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上田郷友会月報 第六百八十號
昭和十八年九月二十五日発行
(中略)
(改頁) 8
既往八十年
宮下釚太郎
(中略)
(改頁) 10
(中略)
明治二年正月、私が六歳になったので、町内の增田先生
(名は秀実帽岳と号す)(注1)の門に寺入りをした、門弟
が頗(すこぶ)る多く、部屋の隅から隅まで机を並べて、一杯であったこと
を覚へて居(い)る。飯島保作(七歳)(注2)前田熊太郎(六歳)の両
君は、私と同時の入門ではなかったが、頗(すこぶ)る仲よしであっ
た。其の当時の慣習として、我々でも、町方たの人々は呼
びつけにしたものだが、誰も不平の顔もせず、皆返辞(へんじ)をし
てくれたものだ。飯島君は独学で、天下の文豪となった位
の人であるから、怜悧(れいり)であったことは勿論(もちろん)又手先きが中々
器用であった、一寸紙の縒(こより)を拵(こしら)へて、馬の形を造ったり、
亀の甲を画いて、断切(たちき)り、一匹の蠅(はえ)を捕へて、其の羽根
に飯粒をつけて、甲にはりつけ蠅があるくと亀ガあるくある
くと、手を敲(たた)いて騒いだものであった。斯(かか)る揚合に、先生
から少しく静にせよなぞと、大きな声で言はるゝと、飯島
君はすぐに泣き出すように、些細(ささい)のことにも能(よ)く泣いたが
深窓(しんそう)育ちであって怯(おび)へるのであろうが可愛い坊チャンであ
った。聞けば母堂(ぼどう)が十三歳で君を産んだとのことである
が、家康も母が十五歳の時の子である、誰かが母の若いと
きの子供は、利口であるとか言ふたが、或(あるい)は然(しか)らん、一は
文豪となり、一は武将となった。
明治二年八月、浦野組奈良本村より、起りたる百姓一
揆(注3)、十七日城下に強訴し、乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)遂に火を放って退散せ
しが、藩吏の処置緩慢(かんまん)にして、茲(ここ)に至らしめたる、以(もっ)て其(そ)
の人なきを知るべし、暫(しばら)くして首謀者等数人は皆重刑に処
せられた。
明治二年十二月末に藩制の改革があって、学制も改めら
れ、幼生寮(注4)が拡張されたので、私も入学することゝなった
ので、增田は退いたが、毎朝の読書は、従前通り先生の教
授を受けた、幼生寮に移ったのは、明治三年と思ふ、私の
祖父は幼生寮の世話役であった、此処(ここ)にて始めて、中島彌
門太、溝口多門司、宇川信三、石谷四郎等の諸氏と、近か
付きになった、学科は読書習字詩吟等であった、明治四年
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廃藩となったので、幼生寮も自然消滅となって、明治五年
に学制が頒布(はんぷ)せられて.公立学校が翌年に設立された、今
日の国民学校の濫觴(らんしょう はじまり)である、即ち松平学校(注5)之(こ)れなり。私は
入学当時、下等小学第六年に、編入されたように記憶して
居(い)る。私は母が病身のため、家庭の関係上、欠席が多いの
で、自然進級が遅れて、私の下等小学科の卒業が明治十
年十二月と記憶して居(い)る。受持は溝口篤太郎先生で、同級
には勝俣英吉郎(注6)、三宅喜三郎、土橋安蔵、臼井信太郎、佐
治恰、福田音吉、山浦橘馬、石川四郎、石谷四郎、林喜真
多、川上數馬、鈴木堅蔵、鈴木鐵雄の諸氏であった。尚(なお)今
日まで健在なるは佐治君と、私の両人であろうか、真に心
細き限りである。私は此(こ)の年に松平学校を退学した。其(そ)の
理由は長野に朝陽学校なる小学校があって、其(そ)の校長が上
田人の原澤紀堂氏であった、此(こ)の原澤氏が、兼てから上田
人の学生の推薦方を、齋藤吉士氏に依頼してあったので、
私が卒業すると聞くや、兼て知り合いでもあるので。早速
宅に見へて、父に私の長野行を甘く説き勧められたものと
見へて、父は有頂天になって居(い)た。翌朝齋藤氏来訪父と共
に勧めらるゝので、私は渋々承諾して長野行を決心した
が、友人には誰れにも話さずに、明治十一年一月の始めに
長野に潜行した。夕刻石堂の某寺についた。先つ(まず)原澤氏に
初対面の挨拶終るや、原澤氏は授業生を本務として、傍ら
小学上等科の進級をさるゝ指導方を、引受けるから、勉強
なさいとのことであった。あとは上田の昔話しなぞで此(こ)の
夜は終った、翌日は狭い長野ではあるが、善光寺、師範学
校(注7)県庁等を見て廻った。
(注1)増田秀実。当時の代表的な寺子屋師匠。上野尚
志とともに、『上田藩教育沿革史』をまとめ、
明治17年県に提出した。
(注2)「花月文庫」を残した銀行家。文久三年~昭和六年
(1863~1931)第十九銀行頭取はじめ実業家とし
て活躍。収集、読み親しんだ絵近世文学の集積は
「花月文庫」として上田市立図書館に残されている。
(注3)明治二年上田騒動(巳年騒動)のこと。偽二分金流
通による経済混乱や凶作による米価高騰により百姓
一揆が勃発した。騒動の記録として『上田嶋縺格子』
等がある。
(注4)万延元年(1860)学校改革により文学校(藩校明倫
堂)に付属する教育施設として、八歳、九歳の子弟
も就学させることにした。(従来は十歳から就学)
(注5)松平学校(しょうへいがっこう)は藩校明倫堂の後
の学校で、当初はもと武士の子弟が入学した。小県
郡上田第一小学で、南小学校、現清明小学校と変遷
した。
(注6)慶応元年~昭和五年(1865~1930年)。上田市の文
化・教育・厚生事業に尽力した市長。上田郷友会創
立メンバーで、市長当時、上田市民大学を興す。
「人恋し世恋し桜咲くからに」の辞世の句がある。
(注7)長野県師範学校。明治十一年十二月、現在の長野市
立図書館の場所に新築開校した。
私は下等小学の六級を受持たされて、生徒は男女四十四
五名はかりであった、初(はじめ)は幾分(いくぶん)気をくれがしたが、漸次(ざんじ)慣
れるに従て、生徒を叱りつけることも覚へたが、泣きださ
れるには、閉口したこともあった。石堂は仮校で、後町裏
の田圃の中に、新築の校舎が落成たので、移転はした
が、造作不充分のあばらやであった。私は其(そ)の事務所の、
二階に独りで居(い)たが、夜の寂ひさには実に閉口(へいこう)した、殊に
便所までの廊下が長く、気味が悪るいので、時々二階の窓
から、小便をすると、地面の砂の処へ、穴があくので、ス
ッカリ放尿の証拠を見付けられては、笑はれた。或(あ)る晩泥
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坊(どろぼう)がやって来た。二階下で暫(しばら)くこつ/\やって居(い)たが、其(そ)
の内に、梯子段(はしごだん)を昇ってくるので、私は驚いて、無我夢中
で早く起き玉へ、早く起き玉へと、大きな声で呼び続けた
ので、泥坊(どろぼう)は驚いたと見へて、梯子段(はしごだん)を駆け居(お)りて、逃げ
たが、あとが寂しく、夜が格別にも、長いように思はれ
て、眠れなかった。翌日私が、此(こ)の話をすると、皆其(そ)の気
転に驚いてゐた。今夜から、小使(こづかい)部屋に泊ることゝした。
七月受持の子供の試験もすませ、私の上等小学第八級の試
験もすませて、八月の初めに上田に帰ったが、友人に面会
するのが、何となく極(き)まりが、悪いような気がしたので、
祖母がまだ染屋に居たので、私は暑中を染屋で暮した。祖
母は私を手許に置きたいので、長野ゆきをやめさせんと、
頻(しき)りに父に相談しても、一言のもとに撥附(はねつ)けるので、祖母
は私の意見を聞くのであったが、私も父と祖母との間に挟(はさ)
まれて、私の身体は、全く此(ここ)に谷(きわ)まったのであった。其(そ)の
処へ原澤校長から、至急帰校せよ。受持の都合ありとの電
報が来たので、父に追はるゝように、上田を立て長野に戻
ったが、祖母のことを考へると、実に気の毒で、後ろ髪を
引かるゝような思いがした。
九月からは何級を受持ったか、記憶がない、私の自修と
しては輿地史略(よちしりゃく)(注1)なぞを読て(よんで)居(い)た。此(こ)の頃は、上田人が校内
に勢力があった。校長の原澤紀堂氏を初め、永田豊実、山田
龍太郎、小野孝平(鈴子)の諸氏が、在勤して居(い)た。学力は
師範学校の一期位のものであったろうか、兎に角(とにかく)小学校教
員としては、立派の者であったが、何(いず)れも早世で、永田氏
が、独り本年四月まで丈夫で、片山氏の世話になって、然(し)
かも上田に居(お)られたとのことであったが、面会の機会の得
られなかったことが、如何にも残念である。
明治十一年九月八日北越御巡幸(注2)の途次(とじ)、当地を御通輦(ごつうれん 天皇が行幸用の乗物に乗って通る)あ
らせらるゝので、教員生徒一同、其(そ)の当時の石油会社のあ
りし、前通りに並列して、御迎へ申上げた。警官から、時
々敬礼は敬礼でしなければならないが、龍顔(りゅうがん 天皇のお顔)を能(よ)く拝する
ようにとの注意があったので、余り固くなり適(す)ぎて、い
ざ御通輦と云ふ場合に、御車台なぞばかり、見詰めて居た
連中が多かったようだ。私も其(そ)の一人である、幸に一日
御駐輦(ごちゅうれん)あらせられたので、九日の午後善光寺山門内に於(おい)
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て、城山より本堂にならせらるゝ途上、咫尺(しせき わずかの距離)にして龍顔(りゅうがん)を
拝し奉った。此(こ)の時岩倉公(注3)と大隈侯(注4)と、同乗の馬車へ、書
面を投げ込んだ老人があったが、直に警視庁の巡査に捕へ
られた。私は又十日の朝、北越に向っての御出発を、御見
送り申上げた。私も半年以上長野に居るので、諸所の食物
屋を教へられて能(よ)く食いに出掛けた。かなへ川の饅頭(まんじゅう)、後
町某店の最中(もなか)、堂庭松風亭の五色餅(一皿壱銭)、寝釈迦
堂前のでんがく(一食参銭)、二王門横の五厘蕎麦、表
権堂と裏権堂の間の、を雪蕎麦(壱杯壱銭)等を、能(よ)く食
いあるいた。を雪蕎麦(おゆきそば)と云ふのは、娘を雪が美人であるの
で、学生達の為に、非常に繁昌(はんじょう)したものだ。其(そ)のを雪の弟
が、私の受持の生徒であるのて、私が非常にもてると云ふ
て、岡焼(おかやき)連は騒いだそうだが、私はそんな感じをもったこ
とはない。まだ私は子供であったから、能(よ)くからかわれた
ぐらゐのものだ、表権堂裏権堂は、大厦高楼(たいかこうろう)の櫛比(しっぴ)した
る、遊女街にして、脂粉(しふん)の香(にお)い、街上に溢る、其(そ)の繁昌(はんじょう)振
り思ふべしである。此(こ)の土地に往復する、維新当時松代藩
士について、面白い話を聞いたが、此(ここ)には割愛する。或(あ)る
人が松代から長野まで三里の夜道を、往復は出来まへと、
言ふたら、上田から坂木迄、三里の道を、ひやかしに往復
したものもあるとか、此(こ)の道ばかりは遠くも近いものと見
へる。
(注1)よちしりやく。世界各国の地誌大要を訳述した
書文政九年(1826)成立。
(注2)明治十一年、明治天皇の北陸・東海巡行がなさ
れた。明治天皇はじめ一行約千名が上田に入っ
たのは九月七日夕刻のことで、宿泊所はこのと
き新築された西洋造三階建ての上田街学校であ
った。翌八日に善光寺大勧進に着蓮された。
(注3)岩倉具視、文政八年~明治十六年(1825~1883)
明治期の政治家。明治新政府成立により参与・議
定・外務卿等歴任。明治四年廃藩置県後は右大臣。
欧米視察団全権。明治十一年の巡幸の時は右大臣。
(注4)大隈重信、天保九年~大正十一年(1838~1922)
明治・大正期の政治家。もと佐賀藩士。明治三年
参議、財政通として近代産業の育成に努めた。
明治十四年の政変で参議罷免。翌年立憲改進党を
創立、東京専門学校(後の早稲田大学)創設した。
明治三十一年憲政党を組織し日本初の政党内閣。
明治十一年明治天皇御巡幸のときは大蔵卿。
九月頃から事務所二階に同宿希望者か多くなって閉口し
た、私と同年が独り、あとは皆五六歳以上の者ばかりで、
殊(こと)に其(そ)の内の二三は、放蕩(ほうとう)の結果金に窮(きゅう)して、授業生に
なったのであるから、花柳界(かりゅうかい)の話なぞ、得意にやるのには
耳障りであった。上田龍岡小諸松代長野北越の雑居で、松
代と私は同年でもあり、話も合い、仲を能(よ)くして居たが、
大共の気に入らぬので、時々小衝(こづき)廻はすので、気の毒であ
った。其(そ)のためでもあるまいが、辞任し更級郡の学校へ
転じたが、一二回私を尋ねて来てくれたような記憶があ
る。其(そ)の後(の)ちは、音信不通となって居たが、十年ばかり前
に、文部省で、出版業をして居ることが、知れたから、私
から「ハガキ」を出したが、何故か返事がないので、私か
ら尋ねる気にもなれず、自然交通断絶となった。
十二月に例の通り、子供の試験も、私の試験もすませ
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年越に上田へ戻った、祖母も染屋から、袋町の隠宅に移っ
て居(い)た。
十二年の一月となっても、年始にも廻らず、炬燵(こたつ)に燻ふ(くすぶっ)
て居(い)た、確か七日であったか、八日であったか、上田街学
校(注1)で、演説会か何かあって、二階の墜落した騒ぎがあっ
た、私は九日に長野に向った、人力車に乗て、北風を真顔
に受けるので、閉口した、同宿の人々は、旧年も新年もな
く、相変らずの為体(ていたらく)で、貧乏搖(びんぼうゆるぎ)をして居(い)た。
一月からの受持ちは、其(そ)のまゝと決定したので、生徒は
喜んで居(い)たとのことであった、原澤校長が、此(こ)の処に同宿
