三 八幡宮の祭礼と山車の運行

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 慶長十七年(一六一二)、二代藩主津軽信枚は、八幡村(現中津軽郡岩木町)から弘前城の鬼門に当たる地に八幡宮(現弘前八幡宮)を移転させ、弘前惣鎮守とした。このため、藩主より町民に至るまで氏子であった。神事には、修正神事(正月四日)、手筒足軽が神前で鉄砲打ち始めを行う吉兆神事(正月十三日)、神楽奉納(二月初卯日・八月十五日)、祭礼神輿渡御(八月十五日)、年越神事があった。また、藩士の組織する講や各町内より神楽が奉納された。
 天和二年(一六八二)、四代藩主津軽信政の時より、八幡宮神輿および各町内の山車(だし)、続いて武具を備えた藩士が連なる行列で祭りが始まり、隔年で行われた。同年、信政は在方より芦毛の馬を白銀五枚で求め、八幡宮へ神馬として献じ、八月十三日には中小姓・徒目付神輿の出来具合を確認させている。同十五日、神輿の渡御と山車の運行が行われた。山車練物(ねりもの)とか山屋台(やまやたい)といい、先頭には町印が出た。「国日記」によれば、この時、祭礼記録した別帳を作成しているが、現存しない。藩庁側は、祭礼は「諸民安全」「田畑豊熟」のために行うものと認識していた(「秘苑」)。雨天や洪水で順延になったり、凶作のため中止になることは当然としても、文化十四年(一八一七)、一〇代信順が病気で国元へ到着したのが九月四日で、祭礼を同十五日に行っているところから、藩主在府した時にみせるものであったようである。天和二年(一六八二)の神楽山(亀甲町・黒石町)の神楽の祝詞は、次のとおりであった(同前)。
千早振神の誓は今とても、感応あれば影向の穂の普くて、国富み民の豊なるも神と君との御陰なり、此報恩にいまさらば、白木綿はなを捧げて神慮をすゝめ給ふべし、

