出開帳

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次いで出開帳についての事例を列挙すれば次のとおりである。藤崎村(現南津軽郡藤崎町)摂取院にいた蓮池が、元禄十一年(一六九八)、貞昌寺を宿寺にして円光大師作の阿弥陀如来・毛髪の曼荼羅開帳した。正徳五年(一七一五)にも、念仏道場修理のため寺で二一日間、青森鰺ヶ沢町で一四日間の開帳を願い出た。この時、藩庁は宿雇人・雇馬の願い出を認めていないが、これらを藩の経費で支払うこともあったようである。深浦村(現西津軽郡深浦町)の修験大善院は、享保十七年(一七三二)、飛驒の匠(ひだのたくみ)作の薬師堂修復のため、深浦澗口(まぐち)観音堂・鰺ヶ沢町・藤代村(現市内藤代)香覚院での開帳を願い出たが、このうち鰺ヶ沢町だけが許可になった。
 神職長利弁太夫は、正徳元年(一七一一)、袋村(現黒石市)勢至菩薩堂の聖徳太子作の本尊修復のため、山王宮(現大杵根神社、弘前市)の入口に仮小屋を建てての開帳が認められた。また、神職工藤儀太夫は、安永元年(一七七二)、袋村の観音の開帳山王宮広小路において願い出たが、遠方のため村内で行うことで認められた。
 正覚寺(現青森市)から嘉永五年(一八五二)、開帳願いが出たが、藩庁の認めるところとならなかった。そこで檀家から再度願い出たところ、寺内だけの開帳として許可になった。
 百沢寺は、天明元年(一七八一)七月一日から九月二日まで、岩木山三所大権現開帳江戸回向院で行った(「国日記」・「江戸日記」、比留間尚『江戸開帳』一九八〇年 吉川弘文館刊)。前年、百沢寺は塔頭(たっちゅう)の僧侶江戸へ派遣し、幕府へ開帳を願い出た。この時、藩庁から辻札に記す地名は「奥州合浦外浜百沢寺」とするよう指示があった。天明元年一月に寺社奉行土岐美濃守定経より許可が出て、閏五月に三〇人を擁して宝物類を江戸へ運んだ。付き添いの一行は開帳の前後の期間を、江戸藩邸上屋敷の長屋を借していた。六月に入ると藩へ、紫紋幕二、晒紋幕三、金屏風一、天水桶三、番手桶三〇の借を願い出た。藩邸内では目付より藩士とその家族、召使に対し、他の開帳と同じように参詣するのはよいが、みだりに見物に出かけるのは禁止した。また、開帳に付き添って来た者には、開帳中の上屋敷への出入りを遠慮するように申し渡された。幕府が享保十八年(一七三三)から明治元年(一八六八)まで江戸での開帳を認めたものは、「開帳差免帳(かいちょうさしゆるしちょう)」(国立国会図書館蔵)にみえるが、百沢寺については次のように、記されている。
 奥州津軽 岩木山権現別当
    新義真言宗 百沢寺
諸堂舎修復為助成、本地仏弥陀薬師観音之三像、仏形之舎利其外霊宝等、来丑七月朔日より日数六十日之間、
本所回向院於境内致開帳度段、子十二月美濃守方江願出、同月十八日自宅於内寄合、願之通差免之、

 また『武江年表』(東洋文庫 一九六八年 平凡社刊)には次のように記されている。
七月朔日より、回向院にて、奥州外浜百沢寺三社本地弥陀如来、薬師如来開帳

 これをみると、仏舎利のほかに本地仏三尊の開帳があったようである。四代藩主津軽信政が寄進の阿弥陀仏・十一面観音・薬師如来(享和三年〈一八〇三〉の「寺社領分限帳」)が、本地仏として開帳されたものとみられる。これが明治初年の神仏分離の際に長勝寺蒼龍窟に移されたとされる。この開帳は、出費が多く、天候にも恵まれず、不当たりとなった。支払いを残したままでは回向院を引き払うことができず、百沢寺は藩邸へ三〇〇両の借財を申し入れたが、一度は断られた。未払いを再度整理してみると、二七〇両の不足であり、その結果、百沢寺が寺領四〇〇石の知行米から年賦で返済することで、藩邸が融通することに応じた。
 浅草奥山に次いで両国橋を挟む回向院の周辺と橋の西詰広小路は、見物小屋の立ち並ぶ場所であった。人気のある見世物が掛かると、必然的に寺院への参詣人も増加し、江戸っ子は、人気のある見世物を見逃すのを恥のように思っていた(川添裕『江戸の見世物』二〇〇〇年 岩波新書)。しかし百沢寺の場合は初めて江戸出開帳に出かけたものの、江戸の人からは結縁の際の利益など知名度も低く、さんざんの結果に終わった。

図29.本所の回向院


図30.回向院で行われた開帳の様子

 長野の善光寺は、元禄十五年(一七〇二)六月二十八日から七日間、貞昌寺を宿寺として善光寺如来開帳を行った(「国日記」元禄十五年六月二十七日条・同年七月十三日条)。開帳に付き添ってきた戒善院からは、次の三点が要望された。①領内で人足二〇人、馬四頭をいるが駄賃銭は支払う。②開帳中は菓子を供えるだけで、他の供物は不必要である。③当地の犾(アイヌ)に会いたいというものであった。藩庁は、人足五五、六人、馬一〇頭を意し、駄賃銭は受け取らないことにした。菓子は、盛岡藩で毎日朝夕に供えた例を聞いているので、これに倣ったものとみられる。犾は遠方なので会うのは無理と断ったが、滞在期間が五、七日もあるのでと再度求められ、弘前へ犾二人を呼び寄せることにし、その賄いは宿泊所で出させることにした。一行は野内の関所から領内へ入り、正覚寺(現青森市)で開帳した。期間は明らかでないが、藩庁は大勢の参詣人と火の心のため、町同心二人に二十二日から二十六日まで張番を命じているので、開帳の期間はこの五日間であったとみられる。弘前では、一行二六人の賄いを町人大津屋九右衛門・山本三郎兵衛に命じ、給仕二〇人、掃除役一〇〇人、小遣四人をもってこれに当てた。開帳による収入の四〇〇両は、寛永寺門主へ宛て藩の飛脚便で送ることになった。
 寛延元年(一七四八)、善光寺如来開帳のことが、寛永寺門主から江戸津軽家菩提寺津梁院(しんりょういん)を通して、津軽弘前藩家老へ伝えられた。この年、全国巡回があり江戸でも開帳が行われたが、当領内では実施されなかったようである。
 江戸の長松寺(ちょうしょうじ)(浄土宗、現東京都台東区)は、元禄十年(一六九七)六月、誓願寺において月の丸御影の開帳を行ったが、その期間は明らかでない。この月の丸御影は、長松寺の山号月園山に由来する法然の絵姿であったが、第二次世界大戦で焼失した。藩庁では辻札を立てさせ、足軽番所二ヵ所をつくり、昼の内だけ足軽六人に張番をさせた。また、長松寺へは米二〇俵、漬蕨一桶を与えるほか、薄縁・藁莚五〇枚を意した。
 油川村(現青森市)明誓寺と正覚寺が、嘉永六年(一八五三)、九条家の役人笹将監僧正を宿泊させ、持参の宝物を開帳させようとしたところ、藩庁は旅人の宿泊を厳重に取り締まっていることに抵触するとして、両寺住職を禁足処分にした。