することになった、少々窮屈(きゅうくつ)ではあるが、私は室内の秩序
がつくので、喜んだが、他の連中は不平満々であったが、
校長だから仕方なしに、畏(かしこ)まってしまった、較々(やや)静粛(せいしゅく)にな
って、私の勉強にも、又校長の教授を受くるにも好都合と
なったが、自然訪問する人が多くなって、私の手を煩(わずら)はす
ことも、多くなったのには閉口した、確か四五月頃と思ふ
が校長の友人の、成瀬利貞(小諸の人)氏が来訪して、二
三日滞在したことがあったが、疥癬(かいせん)(注1)を置土産(おきみやげ)として帰った
ので、第一に感染(かんせん)したのが校長で、日増しに悪るくなって
教場へも出られぬので、治療方(ちりょうほう)について、思案にくれて居(い)
た処、私が或(あ)る用向きで、学校に関係のある、北澤某氏に
面会の際、校長の病状を話した処、大(おおい)に同情されて、疥癬(かいせん)
には野澤温泉が一番です、二三週間も入浴されたならば、
必(かな)らず全快受合いとのことであったから、早速に校長を野
澤に立たせ、其(そ)の跡始末をなして、全快の通知を待つばか
りとなった、二三回快方々々の通知があって、喜んで居(い)た
四週間目頃と思ふが、漸(ようや)く全快したから、帰る金の都合を
頼むとの書面がきた、喜憂(きゆう)交々(こもごも)至るとは、此(こ)の時であっ
た、病気の全快は喜んだが、金策の方法は憂(うれ)いたが、兎に
角(とにかく)同宿の一人に相談した処が、金策なぞは容易のことだ、
君は澤山(たくさん)衣類を持て居(い)るから、あの品々を質にをけ、相当
の金が出来ると、教へてくれたが、私ばまだ質を置たこと
がない、どうすれはよいかと、尋(たず)ねたら、僕が知り合いの
質屋へ、案内するからと云ふから、私は衣類を一と包(つつみ)抱へ
て、同行した、彼は大威張りで、質屋にはいった、私は何
となく躊躇(ちゅうちょ)したが、彼が頻(しき)りに呼ぶので、やっとはいっ
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た、彼が私の荷物を広げて、見せて居(い)たが、質屋もいつも
とちがって、よい品物を、持って来ましたなあと言ふて、
相当に貸してくれたので、帰途(きと)を雪蕎麦で、一杯驕(おご)ってや
った、帰途(きと)権堂を一巡しようと、私の手を引張るから、私
は怫然(ふつぜん)腕を払って去った、翌日早朝私は立て、飯山を経て
夕刻野澤についた、挨拶早々にして一浴をとる、快言ふべ
からず、一日滞在午前中は、校長不在中の談話などして、
午後には、温泉地を一巡した、熱湯の出づる所あり、野菜
卵等を茹(ゆ)でるに、十分なりそれがため夕刻は村嬢等で殊(こと)に
賑かだ。
(注1)寺子屋の流れをくむ海野町・原町・横町・鍛治
町・田町・柳町・紺屋町の子を入学させた庶民の学校。
明治十一年、明治天皇北陸御巡幸の際、行在所となったが、
明治三十一年火災で焼失した。
(注2)「疥癬」(かいせん)はダニの一種である「ヒゼンダ
ニ」がヒトの皮膚に寄生しておこる皮膚の病気で、腹部、
胸部、大腿内側などに激しいかゆみを伴う感染症です。
(中略)
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(中略)
元来長野に居る、多くの書生は、大半師範学校の入学が
希望で衣笠の塾とか、加藤(天山)の塾とかで、予修し居(い)
るので、他に目的のあるものゝ来るべき、土地ではないと
思ふと、矢も楯もたまらぬ程帰りたへが、一杯になって来
て、学校へいっても生徒の授業に少しも気が乗らず、其(そ)の
日其(そ)の日を送るばかりであった。愈々(いよいよ)十二月の、試験期に
なったので、別れの餞(はなむ)けとして、総花的に点数を与へて、
生徒を喜はせたつむりであった。其(そ)の日の最後の時間に少
しマセた一女生が、先生はをやめになるって、ほんとうで
すかとの、霹靂(へきれき)一声には実に驚かされた。此(こ)れでは、寧(むし)ろ
話したほうが、ましならんと考へなほし二三日過ぎて、愈
々(いよいよ)二十五日の朝、生徒一同に向って、告別した生徒もいつ
もに似合はぬ静粛(せいしゅく)さであったが、其(そ)の内にめそめそ泣き出
すものなどあるので、これではと思いかへして、私は話を
やめて、あとは冗談話をして見たが、生徒が堅くなって居(い)
るので、一向にきゝ目がないから、今日はこれて帰っても
宜(よろ)しい、正月中は休み、私は之(こ)れでを別れだと言って、サ
ッサト事務所に引上げた、他の連中は、皆生徒をかへして
既に集まって居(い)た、私は成るべく早く立ちたいので、気が
急ぐから、校長始め一同に挨拶をして出掛けた処、体操場
に、待ち構へて居た生徒が、押寄せて来て身動きもならぬ
ように、先生先生と呼んで、取り巻いてしまった、私は身
動きもならず困ったが、此(こ)の位までに慕ってくれる生徒を
思ふと、可愛くってたまらない、此(こ)のまゝ留任したものか
とも、考へさせられたが断乎(だんこ)として決心を、翻(ひるが)へさなかっ
た、生徒は色々と、出立の日なぞを聞くのであったが、尚
両三日は居る旨を告げ、話ながら其(そ)の辺を歩るこうと云ふ
て、囲みを解かせ、学校前の小路を、後町に出、此(こ)の
処で喜嫌(きげん)能(よ)く、一同と別れた、私は下宿に戻り、打合せ置
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きたる通り、荷物其(そ)の他の用意は、充分に始末してあるの
で、生徒等が、見送りするなぞと云ふて居(い)たから、こられ
ては大変だから、生徒には気の毒であるが、明朝未明に出
立と、決心したが話さない夜分男女数名の生徒が来たが、
喜嫌(きげん)能(よ)く話はしたが、欺(あざむ)いて帰へした。二十六日の朝、真
暗の内に、下宿屋を出でて、旭をろしの、寒風に吹き曝(さら)さ
れつゝ、川中島に向った。船橋(注1)を渡る頃に、夜は全く明け
放れて、篠の井で朝飯、坂城て昼飯の順序で、存外早く上
田へ着いた。
(注1)丹波島の渡し。慶長年間北国街道の整備により、
丹波島の渡しが置かれ、主要な渡しとなる。
急流であったため両岸から渡された綱に沿って
舟を漕いでいたという。
明治六年(1873)丹波島舟橋会社により、46
艘の舟を並べた有料舟橋が架けられる。
有料の木橋が架けられる。後無料化される。
昭和七年(1932)鉄橋に架け替えられる。
二年越し長野に居たが、何等の収獲もなく、上田に帰っ
て見れば知人に遇(あ)ふ気にもなれず、毎日炬燵(こたつ)に燻ふ(くすぶ)って
居(い)た。たしか一月の十五六日と思ふが、外出した途中で
佃貢老人に久し振りで出逢った処、あまり大きくなられて
驚いた、今何かしてかとの尋ねであったから今考へ中と
答いたら、忰(せがれ)の元次郎が昨年師範学校を卒業して、今武石
小学校に務めて居(い)るが、二三名教員か不足して居るので、
彼此(かれこれ)と聞き合せ中であるが、今何もしていないで居るなら
武石へいってくれぬかとのことであったから、能(よ)く考へて
御返辞(へんじ)しますと云ふて別れたが、それから宅へも見へて、
両親にも話し、続いて毎日の催促に、とう/\根負けがし
て承諾した。武石は山間の大村落で昔は上田領であった
八ヶ村に別れ、武石は其の総称であった。此(こ)の辺には天領
が多く、人気が宜しくないが、武石は頗(すこぶ)る醇朴(じゅんぼく)とのことで
あった。私は知らぬ土地であるから、興味を以(もっ)て出掛けた。
大屋辺までは、二三回来たこともあるが、右方千曲川を渉(わたっ)
てから、中仙道に通する村道である。長瀬村を通るとき、
高柳(久保田)山岸等の諸君を思い出した。次ぎは丸子村
で上中下に別れ、較々(やや)長かった。丸子村を過ぎて小山の裾
に添えて、一方に川を臨(のぞ)み、何とか云ふ村を過ぐれば、冲
村であった、之(これ)が武石の一村で、入口である一軒の飲食店
に腰を掛けて、昼飯を命じた。主婦があんたがたにはどう
ですかなあと云ふて、持て来た飯に、麦が大変に交ってゐ
た。今日(こんにち)では平気で少しも恐れないか、其(そ)の時は頗(すこぶ)る困却
した。兎に角(とにかく)生れて初めての麦飯であった。冲から右に、
較々(やや)登り道であるが、ぢきに下武石についた。学校所在地
である、佃校長は非常に喜んで迎へてくれた。授業後に、
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一同に紹介してくれた。夜学にも、私は其(そ)の晩から出席し
て、日本政記(にほんせいき)(注1)を読んだ。授業の受持は何級だか忘れたが、
生徒は可なり大きかった。執事の下村氏(昔の庄屋)に面
会した処、旧藩時代に私の祖父には度々会ったが、面倒なこ
と無理なことは少しも言はれず、実によい方でしたと話し
た。昔藩用にて出張する輩の内には、何かと搖(ゆさ)ぶるものゝ
ある内に在て、祖父は潔白であったものと見へて今日(こんにち)其(その)話
を聞くは真に、喜ばしき限りである。二三日の後(の)ち、土曜
日が来たので五里の道を遠しとせずしてさっさと帰った。
学校の食事は朝夕が味噌汁で、昼は澤庵(たくあん)(タマニハ干物)
だけであるから、少し甘いものでも喰はないとやりきれな
いから、休日には雨でも雪でも厭(いと)はなかった。又私は日曜
の夕刻には、必(かな)らず学校に帰ったから、授業に対しては、
一分間の欠勤もしたことはない。或(あ)る時支校へ、出張して
くれとのことで、他の同僚と二人で出掛けた。一里半も離
れた上本入と云ふ処である、此処(ここ)には伊那方面の人で、支
校に宿泊して、授業をして居(い)たのであったが、何か事情が
あったものと見へて、障子(しょうじ)に墨黒々(くろぐろ)と、左の文句を認めて
出奔したのである。
(注1)にほんせいき。神武天皇から後陽成天皇に至る漢
頼山陽著。
「日本外史」とともに幕末・維新期の尊王思想形
成に果たした影響は大きい。
枳棘非恋鳳所棲、執事暗愚可嘆哉と書いてあった、何か
不平か、夫(そ)れはわからなかった、当時の執事は下村氏であ
った、三時間ばかり授業をして本校に戻ったが既に暮れた、
いつの日曜日だか、帰ったときに增田先生が、二三回見へ
て令息は、長野から帰へられて、武石へゆかれたそうだが
是非あいたいからと言い置かれた、とのことであったから
先生の宅へ、伺(うかが)つた処が、今武石の学校へ出て居(い)るそうだ
が止めて街学校へ出て貰いたいがどうか、余暇(よか)には何でも
君の好む書物を、見てあげようとのことであったから、私
はすぐにでも、御願いしたいと、返辞(へんじ)はしたかったが、都
合もありますから、少しく御猶予(ごゆうよ)をい願ますと云ふて、帰
って、急いで武石へ戻った。こうなると気が落つかぬので
其(そ)の挙動が、自然他の人にも知れる者と見へて、宮下さん
は、近いうちにやめるんぢゃないかと云ふような、ささや
きを耳にするので猶予(ゆうよ)は無用と考へ私は断然決心して、辞
職を申出た処が、佃氏も余りよい顔もせず、責めて月末ま
で居てくれとのことで、無理もないから、言はるゝ通りに
(改頁)
した、次ぎの日曜に戻って、增田先生に二月限りで武石を
止めますから、三月から街学校(注1)へ願いますと挨拶した処、
非常に喜ばれて、能(よ)く武石では、早速承知したなあと言
はれた。武石時代は、寒い時分であったから、村内も見巡
りもせず唯今以(もっ)て覚へ居(い)るのは武石の出る、岩山を案内し
て貰い、岩を碎(くだ)いて、武石を取って見たことゝ、夜間時々狐
に鳴かれたことだけである。私の在職は遠く六十三年前の
昔のことであるから、当時同僚であった、諸君の姓名も覚
へてをらぬが、健在は少なかるべしと思はる。其(そ)の後に至
て、医学博士高橋信美、柳澤雅休、池内正方等の諸君が出
られ、武石村を代表し、燦然(さんぜん)として天下に輝いて居(お)らるゝ
のである。
(注1)上田街学校。明治十一年に明治天皇巡行のため
行在所(あんざいしょ)としてつくられたが、
後町民のための上田街学校として使われた。
明治三十一年、失火により全焼。校長の久米
由太郎は引責自決した。
三月某日から、街学校に出勤することゝなった。教員の
主席は增田先生で、次席が新田義徳、栗山誠蔵の両氏で、
其の以下は若林慶諟、依田悌三郎、小松彦次郎、上島徳義、
土屋筑溪、松前朝道、增田健太郎、廣瀬信太郎、森和重、
出野音吉、尼子麟太郎、吉岡銀一長の諸氏で、女教員には
河内山虎、河邊順、広瀬源の三氏で、学務委員は瀧澤源六
氏で、土屋幸吉氏が補助であった。私も出で見れば、知ら
ぬ人は森和重氏ばかりで、あとは皆知人であるから、格別
窮屈(きゅうくつ)のこともなかった。受持は七級か八級か忘れたが、最
少の子供であるか、煩(うるさ)さへばかりで、骨も折れなかった。
それが今日では、六十以上のじいさん、ばあさんになって
ゐるから面白い。私は朝は增田先生の宅では、前漢書(注1)を読
み、夕方学校では、出野尼子吉岡の三氏と共に、私は皇朝
史略(こうちょうしりゃく)(注2)を読んだかと思ふ、後には四人同一の書物を、読むこ
とゝなって、先生から蒙求(もうぎゅう)(注3)を指示された、中々六ヶ敷(むずかし)いの
で、閉口したが、幸(さいわい)に海野町の古本屋に、蒙求(もうぎゅう)国字解(こくじかい)なる
ものを発見したので、早速に買求め、順繰(じゅんぐり)りに廻し下調べ
て、先生の前へ出るので、較々(やや)安堵(あんど 安心)した。私は此(こ)の蒙求(もうぎゅう)
の為に漢文の力がついたように思はれる。今日でも左右に
置いて、時々読むことゝして居(い)る。毎日朝から、弁当をつ
るして出掛け、夕方まで、子供を相手にして居るのも、生
