を従へ御出迎へ奉る。勾配少き坂と変ぜる仁王門前石段の辺り、御輦靜かに輾(てん きし・る ころがる)らせ給へば之れより石路の上、蹄音輪声(ひづめの音と車輪んの音)喧々囂々(けんけんごうごう わいわいがやがやいうさま)午后四時半頃、大勧進前に著御在らせ給へば騎立(こまだて)と相対して北の方に行在所(あんざいしょ)なる立札高く聳(そび)え表門には額を去り菊花御絞章(きっかごもんしょう)紫縮緬(ちりめん)の幕を絞り地幅(ぢふく 門の閾(こう)を撤し、御輦の御通に便ならしめ、玄関にも亦同じ幕を掲げられたり。住職權少教正波母山考信は衆徒妻戸(つまど 時宗の僧の一団)一同を率(ひき)ゐて、橋前石段の辺にて御出迎へ奉る。斯くて聖上には玄関にて御下乗(げじょう 降りること)、書院を経て行在所なる奥殿に入御在らせらる。行在所は曾(かつ)て法親王の御座所(ござしょ)に充つるが爲とて建築されたるものにて、八畳の京間四室方形に相接し、一間半の入側(いりかは)、四尺の縁側を以て南西北の三面を囲み、南と北とに庭あり。西北の一室を以て玉座に充つ、玉座には繧繝縁(うんげんべり)の畳[他の三室は高麗縁(こまべり)なり]を敷き、西に床あり北西に書院あり、行在所(あんざいしょ)内美々しく飾り付けられ、南方には古松老杉鬱蒼(うっそう)として仙境の如く、内に草葺きの一小茶亭あり。其東に泉水あり。遠く水を引きて瀑聲(ばくせい)遙か玉座に逹す。聖上には頗(すこぶ)る簡易を崇(とうと)び親しく臣下に接し、下情(かじょう しもじもの事情)を問はせ給ふ御心深ければ、炎暑中御窮屈(きゅうくつ)をも厭(いと)はせられず、玉座に続ける諸室を供奉員の詰所に充てさせ給ひし由洩れ承はるも誠に畏(おそれおお)き事どもなり。
 
 此時院内にては出仕門以南は一切の仏具を取り払ひ、本院今は悉(ことごと)く供奉員の詰所となり、御物見は近衛士官の詰所となれり。然れども其建物頗る粗末なりしが上に窓下の道路両側には馬繋所を設けたるがため悪臭喧声(あくしゅうけんせい)交々(こもごも)襲来し、到底居に堪へざりしかば、当地副区長、戸長等相謀り窃(ひそか)に近衛士官を他に移したり。御輦の置場及び天馬の繋所は大観進境内に建設し、供奉員宿割左の如く定められたり。
            ア ラ 町
右 大 臣          中 野 直 行
            大 門 町
参議 大蔵書記官       高野平左衛門
            横 澤 町
宮内卿御用掛         久保田 周三
            大 門 町
大 警 視          藤井 平五郎
            新    町
宮内大輔           林 敷右衛門
            東    町
陸軍少輔           康  樂  寺
            元善町仁王門前
内務書記官          兄  部  坊
            東ノ門町
大蔵書記官          近山 與五郎
            元善町仁王門前
大政官書記官         正  智  坊
            御靈屋小路角
宮内書記官          良  性  院
            西ノ門町角
式部掌典           藤井伊右衛門
            ア ラ 町
侍   補          上 田 つ ね
            仁王門前
侍   医          堂  照  坊
            西ノ門町八坂社前
侍従華族           光  明  院
            西 堂 内
侍従華族           本  覺  院
近衛士官           大勧進 物見
            東ノ門町
騎   兵          寛  慶  寺
            東堂内上ノハシ
内 膳 課          福  生  院
            同
調 度 課          吉  祥  院
            同南ヨリ三軒目
内 匠 課          威  徳  院
            同四軒目
内 廷 課          常  住  院
                (外三ヶ所)
            東ノ門町
御 厩 課          大 井 豊 八
                (外二ヶ所)
            大 門 町
権少警視           水村仁左衛門
            西ノ門町八坂社前
警視本部           常  徳  院
               (外十四ヶ所)
            ア ラ 町
警視第一第二第三部署     松澤龍右衛門
               (外十一ヶ所)
            大 門 町
警視医師           宮 崎 せ い
            大 門 町
駅 逓 局          岡村 喜兵衛
 
 御著輦(ごちゃくれん)数日前より、白の洋傘(ようがさ)に千金丹(せんたんきん)と大書せるを翻(ひるがえ)し、大声を放ちて千金丹を売り廻れる者幾十人となく長野に入り込みしが、当日は其影だにも止めずなりぬ。時恰かも西南の役を了へて一年の事なれば、市民等は或は御巡幸に付き予(あらかじ)め地方の状况を偵察せしめんための者ならずやと、噂取々なりしとかや。事の真僞は知るに由なきも、人心未だ靜かならぬ事斯の如くなれば、行在所は橋の前後門の内外、共に巡査(じゅんさ)騎兵を配置して、厳重に取締り、市中全部は供奉の警部、巡査、騎兵及び本県の警部、巡査合せて数百名にて代る々々巡邏(じゅんら)し、非常を戒(いまし)めたり。
 
 新潟県令す氷山盛輝(注十一)同県一覽表等を山岡宮内大書記官の手下迄呈出(ていしゅつ)し、新潟県下御巡幸の参考に供せり。且、行在所に至り天機(てんき)を伺ひ拝謁を賜はる。岩倉右大臣、大隈、井上の両参議、川路大警視大山少輔の五名へ御料理を下賜せらる、下戸倉より姨捨に向ひし加部嚴夫探勝を終りて長野に著す。近藤芳樹署陸路迺記に、      18
 暮なんとする程、嚴夫後れ来てかたるを聞くに、此山(姨捨山)を下りて、午后一時に八幡に著きぬ。時来ぬれば午餉(ひるげ)たうべばやと思へど、此わたり家毎に門さして、住人も無き様なればせん方なし。たま/\逢ふ人に問へば今日御輦(ごれん)過ぎさせ給ふを拝みまつらんとて、朝まだきより斎戒(さいかい)して皆出でたればさる設有る所は侍らざるべしと云ふ。此国の一ノ宮八幡大神の鎭まりませる里なれば、御社を拝みて稲荷山に出でたるに此駅は西の国人等の善光寺に詣づる道にて、人の行きかひも繁くなれゝば、さすがに門開きたる店も有りて、果物などの見ゆるを求め食ひつゝ、只今なむ著き侍りぬると云ふ。あはれ物のあやめも弁(わきま)へ知らぬ鄙(ひな)の民すら今日の行幸にはづれてはと、家の中挙りて公を尊(あが)みかしこむひとつ心の誠より拝みに出でたるなりけりと思ふにも、やぶしわかぬ大御光ぞいとゞ仰がれける。
  旅ころも汗もしとゝにしのきゝて
      この山さとに秋を知るなれ
           宮内卿 徳大寺實則(注十)
郵便報知新聞記者岡敬孝車を駆(か)りて将に長野駅に著せんとする頃、突然車を遮(さえぎ)りし一人、祝詞(しゅくし)を献ぜんと欲す。宜しく執達(しったつ 文書をとりつぐ)し給へと、唐紙半切の一封を車中に投じて去りぬ。其上包には長野県信濃国水内郡北第二十五大区二小区三才村田原磯右衛門と最麗(うるわ)はしく書き残し中に七言二首を止めしと。
文明(?)を形容せらるゝ諸語は今や其幾分を長野市の頭上に置かんとするも、御巡幸当時に於ては実に左の如く分離し、長野町には県庁有りと雖も未だ一の宿場たるに過ぎずして寂(じゃく)たり寥(りょう)たりき。
  鶴賀村 長野町 妻科村 腰村 茂菅村
 参拾年前(明治十年前後)ハ西後町裡(うら)ヨリ長門町裡ヲ掛ケ西方寺裡ヨリ桜枝町南北及ビ横澤町ニ到ル迄西面一帶総ジテ田圃(たんぼ)ナリシ旭、県ノ町々ニ並ベル家屋ハ明治十四年以後ノ建築ニ係リ寺仏ニ属スル建物ヲ除スレバ今日人目ヲ惹(ひ)ク程ナル建物ハ大概明治二十年以後ノ建築ニ係ル事ヲ記憶スルヲ要ス
          (渡邊敏著長野市小史)
 
 此度の御巡幸に付き有力なる町民四十名を選みて十人を役場詰として、一切の庶務に当らしめ、十人を行在所掛、十人を寛慶寺掛、十人を御馬掛と定めしと雖も、各掛員は大名の送迎に付きては見聞し居るも御巡幸に就きては更に知る由もなく、受持の警官と雖も命ぜられ談(かた)られたる事の外には何事も知らず、問へば問ひ返して、聞けば答ふる同じ言葉、明答到底(とうてい)覚束(おぼつか)なければ、一同の苦心狼狽(ろうばい)は大方ならざりき。去はれ彼等は此機を以て小学校を新築し行在所に供せんとて日夜工事を急ぎたるも、僅に外観のみは出來上り随行新聞記者を驚かすに至りたるも、内部の設備は全く施すに及ばざりき。
 此山(城山)ノ少シ下ニ長野学校アリ、新築成リテ上棟ノ式ハ済ミタリシガ未ダ開校ニナラズ、規模宏大ニシテ小学校卜ハ思ハレヌ程ノ結構ナリ。此処モ城山ヘノ御通リガケ御覽ニナル趣ニ承ハル。(郵便報知新聞)
若しも天覽在らせ給ふ等の御沙汰有らば如何にすべきやなど皆々思ひ合へり。
 城山の御小休所新築事業も長野町の受持なりしが、御著輦(ごちゃくれん)の間際に到るも木材の準備すら整はず、俄(にわか)に大峰山に之を求めたるも斯る失態を公に露(あらわ)はすはいと恐れ多き事なればとて燭光町方に見えざる西の窪を撰みて用材を整へ辛うじて建築を了りたりと云ふ、行在所其他供奉員の宿割は一切町の受持にて露木戸長[当時の区長なり。副区長は藤澤長十郎]専ら其任に当り、御著輦(ごちゃくれん)の当日は各宿所に貼札をなせるの外、宿割を印刷して諸方に配布し、一目瞭然(いちもくりょうぜん)迅速に用を弁ぜしめたり。
 