これによれば、町民の側は祭りを八幡神と藩主への報恩のためと認識していた。
 宝暦八年(一七五八)から領内不作で神輿の渡御のみであったが、安永三年(一七七四)、山車が復活し、南部・仙台・秋田・松前より見物人が集まった(「秘苑」)。安永七年、本町の張良山の人形は七〇〇両で作り、それまで木綿であったのを物をい、昔に比べて一〇倍も美麗になったという。
 文政七年(一八二四)ころから、蝦夷地警備のため、祭礼山車の運行が見送られ、神輿の渡御のみが行われてきた。これに対し安政六年(一八五九)には、町奉行の申し出により山車の運行が検討された。これは藩主入封の際に市中のにぎわいのために行いたいとするものであった。しかし、この年は山車の運行は見送られ、神輿の渡御のみ行われた。山車の運行が復活したのは文久元年(一八六一)の祭礼からで、この時は多くの見物人が領内から集まった。
 明治二年(一八六九)、政府の神仏混淆(しんぶつこんこう)廃止の方針から、神輿渡御に最勝院修験の供奉するのを中止したうえで、九月十五日に行うことにしたが、実施したかどうかは不明である。同三・六・十五年には神輿の渡御が行われた。
 この後、山車の運行は絶えていたが、明治三十九年の藩祖三百年祭、昭和二十四年(一九四九)の市制施行六〇周年、同三十一年の藩祖三百五十年祭、同五十四年の市制施行九〇周年、平成元年(一九八九)の市制一〇〇周年には、山車の運行・展示がみられた。
 平成六年に弘前市の山車会館が完成し、七町会の山車、張良山(本町・親方町・大根山(茂森町)・道成寺山(鍛冶町)・猩々山(土手町)・布袋山(東長町)・紅葉狩(紺屋町)・米山(和徳町)が展示されている。この中で、布袋山は文化三年(一八〇六)、張良山の緞帳は文久元年(一八六一)から使われてきたものである。
 元禄元年(一六八八)、藩士へは、祭礼当日の火の心と、通り筋に当たる家は水桶を意することが命じられた。また、奥女中は御簾(みす)内でみること、男子は敷物を敷いてみること、屋根の二階からみること、桟敷をかけることが認められた。
 正徳二年(一七一二)、最勝院より山車行列が途中で踊りを披露するので、神輿の帰りが遅くなり神楽の奉納に支障があるので、神輿だけでも通したいという願いが出されたが、許可されなかった。また、紺屋町と新町から山車を出す願いがあったが、この町内は、袋宮権現宮(現熊野宮、市内茜町(あかねちょう))の氏子であるとしてこれも許可にならなかった。
 元文三年(一七三八)、町惣名主より、踊りによって行列が乱れるので、亀甲町と松森町から出る神子踊、獅子踊は藩主の前だけで披露し、代わりに祭礼後三日間踊らせたいとの意見が出された。しかし、松森町が祭礼後に踊るのは、商売や仕事ができず収入がなくなると主張し実現にいたらなかった。また、山車も大型化し、塩分町入口の木戸を含めて四ヵ所の木戸の片側を引き抜いた。
 天和二年の行列は、辰(たつ)の上刻(午前七時ころ)に八幡宮を出て、田茂木・亀甲町より外北門(亀甲門)から城内へ入り、賀田門より三の丸へ入り、東内門から二の丸へ入り、外南門(大手門)を抜け、それから各町内を巡って、申(さる)の中刻(午後四時ころ)に帰った。藩主信政は、辰巳櫓(たつみのやぐら)で辰刻(八時ころ)から午刻(うまのこく)(正午)まで料理の入った重箱を前にして見物したが、生母久祥院には艮櫓(うしとらのやぐら)、柳川調興(やながわしげおき)(素)・家老には評定所、藩士には二の丸で見物させた。「封内事実秘苑」(弘図郷)には、領内各所から見物に来たとある。
 行列の編成は、「要記秘鑑」に寛政八年(一七九六)の例(資料近世2No.二七一)が詳細に記されてあり、この年には、およそ一七七〇人が参加していた。通り筋は、元文三年(一七三八)の「八幡御祭礼通筋并張番居所図」(弘図岩)に記されている。
 天和二年(一六八二)の山車は、張良山(本町・親方町)・大黒山(本寺町)・文殊山(土手町)・高砂山(東長町)・神楽山(亀甲町・黒石町)・大根山(塩分町・茂森町)・茶屋山(長町)・太神楽(鍛冶町)・道成寺(銅屋町)・素浜山(桶屋町)・神楽山(大工町)・大名行列(鞘師町)の一二台であった。藩士は鉄砲五〇挺・弓五〇張・長物五〇本を持つほか、徒(かち)一〇〇人、騎馬一〇騎が加わり、また、鎧(よろい)・兜(かぶと)を着した山伏が騎馬で連なった。
 祭りの様子は、藩のお抱え絵師今村養淳が描いたという「弘前八幡宮祭礼図」(弘図郷)と、平尾魯仙が文久元年(一八六一)に描いた「八幡宮御祭礼町印山屋台略図」(弘前市立博物館蔵)によってうかがうことができる。「弘前八幡宮祭礼図」には、女子が本町・親方町の牡丹の花籠をかたどった曳き物を引く様子がある。このように、祭礼に女子の参加も認められていた。

図24.弘前八幡宮祭礼図①黄石公と張良
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図24.弘前八幡宮祭礼図②花籠を引く女子
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図24.弘前八幡宮祭礼図神主(左)と最勝院住職(右)
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 山車の人形は、「津軽年表」(弘図八)の寛政六年(一七九四)に次のようにある。
 黄石公 装束茶地金紋紗、赤地金鑭(襴)、襟巻白地錦、
 張良 装束赤地錦、黒天鵞絨、襟巻紫地路金、腰当萌黄地錦、
 水引 紺地繻子、金糸ニテ岩ニ立浪織有、
 見送 猩々緋、金糸ニテ登龍之縫玉眼ニ重縁、紺地金鑭黒鵞絨、
 下幕 木綿白地立浪之染抜、正面ニ八幡山之山字、
 車引 着物千草木綿、上マテ輪繋、裾模様若松、
金襴(きんらん)・緞子(どんす)・ビロードなど目のさめるような地をいたことがわかる。
 元文五年(一七四〇)、茂森町の山車に踊り子五人・音頭二人・笛吹き一人・三味線二人・小鼓一人、土手町の獅子踊りに笛吹き三人・地謡三人、鍛冶町の太神楽に囃子方、亀甲町の踊り子は役者八人・小鼓一人・三味線一人・小歌詠三人がついているところから、その鳴物の様子が想像できよう。