計上に幾分でも関係ありとすれは、問題は大きいが、私は
其(そ)の点埒外(らちがい)にあったので、仕合であった、小諸から、小山
書店の出張員が、時々やって来ては、新版書籍を買はされ
(改頁) 16
たものだ。或(あ)る時私は出張員に向って、君の店に行くから
書棚に並べてある、書籍を始め、其(そ)の他のものもなすがま
ゝにして、見せるかと言ふた処が、何時(いつ)でも御出(おいで)ください、
あなた様のような、御得意様には、御自由に御見せします、
とのことであったから、或(あ)る日曜日に、弁当持参で出掛け
て、小山書店を訪(おとな)ふた処、先刻から御待ちして居(い)ましたと
云ふて、相当の待遇(たいぐう)をした。私は遠慮会釈(えんりょえしゃく)なく掻廻(かきまわ)して、
大ぶんに時間が掛ったので、二三冊買求めて、早々に戻っ
たことがあったが、大屋辺から暗くなった、其の後は鼠甲
の書店と、懇意になったので、時々出掛けては、書棚捜し
をしたものたが、之(これ)が私の道樂(どうらく)の一つだ。
(注1)ぜんかんじょ。「漢書」のことで、前漢の高祖
劉邦から新の王莽まで二百三十年間の中国の
正史。
(注2)神武天皇から後小松天皇譲位の1412年までの
日本史の通史。水戸藩士青山延于著。はじめ
「日本史略」といい、幕末期に歴史教科書とし
て用いた藩校が多い。
(注3)唐の李瀚が選した児童用教科書。日本では878
年貞保親王読書始めを初見。中世後期に南宋の
徐子光の補注本が伝来し、江戸時代にはそれに
基づく研究が開花した。
維新前は相当の侍であったが、今は見窄(みすぼら)しい、姿をして
パンを籠(かご)に入れて持て来て、買てクレンかと、昔気質(かたぎ)の言
葉で、籠(かご)を突き出す老人があった。それは追手前で、藤井、
佐々木の両氏(旧藩士)が、牛乳店をして居(い)た、其(そ)の売れ
残りの乳で、粉を堅(かた)めて拵(こしら)へたもので、一ケ参銭で、中々
甘かったので、度々御得意になったことがあった。
九月七日は、御巡幸(ごじゅんこう)の砌(みぎり)、本校が行在所(あんざいしょ)に当てられた、
記念日であるので、各室を清掃し、御坐(ござ)となった室には、
御写真を飾って、教員一同、生徒総代等、端坐(たんざ)拝礼して、
有志は祝文を朗読したが、私も其(そ)の一人であった。式の終
るや、学校全部を解放して、一般の参観を許すので、それ
が夜分にまで渉(わた)って、中々賑(にぎや)かであった、格別見るもの
もないが、三階に燈火(ともしび)を点じたる有様を、海野町方面から眺
めての壮観さが、すばらしいので、自然人を集めたものと
思はれた。当時の学校は既に焼失して、今日(こんにち)は市役所にな
っているが、九月七日の行事は継続されて居(い)る。
教員の更迭(こうてつ)もあり、生徒の受持もかはった。
年末の賞与の問題が、噂さにのぼった、噂ささるゝ程の
ものでもない、ほんのぽっちりである、最優等の出野君が
倍額との評判で、すばらしかったが、それが大枚弐円也だ
他は知るべきのみ、然(しか)し出野君としては、抜群の名誉であ
った。
本年も茲(ここ)に暮れて、私は十八歳の青年となった。
茲(ここ)に明治十四年を迎へたので、四五年振りで、年始廻り
をして見た、二三軒あがれ/\と言われて、あがった家も
(改頁)
あった、夜は歌留多(かるた)取りにも出掛けた、所謂(いわゆる)下手な、横ず
きではあるが、興味があって、面白いので、殆(ほと)んど毎晩の
ように出掛けて、一二時頃に戻るのであった、鎌原方面で
は、尤(もっと)も盛んで、男では太田鶴雄君、女では、大橋きよ子
さんなぞが、大将株で、頗(すこぶ)る猛烈を極めたものだと聞いて
居た。
二十五日から愈々(いよいよ)開校となった、受持の組もかわり、教
員にも二三の新顔が見へて、新田義徳氏は、他に転じられ
た。私の受持の組は、かわってもかわりばいのない、豆組
で、興味のないのには閉口した。
今歳(ことし)は政海(政界)の荒波の、尤(もっと)も激烈を極めたる、年であった。
政府部内に於(おい)て、尤(もっと)も重きをなし、経世家(けいせいか)として聞こへた
る、内務卿(ないむきょう)大久保利通を、五月十四日参朝(あんちょう)の途中、紀尾井
町に於て、斬たる不祥の、大事件があって朝野(ちょうや)愕然(がくぜん)た
りであった。凶賊は石川県士族島田一郎、五名であった
が、直(じき)に縛(ばく)に就いた。本年はこればかりではなく、種々な
る難問題が起て、実に鼎(かなえ)の沸(わ)くが如(ごと)き有様であった。北海
道官有物の払下げの如(ごと)き、薩摩人の私曲(しきょく 不正)は、天人共に許さ
ざる処、大隈参議は完然して、猛烈に反対し、敵をして
顔色なからしめた。又京浜毎日、郵便報知、朝野、東京日
日の各新聞は、筆を揃へて攻撃し、又鎌田栄吉、藤沢茂吉
沼間守一、福地源一郎、田口卯吉等の諸氏は、口を極めて
論難(ろんなん)したる、精神一到は天下に及ぼして、何事かならざら
んやで、終(つい)に正義の大旆(たいはい 堂々たる旗印)を樹(た)つるに至った。次ぎの問題は
国会開設である、是(こ)れ又大隈参議が火蓋(ひぶた)を切った。十五年
の末に憲法を制定して、十六年の首(はじ)めに国会を開くべし
との、意見であった。兼(かね)ては同志であった、伊藤博文井上馨
の両氏さへも、其(そ)の尚早(しょうそう)論に、驚いたくらゐであるから、
他の保守連は、全く後へに、瞠若(どうじゃく 驚いて目を見張る様)たりやに、考へらるゝの
である。大隈参議の意見の漏るゝや、国会開設の民間有志
は、一層強項となって、喧々囂々(けんけんごうごう)として、底止する所を知
らず、天下乱れて、麻の如(ごと)しと言いたい位てあった。
天皇陛下には、十月十一日東北より、御還幸(ごかんこう 行幸先から帰ること)あらせられ、
即夜大臣参議を御前に召され、評議を尽さしめ給(たま)ひて、翌
十二日、明治二十三年を期して、国会開設の勅論(ちょくゆ 天子のおさとし)を発し賜(たま)
ふた、即ち王言如糸其出如綸王言如綸其出如綍であって、
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全国静謚(せいひつ 世が穏やかに治まること)に帰して、真に大風一過の観かあつた。
此(こ)の政論が、我が上田方面にも波及して、自然青年の間
にも、滲透(しんとう)して土曜とか、日曜に集まって、演説や討論を
して、自由とか改進とか唱へて、互に鎬(しのぎ)を削ったものだ、
此(こ)の頃であったか、小諸に於(おい)て、佐久小県両郡の、懇親会
があって、上田へ呼びかけて来た、私は約束した友人が、
来ないから独りで出掛けた。私より遅れて、岡本篤、渡邊
久太郎の両氏が見へた、会場は本町の突当りの寺で、堂内
一杯の人であったが、何分にも不整理で、興味も、面白味
もなかった、唯長野時代の知人、龍岡の澤路氏、中込の小
林氏、小諸の隈部氏に落合って、久闊(きゅうかつ 無沙汰)を叙(じょ)し、当時を話合
ったのが、責めてものことであった、渡部氏は小諸の親戚
に泊まり、私は岡本氏と夕刻上田に戻った。
確か本年の、七八日頃と思ふが、ハシカが流行して、学
校が休みになったので、私は中村彌重氏と、南信旅行を思
い立って、先づ(まず)諏訪に向っだ。長程十六里で、和田嶺を越
へねばならぬので、途中一目散に急いだ、長窪の川添への
景色のよい処に、休憩して、登り途となった、較々(やや)暫(しばら)くし
て、餅屋があって、頻(しき)りに呼び込む、其(そ)の娘が鄙(ひな)に稀(ま)な
る美人で、愛嬌(あいきょう)を溢(こぼ)して色々と話すので、容易に動けなか
ったが、思切て出立した。和田村は火事跡で、村民総出で
ゞ取片付中であった。峯をくだって、豊橋に来た頃は既に
夕暮れであった、武田耕雲齋(注1)が、部下に今弁慶と其(そ)の名を
響かせた、不動院全海なるものがあった。松本高島の両藩
と、武田勢が、此の和田嶺で、戦ったときに、戦死したの
で、其の草が茲(ここ)とある。大きな自然石で、堂々たるもので
ある、此(こ)の処で諏訪湖が始めて見へた、両人共に墓に一揖(いちゆう おじぎをすること)
して、話は当時の戦争話に及んた、松本高島の両藩が、此(こ)
の要害の地に於(おい)て、武田勢を阻止せんとして、戦て破れた
のは、時の利不利によるので、決して士魂(しこん)がないとはいへ
ない。然(しか)るに武田軍を討伐すべき、命令を受け、隊長始め
一同軍装をなして、領分境まで出張したるも、遙(はる)かに遠く
はなれて、一向に進まず、唯勢揃へするのみであった。較
々(やや)暫(しばら)くして、武田の通過したるを聞くや、俄(にわか)に元気づき
活動を始めたとは、士魂処か、真に笑ふべき振舞ならずや
然(し)かも之(これ)が我が上田藩である。此(こ)の時独り毅然(きぜん)たる、大丈
(改頁)
夫があった、それは参謀の山田貫兵衛氏であった。此(こ)の
人の名は忘れてはならない。以上のような話をしながら、
夜道を豊橋から下りて来る、腹はへる、足は疲れる、漸(ようや)
く下諏訪についたのが、夜の九時頃であった。見る処亀屋
と云ふ宿屋がよさそうだから、飛び込んた処、権もほろゝ
の挨拶で、留めぬと云ふから、其(そ)の理由を尋ねたが、返辞(へんじ)
がない。我々は書生で身なりも悪いが、我々は上田で、相
当なものである、此(こ)の家から上田へ、養子にいって居る人
も、能(よ)く知って居(い)る、殊(こと)に近所で、其(そ)の仲間で、時々会合
するのみならず、別懇(べっこん 特別に懇意なこと)の間柄でもある、まだそれでも胸に
をちぬならば、電信で問合せて、貰いたいと、高飛車(たかびしゃ)に捻
ぢ込んたので、先方も非常に折れて、代た番頭が出て来て
とんだ粗相(そそう)を致しました、どうぞを通りくださいと云ふて
立派な部屋に案内しくれた。其(そ)の内に女中が来て、愛嬌(あいきょう)よ
く、風呂にも連れてゆき流しましょうかと、を世辞(せじ)たっぷ
り、一浴の上一酌を傾け、陶然(とうぜん)として寝に就いた。
(注1)武田耕雲斎1804~1865 幕末期の水戸藩執政
元治元年十月水戸天狗党を率いて京都に向け西上、途中和
田峠で松本藩、諏訪藩と交戦した。
翌日は、朝早く宿を出て、諏訪盆地に恰好(かっこう)の湖水をなが
め、春の宮を参拝して、上諏訪に赴き、市内高島城趾を見
物し湖畔(こはん)にて、名物の諏訪鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)を喰ったが、上田の蒲
焼に比すべくもなく、頗(すこぶ)る不味(まず)かった、午後の二時頃、宿
に戻ったので、女中が、早速に明神様に、を参りなさいま
したかと聞くから、往(い)くときも復(かえ)るときも、そこの春の宮
へ、を参りしたと言ふたら、それはを宮が違へます、道理
でを帰りが、を早いと思いました、明神様は上諏訪から、
二里程も行かなけれはなりませんから、を参りをなされば
夕刻になりますので、を早いと申上げたわけで、惜しいこ
とを、なさいましたと言ふから、朝出掛けに、注意して、
くれゝばよかったと云ふたら、皆様のことですから、御承
知のことゝ思いましての一言には、一本やられた感があっ
た。夕食後に、夜景を見に出掛けて、共同風呂にはいって
見た。よせはよかったのに、半風に見舞はれた、明朝出立
の旨を告げた処、独りの可愛い女中が、中村が買物に、外
出するのを見て、飛んで来て、泊るときにあんなに八釜(やかま)し
く謂(いっ)て、もうを立ちですか、責めてあと一二日居て下さい
よ、御馳走も御待遇も、気を付けますから、是非そうして
くれと云ふので、女中の手前少し心は動いたが、断然出立
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することゝした処か、女中は脹(ふく)れて居(い)たので、惻隠(そくいん 同情すること)の情が
起らないでもなかったが、我々には仁の端がなかったと見
ゆる俄(にわ)かに飯田行きを見合せて、松本行きを急いで、師範
学校(注1)に在学の諸君と、一夕の懇談(こんだん)をなして、両人は浅間温
泉に泊った。翌日午後、御射山(みさやま)越をして、鹿教湯(かけゆ)に向った
が道路の悪いのには、実に閉口(へいこう)した、夫(そ)れに御射山は、樹
木が多く、道が暗く、聞きつけぬ鳥が鳴くので、実に無気
味であった、然(しか)るに此(こ)の山中に、一軒の住家があったが、
唯其(そ)の勇気に驚いた、山頂に於(おい)て北方に上田方面を、一眸(いちぼう)
したのは実に愉快であったが、日が暮れかゝってきたので
急ぎ下山して、鹿教湯についた、齋藤旅館に投宿して直に
入浴、一日の労を忘る。中村君は、更に夜になって独りで
入浴に赴き、所謂(いわゆる)村の若衆連と衝突し、擲(な)ぐられがゝった
とかで、跣して(はだしで)逃げ帰った、滑稽(こっけい)談が、他日の一つ話にの
こった。翌朝立て霊泉寺(れいせんじ)に廻はった、実に透きとうるよう
な、奇麗(きれい)な温泉である、有名な不開の門も見た、一浴の上
食事をして出立、夕刻上田に帰った。
(注1)明治九年筑摩県が長野県に合県後は長野師範
学校松本支校となった。
十一月十二月は、夜学に松平学校に通い、高桑先生の、
算術の教授を受けた、八時過ぎになると、時々狐の鳴くの
を聞いた、本年も終りとなったが、增田先生のをかげで、
漢藉(かんせき 漢文)は相当に読んだつむりだ。
明治十五年を迎へて、十九歳となった、髯(ひげ)なぞもうっか
りして居(い)ると、伸びて来るので、実にやりきれなくなった、
年始廻りもした、歌留多(かるた)も取りにあるいた。
学校では、六級を受持つことゝなった、男女四五十名ば
かりの組であった、其(そ)の内に、神童小口忠太氏が居た、後(のち)