 明九日臨幸の御日定左の如く仰出だされたるにより各部に通逹せらる。      19
 第一 県庁、第二 博物場御通覽、第三 製糸場御通覽、第四 師範学校、第五 松本裁判所長野支庁、午后二時城山公園
第四日 九月九日(午前)
 本県庁に臨御在らせらるべき旨、予てより逹し有りたれば、県庁にては御輦の通行に差支なき様、門幅を広め、門より玄関に到る間にありし石段を除き、玄関前には円き植込を造り、後庭に便殿(びんでん 天皇が休息される仮の御所)の新築をなし、其他県下より物産、古器物、古書画の類を募り、其一部を庁内に陳列をなす等、奉迎の準備欠くる所なし。便殿は二間にて西の一間を玉座とし、東の一間を勅奏仕官の控所とし、其他判任等外の控所には便殿に隣れる一室を以て之に充てたり。
 
 午前八時行在所(あんざいしょ)御発輦、楢崎県令(今の県知事)御先導仕る、松野少書記官は先登に立ち、属僚を率ゐて門外に奉迎す。御輦玄関前に到りて駐(とどま)り、供奉(ぐぶ)の高官直に御輦を囲みて迎へ、先駆殿衛(でんえい)の騎兵は円く其周囲を戒めたる中に於て御下乗在らせ給ひ、御先導供奉の間に玉歩を移し給ふ。便殿に入らせ給ひて、暫(しば)し御休憩の後県令の御先導にて正庁に入御、県令祝詞(しゅくし)並に県治(けんち)の大要を奏し、県内の状况取調べ文書を上(たてまつ)る。[本録、奏上書類ヲ見ヨ]了(おわっ)つて聖上には玉座を立たせ給ひ、各課を御巡覽(じゅんらん)、続いて第二課に陳列せる物品を天覽あらせられ、数種は御買上げさせ給ふ。再び便殿に入御在らせられ、此間に於て御輦を拝したる者の語るを聞くに、御馬車頗る大形にて、馭者(ぎょしゃ)台は恰かも角力(すもう)の化粧廻とも云ふべき金色燦爛(こんじきさんらん)たるものにて飾り付け、馭者は金飾り有る高帽[供奉用御馬車の馭者は銀装の高帽]金の筋を入れたる服を著け、御馬は当時米利堅(メリケン)種と呼びたる栗色の逞(たくま)しき大馬にて大なる金紋の眼隱(めかく)しを付けたり。馭者台の美、馬の大、金飾り金紋眼を眩惑(げんわく)し、其他の部分を精しく拝觀する能はざりしが爲記憶せず。御乗替の馬二頭は、門を入りて東側に設けたる馬繋場(うまつなぎば)に繋がしたり。一頭は白にして一頭は黒なり。共に団扇(うちわ)大の菊花御紋章(きっかごもんしょう)を左右に著けたる黒羅紗(ラシャ 毛織物の一種)を以て其背部を覆(おう)へりと。便殿にて暫し御休憩の後、御発輦仰出(おうせい)ださる。県令御先導、少書記官以下門外にて奉送す。
 県庁の東道を隔てゝ西方寺の西に接する迄の地域を有し、其中に六間に四間の二階建を本棟とするもの之を勧業物品陳列場[勧業場博物場物品陳列所等種々の通称あり]とす。県下の物産、古書画、古器物等を陳列し、建物の周囲には小作なる林檎(りんご)、葡萄(ぶどう)、其他種々の植物を植う。県立にして第二課(勧業)之を管理経営せり。聖上(天皇のこと)には県庁御出門有りて、直に勧業場に御著輦(ちゃくれん)、陳列品を御通覽在らせ給へり。此処に陳列して叡覽(えいらん 天子がご覧になること)を忝うしたるものは其数極めて多し。[本録県令奏上書類に之を載す]勧業場を御発輦ありて、勧業工場[製糸場とも呼ぶ]に御臨幸(ごりんこう)あらせらる。勧業工場は師範学校より道[今の旭町]を隔てゝ西に位し、東方に門を設く。聖上には器械製糸 [工女二十五人]座繰製糸(ざくりせいし)[工女十一人]真綿掛(まわたかけ)[工女六人]紬(つむぎ)引き[工女六人]機織(はたおり)[工女二人]秋蚕(あきご)飼育[二人]綿紡器械運転[五人]藍染(あいぞめ)[八人]紙漉(かみすき)麻製造[二人]外に木曽山の駒二頭[之は勧業場内に出すべき筈なりしが都合により此処に出せり]を御通覽の上師範学校(注十二)臨御(りんぎょ)在らせらる。
 
至尊(しそん 天皇のこと)の我校 臨幸(りんこう 天皇がおでかけになること)
 当時の師範学校は今の付属小学校地内に在り[昭和四年三月県立長野図書館此処に設立せらる玉座となりし建物は現存す]本校舎一棟[中央の大建物にて今尚存す。階下の南側玄関の左右は教室なり。階上の東半は大広間にし西半のみ廊下を以て北南に分たれ、南側を教室に充つ階上階下共に北側は狭隘(きょうあい)なれば器具機械の置場等となし時に講習生の教室に充てたることもあり]事務所一棟[本校舎の西南にありて、今尚存す。階下は四室に分れ、東西の廊下を以て南北二室宛に分ち、又北方二室間には廊下ありて本校舍に連なる。階上は東西の廊下を以て二室に分る]寄宿舎二棟[校地内の北端にあり稍一列をなして連る]本校舍と東の寄宿舍との間に食堂ありて、合計五棟よりなる。校地も東方に向っては今の如く広からず、校長には専任者なく、第五課[学務]長山口正雄之を兼務せり。幹事は学区取締之に任じ常任は岩下貞臣、当時の当番は島津忠貞、池村良忠の二名なり。教員は仙台、東京、新潟等の師範學校、同人社攻玉塾等の出身にして、首席は衣笠弘[化学漢学]小林常男[生理漢学]小林軒造[物理、経済、漢学]常見甫[普通]堀川常吉[普通]近藤三九三[数学]館山守司[歴史等]花井半藏[普通]曾根祐郷[数学]等各科を分担せり。生徒は修業年限二ヶ年にて、半年を以て一期となし、最上級の生徒を第四期生と呼び百余名なり。生徒に制服なく、制帽は形容の語も見当たらねど、今日の小使が冠(かぶ)り居る不恰好の帽の如き形なりと思はゞ当らずと雖も遠からず。附木を心とし、護謨塗(ごむぬり)の前庇、白羅紗(ラシャ)の幅広き帶したるものにて、前方に「師」の字を刻せる円形の徽章(きしょう)を著け、其他靴、下駄、蒿草履(わらぞうり)、雜駁(ざっぱく)なる紛装(ふんそう)をなせり。書籍は貸与せられ、衣服は自弁し、其他一期は無給、二期は三円三期は三円半、四期は四円を給せられ、食料凡そ二円半を払ひき。物値は今日に比して甚だ廉なりしかば生徒は其残金にて煎餅(せんべい)、餅(もち)、蕎麦(そば)、牛肉等に腹の虫を慰め、且は放課後の閑を送りしと。去る中に此金を貯へて卒業の時には十数金を持ちて去りし若物の年寄もあり。浪費をことゝして借金に首も廻らぬ坊つ様もありたり。寄宿舍に在りては、四期生より一期生迄を混じて、一室[凡(およそ)十二畳]四五名宛收容し、四期生若しくは三期生を以て室長となし、室内の諸生徒を統督せしめ、当時各郡にある学区取締は常詰の外尚交番して師範学校に出勤せしめ、生徒の監督を補助せしめたり。晨起就眠(しんきしゅうみん)の時刻は日の長短によりて異りしも、刻限後には当直の職員必ず各室を巡視し食事の時には必す食堂に来りて生徒と会食せり。浴室も構内に有りて日々入浴するを得たりと。時こそ異れ、何時も変らぬ我校の生活なるかな。然れども之れ未た形の事なれど、次に記せる滑稽(こっけい)とも何とも云はん方なき其事の肉は変り骨は朽つとも、今尚其皮のみ残れるぞ。慨し御臨幸(ごりんこう)の前日幹事は生徒惣代を招き、之に訓示するやう「今回の御巡幸に際し、当校生徒の如き見苦しき服装にて、御順路に出でゝは甚だ失態なり。殊に東京日々新聞の岸田吟香の如き筆達者に見られ、悪口を書かれては長野県の体面にもかゝれば、当日一同は散歩時間たりとも宜敷(よろしく)校内に謹慎(きんしん)罷(まか)り在るべし」と。之を聞きたる一同は服装こそは醜けれ、曰く、至尊(しそん)に仕へん赤心に何の差違がある、此盛典に会しながら蟄居(ちっきょ)せよとは何たる非国民の言葉ぞと憤慨(ふんがい)の念禁ずる能(あた)はず、直に田中救時、秋野太郎を惣代として其非理不法を論ぜしむ。彼にも大和男子の血は漲8みなぎ)りたり。自己の失態を覚(さと)り、遂に結局各室の室長は室生を纒(まと)め、衣服等に失礼なき様に注意し、思ひ/\に沿道に整列して鹵簿(ろぼ 天子の行列)を拝することゝなりたり。
 
 之より先聖駕(せいが天子の乗物)師範学校に臨駕(りんが)在らせらるゝ由聞えければ、俄(にわか)に寄宿舎一棟[前記ニ棟の一なり]を増築し、校門外柵を改修し、二層の望樓(ぼうろう)を造り、玄関前には円形の築山を造り、之に数百本の小松を植うる等日夜精励(せいれい)し、御臨幸前略体裁(ていさい)を備ふるに至れり。又学校生徒は御臨幸三日程前より習礼と名づけ敬礼(けいれい)法の練習をなしたり。      20
 便殿(びんでん)には階上の事務室を以て之に充て、関長堯、岩下貞臣は盆栽十個を捧げ、玉座御装飾の一端に供したり。教員室初め、階上の教室を以て供奉員(ぐぶいん)の休憩所となし、盆栽其他の装飾至らざるなし。
 軈(やがて)て聖上御著輦(ごちゃくれん 御着きになる)在らせらるゝや、教員生徒一同服を正し門外の広地に整列し恭(うやうや)しく最敬礼を行ひて迎へ奉る。聖上には玄関にて御下乗(げじょう)、便殿(びんでん)に入御(にゅうぎょ)在らせらる。通御の廊下中央には白布を敷き、階上の大広間を以て授業天覽の場所となせり。北側には左記十二名の本校優等生(ゆうとうせい)一学級となり、東向して着席し、教員は小林常男にて塗板上に一次方程式の問題一個を掲げ於けり。
 
