糧米確保

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こうした冷害による凶作の不安から、藩のとった対策は、米穀の確保・移入移出流通統制を基軸としたものであった(以下は、主に浪川健治「津軽藩政の展開と飢饉―特に元禄八年飢饉をめぐって―」『歴史』五二による)。藩では、七月十二日に青森鰺ヶ沢の両浜口を留めたと伝えられる(「平山日記」)。また、「国日記」によると、七月十三日に、青森鰺ヶ沢・十三・今別・蟹田深浦・野内に対して、米価が騰しているために町人が持っている米を他領へ売り払っていることを理由に、移出を禁じた。こうした津留(つどめ)政策(松前へは条件付きで対象外となった)は、すでに六月に鰺ヶ沢から米が移出された例があるように、「御国中之米売払のぼせ仕舞候故、後手ニ相成、益ニも成不申候」(同前)と、何も利益にならなかったという。
 さらに、八月十三日には、武田源左衛門神源太夫から対策案が提出され、認められることになった(「国日記」元禄八年八月十三日条)。このうち、第二八条に領内有米改めがある。これは、凶作の不安から米の隠匿(いんとく)が始まり、領内での米の流通が止まってしまったことへの対策である。隠匿米摘発のために、弘前で、八月十五日に「町中米改役人」を三人一組として五組編成し、袋井・上十川馬場尻・浜松の四ヵ所に米留番所を設置するなどして調査体制を調えた(同前元禄八年八月十五日条)。四ヵ所の米留番所のうち、浜松を除く三ヵ所が黒石へのルートに当たり、七月の津留政策とのかかわりでいうと、その目的は黒石領への流通統制にあったということができる。
 米価については、六月にはすでに例年よりも値で、八月には約一・六倍に達しており、翌年三月には三・五倍となり、このころに米価のピークを迎えたようである。また、米価は、大豆などの価格にも影響し、領内の穀物の在庫も底をついたのであろうか、元禄九年(一六九六)一月には、大豆の価格が前年十一月の二倍にまで上昇している(黒瀧十二郎『弘前藩政の諸問題』一九九七年 北方新社刊)。さて、八月十四日に弘前城下での蔵米・町米、十五日には「浦々九ヶ所」での米価を公定し、二十三日に改定されている(表27)。市価は、一石当たり、七月は五〇匁、八月は六〇匁前後で、元禄九年に八〇匁とピークを迎える。また、領内各地の米価は、特に八月十五日の市価と公定価格との間に大きな隔たりがあり、なかでも、弘前では一石当たり一五匁ほどの隔たりがあり、極端に低い米価となっている。さらに、二十三日の公定価格の改定は、領内各地の米価変動に即したものではなく、単に一律に二匁を上乗せしたものであり、十五日の価格では効果が得られなかったための便宜措置として取られたものであった。こうした公定価格の低さと、二十三日の公定価格の改定にみられる領内の米価変動を掌握できない状況は、米改めの強硬とあいまって、領内での米の流通が、ますます停滞する事態を招いた。
表26 元禄8~9年の米価(1石あたり,単位は匁)
8年6月   
6月12日
7月初 
7月 9日
7月11日
8月 6日

11月中旬 
30.3~31.25
42.4   
50.0   
55.9   
50.0   
58.3   
△62.5   
55.5   
9年1月   
3月 2日
83.3   
83.3   
注)但し,領国貨幣による表示。『永禄日記』による,町米価格。
△は,1匁あたりより逆算。

表27 津軽領内公定米価(1石あたり,単位は匁)
 8月15日8月23日
弘前50.0(20.0)
43.4(18.0)

鰺ヶ沢55.5(23.0)
50.0(20.7)
59.5(25.0)
54.1(22.7)
深浦57.5(24.0)
50.2(21.6)
62.5(26.0)
57.1(23.6)
大間越58.8(24.7)
52.6(22.2)
64.5(26.7)
58.8(24.2)
十三53.2(22.7)
47.6(20.4)
58.8(24.7)
53.2(22.4)
小泊53.2(22.9)
46.0(20.6)
60.6(24.9)
55.5(22.6)
今別59.5(25.0)
52.6(22.5)
64.5(27.0)
58.8(24.5)
蟹田58.8(24.5)
52.6(22.0)
62.5(26.5)
57.1(24.0)
野内55.5(23.8)
50.0(21.4)
62.5(25.8)
55.5(23.4)
碇ヶ関52.6(22.0)
46.5(19.8)
57.1(24.0)
52.6(21.8)
青森55.5(23.6)
50.0(21.2)
60.6(25.6)
55.5(23.2)
注)但し,数値の上段は蔵米,下段は町米値段。( )内は1俵4斗2升あたり価格。
国日記」より作成。

 次に、移出入であるが、九月二十四日に、秋田・酒田方面と、南部とへ米の買い付けの使者が派されることが決定した。特に、秋田・酒田での米買い付けに重点が置かれ、秋田で合計一万石を買い付けた。しかし、ここでの米買い付けは、秋田藩による津留が障害となり、国元間での交渉から江戸藩邸間での交渉に委ねられることとなったが、結局、米の移入は失敗に終わった。凶作になると、どの藩でも他国への穀物の移出を禁止し、藩境・港での取り締まりを強化した。したがって、他藩からの米の移入は、その大名間に特別な関係でもない限りにおいては、大きな困難が伴うことになった(菊池前掲書)。
 一方、移出については、さきに述べたように、七月からの津留政策下、条件付きではあるものの松前は除外されていた。七月二十一日、松前藩家老から青森町奉行を通じて六、七〇〇〇石の米の津出が求められている。津軽弘前藩は一度はその申し入れを受け入れるが、江戸藩邸による最終的な決定では減石となった。松前藩は再度申し入れるが、八月二十九日に、青森鰺ヶ沢米改めを行い、全面的な移出禁止を伝えることになった。これに対して、松前藩では、使者を派して二〇〇〇石を申し入れている。津軽信政は、九月二十三日に、老中戸田山城守(忠昌)・柳沢出羽守(保明)に領内の凶作の様子を報告している。この後に、松前から米の移出を求められているが、自領も他領から米を移入しているような状況であり、移出は困難であることを併せて報告した(資料近世1No.八五八)。このことは、津軽弘前藩松前への津留除外、すなわち蝦夷地支配のための物資の供給の保証をすることになっていたにもかかわらず、実際には飢饉という状況下においてそれがかなわず、そこに幕藩体制下における当藩の位置を、象徴的に表していよう。