の名古屋帝国大学総長、正四位勲二等医学博士である、恐
らくは街学校出の、最高峰ではあるまいか、此(こ)の組には、
小口氏の外に中澤幸太郎と云ふ、秀才が居たが終りは能(よ)く
なかったらしい。小口とし子と云ふ可愛い娘も居た、いつ
も女生徒の一番であった、丈夫なれは六十歳以上の、を婆
さんだが、消息がわからない。私の上京の話も、漸(ようや)く軌道
に乗り出したが、兎角(とかく)不景気嵐に吹捲(ふきま)くられて、伸長しな
いので、私も一喜一憂(いっきいちゆう)の中に、髣髴(ほうふつ ぼんやりみえるさま)として居(い)たのであるが
無理も通さず、窮通(きゅうつう 零落れいらく すると出世すると)を待つの外はなかった。私としては、
一大事であるから、自然元気も失せ、顔色にも見はるゝも
(改頁)
のと見へて、尋ねて呉(く)れる人もあったが、笑て答いずに居
た。十月の何日であったか、忘れたが、母が病気で、寝て
居(い)る枕もとに、私は父から呼ばれた、此(こ)の先(さ)き両三年位は
金の遅(送)れる見通しもついたから、東京へ修業に出すから、
人に笑はれぬように、しっかりやってくれよと、父に言は
れたので、私は飛び立つばかりの嬉しさで、再三頭を下げ
た。母は自分が病身でもある処から、能(よ)く体に気を付けて
と、一言注意されたが、実に千萬無量(せんまんむりょう はかりしれないこと)の思いであった、早
速二三の同喜同憂の親友にも話して、十二月一日に上京
の途につく、鈴木平吉氏と同行を約し、学校も辞職を申入
れ、唯独り何となく気世話しがった。十一月末に受持の生
徒に対して、訣別(けつべつ わかれ)の辞を述べ、教員諸氏には、交誼(こうぎ)を謝し
て、引上げた。一両日の内に荷物一切を取纏(とりまと)め、出京の日
を待つばがりとなった処、母の甥の一人が、此(こ)の頃の伯母
の容体が、案じらるゝから、私に出立を延期してはどうか、
父も言葉を添へて、自分もそう思ふと言はるゝから、外の
ことゝは違い私も心配であるから早速に同意して、鈴木君
に其(そ)の旨を通じ、同君が出立の十二月一日には、海野町
の馬車屋の前に見送った。不思議にも母の病気は十二月の
四五日頃から、日一日と快方に向い、裏の寝室から、表の
部屋に、出掛けられる位になったので、もう大丈夫だから
出立せよと母は言ふのであっだが、年末も押詰(おしせまっ)て居(い)るので
相談の上、一月二日に、出立と決定して、親戚始め友人へ
も知らせた。愈々(いよいよ)年末となって、病中の母も年取の膳につ
いた、父と祖母と私を合せて一坐僅(わずか)に四人寂しい家族で始
めは格別話もなかったかそろ/\酒が、物を言ふように、
なってきたので、中々賑(にぎ)はったが、結局は私のことが気に
掛ると見へて、種々注意されることばかりであったが、親
なればこそと、思はれて衷心(ちゅうしん)より感謝せずには居(い)られませ
んでした。
一月一日朝一同祝膳についた、私は早速雑煮餅(ぞうにもち)を貰って
二三杯傾けた。祖母は東京にゆけば、すきな雑煮が、食べ
られまいからと、強いらるゝ、老婆心(ろうばしん 必要以上の親切心)は難有(ありがた)いが実は腹一
杯に食べたあとで食べなければ、機嫌がわるいので困り入
った。私は此(こ)の日外出は見合せた、年賀の人は兎も角(ともかく)、次
ぎから次ぎと、来訪の友人とは、を互いに話もありながく
(改頁) 19
もなるので、自然と夜も耽けた、明くれば愈々(いよいよ)二日、出立
の朝となった。私は頗(すこぶ)る緊張して、両親始め来訪の人々に
慇懃(いんぎん)に挨拶して、馬車には、大宮神社の前から、乗ること
にして置きましたから、を見送りは、宅の前だけで、結構
ですと断ったが、横町を真直に、常田の角まで、送られた
人が多かった。此(こ)の処からは、四五名の友人が大宮前まで
送ってくれた。馬車の乗客が、少なかったので、早川繁夫、
山浦橘馬の両君は、大屋まで送ってくれた、其(そ)の両君に別
るゝのが、如何(いか)にも寂しく、私は東に向って、行くのであ
るが、郷関(きょうかん)を出づるの感かあった、両君も馬車の見ゆるう
ちは、立て居てくれたが嬉しかった。馬車は頗(すこぶ)る鈍(の)ろい、
無理もない痩馬(やせうま)に重荷だ、小諸を過ぎて、唐松を見る。丁
々(ちょうちょう 打ち合うおと)たる大樹(たいじゅ)の松林、百萬石(注1)が、垂涎(すいぜん 強くものをほしがること)したのも無理はない、
追分もさびれたとのこと、昔話に此処の宿屋の茶代が、尾
州侯は壱千疋(ひき)で、本願寺が、十萬疋(ひき)(注2)であったとのこと、其(そ)
の差こそあれ、何(いず)れにも苦痛はない、二時頃軽井澤につい
た、宿屋が泊れ/\と、呼び込むのであったが、私は馬を
傭(やと)って、碓氷を越した。碓氷は非常の、難所のように、吹
聴されて居たが、来て見れば左程(さほど)でもなく、馬上ゆたかに
坂下(ママ坂本)に安着、小竹屋に投宿した、一泊十九銭、私は茶代十
銭を奮発した処、奇麗(きれい)な敷物をひいて、茶菓子も上等のも
のと取替へる、入浴も第一番、膳部も第一番の優待ぶりで
あった、食後暫(しばら)くすると、按摩(あんま)がやって来た、女でまた娘
だ、を療治はいかゞと、言ふ声も、やさしく聞こいたが、
私はいらぬ/\と再三断はるのに、強(し)ゆるのを、隣室の客
が、其(そ)の旦那は、まだを若いからだめだ、こっちへ来て、
療治をしてくんなと、呼んでくれたので、私はほっとした
が、隣室の客が、又いつまでもいつまでも、按摩(あんま)をからか
って居て、安眠を防害されたのには、困却した、鳴呼(ああ)気の
毒なるは、此(こ)の世に於(お)ける弱き者よ、早朝に、立つつむり
で居たが、乗客が少ないので、馬車が容易に動かない、九
時頃になって、漸(ようや)く御者(ぎょしゃ)が、鞭(むち)を痩馬(やせうま)に当てた馬車は動き
だしたか、優々閑々(ゆうゆうかんかん)たるもので、見物馬車と見れば差支い
ない、昔の関所をあとにして、右に上州三山の一なる、妙
羲の秀峰を仰ぐ、私は登山はしなくも、安積艮齋(あさかごんさい)(注3)の文章で
山中一切は呑込んでゐた。碓氷川に添ふて、東に向い、松
(改頁)
井田安中板鼻を経て高崎に、一見其(そ)の繁昌(はんじょう)ぶりを見
て、我が上田との交渉(こうしょう)もある、商業地と思はれた、馬車を
乗り換へて、二時頃出掛けた、倉賀野から工女らしい、三
人の娘が乗った、独(ひとり)の眉目(びもく)よき弱々しい子は、私の隣りに
見るからに、岩乗(がんじょう)の両女は、向側に腰をかけた、馬車が少
しでもがたつくと、隣りの子ば、手拭を口に当てゝは時々、
下向きになるので、私は苦しいですかと、聞く其(そ)の刹那(せつな)、
馬車は烏川の橋上に差掛(さしかかっ)た、彼(か)の時遅く、此(こ)の時早く立て
河中にでも、吐瀉(としゃ 吐く)せんとしたものか、誤(あやまっ)て私の肩へ吐きかけた
ので、本人は泣かんばかりに謝(あや)まり、向ふ側の両人も
手伝って、拭(ぬ)ぎとってはくれたが、私は実に不愉快であっ
た。三人は製糸工女と見へて、新町で下車した、車上では
病人でも、下車すれば、元気になるものと見へて、馬車の
出掛けるまで居て、私を見送った。馬車の都合で、今夜は
本庄に、泊ることとなったのが、私は大不平で、本庄から
東京までの、賃銀の返戻(へんれい)を迫ったが、聞き入れない、明日
中に、東京にを送りするを約束ですからと云ふて、承知し
ない。宿屋の主人も、乗客がないものですから、御辛抱(ごしんぼう)願
いますと、口添へしたから、不精無性(ふしょうぶしょう)承知してやったが、
実に忌々しかった、それに今夜は木賃宿同然の旅籠屋で
夜具が薄く、寒くって能(よ)く眠れなかった。宿料は茶代ぐる
み二十五銭を与ヘた。
(注1)加賀百万石の大名行列がここを通過する際、
余りに見事な松並木を羨ましがった。
(注2)鳥目十文の称、百文を十疋、一貫文を百疋とし、
銀貨一分に当つ。
(注3)寛政三年~万延元年(1791~1861))、幕末の
朱子学者。江戸で私塾を開き、岩崎弥太郎、
小栗忠順、清河八郎らが学んだ。
四日の朝早く立った、熊谷の土手は寒かった、鉄道工事(注1)
は、此(こ)の辺までは大概には落成したとかで、資材の運搬の
盛んなることが、始めて見る目には珍しかった。大宮を過
ぎて、浦和から東京行きの客が、独り乗て、私の隣りにか
けた、名刺をよこして、郷里は松本で、東京で代言人(だいげんにん)をし
ています、あなたは東京へは、始めてゞすか、そうです、
行かれる処は、本郷です、本郷はどこですと、聞くから弓
町と答へたら、能(よ)く知ってゐますといふて、馬車の眼鏡橋
に、つくのが夜の八時過ぎで、それから、弓町までは、相
当の距離がありますがら、今晩私の宿へを泊りになって、
明朝私が弓町まで、を連れしましょうと、親切らしく言ふ
てくれるので、同意した処、なほ雑談の後(の)ちに、本音を吹
いた、それは浦和から東京までの、馬車賃を立替へくれ、
其のかわり、今晩の宿料は、自分が払ふからとのことであっ
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た、格別のことでもないから承諾した、八時半頃東京につい
た、今の萬世橋駅(注2)前で、少し樹木があって、名前は忘れた
が、何の原とか呼んで居た、馬車賃を払ってやって、代言
人(だいげんにん)と同道して、錦町の其(そ)の宿についた、食事をして、私は
独りで出掛け、書店の前につりさげてある、錦絵なぞをそ
れからそれと、見てあるき元の道に戻ったが、宿屋がわか
らない、それに宿屋の名を、聞かなかったから、尋ねるに
困却(こんきゅう)して、再三再四、往復して居るうちに、宿屋の前に、
売出しで景気能(よ)く、提灯(ちょうちん)の吊(つ)るしてあったことを考へ、
其(そ)の向ふ側を見て、宿屋が知れたので、ほっとした。此(こ)の
夜依田悌三郎、福田音吉の両氏へ着京通知のハガキを出した。
(注1)高崎線の建設工事。明治十六年(1883)日本鉄
道により上野―熊谷間が開通し、翌年五月に高崎
まで全線が開通した。
(注2)明治以降、主に洋服生地を扱う問屋街が周辺に
形成された。万世橋駅前の連雀町(今は神田須
田町 神田淡路町の一部)には、飲食店、寄席、
映画館が次々と開業した。
五日の朝代言人(だいげんにん)(注1)の案内で、猿楽町から水道橋を渉(わた)って
これが壱岐殿坂、坂を登れば左側の二つ目の小路が、弓町
と思ふと、話してくれた、それなれば、あとは私独りで大
丈夫です、遠方誠(まこと)に御苦労でしたと、挨拶して居(い)る処へ、
仕合(しあわ)せにも鍈十郎氏の夫人に、出逢ったので、代言人と別
れ、津田氏の宅へ案内されたが、近くであった。老夫婦に
は、既に面識(めんしき)があるので、左程(さほど)窮屈(きゅうくつ)を感じなかった、咋夜
見ゆるとのことであつたから、遅くまで、待って居たとの
ことであったから、代言人(だいげんにん)の一條を話して謝した処、大(おおい)に
笑はれて、将来を注意された。昼食には、湯島切通の豊国
で、牛肉の馳走(ちそう)になったが、私はこんな甘い牛肉は生れて
始めてであった、帰途(きと)には、帝国大学の辺を、案内されて
加州邸(注2)の御主殿門(注3)の話なぞ聞いて戻った、夕刻当家の宗子(そうし 長男)
茂理氏が帰られた、私は初対面の挨拶をなして、後も晩餐(ばんさん)
を共にした、同氏は酒豪だから、食事が中々永い、其の間
に諸学校の状況とか、学生の事情等を、話されたので大(おおい)に
会得(えとく)する処があった。
六日は一日見物に費やし、先づ(まず)海を見たり、汽車にも乗
て見んものと、朝早く大略の道順を聞いて、眼鏡橋(現今
の萬世橋駅の処)(注4)に出て、鉄道馬車に乗って、日本橋通り
京橋銀座を経て、馬車終点の新橋に下車して、新橋駅に至
り、品川まで汽車に乗る、乗り心地頗(すこぶ)るよろしく、又一方
に漫々(まんまん 広々として果てしないさま)たる海を見る、快言ふべからず、品川に下車、泉岳
寺(せんがくじ)に、義士(注5)の墓を奠(てん そなえもの)して、芝公園に出て、愛宕山に登りて
(改頁)
赤坂に出て、假(か)り皇居を拝して、後(あ)とば、道順の記臆もな
く、盲人滅法(めくらめっぽう)に歩るき、廻はって、夕刻に戻った。
(注1)弁護士の旧称
(注2)加賀前田藩邸
(注3)現東京大学赤門
(注4)明治以降、主に洋服生地を扱う問屋街が周辺
に形成された。万世橋駅前の連雀町(今は
神田須田町-神田淡路町の一部)には、飲食店、
寄席、映画館が次々と開業した。
(注5)赤穂浪士四十七士
七日には、早稲田を訪(おとの)ふべく、出掛け砲兵工廠(こうしょう)前の寒風
に晒(さら)されて、神楽坂を昇り、驀地(まっしぐら)に急いだが、中々に遠い
ので、長亭短堠(ちょうていたんこう 距離の遠き宿駅、短堠は一里塚)の憾があった、漸(ようや)く学校に近づきし頃、突
然裏道に出た、寄宿舎が見ゆるので、小道を行けば曲折が
ある田面を渉(わた)れは真直(まっすぐ)である、如(し)かず田面よりせんにはと
田に下りるや、右足がずぶずぶと没するので、驚いて足を
あげたが、足袋(たび)と下駄(げた)は、泥だらけになってゐたが、洗ふ
所もないので、其(そ)の儘(まま)寄宿舎に鈴木平吉氏を尋ねた。その
とき、片方の汚れた足袋だけぬいで、片方は、其(そ)儘(まま)はい
てゐたので、笑て居(い)た者もあったようだが、僕は不関焉(かんせずえん)で
あった。鈴木君と共に、小河滋次郎君(注1)を訪ふた。実に二三
年振りの面会であった、同室の一同の人が私を見て、吹き
出した。小河君が、其(そ)の片足の足袋(たび)はどうしたのかと、聞
くから、云々と話した処、それなら両方脱いでゐたら、誰
れも笑いはしまゐ、君の昔気質(かた)ぎは、何年たって、ぬけ