 志村思誠 岸田佐太郎 手塚慶三郎 田中救時 稲垣正直[以上四期生] 秋野太郎土谷政吉 窪田三郎 山本幾久馬 東福寺熊太郎 山田泰夫 齊藤超安[以上三期生]
又南側には左記小學校生徒三十名、同じく登校して着席、教員は堀川常吉にて塗板上に正比例一題を掲げたり。
 長野学校生徒十六人      21
 中澤四郎三郎 山田貫一郎  小林 營順
 北村木次郎  綿田 忠助  若林芳之助
 赤塚 甲藏  村地駒之烝  渡邊榮三郎
 岩下神太郎  小林秀次郎  石黒源太郎
 竹内 唯吉  山本爲次郎  徳永定太郎
 半井きよ
 上田町松平学校生徒九人
 隱岐 清重  中村 時序  瀧 澤 浩
 中島彌門太  宇川 信三  溝口多門司
 山 村 哲  小松謙次郎  早川 正敬
 小県郡常盤城(ときわぎ)村常盤学校生徒三人
 沓掛石一郎  西原三男平  春原 金吾
 埴科郡中之條村格致(かくち)学校生徒二人
 柳澤 直治  塚田多二郎
是等学校生徒が殊に師範学校に集り、授業天覽の栄を得るに至りしは、長野学校は校舎略落成し、行在所に供せられんとし、他の三校は近き新築等にて御臨幸を願ひ出でし等の縁故を以て、各校共上級中の優等生を爰(ここに)に召されたるによるなり。
 既にして、陛下広間へ臨御、一同机側に立ちて最敬礼を行ふ。御座(ござ)は広間の東方に西向し、岩倉右大臣始め、供奉の文武大官は其左右に奉侍(ほうじ)したり。教員は問題を一読し、生徒直に運算(うんざん 計算)、一人答を読み上ぐ、一同挙手。次に秋野太郎は教員の指揮により、机側に立ちて仏氏生理書の開巻(かいかん)一頁を講義す。斯くて凡そ三十分許(ばかり)り、龍顔(りゅうがん 天子のお顔)殊に麗(うるは)しく授業を天覽ありて御動座(ごどうざ)、一同最敬礼を行ふ。是より一二歩教場内に入御あり、教員生徒最敬礼を行へば間もなく出御在らせ給へり。[此時曾根祐郷は階下極東の教室にて算術の教授をなし居りて天覽の栄を蒙(こうむ)れり]
 御巡覽を了(おわ)り、便殿にて少時御休憩有りて、還幸(かんこう おかえりになる)仰出(おうせい)だされ、教員生徒は校外に於て奉送せり。
 
 師範学校生徒の上(たてまつ)りし祝詞(しゅくし 祝いの言葉)左の如し。
 誠惶誠恐(せいこうせいきょう 恐れかしこまること))謹白維明治十一年 天皇陛下東海北陛ノ両道ニ巡狩(じゅんしゅ 天皇が諸国をまわって視察すること)セント欲シ、八月三十日鳳輦(ほうれん)東京ヲ発シ、九日上澣(じょうかん 上旬)途ヲ我長野県ニ取リ、蹕(ひつ さき払い)ヲ駐メ百姓ヲ労賚シ、学藝ヲ奨励ス。万民欣頌彊(きょう むりじいすること)リ無シ。伏テ惟ル 天皇陛下仁明文武即位以来鋭意治ヲ図リ、首トシテ封建ノ制ヲ廃シ以テ郡県トナシ、地形ノ宜キヲ計リ、以テ都ヲ東京ニ遷シ、六百年来専擅(せんちん)弊政(へいせい)ヲ洗掃シ、百度ヲ更張ス。中興ノ偉業日ノ昇ル如ク、天地清明百官万姓其功徳ヲ仰ガザルハナシ。然レドモ猶且ツ寧居(ねいきょ 安心している)セズ。艱險(かんけん)ヲ冐(おか)シ、奇岨ヲ踰(こ)へ、比年諸国ニ巡狩シ、今復タ両道ニ 行幸セラル。是皆事ニ非ザル者ナシ。
鳳輦(ほうれん 天皇の乗物)過グル所生靈其沐澤(もくたく めぐみを受けること)ニ浴セザル無ク、和樂万歳ノ声千里ニ弥(行き渡る)リ、四方ニ達ス。是ニ由テ之ヲ観レバ、彼ノ唐虞三代ノ隆治卜雖モ、美ヲ千載ノ上ニ専ラニスル能ハズ。明治ノ号名実相称ヲ所以ナリ。果シテ知ル鳳輦禁闕(きんけつ 御所)ニ還ルノ後、更ラニ精ヲ励(はげ)マシ、治ヲ図リ、庶政ヲ 聖覽ノ経歴スル所ニ斟酌(しんしゃく)シ、文物典章益々燦然(さんぜん)トシテ観ルベキ有ラン與。然ラバ即チ鴻澤(こうたく)ノ被ル所豈啻(ただ)ニ両道ノ民ノミナランヤ。於戯此盛典古今絶エテ無クシテ而シテ僅ニ有ル所誰カ之ヲ欣頌(きんしょう)セザランヤ。臣生徒等性不敏ナリト雖モ、本県師範学校ニ在学セルヲ以テ幸ニ今日辱クモ 天顔ヲ咫尺(しせき 天子にお目にかかること)ノ間ニ拝スルヲ得、感激欣喜(きんき)ノ至リニ堪エズ。由テ講ミ祝辞ヲ奉ル。冀(ねがわく)クバ 天皇陛下ヲシテ寿富ニシテ、而シテ 臣生徒等ヲシテ夙夜(しゅくや 朝早くから夜おそくまで)勉学怠り無ク鴻恩(こうおん 大恩)ノ万一ニ報ゼシメンコトヲ。誠惶誠恐(せいこうせいきょう)頓首(とんしゅ)百拝
        長野県師範学校
  明治十一年九月    生 徒 一 同
             (志村思誠代稿)
 
 授業を天覽に供したる師範学校生徒には各一円五拾銭、小学校生徒には各五拾銭を下賜せられ、各自任意の品を求め、長く優渥(ゆうあく 天子のめぐみ)なる聖恩の紀念となしたりと云ふ。
 当時松本には師範学校の支校あり。本日本校には聖上御臨幸(ごりんこう)在らせ拾ひ、無二の盛典を極めたるも、支校の教員生徒は之に参会して栄に預るを許されざるのみならず、校門に国旗すら掲げず、全く平日の授業をなし居たりしは、今より之を追想するも誠に恐れ多きことながら、蓋(けだ)し是本支校の関係密接ならず、又且長野筑摩両県の合併せられて日尚浅く、南北両信の疎隔(そかく うとんじへだつこと)は依然変わることなく、自ら別天他の観をなし、加ふるに公の儀式に慣れざるにも依るならん。
 生徒は今日に限り、門限もなく、配与せられし折詰菓子を携へ城山に至り、煙火(えんか はなび)を見つゝ聖代の忝きを謳歌したりと云ふは、何時も変らぬ又優しの心なる哉。      22
 明治二十年師範学校が今の所に新築せらるゝや、玄関前の築山は取り崩され、千本松は其他の樹木と共に新校舎の前庭に移植せられて、緑愈が上に深く、又本校舎と西南の一棟のみ今尚存して其上を忍ばしむるのみ。望楼の上層は其後取崩され、食堂は取り払はれ、寄宿舎は三十四年に焼失して其影もなし。
 
 師範学校御発輦(ごはつれん)、松本裁判所長野支庁へ臨御(りんこう)在らせらる。之は御臨幸に付き新築されたるものにて、今の税務監督局の本棟即ち之なり。内外には所長、判事加藤祖一を初め、支庁長代理某等迎へ奉り、便殿に入御、所長祝詞を奏し、並に「民刑勧解一覽表」を上(たてまつ)り、午前十時五分行在所へ還御(かんぎょ 天子が出かけ先から帰る)在らせらる。
 拝観人は早朝より騒ぎ立ち、雲霞(うんか)の如くに充ち々々たり。之は水内、高井、更級、其他の所々在々より此度の御巡幸を拝せんとて、孫や娘を引き連れ、各腰弁当を吊し、二三日前より善光寺参詣をも兼ねて泊り掛けに来りしものなり。是等の人々は此処にて、御輦(ごれん)を拝し得ざれば、先の横町にて龍顔(りゅうがん 天子のお顔)を拝し奉らんとて彼方に走り、此方に廻り、騒然たり。大隈参議は御名代(ごみょうだい)として県立医員講習所の巡覽(じゅんらん)を仰せ付けられ、杉宮内大輔(孫七郎)土方一等侍輔(久元)谷森太政官少書記官(眞男)及び宮内書記官一名を随へ、騎氏一分隊(六騎)の警衛にて、西法寺内所設の医員講習所に臨み、生徒の学術を巡覽す。午后医員講習所長兼長野病院長半井義質行在所に至りて天機を伺ひ奉る。
 
九月九日(午后)
 午后二時御出門、御通すがら此度新築したる校舎を、御輦の内より叡覽(えいらん 天王がご覧になること)あらせ給はんとて、境内を通じ斜に御輦を輾(てん きし・る ころがる)らせ給ふ。行在所とはならざりしも、町民の心は自ら畏(おそれおお)き辺にも通じ、等しく聖恩の厚きに感泣したるならん。
 城山南方の高地[今城山館の所在地]大勧進の遊覽所に阿屋を建てられ、西方の高地[今縣社の所在地]は其昔毘沙門堂有りしも、大地震の際破壊せられ、此辺一帯畑となり、僅かに三尺ばかりの作道ありて之れに通ずるに過ぎざりき。此度の行幸に臨御あらせ給はゞとて、如来堂の東の向拝(ごはい)より東に向ひて一直線に新道を開き、毘沙門堂の有りし辺に、二間に四間にて三方に三尺の廊下を設け、外に六尺二間の茶屋を附設せる御假宮を新築せり[縣社は此度如来堂の裏より移されたるなり]此処は四郡を一瞰(いっかん)の中に見るべき高爽(こうそう 高くて気が晴れ晴れする))の地にして犀川千曲川足下に横たはり、浅間の噴煙、四阿山巓(あずまやさんれい)に棚引き、其絶景云はん方なし。聖上には御假宮に臨御、四方の景色を御眺望(ちょうぼう)あらせられ、叡慮(えいりょ 天子の心)を慰め給へり。折から各地方の人民が御慰にもとて、高堤にて皇都にも見られざる珍らしき煙火(はなび)を打ち掲げ、旅情を慰め奉りけるに、殊の外面白く思召に叶ひたるにや、最御満足の体(てい)にて天覽あらせ給へり。
 みそなはす民の煙や立かへり
      君をおもひの花とさくらん
              正   風
 此時佳き眺めやと仰せ有りし由なれば、後に此御假宮を佳郷館と名づけて長く長野市の誇りものなりしが、其後焼失せしは千載(せんざい 長い年月)の恨事と云ふべき也。此日は朝来細雨(さいう きりさめ)霏々(ひひ 雨や雪がひどく降るさま)たりしも、九時頃よりは殆んど晴れたるに、三時頃より又もや雨の降り出し、煙火も湿りしこそ遺憾(いかん)なれ。聖上には如来堂に向ひて此処を御発輦在らせ給ひ、拝観人も次第に宿所々々に引き取れり。されど煙火は続きて行はれ、夜に入りても盛に打ち揚けられ、当日に無二の盛况を添へたり。
 
 又徳川の末つ方、家斉将軍譲代(じょうだい)の時とかや旗本等将軍の代理として等地に臨み、前後二度如来堂の巡検(じゅんけん)を行ひたることあり。先を小巡検と云ひ、後を大巡検と称せり。小巡検の時は格別のこともなかりしが、大巡検の節は青松を以て町内総ての小路を塞(ふさ)ぎ、堂内の天井を張り賛へ、極彩色の箇所まで綿密に着色を加へ、額面を取払ひ、燈籠(とうろう)を下(おろ)し、木像を移し、堂内全部を洗ひ極むるなど、其混雜騷動(そうどう)を極めしこと、殆ど今日より想像し能(あた)はざる程なりき。斯(か)かる事あるが故に、御巡幸の際長野町民は如来堂に付き彼を思ひ是を思ひて、大なる配慮(はいりょ)苦悶(くもん)を重ねたり。八日御著輦、明九日御臨御の場所を仰出だされたるも公園に臨御とあるのみにて、如来堂のことは確と知る由もなく、町民は心元なく思ひ、掃除丈もとて充分に致し置けり。      23
 公園より御還幸(かんこう)の砌(みぎり)、如来堂通御あらせらるべき旨俄(にわか)に仰出(おおせい)だされたれば、大勧進の住職並に衆徒(しゅうと)妻戸(つまど)は東側に整列し、大本願(だいほんがん)の副住職、並に中衆(なかしゅう)は西側に整列して奉迎せり。桜井社寺局長[能監]楢崎県令、続きて両住職御先導仕る。衆徒、中衆、妻戸、勤詰(きんきつ)番所一同は如何になるべきかとて、胸のみ騒がし恐れ入りてぞ控へ居たる。軈(やが)て如来の開帳あれば聖上には軽く玉歩を移させ給ひ、瑠璃檀(るりだん)には入らせられず、前机の辺にて御脱帽の上御会釈あらせ給へり。巡検の来りたる時の如き大混雜もなく、六位とか聞ける義(善ママ)光、其子義(善ママ)助夫人弥生の前の木像を高檀に置きたる際、何の御咎(とが)めも無くいと御心安く還御(かんぎょ)し給ひければ直ちに飛脚(ひきゃく)を以て此趣町内の要部に報告し、僧俗挙げて聖恩(せいおん)の恭(うやうやし)きに感泣(かんるい)せざるはなし。此日午前御発輦に先立ち、大進進住職に拝謁(はいえつ)を賜り、午后七時頃大勧進住職、大本願副住職を行在所内地方庁官員詰所へ召され、金百円を如来堂に、金拾五円宛を大勧進、大本願に下賜せらる。天恩(てんおん)無窮(むきゅう 無限)何を以てかよく之に報い奉るべき。有りがたしとも有りがたし。
 
 如来堂より御還幸(かんこう)の途中、供奉ありし岩倉右大臣へ直訴せしものあり。其者は筑摩郡深志村の須澤猪野藏[八十歳許]と云ふ者にて、松本藩の頃一代士族となりしが、廃藩置県の際廃禄(はいろく)せられ、難渋(なんじゅう)の趣き旧筑摩県庁へ訴へしと雖も採り上げられず、南北合併の後長野県庁にも訴へ出でしに之亦採用せられず、依つて此度の御巡幸を機とし、岩倉右大臣の通行を待ち受け、直訴をなさんとて一代士旅二十五人の惣代(そうだい)として、右の須澤及び藤田太平次の二人が長野迄來りしにて、藤田は訴状を呈する前恐縮して何れへか立去り、猪野藏一人にて之に及びしなりと云ふ。
 
 新聞記者写真師、洗濯師の止宿(ししゅく)は宮川銀三郎方にして、前者には岸田吟香[東京日々新聞]藤田茂吉、岡敬孝[郵便報知新聞]横瀬文彦[朝野新聞]石橋中和[曙新聞]其他讀賣新聞の記者某等なりき。当時新聞記者は一方ならず官民の恐者にして、只管(しかん ひたすら)其視聴に觸れざらんことを力め学校幹事をして岸田吟香の如き筆逹者の者に見られ悪口を書かれては、長野県の体面にも係はる云々の禁令を発せしむる迄に致りたる程なりし。さはれ是等記者の通信文が今日尚帝国図書館に蔵せらるゝものに至ては東京日々新聞[但し本県に関する記事中長野以北の分を欠く]郵便報知新聞の二種に過ぎざるなり。[上田町成澤伍一郎氏は初刊以來の東京日々新聞を蔵せらるゝ由聞き、其閲覧を求めけるに約二十年以前の分は失ひたりとて見ることを得ざりき]然らば当時に於ける長野町の新聞紙は如何と尋ぬるに「長野新聞」と名づけたる目刊新聞あり。内山紙に似て稍(やや)大なる行の間頗(すこぶ)る広いく、折々臨時間(ま)に合せの木版活字などを加へ、今日より見れば頗る異様のものを発行して居たり。社長主筆とも云ふべきは、當時長野県内唯一の大書林たりし大門町の岩下伴五郎なり。本誌を編するに当たり、切に之を求めたるも、見ることを得ず。今より凡そ十五年前には、上水内部柵学校の天井に貼り有りたる由を聞きしも遺憾(いかん)ながら遂に手に入る能はざりき。又其頃南信には「松本新聞」あり。社長は窪田重平[畔夫の弟]にて、記者に竹内泰信あり。附録[唐紙二折の小冊子なり]にして御巡幸記事を掲げたるもの、今尚存す。又御用の写真師(約五名)は宮下銀三郎の案内にて諸所の撮影に従ひ[正面より県庁公園地より如来堂、山門前人家の二階より山門、山門より如来堂等]其中より良きものを撰みて天覽に供するなりとか。又西洋洗濯師は当時長野町に其業に従ふものなかりしが爲め、真夏の熱き旅路の事なれば態々(わざわざ)東京より召し連れられたるなりき。
 
 内膳課にて用ひらるゝ御洗米(ごせんまい 精米を水できれいに洗ったもの)は凡そ一粒撰にして県より廻され、其御用の程も定まり居るに、他の御料理品に至りては、上御一人に供し奉るに止らず、時々臣下に下賜せらるゝ分をも合せて整へらるゝが故に、上納品は[内膳課へ]予想よりは数倍の多量に至り、其向の掛員は大に心を苦しめたり。殊に直江津より担ひ来れる鮮魚に至りては[一昼夜を要す]迚(とて)も夏日の御用には立つべくも有らず、されば鯉を整へ置き以て御用に備へたるに、其余り大なるものを選みたれば、鼻を衝(つ)き合ひて弱れる者少からず。又遙かに小鳥百羽程を生ける儘(まま)にて取り寄せたることも有りしとか。本県々令は態々(わざわざ)屠人を遠方[東京、松本、松代の三説あり]より招き、之に牛を屠(ほふ)らしめ、之を上納すると共に、一塊二斤(にきん 一斤は600グラム)位にて油に揚げたるものを、供奉官の宿所へも寄贈せり。      24
 其他県の栽培所にて出來たる果実及び東京より取寄せたるカステーラ[当地になし]などを上り、又其外へも送りたりと云ふ。供奉員宿泊所に於ても、膳部には大に注意を拂ひ、献立表は豫て上中下の三通を製して県に差出し、其認承を受け置きたりといふ。長野に於て御用となりし品目は種類傳はらざるが故に、之を知ること能はずと雖も、御駐輦の揚所なれば定めて遠近より名産珍奇を尽くして徴せられたるならんと推せらる。今御泊行在所たりし追分駅の御用品目を擧げて此地の品目を想像する料とすべし。
追分にて内膳課に納めし品目
   魚   類
 鯉(こい)一尺二三寸位七本  近村より買入
 鮎(あゆ)          二  十
 山 目 魚(やまめ)      二  十
 鶏(にわとり)        黄足 三  羽
 ウ ヅ ラ           三  羽
 鰻(うなぎ)       大中取交 五百目
 小 魚 類     鮒(ふな)三十 カジカ凡一升
   精 進 物
 蓮  根        上品 五  本
 ク ワ イ           ニ 十 五
 松  茸           五 百 目
 百 合 根        上  七  つ
 自 然 芋           三  本
 衣  著           二  把
 インゲン・サヽゲ
 
 聖上には越後に入らせ給ひし後、長野県の名産菓子寒紅梅二箱、信濃梅二箱を翁飴、水飴二箱と共に皇太后、皇后両陛下に御贈り遊ばされたり。是れ実に聖上御巡幸の御先々に於て、土地の名産などを御送り遊ばされ、両皇后陛下の御心を慰め給ふを例とせらるゝが爲にして、優しき御心の程も推し奉られぬ。又御駐輦(ちゅうれん)中、宮内官より夜分十二時頃急に露木戸長を呼び出され、四寸と一尺にて深さ尺程の箱二十四個を、松又は何にても清らかなる木を用ひ、四時間以内に造り上げて、納むべき旨逹せられたり。露木戸長は百方奔走(ほんそう)の末、漸く樅(もみ)にて命の如く作り上げて之を上納せり。此箱は何の御用に立ちしかは明らかならざるも、思ふに、長野の物産を両皇后陛下に送り給ひしにはあらざるか、或は又県令より県有の果園に出来たる果物を上(たてまつ)りたる由も聞えければ、或は其果物にはあらざるかとも推察し奉る。供奉官に於ても真綿(まわた)、白紬(しろつむぎ)、縞紬(しまつむぎ)などを買ひ求め、夫々東京に向ひて発送せられたり。
 