ぬものと見ゆると言って笑って居た。小河君かこれからど
うすると聞くから、或(あ)るべくは傍聴(ぼうちょう)(注2)生として、入寮を許し
て貰へば好都合であると、言ふた処、それなら幹事に、頼
んでみようと云ふて、話して呉(く)れた処、承諾したとのこと
で、私は非常の仕合(しあわ)せをした。小河君と私の交際は、これ
から再燃して、終生変はらなかった。中島彌門太君も、小
河君と同室に居た、私は都合次第、一日も早く、入寮すべ
き旨を告げて辞去した。玄関口で小使(こづかい)が、私の汚れた下駄(げた)
を見て、笑て居(い)るから、此(こ)の足袋(たび)をやるから、其(そ)の下駄(げた)を
洗って、呉(く)れぬかと言ふた処、二つ返事で忽(たちま)ち洗ってくれ
たから、其の足袋(たび)を与へて、素足のまゝ、下駄(げた)を履いて帰
った。これが縁になって、此(こ)の小使が、能(よ)く私の用事をた
してくれた、夕刻戻って友人の小河君の斡旋(あっせん)で、入校の事
が、好都合に進んだ旨を話した処、一同が大変に喜んでく
れられ、茂理さんは、それはを目出度(めでた)い、今晩は祝酒とし
て、いつもより一二本余計に、頂戴(ちょうだい)したいと、言われた処、
母堂より、それはを門違いと、飛燕(ひえん つばめのようなはやわざ)と跳ねられて大笑いで
あった。郷里へも入学済みの件を通知した。
荷物が届かぬので、学校へ行くこともできぬから、今八
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日は友人を訪問することゝした。湯島天神町に、依田悌三
郎氏を訪(おとな)ふた。久しく郷里に帰らぬので、父君よりの、涙
の伝言を申述べて、所感(しょかん)如何(いかが)と問ふて見た処、親父の泣く
のは病気で、言ふことも尚更、心配することはないと、軽
く答て居た。福田音吉氏を訪(おとな)ふべく同行した、京橋の左
河岸で、上田医院と銘を打ったる、医士の宅である、福田
君か控へて居(い)た、直(じか)に私に向って、先日着京の通知が来た
から、急いで錦町の宿屋に尋ねた処、今朝を立ちて、行先
き不明とのことであったが、田舎者は気がきかぬので、実
に困るとの挨拶で、私は真(まこと)に痛みいった、福田もいつか江
戸っ子になって居(い)たわいと感心した。三人で銀座の、松田
で昼食をして、鉄道馬車で浅草に赴き雑沓(ざっとう)を排して、第一
に観音堂に登り、一揖(いちゆう ちょっとおじぎをすること)したが、其(そ)の善男善女の、多いのには
驚いた。又堂後は、今日と違って、各種の見世物小屋が
櫛比(しっぴ 櫛の歯のように立ち並ぶこと)し、各種の飲食店が、密集して、寸分の余地をも見ざ
る程の熱閙(ねっとう 混雑すること)境で、喧喧嗷嗷(けんけんごうごう)、真(まこと)に名状(めいじょう)すべがらざる場所で
あった。危きに近寄らざる君子の筆法に習い、直(すぐ)に雷門に
戻り、鉄道馬車にて、上野に下車したるも、上野公園は冬
枯れの跡、まだ見るには早いので、割愛(かつあい)して、依田氏の下
宿に立寄り暫(しばら)く話して別れた。帰って見れば、郷里からの
荷物が届いて居たので、早速開いて分類し、一切が整った
ので、明日入寮することゝした、机は津田氏から、茂理さ
んの遣(つか)はれた、古物を貰ふことにした。
(注1)文久三年~大正十四年(1863~1925)。監獄制
度改良と方面委員(民生委員)制度の創始者。
上田郷友会創立メンバーで、山極勝三郎と並び
称される。
(注2)東京専門学校、後の早稲田大学。当時、東京専
門学校から東京大学へ進学する者が多くいた。
九日の朝、津田氏の一統(いっとう)にも、慇懃(いんぎん ていねい)に挨拶をして、人力
車三台を傭い、私はランプを持て、一台に乗り、あと二台
には、荷物を載せ、三台揃って早稲田に向った。先日歩い
たことを、考へると、非常に早かった。寄宿舎の玄関にゆ
くと、先日足袋(たび)を与へた、小使(こづかい)が早速に来て手伝って、荷
物を二階へ、運び上げてくれたので、実に嬉しかった。二
階南向きの部屋で八畳敷き、同室は私と鈴木と、外に岩手
県人と、埼玉県人の四人であった、私は鄭重(ていちょう)に挨拶をして
菓子を馳走(ちそう)して、交際を求めた。二三日は堅苦しく、言葉
遣(づか)いも、丁寧であったが、いつとわなしに崩れて、名前も
互いに呼び捨てになって、喧嘩(けんか)もすれば、議論もするが口
先きばかりで、後は平和に戻るから、心配はない。
小河君に今日から、入寮したる旨の挨拶をした、今日は
(改頁)
両足に、足袋(たび)をはいて、来たかと笑はれた。午後に小河君
に誘はれて、宗方君私との三人で、神楽坂に同行し、夕食
をして戻った、宗方君とは次第に入懇(じっこん親しく付き合う間柄)になった。
法律科一年の学科は、法律原論(講師岡山兼吉)契約法
(砂川雄俊)日本刑法(薩多正邦)英国史(高田早苗)論
理学等で、昨年九月からの、講義筆記を見ると、左程(さほど)大部
でもないように、思はれたから同僚其(そ)の他の人々から、借
り受けて筆記し、二月の前半期試験の準備をした。然(しか)し私
は外出がすきで、日曜日には、勉強したこともないし、又
寄宿に、居たこともない、必らず出掛けた。其の他の日に
も、夜深かしをしたり、馬鹿に早や起きをしたりして、勉
強をしたことはないが、二月の試験には幸(さいわい)に及第して、後
期に入り、全くの一年生となったので羨(うらや)まれたものだ。
英語も、半年遅れてゐたので、早く追いつかんものと、
毎朝食事前に、小石川の、英語を教授する人の宅に通った
が進まなかった。
半年ぐらいたつのは、実に早いもので、後期の試験とな
ったが、成績は余りにも馨(かんば)しくなかった。七月十一日から
暑中休課になるので、私は直(すぐ)に帰省の途についた、上野か
ら熊谷まで、鉄道が開通してゐたので、無論汽車に乗った(注1)
車中にすまして乗て居ると錦を着て帰るような、気がして
ならなかった。熊谷で下車して、馬車に乗りかへ、一路坂
本に向った。夕刻着、小竹屋の客となる、夜になると可憐
な、娘按摩(あんま)がやって来た。按摩(あんま)はいれとよんだら、聞き覚
へのある、を声であると云ふて、頭を下げた。年は幾つか
十八歳、一月二日の晩に、私の隣りの部屋で、昼のうちか
ら夜なかまで、何をしてゐたか随分(ずいぶん)迷惑をしたと、再三質
問した処、を恥かしいを話ですが旦那樣は、を隣りのを座
敷でしたから、大概はをわかりで、御座いましたろうと前
置きをして、ぽつり/\と語るも涙声であった。実は聞く
も、気の毒であったが、旅のつれづれの、相手としてから
かつて見ようと思ったのであったがからかいなかった。娘
は療治をしてゐましたが、いやらしい話ばかり、なさるの
で、笑て居(い)ましたが、突然男力らで抱き竦(すく)められて驚き周
章(しゅうしょう あわ)てましたが、あの大きな体で、押し伏せられ顔が胸にを
されて声を立てることもできず、其(そ)の儘(まま)泣いて、されるま
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ゝになってみたのですが、悔やしくって、悔やしくってな
らないのです、それが○○○○○○○○○○○、それで
もまで何かするつむりで、あったのか中々帰へさないので
困りましたとの話であった。かようなことは始めてかと尋
ねたが口籠(ごも)りして判然(はんぜん)と聞けなかった。惻隠(そくいん)に堪(た)へず私は
涙を以て聞いた。将来を注意して、少しではあるが鳥目(とりめ 穴あき銭)を
与へた処、非常に喜んで、勿体ない肩でも揉(も)ませて頂きま
すと申出たが、いやいやと労(いたわ)ってかへした。誰か之(これ)を宋襄(そうじょう)
の仁(いきすぎた哀れみ)と笑わんや。朝馬の仕度が、出来たと言ふて、来たか
ら表へ出でんとするとき、女中が飛び出して来て、昨夜の
子(娘按摩)(あんま)が、旦那様に忘れずに宜敷(よろし)く申上げてくれと
頼みましたから、それは忝(かたじ)けない、宜敷(よろしく)と伝へて、労(いたわ)てや
ってくれと言い遺して馬に乗た。碓氷を越へて、軽井沢よ
り馬車に乗り替へ、沓掛追分小諸を過ぎ、追々近つく田中、
海野、大屋を過ぐれば、即ち我が郷里上田である。夕刻海
野町の馬車屋に安着。荷物は届けて貰ふことにして、急い
で宅に戻った。長上(ちょうじょう 目上の人)一同に挨拶して、私は洗湯に入った。
入浴中の大半は知人であるから、いつ帰った/\の質問
には面喰(めんくら)った、夕食には四五名の客が見へた、親戚や入懇(じっこん)
の人々、今日は私が帰るだろう位の、用意であったとのこ
とであったが、それが好都合となった。話は格別なく東京
市内変遷(へんせん)の、質問が多かった。誰れだか、学校のある所は
戸塚と聞いたが、東海道の戸塚かと聞かれたが全くのを門
違いで大笑であった。
(注1)明治十六年(1883)日本鉄道により上野―熊谷
間が開通し、翌年五月に高崎まで全線が開通した。
朝、街学校に出掛けて、增田先生始め、一同の諸君にも
挨拶廻りをして、旧受持の組を覗き生徒に一寸(ちょっと)会釈(えしゃく)をして
帰った。
暑中休課には、少しく勉強するつもりで、書物を携帯し
たが、読む暇もなく、徒(いたずら)に高閣(こうかく)に束ねて(書物などを束ねて、高い棚に乗せて置くこと)、毎日東奔西走(とうほんせいそう)な
ぞとかけば、頗(すこぶ)る仰山(ぎょうさん)に聞ゆるが、種あかしをすれば、友
人を訪ふたり、親類を尋ねたり、又友人に招かれたり、親
類に呼ばれたりして、日暮しをして居たので、其の実をい
へば、全くの閑日月(かんじつげつ 暇な月日)であったのである。
八月の半ば頃であったか、增田先生から、一寸(ちょと)来てくれ
との、言付けであったか、早速を尋ねした処、上田町の
臨時町会が、開かれるので、其(そ)の書記の選任を、町長の田
(改頁)
中忠七から、頼まれて居るが、外にもう一名誘って、二人
でやって見ぬかとの話であったので、承諾して私は吉岡銀
一郎氏に談じ、両人で務むることゝした。衛生費の件で、
会期は二日間で無事終了、議長は森田斐雄氏(注1)で、種々指導
を受けたが、私の筆記の出来映(できば)いを特に誉められた。
(注1)もりたあやお。赤松小三郎と同時代の人で、赤
松と一緒に江戸遊学をした。帰国して後上田の
学務委員や県会議員等を務めた。
帰京の期日が、追々迫って来たので、頗(すこぶ)る気世話しくな
って相変らず外出が多いので、祖母や母は、ゆつくり話を
したことがないと、不平満々であったが、偖(さ)て面と対(むか)って
見ると話すことはないものだとは、世間の通則である。
鈴木君と約束して、九日に立つことにした。
朝、馬車屋に行くと、乗客は既に詰めかけて居(い)た、鈴木
君も居た、妹二人が来て居(い)た、乗客満員で、悉(ことごと)く東京行き
であるから、昼夜兼行(ちゅうやけんこう 昼も夜も休まず続けて行うこと)、一路邁進(いちろまんしん)とのことであった。愈々(いよいよ)
乗車のとき、鈴木君と一方の客と、衝突した。私はそこで、
荷物は、腰掛けの上に置くべきものではないと、大喝した
ので、御者台(ぎょしゃだい)其の他に、分載(ぶんさい)したので、一同楽々と腰を掛
けた。馬車の進むに従て、喧嘩(けんか)の相手も話し出した、松代
人で、皆さんは上田のを方ですか、自分が嘗(かつ)て奉職して、
外務省では御旧藩主の松平様(注1)も、同勤で、色々御世話にな
りましたが、自分辞職しましてから、御無沙汰(ごぶさた)を申上げて
居(お)りますと、頗(すこぶ)る慇懃(いんぎん)であったので、当方の敵意も自然消
滅となって、頻(しき)りに雑談に耽(ふ)けり互に名刺の交換までした
が、尋ぬることも、尋ねらるゝこともなかったが、私は偶
然其(そ)の後に、牛込見附で出遇い、挨拶をして別れた其(そ)の人
は松木董正先生であった。十日の朝、馬車は熊谷についた。
乗客互(たがい)に挨拶をして別れ、直(すぐ)に汽車に乗った。二時間余に
して上野着、鈴木君と別れて、私は本郷に赴き、津田氏を
訪(おとな)い、一泊して、十一日の朝早く学校に戻った。
吉田倉次郎氏夫婦が、六月に上京して、日本橋本町に於(おい)
て牛乳店を開いた。此(こ)の後半期は、私としては頗(すこぶ)る不愉快
で、自然教場に出て、講義を聞くことも怠(おこた)り勝ちで、外出
が多くなったのは、意に充(みた)ださる処があるからである。聖
人千慮必有一失豈敢我々のみならんやである。
十二月の末に、徴兵令が改正された、殊(こと)に突然で、彼(か)の
朱亥袖四十斤鉄椎椎殺普鄙したぐらゐの感に打たれた、即
ち該当者は中島彌門太鈴木平吉の両氏と、私の三人で来年
(改頁) 23
は徴集されるのである。小河君の神楽坂の下宿に集合して
善後策(ぜんごさく)を講じて見たが、一向に名案も出ない。戸主になっ
たらどうか、郷里へ電報を打とう位のことで、散会した。
それが年末も押し詰った二十八日と思ふ之(こ)れより先き私は
学校を退学して、小河君と同宿した。一月になったが其(そ)の
気分になれない。
(注1)松平忠礼(ただなり)。上田藩最後の藩主。明治
四年廃藩置県後、アメリカに留学し、帰国後明治
十三年に外務省に勤めた。
小河君が、私の善後策として、案を立てゝくれた、それ
は帝大(注1)の別科法学部に入学すること、英学を廃して独逸(どいつ)学
を学ぶことであった。一応郷里の父に、相談して決定した。
独逸(どいつ)学は、始め小河君に初歩と文法の大略を習って、あ
とは昨年の試験に用ゐられた、アンドレイの歴史中の、必
要と認むる部分を、加藤駒二(牛込)今井武夫(小石川)
勝俣英吉郎(本郷)森田最中(神田)大井和久、石原三子
三郎、長瀬麟太郎(以上麹町)の諸氏に就(つい)て習い、夜は小
河君の復習である。私は毎日然(し)かも徒歩で、以上の諸君の
家を巡回して、教授を受けたのである。夫(そ)れが四月に入学
試験の広告が出た処、アンドレイの歴史が、ウェルテルの
歴史に、変更されてゐたので、驚いたが、又ウェルテルを
習ふことにしたが、私としては自信がなかった。愈々(いよいよ)試験
場に出た。漢文算術作文と、独文であった、独文は十二銅
票の処が出た。小河君の注意の箇所でもあったから、大概
には、意味もとれたと思われたが、元来力がないのだから
働けないのは無理であって、独文で不合格となったものと
思はれる。独文の先生方は、私の試験を聞かれて、案じて
訪問されたのには恐縮した。此の(こ)独文の先生は、何(いず)れも小
河君の、外国語学校以来の友人である。
六月の会合に、福田屋へ、出掛けた処、私独りポツネン
として居る処へ、勝俣君が来て、こんなことでは、仕方が
ない、何とか甘い方法を、立てようぢゃないかと云ふから
私の考へとしては、会員をきめて、名簿を印刷して、銘々
に送り、毎回会員の動静を、報告する一枚摺(ず)りでも揃へて
配付することにでもすれば、必らず纏(まと)まりかついて、出席
者も自然多くなろうと、思ふと言ふた処、勝俣君も同意し
て山極小河の両君にも、相談しようとのことで、私は帰郷
してゐなかったが、結局漸進(ぜんしん)的に、之れが上田郷友会(注2)の、
濫觴(らんしょう ものの始まり)となったのではあるまいか。私は七月の始に帰郷した。
(改頁)
何となく気が重く、外出もせず、ぶら/\して居るので、
両親も心配して、医者を呼んでくれたのであったが、格別
のことはないとかで、藥なぞも何を呑ませたものか知らぬ
が、自然弱りに弱って、床に就くようになったので、両親
始め大に驚いて、医者も二三人で見ると云ふ、仰山(ぎょうさん)な騒ぎ
で、それが三四週間も続いたが、漸次(ぜんじ)力づくようになって
八月末には床(とこ)を上げるようになった。後で聞けば、私の為
に三十番神に、を百度を踏まれた方々もあったとは、全
く笑止の至りであった。或(あるい)はそれがために、助かったのか
も知れない。
(注1)東京帝国大学のこと。
(注2)山極勝三郎、小河滋治郎、勝俣英吉郎等の東京
在住の学生が結成した親睦団体で月報を発行し
た。この宮下翁の回想録によれば、結成は明治
十七年の夏であったことが分かる。
上田郷友会月報は明治十八年から再発行された
が、月報には郷里上田の会員も投稿した。
編集発行人であった宮下翁が亡くなる昭和十九
年の686号まで発行され続けた。
この月報は、上田地域の当時の状況を知る根本
史料で百科事典的価値がある。
吉田氏に下宿屋の荷物や、質屋に預け置きたる、荷物の
整理方を、依頼したので牛込馬場下町の質屋と、神田猿楽
の質屋に赴き、私の預け置きたる品物受出しについて、
話してくれた処、牛込では、息が出て宮下さんですか、実
によい方で、私とは大の仲よしでしたから、いつでもをつ
しゃる通りに、御用立てしてをりました。を品はこれ/\
どうぞ宮下さんに、呉々(くれぐれ)も宜敷(よろしく)もし東京へを出になりまし
たら、是非を尋ねくださるよう、御傳言を願いますと申出
たとのこと、又猿楽町では娘が出て、私か独りで店に居ま
すときは、出来るだけを貸ししたのです、実に正直なよい
方でしたから、久しくを合いしませんが、是非を目に掛り
たいと思ってゐますが、を国はどちらですかと、聞いたと
か。吉田氏は、質屋の子供と、あんなに懇意(こんい)になるほど、
通ったものか、困ったものだと、憤慨(ふんがい)して話したとか聞い
た。
田村豊穂君の勧めで、殿城小学校に出て見た、校長は田
中救時氏(注1)で、佐治恰君もゐた、学務委員は上原新五郎氏で
大酒家である、或(あ)る日校員一同と共に湯の丸山に登った、
鉄砲を携帯(けいたい)した人もあったが、猪(いのしし)も出なかった。
十二月○日愈々(いよいよ)徴兵検査(ちょうへいけんさ)となった、其(そ)の前夜総員五十八
名、女工揚に宿泊した、検査場は、現今の中学校であった
身長第一が飯塚三吉氏で、私が第二番であったが、胸囲が
狭いので、丙(へい)種となって、省かれた、あとで女工場の一室
に、丙種連中十八名集まった処、如何にも貧相な弱々しい
人ばかりで、省かれるも、無理もないと思はれた。
殿城の学校では、佐治君の甲(こう)種と、私の丙(へい)種とが、話題
(改頁) 24
になったが、私の構造は、大きいが骨組は細いので、全
くの見かけ倒しであるが、佐治君は、小兵ではあるが、身
体ががっちりして居るので、甲種たるが当然である。甲と
丙との差のある所以であろう。
(注1)たなかひらとき 嘉永三年~大正七年(1850~
1918)。明治の地方自治と教育を進めた。明治
十一年に長野市師範学校卒。明治二十二年町村
制実施の際、殿城村の村長に当選した。
鈴木平吉君は、中学にはいって猶予(ゆうよ)となった。其(そ)の時
正木先生(注1)から、私へも鈴木と同様にしてはどうかとの、御
懇諭(こんゆ)を辱(かたじけの)ふしたが、私は決心を申上げて、御辞退した。
上田郷友会設立に関して、詳細なる経緯の、報告を受けた。
殿城村は、十二月限り辞職した、私は在校中に、校長か
ら依頼されて、村会の書記をした。村長は三井氏であった
が、名は忘れた。上原学務委員には、度々招かれて、酒豪
の相手をした。
十八年の一月から、再び街学校に、顔を曝(さら)らすことゝな
ったが、始めは旧生徒等に、見参することが、頗(すこぶ)る躊躇(ちゅうちょ)さ
れた。然(しか)し私の帰郷については、少しも疚(やま)しいことはない。
徴兵関係と、経済状態が、不可抗力の為で真(まこと)に止むにやま
れね次第で、再学の準備中、此(こ)の学校に沈没したわけで、
笑はゞ笑い、謗(そし)しらば謗(そし)れ、糞(くそ)でも喰らい、他日を見よ位
の、意気は持て居た。生徒にも、時々東京の大風呂敷(おおぶろしき)を
ひろげて話しては、喜はせたり、若い男教員が女教員を
圧迫する話しを聞いたから、弱い者の肩を、持ったりし
て居(い)ると、日の立つのは早いものだ。東京からは、友人か
ら頻(しき)りに上京を勧めてくるので、とつをいつ煩悶(はんもん)中でや
るせない思いであった。其の当時、時々出掛けて、上田郷友
会に入会を勧めにゆく。先輩の門を叩くとき、誰れ彼れ
の別なく、其(そ)の話が振って居るので、それが唯一の面白味で、慰みにもなった。
六月七日に、浅草の井生村楼で、上田郷友会の、祝宴が
開れたが、招待員は何れも欠席。会員二十一名ではあった
が、頗(すこぶ)る盛会で、私にも、是非々々とのことであっだが、
残念ながら欠席した。
暑中休課で、帰省中の学生連が、白木綿の兵児帯(へこおび)を、大
束に巻きつけて、之(こ)れ見よがしに、歩るき廻って居(い)たもの
も、あったが少々当てられ気味であった。
涼しくなって、教授法の演習があった、其(そ)のとき若い女
教員が、教壇に立って、何か一語言ったかと思ふと、男教
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員の一人が、何をしたか忘れたが何かした女教員は、赤面
して下を向いた。私は此(こ)の時、直(すぐ)に其の教員を、詰責(きっせき)した
気がするが、確たる記臆ばない、それで演習は中止となっ
たが、私は確乎(かっこ)たる規律を、立てられねばならぬと思った。
当時の女教員は、河内山虎(注2)、川邊順、広瀬源の三氏で、河
内山女史の憤慨は、当るべからざるものがあったが大(おおい)に同
情する。
(注1)正木直太朗。安政三年~昭和九年(1856~1934)
信州教育進展の基礎を築く。明治十五年東京師範
学校卒業し、小県中学校(現在の上田高校の前身)
教諭、校長となり、明治十九年に長野県師範学校
教諭に転じ、二十五年師範学校長となった。
(注2)こうちやまとら 安政二年~昭和五年(1855~1930)
明治・大正期に活躍した女性教師。叔父は上野尚志。
明治十年松平学校雇教員を最初に上田街学校等四十
二年間教員として活躍。教育功労者列伝に女教師と
して唯一載る。婦人会を組織し、子守り教育にも
献身した。
秋雨(あきさめ)粛粛(しゅくしゅく)たるのとき、旧藩主居館古濠の、傍を過ぐ夕陽
遠樹烟生戍秋雨残荷水逵城の感に打たれた。小河君から、一
月上京せよ、来ればどうかなる因循姑息(いんじゅんこそく)は、書生の禁物と
知れ奮発々々との、手紙であったので私も直(すぐ)にも、飛び出
しだいのは山々であるが、両親の顔を見ると、無理も言い
出せぬので、暫(しばら)く辛抱して、海路(かいろ)の日和(ひよ)りを、待つことゝ
した。
年末となった、年をとるばかり、二十二歳となった。年
始に出掛けた二日である、中村彌重氏の宅に引掛った、漸
(ようや)く三軒目である、対酌十分の処へ、新客が来た之(これ)が又酒豪
であるので、容易に立てない。私の帰宅したのは、十一時
を過ぎたこんなことが、三四日続いた。
栗山誠蔵氏を訪ふて、男女教員の、関係等について、意
見を述べたが、先生は余りに、重く見てゐないらしく、ど
っちもどっちで、軍配は何(いず)れへも、挙げられぬとのことで
あった、私ほ左程(さほど)に、力瘤(こぶ)をいるゝ程でないから、話を別
に転じ、年首酒を馳走になって、帰ったのは、十五日であ
った。
学校の授業が始まる。黙々として、二月も三月も過ぎた
四月も過ぎ、五月となった。二十五日に津田茂理氏から、
電報が来た。日給弐拾銭で、駅逓局(えきていきょく)(注1)にこぬかとのことであ
った。私は直(すぐ)に決心した。弐拾銭を笑ふ勿(なか)れ、歎ずるを已(や)
めよ、人生行路(じんせいこうろ)難(かた)しと雖(いえ)ども、境遇を制し得れば、人皆英
雄ならずや。先づ(まず)第一に両親に許可を請ふた処、私の決
心を見抜きたる両親は早速に、許して呉(く)れたので、直(すぐ)に
津田氏に承諾の返電をした。津田氏は駅逓局(えきていきょく)の為替(かわせ)課長で
ある、街学校へは、辞表を出して、上京の準備をして親戚
朋友への挨拶もそこそこに急いで二十九日に出立した。三
十日津田氏の宅に安着、一泊して、種々駅逓局(えきていきょく)の事務の模
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様等を聞いた。三十一日小河君を訪をふて事情を話した処、
兎に角(とにかく)上京のできたのは仕合(しあわ)せであると、喜んでくれた。
(注1)郵便局の旧称。
六月一日付で、臨時傭申付、但日給弐拾銭給与の駅逓局(えきていきょく)
の辞令を受け、課長掛長(かかりちょう)や、同僚となるべき、人々に挨拶
をした。私の掛りは八名で、内独りが世話役格で十二円、
二人が八円宛で、あとは日給弐拾銭組であった。職務は全
国の郵便局て、受付けたる為替(かわせ)願書と、其(そ)の証書とを対照
記入、計算するので、朝受持分の配付を、受けただけ記入
すれば、責任解除となるので、私は煙草(たばこ)も吸はず、一生懸
命に記入するから、大概二時半頃には終るので、計算は私
の権限外であるが、手伝ってやったので、世話役は、非常
に喜んで居た。愚図(ぐず)連は、五時過ぐる頃まで、記入ががゝ
るので、共同迷惑であったが、一般からはそれが通常と見
て居るのである。私は自分独りで、群鶏(ぐんけい)中の野鶴(やかく)と自惚(うぬぼ)れ
て居(い)た。私の向い側に、色の黒い入道式の男がゐた、それ
が隣席の越後人と、喧嘩(けんか)ばかりして居るので、頻(しき)りに私に
秋波(しゅうは)を寄せて来ては、話しかけるので、自然懇意(こんい 仲良く)になった
のである。其(そ)の男は、芝の琴平町の長屋住居、私は神田の
錦町に、下宿して居(い)たので、相当の距離がある。それで度
々遊びにこいと、言われても、行かながった、或(あ)る土曜日
に、琴平神社の縁日であるから、是非に同行せよと、引張
られていった処、狭い小路の長屋住居で、家族が六七名で
何(いず)れも成人して居るので、家の内が一杯で、坐(ざ)する処もな
い位であった。行儀正しく、細君(さいくん 奥さん)を筆頭(ひっとう)に、娘四人がづらり
と並んで、挨拶された姉妹が順序とすれば、二番目が一番
の器量よしであった。始めはを互に、もぐもぐして居たが
一と度び口火をきると、娘達も中々元気で、話すのであっ
たが、独り二番の娘が、はにかんで居るので、不思議に考
へられたが、焉(いずく)んぞ知らん、私との見合いの内意が含めら
れてあったので、何となく恥かしい、気持であったらしか
った。衣服なぞは、ご粗末であったが、品も能(よ)く、見映(みばえ)が
あって、皆年頃であるから、触らば散らん風情も、見へぬ
でもなかった。私も娘達相手の話が面白く、長坐して、夕
暮になったので、辞去(じきょ)せんとするや、二番の娘が、いとも
勇悍(ゆうかん)に、私の履物を揃へてくれた。
聞けば此(こ)の人は旧彦根藩の上士で、井伊掃部頭
(かもんのかみ)の、兄某(なにがし)
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の長男とのことであるが、如何(いか)にも落魄(らくはく)、果てたもので、気
の毒である。聞けば時々井伊家へ、出掛けて補助を仰ぐと
のことであった、之(こ)れある哉、貧乏して居ても、頗(すこぶ)る呑
気な顔をして居(い)た。然(しか)し年頃の娘のことは、気掛りと見へて
二番娘との結婚を、頻(しき)りに強(し)ゆるので、私も其(そ)の娘には、
心残りがしてたので、快諾したかったが、待てしばし、今日(こんにち)
の此(こ)の有様で、未だ前途の、見透(みとお)しもつかず、妻帯の
貧乏暮しは、悲惨の実例も、多々あるので、再三逡巡(しゅんじゅん)した
が其(そ)の娘の幸福を祈って、遂に断った。古語に嫁女必須勝