 奉迎準備をなすに就いては県にても、町にても、少からざる費用を要したるなり。然れども当時県には中央政府より太政官札を借り受け、之を人民に貸与して、生ぜし利子の過剰金もあり、其他県経済は今日の如く厳密なる制裁なく、流用など六ヶ敷(むずかし)きことなかりしが上に、万乗(ばんじょう 天子の位)の君を迎へ奉ることなれば、財政は頗(すこぶ)る豊にして、容易に支出することを得たり。長野町にありては、一部の費用は財産高に応じて配当せしも、町民が栄誉のため、特に平分を望みたる一部の費用[城山假宮の建築費ならん]は、各戸平等に賦課し、其額一戸十三銭五厘なりしと云ふ。当時は藩政、新政の過渡時代にて、公売処分の制度も無かりしが爲め、納税を怠る悪風一般に行はれ、町村の吏員は常に大いに苦しみたるが如きも、独り御巡幸の費用は市民先を爭ふて之が支出を望みたり。長野町の全部も恐らく斯くありしなるべし。
 本日行在所詰県官へ、宮内省主務課より左の通り下賜(かし)せられたるにより、県官より請書を呈(てい さしあげる)し、翌十日より夫々交附の手続をなせり。御小休(おこやすみ)所、行在所(あんざいしょ)に対する御茶料及び新築修繕の御手当は後に至り取纏(とりまと)めて之を表となし、掲載(けいさい)すべきが故に茲(ここ)には県令以下県吏員(りいん)、生徒、高齢者、善光寺工人等に下賜(かし)されたる酒饌(酒と食物)料其他を掲ぐべし。      25
 長野県奏任(そうにん)官 壹円五拾銭 一名七拾五銭
 同判任官及御用掛 五拾五円五十銭 一名五十銭
 同巡査及等外雇 九拾壹円貮拾五銭 一名貮拾五銭
 師範学学校優等生徒 拾六円五拾銭 一名壹円五拾銭
 小学校優等生徒 拾五円 一名五拾銭
 医員講習所優等生徒 五円
 同所長 貮拾五銭
 善光寺如来堂 百円
 大勧進 拾五円
 大本願 拾五円
 沿道区長 五円 一名五拾銭
 沿道戸長 八円七拾五銭 一名貮拾五銭
 勧業工場職工男女 拾貮円 一名拾五銭
 煙火戯施行者 貮拾五円
 管内百歳以上の高齢者 眞綿(まわた)参包一名壹包
 管内八十歳以上の者 千貮百四拾八円五拾銭 一名貮拾五銭
松本裁判所長始め、所属吏員への御下賜品は県庁の手を経ざるが故に、今明瞭に記し能はざるも、思ふに其官等に応じ、県官に準じて酒饌(しゅせん)料を下賜せられたるならん。又烟火(はなび)挙行(きょこう)中負傷せしもの有り。県官其旨を宮内省へ上申しけるに、御手当として拾円を賜れり。勧業工場の職工男女に下賜されたる金額も、前記工人数と対照すれば余分なるが如し。之は前記工人の外、同工場に関係し居りし者数名ありしによるならん。
 
第五日 九月十日
 空曇りて、残りの暑さいと激し。此日早朝故佐久間象山の桜の賦を御覽在らせ給へり。此賦は象山畢世(ひっせい 終生)の志を桜花の群草に冠たるに擬し、頗(すこぶ)る慷慨(こうがい 悲しみ憤慨すること)の意を寓(ぐう)したるものにして、此一篇は実に象山の志を見るに足るものなりされば先帝乙夜の覽(いつやのらん 天子の読書)にも供へ奉りしものにて、其勤王(きんのう)の志の厚かりしこと推して知らる。象山曾(かつ)て京都に遊びし頃、高崎侍補も亦都にありて親しく交りし縁故(えんこ つながり)あるを以て、象山の門人花岡以敬と云ふ者、侍補の旅宿(りょしゅく)に尋ね行き、象山自筆の最麗(うるわ)しく表装(ひょうそう)せるを齎(せい 持ってくる)して、天覽にも供へ奉りたき旨訴へければ侍補も往時(おうじ)を追懐(ついかい)して感慨の情にたへず、其道を盡(つく)して遂に天覽に供へたるなりといふ。
 午前七時長野行在所を御発輦(ごはつれん)在らせられ、鹵簿(ろぼ 天子の行列)肅々(しゅくしゅく 静かな様子)として左右の奉送者に暼(べつ ちらりと見る)を賜ひつゝ元善町を南に下り、東横町に折れて御輦を進めらる。吉田村にて粉面朱唇(ふんめんしゅしん おしろいの顔と真っ赤な唇)、一様に髻(もとどり)に繭絲(まゆいと)の珊々(さんさん 鈴の音のすんださま)たるを結び、日章旗(にっしょうき)を象(かたど)りたる簪(かんざし)を挿し、せい粧(美しくけしょうする)楚々(そそ 清らかで美しいさま)たる小婦の隊をなして送迎する者凡(およそ)百人許り有りたり。何れも二十才以下なり。是は須坂製糸場の工女なりしと云ふ。新町に到り給へば、学校の旗幾旒(いくりゅう)となく立て連ね、生徒と覚しき者の中男子は袴羽織(はかまはおり)又は洋服の揃ひにて、女生徒は紫の袴など穿(は)き、道の左右に並列し、御輦に向ひて拝礼せり。其より道も漸(ようや)く平坦ならず、八時過ぐる頃田子村に御著輦(ちゃくれん)在(あ)らせ給ふ。
 
 田子村の御小休所(おこやすみじょ)は池田元吉方にて、邸内一間余り高き所に新築されたるものなり。玄関より上れば中央に十畳、八畳の二間縦に相連り、其左右は各一間宛の入側にて、其外に三尺の廊下を設けたり。八畳は玉座にて一段高く、上下の床備はり、其の中央には更に一坪程の高座を設け、上床には應擧(円山応挙)の琴碁書(きんごしょ 琴と碁と書と画は士大夫のたしなみ)を掲げ、御神酒(おみき)二個、御供餅(お供え餅)一重を飾り、下床には冬涯(川上冬涯)の花草を掲げ、七草(ななくさ)を打込める瓶、亀の置物をなし、又供奉員の詰所には貼札をなせり。聖上明治天皇)には八時二十五分御著輦、広き斜道を通じて玄関に著御、暫(しば)し後方の山を眺め給ひし後、御輦を下らせ玉座に入り給ふ。夫婦梨など奉りたるも御用になりしや否や明らかならず。暫(しば)しありて池田元吉を行在所に召さる。掛官と共に本宅を出でゝ玄関前に到り、恐る々々玉座の前十畳の間に上れば、大官威儀(いぎ)を正し左右に控へて、等しく眼を注がる。軈(やが)て宮内官は予(かね)て当家より差し上げ置きたる黒塗三葵紋(あおいもん)の盆を眼上高く捧げて出で来り主人の前に止る。よりて聊(いささ)か右に進み謹んで御受け仕り行在所を下る。之即ち別項に掲ぐる所の御下賜(かし)品なりとす。こゝをも立たせ給ひて八時三十五分には鍛治ケ窪御野立(のだて 貴人が野中で休憩する))所に着御(ちゃくぎょ 天皇が座席におつきになる))あらせらる。此御野立所は、石村と平出村との地境、髻山の中腹、字鍛治ケ窪の一小丘に設けられたるものにて、眺望(ちょうぼう)の佳絶(かぜつ すぐれて立派)なること国道筋に於て容易に他に求むべがらざる勝区(しょうく 景色のすぐれた名所)なり。此御野立所は若林桂造外八名が醵金(きょきん お金を集める)して建築したるものなり。若林桂造は倉井村[今三水村の中]の富豪にして酒造集を營み、己は北第二十六大区の区長となり、当時頗(すこぶ)る勢力有りたるものなり。御巡幸(ごじゅんこう)に就いては熟誠(じゅくせい)を注いで日夜奔走(ほんそう)し、其管下奉迎準備の行き届きたるは当人の力与(あずか)りて大なるによる。鍛治ヶ窪に御假宮を作らんとするや、槐を用ひんと欲すれども枯れたる木材なし。依て生木を切り、酒造用の大釜に入れて之を煮沸(しゃふつ)し、釜の底を抜きたるなどの奇談あり。斯かる勢を以て立てしものなれば、四坪許りの建物なりしも、善美(ぜんび)を盡し供奉員を驚かしたりと云ふ。
 此処を御発輦(はつれん)あらせ給ひ、其れより坂を北に下り、平田と云ふ山里を過ぎさせ給ふ折      26
 此処ハハヤ余程ノ偏僻(へんぺき 片田舎) ナレバ拝観ニ出デ来リタル者モ多クハ賤(いやし)ノ山勝ニテ、垢(あか)ジミタル衣服ナド著タル者沢山ナレド、ヨキ衣服ヲ著タル者モアリ。殊更娘ナドハ上田織又ハ御召縮緬(ちりめん ちぢみ織)ナド著タルモアリ。髮ノ風ナドモ東京ヲ学ビタルガ自ラ似ツカハシク近頃西京大阪ノ女子等ガ矢駄羅(やたら)ニ東京ノ真似(まね)ヲスルヨリハ遙(はる)カニ増リシナリ(寺木彌太郎編御巡幸日誌)(本録、岸田吟香記御巡幸の記参照)
 牟礼(むれ)に到る板道を下れば前面には妙高、黒姫、飯繩等の高山並び聳(そび)えて、乗輿(のりこし 天子の敬称)を迎へ奉るが如く自ら高壮(こうそう 高くりっぱ)の念を起さしめたり。
 
 午前十一時、聖上には御板輿(いたごし)にて牟礼(むれ)に著御(ちゃくぎょ)、此駅は道路に敷砂(しきずな)をなし三間置位に砂を盛り、国旗を立てゝ迎へ奉る。町の両側には小川ありて清水の流れ速なり、行在所は旧本陣高野九左衛門の建物に続き、後庭には此地方有志者の醵金(きょきん)して参百八拾余円を得、之を以て新築したるものなり。柿葺(かきぶき)にて八畳二間有り、奥の八畳を以て玉座とし、他の一室[及び本宅の諸室]を供奉員の詰所とす。前庭は殊に意を用ひて造り、各所よりマンリョウ、ヒバ、マキの類を集めて植込をなし、小玉山より白土を運び篩(ふるい)にて漉(こ)せるを敷きたれば、清雅頗る愛すべきものあり。聖上には御感あらせられしと伝へられたれば、前夜迄灯を入れて工事に従ひたる駅民は此上もなく喜びしと云ふ。
 
 徳大寺宮内卿(くないきょう)、杉大輔(たいふ 省の次官)は、行在所(あんざいしょ)前なる柳澤六左衛門方に入らる。此夜大輔は同家の需(もとめ)に応じて直ちに揮毫(きごう 字を書くこと)されたるも、宮内卿は揮毫の時なかりしかば、其長子源吉関川に至り其書を得て帰れり。岩倉右大臣の宿所は小川昌夫方なり。小川は右大臣に書を請ひければ帰郷の上送るべしとて約せられ、帰郷後送り越されたり。又右大臣には牟礼駅の日章学校黒川村の広育学校の爲にも帰郷後校名を書して送られ、以上共に今に残り当時の紀念品となり居れりと云ふ。牟礼にて御昼食あり。御板輿(いたごし)にて長き坂路を上らせ給へば、清水窪と名づくる所あり。其辺は平地にて御小休に適したる地なり。此処には地方有志の醵金(きょきん)を以て、一段高き処に御野立(のだて)所を造れり。此御假宮は唐松の御野立所に似て、丸柱を建て、屋根を葺き、床を張りたるのみの閑雅(かんが)なる一間建てなりしと云ふ。御假宮より少しく低き処に供奉員の休憩所を設けたり、是は堀立にて間口六間奥行二間なりしと云ふ。午後一時十分御著輿(ちゃくごし)、暫(しば)じ憩(いこ)ひ給ひて、御馬車に召し替へられ、二時三十分柏原駅に著御在らせ給へり。
 