我家者、勝吾家則女之事人必欽必戒とある、貧乏人にはや
らぬこと娘を持つ人の、味ふべき言ならずや。
八月下旬に、暑中休課を得たので、十日間ばかり帰省し
た。小河君が、金子(注1)へ来て居たので、殆(ほと)んど毎日往来した。
九月の一日付で日給二十五銭に、昇給の辞令が来た。其
の時、早く帰京せよとの、添(そ)へ手紙があったから、急に立
つことゝしたので、小河君より一歩先きに戻った。
九月七日役所に出て、昇給の挨拶廻りをした。休課中の
仕事が、積んて山の如(ごと)くであったが、数日にして崩し平げ
たので、皆其(そ)の神速(しんぞく 人間わざとは思えないはやわざ)に喫驚(びっ)くりしてゐた。それに四囲(しい)の連
中が、昇級せぬのに、私が三月目で、一足飛びに飛びあが
って、後との烏が先きになったにも、驚いてゐたが、必竟(ひっきょう つまるところ)
手腕の然(しか)らしむる処、依怙(えこ)の沙汰でも何んでもない。寧(むし)ろ
当然のことで、私の周囲に居る、幾多(いくた)の人物も、既に私の
眼中にはなかった。
十二月二十六日保安条例が、公布せられて、即日実施に
て、政府に反対する、志士党人五百七十名を、悉(ことごと)く皇城三
里外に駆逐(くちく)追放したが、政府の手際(てぎわ)は、中々鮮かであった。
十月頃より、少しく肛門に故障あるを覚へ、脱糞(だっぷん)の際に、
少しく痛みを感ずるので、勝俣英吉郎君に、相談した処、
痔(じ)かも知れぬから、洗湯へ同行して、見てくれることに
して、格別のこともないから、其の儘(まま)に打ち過ぎてゐて、十
二月の末に、築地の西原三男平君を、訪(おとな)ふたときに肛門の
話をしたら見せろと云ふから、見せた処、直(すぐ)に硝酸銀(しょうさんぎん)で
焼いてくれたが、それが股の摩擦(まさつ)で、皮がすっかり擦剥(すりは)げ
て、疼痛(とうつう)甚(はなはだ)しく、年末も年始も、打通して寝て居た。駅逓
局(えきていきょく)へは、津田茂理氏を通じて、当分欠席の届をした。勝俣
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君に相談した処、第二医院の片山芳林氏の、診察を受ける
がよかろう、痔疾(じしつ)についての権威である、とのことであっ
た。
(注1)小河滋次郎は文久三年、上田町に上田藩奥医師金子
宗元の次男として生まれた。後に小諸藩槍指南役
小河直行の養子となり小川姓となった。
従って、上田の金子は実家のこと。
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(中略)
九月文部省の監督条規の下にある専修学校の生徒の
募集があったので、私も願書を出した。志願者は四五百名
とのことで、愈々(いよいよ)試験当日となった。知人も居た、課目は歴
史地理算術作文等で、格別六ヶ敷(むずかし)いと思ばるゝものもなく
私は答案を出して、颯々(さっさつ)と帰った。一週間ばかりして、入
学者名の、張出しを見にいった、私が教へた二三の名前は
三百番前後にあったが、私の名前が、どうしてもみつから
ない。不思議でたまらないので、幹事室にいって聞いてみ
た、あなたは優等の成績で、二番ですとの答へで、張出し
を見れば、正に其の通り、私は中位と考へてゐたが、あま
りにも謙遜(けんそん)過ぎた。
学校の授業時間と、役所の時間と、撞着(どうちゃく 前後が一致しないこと)するので私の
意気を、頗(すこぶ)る沮喪(そそう)せしめた。
十月の初に、瀬川君が、小河君から聞いたから、文部省
の青木書記官に君のことを、話した処、総務局に欠員があ
るから、履歴書をみせよとのことで、兼て預り置きたるも
のを差出した処、採用するとのことであったから、私は為
替(かわせ)貯金局への、辞表を携へて、津田氏を訪問して、種々事
情を述べて、了解を求めた処、少しくむっとして、難色が
見へたが、君の前途の為(ため)に、同意するとの挨拶であったか
ら、喜んで倉皇(そうこう あわてて)として帰った。十月十八日付で依願解傭為
替(かわせ)貯金局の辞令を、執務中に貰い、一同に挨拶して帰った。
二十日に瀬川君の紹介で、青木書記官に面会して、為替
(かわせ)貯金局解雇の話をした処、直に(すぐ)採用の手続をとるが、総務
局の雇で、往復課の勤務であると話された。
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二十二日、文部省総務局より通知に接し、二十三日午前
九時出頭して、総務局傭申付、月俸金拾円給与、文部省総
務局の辞令を受け、往復課長の内藤書記官に面会して、執
務上の指揮を受け、掛員一同に紹介された。内藤書記官は
名は素行鳴雪と号し、後年は俳壇の勇将であった。
此(こ)の時の大臣は、森有禮氏(注1)で、次官は辻新次氏(注2)であった
文部省へ転任して以来、退省が三時であるから、毎日専
修学校へ通学して、岡野敬次郎氏の法学通論、江木衷氏の
日本刑法の講義を聞くことができて、実に愉快であった。
森文部大臣は、書類を官邸に、取寄せて決判し、出省は
月に二回位で、其(そ)のときは、高等官を大臣室に、召集して
二三時間の長談議である。之(これ)には高等官何(いず)れも痺(しび)れをきら
して、大頭痛であった。
十一月十日かと思ふが、を上に御不幸があって、確か観
菊会(注3)が、中止となる通知で、日が迫ってゐる、大至急の書
面がきた。既に夜分で、直(ただ)ちに私は、文書課長に廻はして
指揮を乞ふた。案を立てゝ、往復課長に廻はし、私へ戻っ
たのが、十二時頃であった。それから私は、四五十通清
書して、直轄学校並に高等官に、急使を以て差立て、全く
終ったのは、五時頃で、それから就眠(しゅうみん)したので、朝も知ら
ずに、眠って居ると、往復課長の御入来、然(しか)るに、私は真
裸(まっぱだか)で、寝て居たので、起きることもならず、モジモジして
居ると、察しられて、室外へ出られた。早速に仕度をして
課長を迎へた処、私が未(いま)だ事務に慣れぬと、思はれての老
婆心であったが、委細(いさい)を話したら、大に喜んで帰られた。
後日文書課長にも、話されたと見へて、大(おおい)にをほめに預っ
た。
文部省では、森文部大臣が、在職中は、賞与金を与へな
かった、唯勉励を認むと、書いた紙一枚てあっだが、それ
が二枚ないと、昇級は出来なかった。
二十二年一月四日が、御用始である。
一月十一日 天皇皇后両陛下には、赤坂離宮より、皇
城に移らせ賜(たま)ふ。去る六年に皇城炎上せしより、十七年目
なり。
二月十一日憲法発布式のある、朝八時頃、西野文太郎な
る者、文部大臣官邸を訪(おとな)い、大臣の身上に関し、容易なら
(改頁)
ざる事件を、密告せんため、参邸致したれば、取次きあり
たしと言ふ。物腰から風体は、和服にしてしとやかに、書
生とも官員とも見へず、言葉を低ふして、申入れたれば、
取次の秘書官は其(そ)の趣を、大臣は告げたるに、大臣は参内(さんだい)
のため、大礼服(たいれいふく)(注4)着用のときなりしかば、秘書官をして、聞
とらせ居(い)る処へ、大臣に二階より降り来る。秘書官が西野
なりとの、言の畢(おわ)らざるに、西野は椅子を離れ、立上ると
見べしが、懐中に蔵し持ったる、出刄庖丁(でばぼうちょう)を閃(ひらめ)かして、左
手に大臣の腰部を抱きながら、左の下腹目がけて、一と突
きにエグリて抜き取る。其(そ)の物音と、秘書官の叱声(しっせい)に、西
野は庖丁を片手に、血路を開かんとあせる後(おく)るより、座田
警部の為に殺されたり。私は前夜宿直の為(た)め今朝此(こ)の事件
で、非常に多忙を極めた。
(注1)1847~1889。英米に留学し明治政府に入り急伸的
な改革意見提出。「明六雑誌」創刊。明治十八年第
一次伊藤内閣の文部大臣として近代的教育制度の
確立に努力。明治二十二年二月十一日憲法発布の日
に暗殺された。
(注2)1842~1915。明治時代の教育行政家。松本藩出身。
明治十九年文部次官となり、森有礼文相を補佐して
学校令制定など学制改革に尽力した。
(注3)観菊御会(かんぎくぎょかい)。もと毎年十一月
中旬頃、新宿御苑で行われた催し。
当日は大抵、天皇・皇后が臨席し、内外の臣僚
を招き陪観せしめた。
(注4)重大な公の儀式に着用した礼服。
二月十一日紀元節の、佳辰(かしん 良い日)を卜(ぼくうらなう)して、憲法発布の大典を
宮中に行はせられ、文武百官(ぶんぶひゃっかん)の臣僚、及び府県会議長等、
其(そ)の式場に列す。 天皇陛下には、大日本帝国憲法発布の
勅語(ちょくご)を読み賜(たま)ふ。大御(おおみ 天皇)声の清く、朗かにして、満場に撤し
渡りたる時は、一同肝銘(かんめい)に堪(た)へずしし、感涙(かんるい)に咽(むせ)びたるも
の、多かりしとは、左(さ)もあるべきことである。
十二両両陛下には東京府民の請願を聞召(きこしめ)され上野に行幸
啓(ぎょうこうけい)あらせられた。
十二日午後十一時三十分、森文部大臣薨去(こうきょ)、十六日青山墓地に葬(ほうむ)る。
十六日陸軍大臣大山巖、文部大臣兼任となる。
三月二十二日逓信(ていしん)大臣榎本武揚、文部大臣となる。
井上外務大臣の条約改正内容か漏れて、与論爆発、遂に
辞職となり、大隈伯外相となって、改正に着手し、又々長
閥の反対を受け、閣議は一応中止に決し、其(そ)の帰途大隈
外務大臣は、爆烈弾(ばくれつだん)を投ぜられて、隻脚(せっきゃく 片足)を失ふの、奇禍(きか おもいがけない災難)に
遭った。
黒田内閣瓦解(がかい)したるも、辞表は御手許に留置き賜(たま)ひ、畏(かしこ)
くも旧の儘(まま)にて、忠勤を励めとの、御内意なりしも、黒田
首相は、強(し)いて請(こ)はるゝまゝに聴許(ちょうきょ ききいれること)あらせられ、後任に臨
時三條内閣が成立したるも、閣員にはかわりはなかった。
十一月三日の天長節(てんちょうせつ)(注1)に、立皇太子の式を行はせられ、先
例により壼切の御剣(つぼきりのみつるぎ)を、伝へ給(たま)ふた。
(注1)天皇誕生の祝日。明治元年制定。戦後、天皇
誕生日と改称
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十二月二十四日第一次山懸内閣成立す。
二十三年五月十七日榎本文部大臣を免じ、内務次官芳川
顯正氏を文部大臣とした。榎本子奮然として、大臣免職に対
し、山縣総理に喰って掛る、幕末の遺臣、当年の釜次郎此(こ)
の位の意気がなくてはならぬ。
十月三十日総理山懸有朋(注1)、文部大臣芳川顯正を宮中に召
され、親しく教育勅語(きょういくちょくご)(注2)を賜(たま)はった。之(こ)れ即ち、今日(こんにち)に於(お)け
る、千古不磨(せんこふま)の大典なり。
帝国憲法第七条及四十一条に依(よ)り、本年十一月二十五日
を以て、帝国議会を、東京に召集する詔勅(しょうちょく)が、発せられた。
之(これ)が即ち第一回、帝国議会の召集である。
衆議院の議長には、中島信行、副議長には津田眞道の両
氏が命ぜられた。
明治二十四年度の、予算案を見るに、歳入が八千三百十
一万余円で、歳出が八千三百七万余円で、一億円にならぬ
のである。それを査定して、歳入に於て二十一万三百五十
円、歳出に於(おい)て、七百八十八万七百三十四円余を、大削減
せんとするのであるが、今日(こんにち)から見れば、実に一笑の価値
もないが、当時は解散とか、不信任上呈とか、騒いだもの
だ。
一月十三日保安条例で、退去を命ぜられたものがあった
今回は先に保安条例により、退去させられた、議員諸氏の
保護の為である。
一月二十日帝国議事堂焼失、貴族院は鹿鳴館に、衆議院
は元工部大学校の跡に、不便ながらもをさまった。
五月十一日大津事件なるものが、突発した。日本帝国へ
来遊中の、露国(ロシア)の太子を、護衛の巡査が、傷けた。朝野(ちょうや)愕
然(がくぜん)としたが収まった。然(しか)し之(これ)が為(ため)に、西郷内務と、青木外
務が引責辞職したので、松方第一次内閣が成立した。文部
大臣は大木喬任氏である。
十月二十八日、濃尾に大地震があった、地烈け家倒れ、
人死する数を知らず、加ふるに火災あり、其の惨害実に名
状すべからずとは、知事の報告なり。
第二議会は、十一月二十一日に召集されたが、朝野(ちょうや)両軍
戦はざるに、殺気横溢(おういつ)で、松方首相の演説の如(ごと)きは、何の
その、樺山海相の薩長政府の自慢演説で、一層議員を憤慨(ふんがい)
(改頁)
せしめ、殆(ほと)んど一切の議案を、否決したので、遂に解散と
なった。
(注1)やまがたありとも。1838~1922。明治・大正
期の政治家・陸軍軍人。維新後陸軍で兵制改革
に従事。
陸軍卿・参謀本部長。明治十六年内務卿に転じ、
町村制の確立に貢献。89年~91年首相。伊藤
博文の死後は元老の第一人者として、政党勢力
と緊張関係にあった。
(注2)教育勅語。このときより第二次大戦後の教育改
革まで日本の教育理念の指針とされた勅語。
文部省は全国の学校に謄本を配布し、学校儀式
などで奉読させた。
戦後、憲法・教育基本法の成立により根拠を失
い、1948年国会決議において失効・排除が確認
された。
二十四五年頃が、女義太夫(おんなぎだゆう)(注1)が尤(もっと)も流行した時で、其(そ)の内
でも、綾の助か、斯界(しかい)の白眉(はくび)であった。彼れの出づる処、
何(いず)れも満員、其(そ)の語りて要所に至るや、聴衆の中より、ど
うするどうすると叫ぶものがあると、彼れも得意らしく見
へを張る、どうする連は一部の聴衆には、痛く嫌はれた
ものだ。
品川内務大臣の、選挙干渉は、非常なもので、各地何(いず)れ
も、戦闘準備の、有様であったが、結局面白くいかぬので
松方内閣に、動搖の色が見へて来た、品川内相を辞職せし