 御小休(おこやすみ)所は旧脇本陣中村喜左衛門邸内の土藏を取払ひて、牟礼同様有志中村六左衛門、中村徳右衛門、其他地方の約二百名の醵金(きょきん)にて修築したるものなり。玄関を上り、本宅邸内を通じ、泉水の上に架せる廊下を通れば御小休所なり。御小休所は八間に三間の建物にて二室に別れて三方に幅三尺の廊下を著け、奥の十畳を以て玉座とし、他の一室及び本宅の諸室を供奉員の詰所となせりと云ふ。玉座の傍に新築したる御厠は、中一面に板を張り詰め置きたり。之は其板上に御持越品にて、総ての設備をなすが爲なり。御巡幸中土地にて新築したる御厠(かわや)を用ひらるゝ場合と、全く別に御持越品(おもちこしひん)にて造らるゝ場合とあり。土地のを用ひらるゝ時は柏原に於けるが如くせらるゝならん。御持越品の時は、二枚折屏風(びょうぶ)の如くなる板を以て、六尺四方位を囲み、其中に一切の便具を供へらるゝものゝ如し。
 田子より牟礼の間も大抵山道なり。又牟礼より清水窪に至る迄は急なる上り坂なれば、此間には時に道路の大修繕を施し、新道(しんどう)を開きたる所も少なからず。碓氷を除けば、今日の御通路は最も御難渋(なんじゅう)なる場所にて、田子より清水窪迄二里半余を通じて、御板輿(いたこし)に召されたり。御板輿は白木作りにて金紋(きんもん)を打ち、身長象に勝れたる昔の儘(まま)の服装せる輿丁(よちょう 輿を担ぐひと)四人宛交代して担(にな)ひ奉りしなりと云ふ。      27
 
 御馬車にて柏原御発輦(ごはつれん)、野尻駅を出づれば妙高、黒姫、戸隱、靈仙寺の峻峰(しゅんぽう そびえたつ峰)奇山(きざん)近く左方に迫る。
 野尻駅ノ入ロナル海見坂ニ至レバ、野尻ノ風光ヲ望ミ得ベシ。湖水アリ、芙蓉湖(ふようこ)卜云フ。駅ノ東南方ニ在リ、斑尾山(まだらおやま)其東ニ峙(そばだ)チ、西北ニ黒姫(くろひめ)妙高(みょうこう)屏立(へいりつ)ス。湖水ハ周囲三里三十町、南北三十九町、最深ノ処九十丈余ニテ琵琶(びわ)卜名ヅクル孤島アリ(郵便報知新聞)
木の間より神の社も見ゆ、やゝ過ぎて聊(いささか)か登る道を跡見坂といふ。
 水うみの浪ふく風も送り来て
      跡見の坂は凉しかりける
               芳  樹
 三時四十分野尻御小休(おこやすみ)所に御著輦(ごちゃくれん)、此御小休所は、旧脇本陣(わきほんじん)石田津右衛門の家宅を用ひ、石田津右衛門、宮川茂作、其他十五名の醵金(きょきん)に県の下附金を加へて大修繕を施したるものなり。玉座(ぎょくざ)は旧御殿と称したる所にて、八畳なり。其南に十畳あり、供奉高官の詰所とす。玉座初め、御次間より芙蓉湖(ふようこ)を眺め得べきが爲に、東方に在りし倉庫を取り払ひたりと云ふ。当御小休所の担当員は石田傳右衛門なり。親しく其語るを聞きたるに此日偶々(たまたま)内廷課員の一人病気に罹(かか)られ、手不足となりたれば、幸にも玉座初め御飾付の補助を命ぜられたり。御持越の長持(ながもち)より一尺五寸に二尺五寸位なる鐵力木(たがやさん)製の小机三脚を出だされたり。脚には十文字に黄金(こがね)の丸棒を渡し有りたり。此三脚は聖上の御前及び左右に供へらるゝなり。此御机は倭錦(やまとにしき)の上に金線にて桐の模様を縫ひ付けたるを掛け、御椅子には六尺四方位にて極彩色(ごくさいしき)とも云ふべき美しき花模様を織り出したるものを掛けたり。又御机、御椅子の下には、方六尺許にて五六分の厚さある絨毯(じゅうたん)とも申すべきものか、誠に見事なるものを敷かれたり。御煙草盆(たばこぼん)は黒塗にて、横に長く中には銀製の火入、灰吹(はいふき 吸殻入れ)を安置せり。其他四隅を廻して八角形となし、二箇の板脚を著けたる白木造りの三宝様のもの三箇を供へたり。之は御菓子(おかし)、御茶にても上るに用ふる品ならんか、総じて名も知らず、画にも見る可らざる品々にて、御稜威(りょうい 天子の威光)の程も身に泌みて感ぜられ、敬虔(けいけん)の念自づと湧き、恐惧(きょうく)感激(かんげき)措(お)くこと能はざりき。今尚明らかに記憶し居れど形容して伝ふべき道なきに困ずるのみ。御次間の机にも見事なる机掛を用ひられたり。又御次間より供奉官の詰所全部には赤色無筋の毛布を敷かれたり。御著輦(ごちゃくれん)前に当りて、銀製の煙筒(えんとう)中に多量の香を焼き、之を携(たずさ)へて玉座より供奉員詰所、玄関、御厠に至る迄を充分に燻(いぶ)らせり。其香煙(こうえん)次第に昇りて天井に収れる頃、聖上には御著輦(ごちゃくれん)在らせられたり。之は予(かね)て時間を計り、斯くせられたるなり。御小休の中県令に伴はれて御次間に至れば、忽ち聖上の玉座に安座在すを拝す。先に御装飾にて魂を失ひたる者爭でか立ち居るに耐ゆべき。忽(たちま)ち其処に座せんとすれば、県令は強ひて立たしめ給ふ。間もなく宮内官には御下賜品を忝(かたじけな)ふ奉持して近づく、漸(ようや)く手を延べて拝受するを得たり。
 
 斯くて御著輦に先立ち、何れの御小休(おこやすみ)所、行在所(あんざいしょ)に於ても香を焼き、玉座其他を清め置きたるを知り得べし。又各所の行在所、御小休所にても、赤色のものを敷かれたる由聞き及びたる上に、今又以上の談話を聞き、更に小諸にて、小林直之助氏か供奉員の御室には赤色の羅紗(らしゃ)を敷きたる由判然語りたる所を思ひ合すれば、供奉員の詰所には大抵赤色なる毛布様のものを用ひられ、絨毯(じゅうたん)は普通には用ひらるゝことなかりしならん。
 三時四十分野尻御小休所に御著輦、風景を賞し給ひつゝ、御小休の上再び御板輿(いたごし)に召して御出発在らせらる。野尻村の中、字赤川は長野県新潟県の境界なるを以て、長野県令及び少書記官は奉送し、新潟県令は此処に奉迎し奉る。御先導の警部も茲にて交代したるならん。而して長野県令及少書記官は尚関川に到り天機(てんき 天子の機嫌)を伺ひ翌十一日を以て帰県せり。      28
 
 かくて同日午后四時四十八分には関川に御著輿(ごちゃくごし)在らせらる。長野県士族中村素友、同土屋金生等相計り、芙蓉湖(ふようこ)西南より水内郡の各村落に用水を導く設計を立てたり。当時工事に着手中なるを以て、長野県令より先に岩倉右大臣へ上申せしを以て、本日関川行在所へ前記二名を初め、其他惣代の者を招き、県令陪座の上品川内務大書記官より其着手の順序其利害得失(りがいとくしつ)等質問あり。然る後右大臣より金二十五円を添へて賞詞(しょうし ほめことば)を賜はる。斯かる有り難き奨励を受けたるにも係らず、灌漑(かんがい)に使用し居る越後方面より故障出でたれば、遂に成功せざりしは遺憾(いかん)の極(きわ)みなりとす。
 
 顧(かえりみ)れば聖上が我長野県下峠町に着御(ちゃくぎょ)在らせられしは九月六日午後一時五十分にして、赤川を通御ありしは同月十日午後四時過ぐる頃なりとす。此五日に亘れる県下御巡幸(ごじゅんこう)の叡慮(えいりょ 天子の心・考え)に対し奉りては、県民一同の感喜(かんき 非常なよろこび)措(お)く能はざる所、幸にして此間率(おおむ)ね天晴れ、県民をして天顔に咫尺(しせき 天子にお目にかかること)するを得せしむ。歓喜(かんき)恒情(ママ 恒常)に万倍したるもの又故なからずや。然れ共時は炎暑(えんしょ)の候にして嶮道(けんどう けわしいみち)斜路(しゃろ)に富み、海浜(かいひん)遠く隔たれば之とて海産(かいさん)の上(たてまつ)るべきものなく、狩猟(しゅりょう)の期ならねば山の獲物(えもの)の上るべきなく、是県民の挙げて恐懼(きょうく 非常におそれかしこまること)に堪(た)へざる所、遙(はる)かに御輿(おこし)の関川に入らせ給ふを奉送し、陛下の万歳を祝し奉らんのみ。
 天祐(てんゆう 天のたすけ)に満ちたる我聖上陛下よ
 賢体健(すこや)かに在らせ玉へ万民の喜悦(きえつ よろこび)を以て囲み奉(たてまつ)れる
 我聖上陛下よ
 賢徳饒(ゆた)かにして賢寿彊(きょう 強い弓 むりじいする)りなくあらせ玉へ、万民の天地神明に祈願する至誠なる心は是而已。
 