めて、枢密院(すうみついん)副議長の、副島種臣を、後任としたが、治ま
らない。
第三議会は貴衆両院共に、弾劾(だんがい)案を、議決したので、停
会となる。
八月八日松方内閣倒れ第二次伊藤内閣成立、河野敏鎌文
部大臣となる。
八月に、家を借ることを約束した、六畳に四畳に二畳の
家で、壱円六拾銭の家賃である、九月妻を上田で迎へて、
結婚式を挙げて、同伴した、全くの田舎者である。
染屋の塚田某(なにがし)の娘で、私も子供の頃には、其(そ)の近傍(きんぼう)の住
居で、知っても居た。それに評判もよいとのことで、貰ふ
ことゝして同棲した。気持ちもよいので頗(すこぶ)る円満に暮らし、
彼れには、何等の不足もなからしめた、積りでは居たが、
彼れから話したこともなし、私も聞いたことはないから、
其(そ)の点は不明である。唯私の悩みは、彼れが農家育ちであ
ったから、無理もないと思はないでもないが、仲人から、
此(こ)の点を十分に話があれぼ、私は結婚を断ったのである、
其(そ)の方が、寧(むし)ろ彼れの為(ため)には、仕合(しあわ)せで、始めから他へ嫁
入りしたならば、不幸はなかったであろうと、其の当時私
は実に気の毒に思って居たが、彼れとしては必らずや相当
の家庭に、迎へられて、仕合(しあわ)せして居ることゝ、思
ってゐる。
彼れを帰郷せしむる、一両日前に、市内の未(いま)だ見ざる処
を私は案内して、連れて歩るいたが、満足らしく見受けた。
之(これ)に反して、両三日後に、父からの手紙を見ると、其(そ)の
(改頁) 31
悲劇の状態か、詳細に認めてあるので、私は断乎(だんこ)たる決意
に出たのだが両親の迷惑をも考へ惻隠(そくいん)の情に堪へなかった
が、国家之事亦何容易、覆水不収宜深思之と、後漢書で読
みたることを思出し、又李白の詩にも、雨落不上天、覆水
難再収とあるので、初心を覆(くつが)へさなかった。
(注1)女性が語る義太夫節。江戸後期から大正期にか
けて人気を博した。明治期以降は寄せ場の芸能
として盛況を呈した。
十二月末に職務上格別勉励に付、為其賞金拾円給与の辞
令と、月俸金拾五円給与の、辞令を貰った。
辻次官の辞職は、教育界に大なる衝動を与へた、次官と
して六人の大臣に、仕へたことほとさように、斯界(しかい)の権威
であったが、世の中には、矛盾が多い。此の功労者をして
文部大臣たらしめざりしことは、私としても終世の恨事(こんじ)で
ある。濱尾子久保田男の如(ごと)き、多年指導を受けたるもの
にして、台閣(たいかく 内閣)に列し、辻男をして独り此(こ)の栄誉逸(いっ)せしめた
るは、遺憾(いかん)何ぞ堪(こら)へん、私は天を仰いで、嘆息(たんそく)するのみで
ある。
二十六年一月四日は、御用始めである。私の掛りは、非
常に多忙である、山と積まれた、年賀状の配付である。他
の局課員は呑み疲れたような顔をして、年賀の挨拶でもす
れば、帰途につく気楽なものだ。
第四議会も、民党の予算大削減査定があったが、政府も
強硬であった為に、弾劾(だんがい)上奏(じょうそう)となった。
天皇陛下には在廷の臣僚(役人)及(および)帝国議会の各員に告ぐるの
詔勅(しょうちょく)を渙発(かんぱつ)あらせられたので、局面は俄(にわか)に転回して、政府
と議会と諸政の改革を公約し較々緩和した。
爾来(じらい)上は大臣より、下は雇員に至るまで、俸給の十分の
一を、差出したのである。
井上内務大臣は、午後四時頃出省して、局長たちを呼ん
で見るが、独りもゐないわけだ、退省時間の三時が過ぎて
一時間も後(の)ちであるから、ゐないのが当然である。然(しか)るに
我儘(わがまま)ものゝ内相は、癇癪玉(かんしゃくだま)を破烈させて、こんな早帰り
では仕事が出来ぬから今後一般官吏の退省時刻を、五時と改正した。
一般に不平満々たるものであったが、結局泣き
寝入りとなったものだ。
私も学校通いを、喜んで居(い)た処、退省時間が、五時とな
ったので、又々時間が撞着(どうちゃく 一致しないこと)して、講議を聞けぬことゝなっ
た。俚諺(りげん)に、二足の鞋(わらじ)は、はけぬものとは、能(よ)く言ふたも
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のだ。
三月井上毅氏(注1)文部大臣となり、牧野伸顯氏(注2)次官となった
三月末に賞与金拾四円を貰った。
私に二度目の結婚問題が起った、郷里からも、着々進行
の模様の、通知もあった、東京に於(おい)ても、二三の口が掛け
られてあった、其の内橋爪君の、斡旋(あっせん)の分か較々進行して
愈々(いよいよ)見合いにまで進んだ。それが七月末の暑い時であった。
橋爪君が私の出先きまで来て、先方では待ち兼ねて居るか
ら、同道せよとのことであったが、私は破帽(はぼう)長髪で髯(ひげ)も剃(そ)
らず、それに洗い曝(ざ)らしの浴衣で、破れ袴(はかま)、履物は此(こ)の天
気のよいのに、とんちんかんの高下駄(たかげた)で、此(こ)の様であるか
ら、断ったのであるが、橋爪君が聞かないので、連れられ
ていった。掃除も行き届いた、座敷に通うされた、主人の
挨拶、此の人は見知り合いであるから、簡単で、親類の娘
だから、宜敷(よろしく)位の処であった。そこへ祖母が、娘を連れて
の挨拶、此処(ここ)の瞬間が、気合の処で、大事は決するのであ
る。暫(しばら)く話して、私の辞去せんとするや、此(こ)の家の主人始
め、非常に留めてくれたが先方の心意気も、分らぬのに、
長居は無用と、私は袖(そで)を振り払て帰った。夕刻叉橋爪君、
使者として来た、先方に於(おい)ては、不束(ふつつ)か者であるが、を貰
いくだされば、重畳(ちょうじょう)とのことであった。私も毛頭異存はな
いが、郷里にも話があるので、其(そ)の模様で、何(いず)れとも御返
辞するとのことで、橋爪君に依頼した。此(こ)の娘は中肉中背
で、愛嬌(あいきょう)のある、美人形であった。
四五日して、郷里よりの手紙に、当方に於(お)ける縁談は、
殆(ほと)んど決定までに、進行してゐるから、そちらは、断って
くれとのことであったから、残念ながら、橋爪前に其(そ)の旨を通知した。
あとで聞けは、娘は其(そ)の後怏々(おうおう)欝々(うつうつ)として楽
まず、三四ヶ月の後、病に罹(かか)り遂に起たずして、白玉楼中(はくぎょくろうちゅう)
の人となったとは、美人薄命(びじんはくめい)と、謂(い)ふべきである。
私は八月末に、郷里に帰り、九月始めに、津田鐐子と結
婚し、相携へて東京に戻り、水道橋橋畔(きょうはん)の旧宅九尺二間に
夫婦暮しをした。妻の第一の仕事としては、月報校正の相
手、或(あるい)は下書きと、月報の帯封(おびふう)であった。帯封(おびふう)も始めは、
容易でなかったらしかったが、漸次(ぜんじ)に慣れて、後には百
や二百は、瞬(またた)くの間に、巻くようになった。
(注1)いのうえこわし 1843~1895。明治期官僚・
政治家。熊本藩出身。大久保利通・岩倉具視・伊藤博文の
下で立法政策に携わり、明治憲法や教育勅語の起草に当た
った。第二次伊藤内閣文相。
(注2)まきののぶあき 1861~1949。明治~昭和期の
政治家。大久保利通の二男、牧野家の養子となる。岩倉外
交使節団に同行してアメリカに留学、後外務省出仕。
文部次官・駐伊公使等を経て第一次西園寺内閣文相。
パリ講和会議全権委員。国際協調、立憲政治擁護から昭和
天皇を補佐したが、急進派青年将校から親英米派・自由主
義者として五・一五事件、二・二六事件の襲撃目標とされた。
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第五議会に於て、衆議院議長星亨(注1)の、除名問題が起て、
紛擾(ふんじょう)を極めた。
十一月職務格別勉励に付、為其賞金弐拾五円給与された。
同十日に文部属に任じ、九級俸給与、大臣官房文書課勤務
を命ぜられた。
十二月二十九日条約励行案で、議会は解散となった。
三十一日となった、夫婦として、始めての年取りである。
私は大(おおい)に祝酒を挙げ、陶然(とうぜん)として、寝に就いたが、妻は隣
家の人に誘はれて、買物に出掛けたが、案じられて、早く
帰って来たとのことであった。初心(うぶ)の妻、可愛らしい処が
ある。
二十七年一月の始、珍しく年首の客が多った。妻を見ん
が為(ため)とわかった、物好きも、あればあるもの。
三月九日に、大婚二十五年の祝典を、挙げされ、私共に
までも、、酒肴料(しゅこうりょう)を賜(たま)はった。
第六議会は、五月十五日に、開院式を行はれて、六月二
日に解散となった。
八月一日清国に対し宣戦の詔勅(しょうちょく)を、発せ
られた。
司法大臣芳川顯正氏が、臨時文部大臣となった。
大元帥陛下には、九月十九日、大本営を広島に、進め給
(たま)ふた。
九月六日に、年子が生れた。安産であった、母がこのこ
とあるが為(ため)に、上京して居(い)てくれた。
十月西園寺公望卿(注2)が、文部大臣となった。
韓廷の頑迷不霊(がんめいふれい)より、東洋平和の一角が、崩れ遂に日清
の戦争となつた。
第八議会は、十二月二十四日、陛下には、勅書(ちょくしょ)を広島大
本営より、賜(たま)はって、開院式を行はせられた。開院中議員
の弁論も、流石(さすが)に穏かであった。
二日に上田郷友会大会を、神田錦町の錦輝館に開いた。
出席者は三十三名であった、此(こ)のとき、私は表彰された。
本会創立以来、君会務鞅掌ノ任ニ当リ本会ノ為メニ、経営尽
力スルモノ、干茲満十年、其功労顕著ナリ、依テ此ニ本会ノ
決議ニ依リ、別紙目録ノ通リ、贈呈シ以テ君ノ功労ヲ表彰ス
明治二十七年十二月二日
上 田 郷 友 会
宮下釚太郎殿
(注1)ほしとる 1850~1901。明治期の政党政治家。
渡英してイギリスの弁護士資格を取得し、帰国
後代言人となる。明治十五年自由党に入党し、
第二回総選挙に当選して衆議院議長となり、第
二次伊藤内閣との協調に導いた。第四次伊藤内
閣の逓信相となるが東京市疑獄事件で辞任。
地方利益の誘導による党勢拡張という日本型政
党政治の原型をつくった人物とされる。
(注2)さいおんじきんもち。1849~1940。明治から
昭和前期の政治家。清華家の徳大寺家から西園
寺家の養子となる。徳大寺実則は兄。
明治維新後フランス留学。第二次伊藤内閣の文
相・外相。1903年立憲政友会総裁、06年首相。
24年以降唯一の元老として第一次近衛内閣まで
首班候補選定に主導的役割を果たした。
政党政治の擁護者、協調外交論者として知られ
る。
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二十八年二月十一日、紀元節に参賀に出省した。いつも
なれば、少々芝居(しばい)掛りで、判任官一同が並列して、代表一
人が、進み出て判任官一同、本日の紀元節を祝し奉ります
と申上ぐると、大臣は立て、礼帽を左の手に抱へて、祝辞
の趣、言上するであろうと謂(い)って、跡をも見ずに、さっさ
と別室に消ゆるのであるが、西園寺卿は然(しか)らず。秘書官を
して、一人づゝ呼入れて、姓名を聞き、職務上に関する、
質問をして、自分もそれに就て、意見を述べらるゝので、
新しい、成され方ではあったが、言はるゝことは、古るい
が、然(しか)し頼母(たのも)しい出色の、大臣であった。此(こ)の時私の話が、
少しく長くなったので、秘書官が、次ぎを呼び入れたから
実に癪(しゃく)にさわはって、以後其(そ)の秘書官の、在職中物も言は
ず、挨拶もしなかった。
三月十四日、子爵松平忠禮君(注1)卒去せらる、旧上田藩主な
り。
小河滋次郎君、欧洲へ出張につき、三月十六日錦輝館に
於(おい)て送別会を開き、二十三日に横浜港を、解纜(かいらん 船出)された。
戦局は既に威海衛(いかいえい)陥(おちい)り、北洋艦隊全滅し、我陸海の王師(おうし 天子の軍隊)
は、将(まさ)に北京を、衝(つ)かんとする、情勢となったので清廷も
大(おおい)に窮し遂に直隷総督李鴻章(りこうしょう)(注2)を、主席全権として媾和(こうわ)の局
に当らしめんとして、米国公使を介して我が政府に通告し
て来た。
伊藤博文陸奥宗光の両氏、全権弁理大臣として、談判の
衝(しょう)に当ることゝなり、愈々(いよいよ)審議に入るを約して、李鴻章が
旅宿に帰らんとする、途中兇漢(きょうかん)に激撃(げきげき)されて、重傷を負ふ
たが、其(そ)の後談判は進行して、媾和(こうわ)条約となったが、図(はか)ら
ざりき、三国の干渉となって、遼東半島は、還付すること
ゝなった。国民の悲憤(ひふん)は、頂点に達した。
天皇陛下には、四月二十七日広島行在所御発輦(ごはつれん)、夕刻京
都御所に御安着、三十日東京に還幸(かんこう)あらせられた。五月十八
日、宿直番長兼務を命ぜられて、文部省構内の官舎に移転
した。
十二月八日、上田郷友会大会を、富士見楼に開いた、征
清の諸君も見へて、出席五十一名、会費は参拾五銭であっ
た。
二十九年第九議会は、平々凡々に終った。
(注1)最後の上田藩主まつだいらただなり。安政六年
十歳で家督相続。文久元年和宮降嫁にあたり本
山宿より和田宿までの道中警備を務める。
第二次長州藩征伐では将軍の左右の備えとして
出兵。しかし、慶応四年四月には新政府軍の一
員として北越戦争に出兵した。明治二年巳年騒
動に見舞われる。明治四年廃藩置県により免官。
同五年弟欽次郎とともにアメリカ留学し、帰国
後外務省に勤める。明治十四年子爵。
明治二十八年卒、四十六歳。
(注2)りこうしょう。中国清代の政治家。洋務運動を
推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに
尽力した。
日清戦争の講和条約である下関条約で清側の全
権大使となり、調印を行ったことでも知られる。