  (一)行在所(あんざいしょ御小休(おこやすみ)所へ御下賜品
 御茶料は各所を通じて御発輦以前に下賜さるゝ例なりしも、新築修繕の手当は然らず。九月六日追分行在所に御宿泊の夜十時頃、宮内省庶務課より県官に出頭すべき旨を達せられたるにより、五等属小林一省出頭しけるに、当日の御小休所及び軽井沢追分両行在所の新築又は修繕に対し、御手当として御下賜品あり。依りて掛り県官は両駅[峠町は軽井沢地内にあるを以て軽井沢ヘ下附]の村吏及び土屋一三を呼び出し、県官詰所に於て之を下附したり。其後長野御駐輦(ごちゅうれん)の九日、行在所詰県官に向ひて庶務課より馬瀬口村長野町間に於ける御小休所行在所に対する御手当を下賜せられたれば、県官は其翌日より交附の手続を爲せり。而して唐松小諸上田、原村、其他田子以北総ての御小休所、行在所には御茶料と同時に御手当を直接当事者に下賜せられたり。
管下各所の御下賜品目録を左に掲載す。
 峠町御小休所           御茶料 拾五円 新築御手当 弐 拾 円
 軽井沢行在所    佐 藤 織 衛  御茶料弐拾五円 新築御手当(銀盃一組紅白絹各一疋)
 追 分 行在所    土 屋 一 三  御茶料 五拾円 修繕御手当 (木盃一組紅白絹各一疋)
 馬瀬口村御小休所  高山重三郎  御茶料 拾五円 修繕御手当 拾   円
 唐松御野立所唐松御野立所                   御 手 当 拾   円
 小諸町行在所           御茶料貮拾五円 新築御手当 貮 百 円
 牧家御小休所    蓬田幸三郎  御茶料 拾五円 修繕御手当 (木杯一個白羽二重一疋)
 田中駅御小休所  小田中重右衛門 御茶料 拾五円 修繕御手当 (木杯一組白羽二重一疋)
 岩下村行在所    尾 崎 惣 作  御茶料 拾五円 新築御手当 (木杯一組紅白羽二重各一疋)
 上田町行在所                   御 手 当 百   円
 鼠 御 小休所    瀧 澤  漸  御茶料 拾五円 修繕御手当 (木杯一個白羽二重一疋)
 坂木駅御小休所   宮 原 生 吉  御茶料 拾五円 修繕御手当 (木杯一御白羽二重一疋)
 下戸倉駅行在所   柳澤嘉一郎  御茶料貮拾五円 新築御手当[銀盃一組紅白縮緬三疋](紅二、白一)
  (同駅行在所にて磐笛を天聴に供したるため小縣郡塩尻村原昌言へ御手当五円)
 屋代駅御小休所   柿崎源左衛門 御茶料 拾五円 修繕御手当 (木杯一御紅白羽二重各一疋)
 原村御小休所    伊藤盛太郎  御茶料 拾五円 修繕御手当 拾   円
 丹波島御小休所          御茶料 拾五円 新築御手当 百 参 拾円
 長 野 行在所                    御 手 当 百  円
 城山御野立所           御茶料 拾五円 新築御手当 五 拾 円
 田子村御小休所   池 田 元 吉  御茶料 拾五円 新築御手当[銀盃一組紅白縮緬三疋](紅二、白一)
 鍛治ヶ窪御野立所         御茶料 拾五円 新築御手当 五 拾 円
 牟礼駅行在所           御茶料貮拾五円 新築御手当 百   円
 清水窪御野立所                  御 手 当 拾   円
 柏原駅御小休所          御茶料 拾五円 新築御手当 百   円
 野尻駅御小休所          御茶料 拾五円 修繕御手当 六 拾 円
以上の外御小休所行在所の門前に建てられたる建札は総て各自に下賜せられたり。其他追分駅御立退場泉洞寺へ金壱円五拾銭、又同所にて御饌水を上れる土屋又四郎へ金壹円を下賜せられたり。追分以外の御立退場は上田にては松本裁判所上田支庁、長野にては師範学校なるが故に、御手当の下賜は無かりしとするも、御小休所行在所以外の人民にして、其用水を御饌水(ごせんすい)に上りしものには追分同様の御手当ありしものならん。
 
 前記表中単に御小休(おこやすみ)所、行在所(あんざいしょ)、御野立(のだて)所として姓名無きものに対する御下賜品は、協力人民一体に向ひて下賜されたるものと知るべし。
 御巡幸につき下賜されたる木杯(註)は総て内面に菊の御紋章(ごもんしょう)あり。此御紋章は七箇にて内三箇は大に四個は小なり。七箇の菊花御紋章(きっかごもんしょう)の間に唐草を附けたると、然らざるとの二種に分るゝも、大さは大中小共に同一にて一個を賜はりたるときは大にて、唐草なきものなり。本県にて下賜されたる銀盃は軽井沢下戸倉、田子の三ヶ所にて、共に三つ組のもの一組なり。孰(いず)れも御紋章(ごもんしょう)の間に唐草(からくさ 唐草模様)あるものなるが如し。
 総て内務省より下賜されたる金品は大高[面に細かき皺文(しわもん)ある厚き紙]にて此を包み、半は黒く半は白き水引(みずひき)[大抵五筋]を以て其上を結べり。
 (註)昭和七年八月ヨリ北信聖蹟巡拝ノ砌(みぎり)、本録編纂(へんさん)者ノ拝シタル木杯ハソノ御模様本調査卜異レリ。詳細ハ本録「聖蹟巡礼の記、北信の巻」ヲ參照アリタシ。
 
(二)行在所(あんざいしょ御小休(おこやすみ)所 御野立(のだて)所の現状
○峠町、熊野神社境内に協同新築の御小休所は、其後社殿の都合にて取除き、跡地は目下柵を囲(めぐ)らし、紀念松を植え、追て碑文を建設する計画を爲し居るとか。
軽井沢、佐藤織衛邸内に新築の行在所は今は全く取除かれて、其辺には軽井沢ホテルを建て、洋人の旅宿と一変せり。其庭は行在所の在りしところなりとか、織衛[六十八歳]は今に健在す。
追分、土屋省三邸内の行在所は、今に存するも荒廃に属し、物置同様の姿となりて昔時の俤(おもかげ)なし。省三[六十五歳]は数日前死亡せり。
○馬瀬口、高山重三郎邸内の御小休所は、旧態のまゝ存在するのみならず、表門の側には門口九尺、奥行六尺程の頗(すこぶ)る堅固(けんご)なる遙拝所(ようはいじょ)を建て、内に重野安繹撰文、日下部東作書の石碑及び一小石碑一小石祠あり、毎年御小休ありし日には遙拝所に国旗を交叉し、灯籠(とうろう)を掲げ、赤飯を配り、小宴を開きなどして祝意を表すと云ふ。重三郎[六十一歳]は健在し、其二子共名を知られ家門繁栄す。
唐松に協同新設御野立所附近は一面の芝生となり、三本の松樹其中に散在し、玉座の在りたる所に木製の一小祠を建て標柱に「今上天皇宮」と書せり。然れども彼の欝蒼(うっそう)たりし数千の老松は悉(ことご)く切り払はれ、其跡は一面の畑となれり。
小諸上田宇源治邸内に協同新築の行在所は、御臨幸(ごりんこう)後は町役場に充つる由聞えたるも役揚としては適せざるが故に、隣村の者に売り渡し、其辺桑園に変じたり。又宇源治一家は刈る沢に引移り、旅店を営み居り其本宅は医師田村源一郎の所有となり、患者の出入盛なり。
○牧家、蓬田幸三郎方なる御小休所は、従前のまゝに存すれども、修繕も行き届かず、昔の御小休所とは思はれず、御下賜品は木杯、白羽二重、共に拝受直ちに村内の某に贈りたる由なれば、残るは御小休所の建札のみ、幸三郎は既に死し、其未亡人農事に勤む。
田中、小田中重右衛門方なる御小休所は表門の外全部を取払ひ、其辺数軒の住宅に分れたり。御巡幸の当時、重右衛門は其実別宅に隱居し、其長子吉次家を営み居たり。而して重右衛門は既に世にあらず、吉次[五十五歳]専ら家道の回復に勤む。
○岩下村、尾崎惣作邸内に新築の御小休所は其儘(まま)に存在す。玉座には歴代天皇御像の軸を掲げ、御小休所の札を立て、御酒を供へ、入口には注連繩(しめなわ)を張り、掃除の外濫(みだ)りに入るを許さず、恰も神殿の如くせり。惣作[七十四歳]尚健在し一家三夫婦あり、曾て大屋新橋の渡り初めを爲したりと云ふ。岩下村は今神川村の一部なり。神川学校は御巡幸の当日を紀念日と爲し、祝意を表し居れり。
上田町学校なる行在所は其後焼失(しょうしつ)し、現在の校舎は前位置に略旧を模して再建したるものなり。学校にては紀念日に式を行ひ、祝意を表すと云ふ。
〇鼠、瀧澤漸方なる御小休所は其儘保存し、漸[六十一歳]は矍鑠(かくしゃく 年をとっても丈夫で元気)として公事に勤め家道亦振ふ。玉座の床には御小休所の札を立て神酒を供へ居れり。
坂木(坂城)、宮原生吉方なる御小休所は、表門と共に今取除かれて耕地となり、本宅のみを残せり。生吉[七十歳]は稍(やや)健康を失ひたるも尚生存す。
下戸倉柳澤嘉一郎邸内に新築の行在所は本宅と共に全部取払はられ、行在所は真島村の寺院の一部となりしとか。今日其遺跡を弔(とむら)へば、桑園は繁りて昔を知らざるか如くなるも、当時存在せる老松は尚蔚々(うつうつ 心がふさぎ晴れ晴れとしない)として訴ふるあるが如し。家族離散(りさん)其末路を知るに由なく御下賜品の如き、亦他人の有に属せりと聞く。
〇屋代、柿崎源左衛門方なる御小休所は、少しは変形されたるも、今に存在し、源左衛門[五十八歳]亦健在す。
〇原村、伊藤盛太郎方なる御小休所は、略其原形を存す、今や盛太郎は世を去り、娘孫の二女其家を守る。
丹波島、柳島ひで邸内に協同新築の御小休所は、取除かれて池畔(ちはん)凄蒼(せいそう ものさびしい)たり。本宅は荒れたるも尚存し、ひで[七十二歳]亦健在す。
〇長野行在所大勧進は、明治三十五年更に皇太子殿下の行在所となれり。玉座たりし所謂御殿は旧態のまゝに保管せられ、其他殿堂の新築又は改築行はれて愈々(いよいよ)荘厳(そうごん)を加へたり。
県庁は其後事務の拡張と共に、多くの建物を加へ、便殿(びんでん)は上局となり、正庁は中央の廊下を除き事務所となれり。楢崎県令、松野少書記官は共に故人となり、当時の属官一名も今に勤続するものなく、只獨(ただひと)り小使長山崎茂助の明治三年以来勤続せるあるのみ。
勧業場は取除かれ、其後には警察署、市役所等設けられ。
製糸場は其一部たる工場を残し、其南面に門を開けり。
〇師範学校は今附屬小学校となりて表面の二棟を存し、前庭の樹木は大抵本校に移植されたるも、門前の桐畑[当時既に此名あり。特に此地を設けて他に譲(ゆず)らざりしは前門に家屋を建てらるゝを恐るゝによりしなりと伝ふ]の桐は尚其老体を保つ、迎送当時の模様を知るや否や。
〇裁判所支庁は今税務監督局となりて存在す。
〇城山に協同新設の御野立所は焼失したるも西には縣社を移され、前面には城山館、紀念公園等を造られ、其辺一体長野公園地となりて四時遊賞の地となれり。
〇田子、池田元吉邸内に新築の御小休所は、総て旧の儘に保存せられ、玉座の前面には御簾(みす)を垂れ、供物を供へ、草花を捧げ、神殿同様の取扱を爲せり。元吉[七十一歳]は生ける神の王が在せし所なれば、其神聖は神社の比にあらずとて、老後の一身を神殿の勤に捧げ居れり。聞く、御巡幸の当時当家には三夫婦揃ひ居たり。其後父母を失ひたるも、今や孫の新夫婦を加へ、再び三夫婦揃となれりと。家門の繁盛祝すべきなり。
○鍛治ヶ窪に協同新設の御野立所は、其後田子の千村某買取り裏の高地に建て置きたりと云ふ。其遺跡(いせき)に紀念の爲に植えたる松、今は生長して五間許りの高さに及び、又数年前有志相図りて碑を建てたり。
〇牟礼、高野九左衛門邸内に協同新築の行在所は、御臨幸の当年中に取り除かれ、庭園の樹木も亦分ちて他人の有となり、其遺跡全く畑と変化せり。本宅は三間程民家となりて残れるの外悉(ことご)く取払はれ、其跡には新たに一の家屋を建てたり。九左衛門は既に世を去れり。
〇清水窪に協同新設の御野立場には、土の高壇と二本の紀念松をも残せるのみ。
○柏原、中村喜左衛門邸内に協同新設の御小休所は取除かれて其跡に倉を建てたり、本宅は尚其儘(まま)存在して旅舎を営み、喜左衛門[六十五歳]は今健在す。
○野尻、石田津右衛門邸内に協同新築の御小休所は、其後焼失し、其跡に前住者の家屋を構へたれども、昔とは全く異り、津右衛門は故人となれり。
 新築行在所御小休所御野立所 十四箇所
  現存 二箇所  取除焼失 十二個所
 修繕行在所御小休所     十箇所
  現存 七箇所  取除消失 三箇所
 新築したるもの十四箇所の中今に現存するは、神川村尾崎惣作、若槻村池田元吉方に新築したる御小休所あるのみ。而も共に極めて神聖に此を保管せり。現存せざるもの十二箇所の中、上田城山のニケ所は焼失し、十ケ所は取除かれたるなり。其中八ケ所は協同新築にて、二ヶ所即ち軽井沢及び戸倉は一私人の新築なり。
 修繕したるもの十箇の中、現存するは追分、小沼[馬瀬口]滋野[牧家]南條(鼠)屋代、中津[原村]長野の行在所、御小休所なり。現存せざるもの三箇の中、県 [田中]坂城の二ヶ所は取除かれ、野尻は焼失せり。
―以下省略―
 
 
(注一)明治天皇は生涯に九十七回の巡行を行っていますが、明治五年(1872)から明治十八年年(1885)にかけて六回の大規模な巡行(六大巡行)を行っています。「巡行」とは天皇が従者とともに数か所を続けて訪問することをいい、一か所のみの場合を「行幸」といいます。
この「龍駕の跡」は、六大巡行の一つ、明治十一年(1878)に行われた北陸・東海道巡行の主に長野県における記録です。。初期の巡行は西郷隆盛や大久保利通が積極的に推進しましたが、明治十年の西南戦争で西郷が没し、また大久保も石川県士族に暗殺されてしまいました。そういう中行われた北陸・東海道巡行は、総て陸路で、埼玉・群馬・長野・新潟・富山・石川・福井・滋賀・岐阜・愛知・静岡を巡り、神奈川から汽車で東京に戻ったのは出発から七十二日目でした。この巡行で明治天皇は始めて信州の土を踏みました。時に明治天皇二十六歳。洋装を身にまとい馬車を駆り、御簾の奥から大衆の面前に、突如として姿を現すという、当時としては極めて斬新な政治ショウでした。(『善光寺街道の近代を歩く』他より) 
 
(注二)勅奏任官 勅任官(ちょくにんかん)は明治憲法下の官吏区分で、高等官の一種であった。勅任官は奏任官の上位に位置し、広義には親任官と高等官一等と二等を総じて勅任官と呼んだが、狭義には高等官一等と二等のみをいい、三等から九等の高等官を奏任官(そうにんかん)といった。親任官と勅任官に対しては、敬称に閣下を用いた。
 
(注三)長野県令楢崎寛直(ならさき ひろなお) 天保十二年(1841)―明治二十八年(1895)。幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・検察官・裁判官。長野県令。明治四年(1872)筑摩県権参事。同年十二月長野県権参事に転任。明治十一年((1878)七月二十五日、長野県令に昇進。明治十年、長野県の管轄地域の広大さと、県庁所在地の長野の偏在を理由として、県庁上田への移庁伺を内務省に提出した。その後、二度目の移庁伺に対しても認可されることはなかった。明治十四年(1881)、知事を依願免本官となり退官。後、検事に任官し、始審裁判所判事に転じ東京始審裁判所詰となった。
 
(注四)板輿(いたごし)屋形及び左右両側を白木板で張り、前又は前後に簾をかけた軽便な輿。上皇・公卿・僧侶の遠行用。
 
(注五)岩倉右大臣大隈参議井上参議 明治十一年当時の太政官制は、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視参議大隈重信・大木喬任・伊藤博文・寺島宗則・山県有朋・西郷従道・川村純義・井上馨であった。
 
(注六)断髪 散髪脱刀令―断髪・脱刀を自由とした明治四年(1871)の太政官布告。丁髷(ちょんまげ)を落とす断髪の風習は幕末期に留学生や様式調練を受けた諸般兵の間に広まり始め、一般にも次第に広がったが、この布告の後急速に普及し、文明開化の象徴とみられた。
 
(注七)徳大寺宮内卿 徳大寺実則(とくだいじさねつね)幕末~明治期の公家。西園寺公望の兄。維新後、参与・議定・大納言等を経て侍従長となる。明治天皇の側近としてその死去まで補佐した。北陸・東海道巡行の際も側近として明治天皇の鳳輦に陪乗した。
 
(注八)上田行在所・上田街学校 明治十一年の明治天皇巡行のためにつくられた上田街学校は天皇の行在所に当てられた後、町民の学校として上田街学校、高等小学校等にに使われていた。明治三十一年(1898)、失火により全焼。校長久米由太郎は引責自決した。
 
(注九)横吹新道 慶長十六年(1611)頃、改修により開かれた北国街道は、江戸時代宿駅制度に大きな役割を果たした。しかし、「横吹八丁」といわれた横吹山の山腹を通る山街道は、北国往還の非常な難所で、加賀の殿様も徒歩で通ったといわれ、この難所を過ぎれば無事通過したと国元へ飛脚がたったと伝えられる。明治九年(1876)坂城村民は横吹山麓の千曲川縁に新道をの建設する「新道築造願書」を長野県権令に提出した。願書よると、横吹山道は険しい山道で、下は千曲川の急流が突き当たっており、暴風雨、雪道の際は馬も通すことが難しく、普段でさえ人力車等の乗客は下車して歩く状況。千曲川縁に新道を建設すれば、危険もなくなり、旅人、牛馬の通行が容易になるうえ、距離も短縮される「万世不朽の新道である」といっている。同年九月から村請負で工事に取り掛かり、途中、台風や洪水等の困難を乗り越え明治十年(1877)一月に工事は完成した。翌年の明治天皇巡幸の際も改修が加えられた。総工事費は全て借入金のため、元利金返済までの開通後六年間は通行人や車馬から道銭(通行料)を徴収した。このため横吹新道は、近代有料道路の第一号であったといわれている。(『坂城町誌』他より)
 
(注十)屋代の渡し・丹波島の渡し 徳川幕府は主要な河川には防衛上の意味から橋をかけさせなかったので、江戸時代千曲川には橋がなく船渡しによらなければならなかった。矢代(屋代)舟渡は、矢代宿新町を下った千曲川岸にあり、対岸の塩崎村唐猫神社側との間に設けられていた。(江戸前期は下流雨宮に「犬ケ瀬船渡」があった。)矢代船渡しには船数艘と水主八人~十八人(内船頭一人)がいて船渡を行っていた。
ただ、明治十一年の明治天皇巡行のこの記録には「屋代駅より十七八町にして、千曲川に架せる船橋有り。御板輿(いたこし)に召し替へて渡らせ給ひ」とあり、この時既に舟橋があったものと思われる。(『更埴市誌』他より)
丹波島橋は、明治六年、丹波島船橋会社ができ、四つの瀬に船四十六艘を並べ、その上に板を渡して橋にした。従って、明治十一年の明治天皇巡行の際もこの舟橋を渡った。なお、丹波島橋は明治二十三年に全長三百九十二メートル、幅五・四メートルの木橋となり、当初通行料をとったが県営に移され、昭和七年に鉄橋になった。
 
(注十一)長野師範学校 明治五年(1872)文部省は旧昌平黌に師範学校、後の東京高等師範学校を開設した。当時信州は筑摩県と長野県に分かれていたが、教育を尊重し両県とも教員養成機関を別々に計画した。筑摩県においては明治六年(1873)五月筑摩県師範講習所を松本開智学校内に開設した。長野県は八月長野県師範講習所を東之門町宝林寺念仏堂に開設した。両講習所は明治七年筑摩県師範学校を深志町に、同八年長野県師範学校が旭町に新築された。明治十一年(1878)明治天皇北陸東海巡行の際、九月九日に長野師範学校本校(旧県立図書館、現在長野市立長野図書館の場所)に生徒の授業を天覧された。明治十五年(1882)七月、能勢栄が専任初代校長として赴任し、師範学校の基礎を作った。明治十六年、松本支校を廃して本校を松本に置く。明治十九年(1886)師範学校を長野に移転し新校舎起工。同年浅岡一が校長に就任。明治二十年付属小学校開校、翌二十一年女子部を設置。同三十八年(1905)女子部が独立して松本師範学校となった。昭和十二年(1937)明治天皇行幸六十周年に当たり本校東南に記念碑が設置された。戦時中の昭和十九年、二十年頃は学生は工場へ勤労動員されたり、三菱飛行機、凸版印刷等の会社が疎開工場として移転してきた。戦後は教官排斥運動等もあった。昭和二十四年(1949)五月新大学令により、信州大学が設置され、長野師範は教育学部となった。(『長野師範人物誌』より)
 
(注十二)永山盛輝(ながやま もりてる) 薩摩藩士。勘定奉行、江戸留守居役を務め藩政改革に尽力した。戊辰戦争では東征軍の薩摩藩兵監軍として従軍し各地に転戦した。明治三年(1870)伊那県出仕に転じ、租税大佑と同県少参事心得を兼任。同県少参事、同大参事を歴任。明治四年(1871)伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、明治六年(1873)三月、筑摩県権令に昇進。筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した。明治八年(1875)十月、新潟県令に転任。戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力した。