①日本海沿岸地域、なかでも越中を除き出羽から若狭・丹波までの地名の屋号が際だって多く、因幡など山陰地方の地名はみえない。東北地方の地名を冠する屋号は、秋田が最も多く、会津若松・仙台・最上などがこれに続き、南部屋は一軒であった。また、蝦夷地の地名はみえない。
⑥広域地名では、大和・関東・瀬戸がある。
といった傾向をみることができる(長谷川前掲「北奥羽近世都市の諸問題―都市絵図を用いて―」)。
表30 屋号の地域分布 |
地方 | 屋号 | 軒数 |
東 北 | 秋田屋 米沢屋 仙台屋 南部屋 黒石屋 最上屋 | 8 2 2 1 1 1 |
北 陸 | 加賀屋 越後屋 越前屋 若狭屋 輪島屋 富山屋 | 6 5 5 3 1 1 |
近 畿 | 京屋 大坂屋 伊勢屋 山科屋 大和屋 境屋 長浜屋 大津屋 近江屋 | 3 16 4 2 1 1 2 4 7 |
中 国 | 播磨屋 兵庫屋 備前屋 丹波屋 但馬屋 備後屋 広島屋 | 4 3 2 2 1 1 1 |
東 海 | 三河屋 尾張屋 | 1 3 |
山陰 | 石見屋 | 1 |
四国 | 阿波屋 | 1 |
九 州 | 唐津屋 宮崎屋 長崎屋 | 2 1 1 |
関 東 | 江戸屋 常陸屋 川越屋 水戸屋 甲州屋 | 5 1 1 1 4 |
図121.弘前古御絵図にみえる屋号のある商家(網かけ部分)
図122.慶安期の町割りと町名
屋号と商人の出身地とが密接な関係にあることは、広く認められるところであり、これによれば、十七世紀の中ごろに弘前城下に居住していた町人層の多くは、西廻り海運の航路に沿った地域の関係者であることがわかる。そして、これらの地名は、越前・若狭・加賀などの各湊津に物資を揚げ、琵琶湖を経由して京・大坂へと通じる輸送路(まだ馬関(下関)を経由しない)に属している。また、大坂・京・近江・加賀など、西廻り海運に関係する地名の屋号が、東北地方を地名を冠する屋号よりも圧倒的に多かったのは、上方商人の進出する上方経済圏との結びつきが、より緊密であったことを示している。
これに対して、太平洋沿岸の地域の地名を冠する屋号が少ないにもかかわらず、関東地方、なかでも、江戸を屋号としている町人が比較的多いのは、参勤交代制の定着によって、弘前と江戸とがしだいに関係を深めつつあったことを示唆する。
次に、職人集団であるが、職人町として、紺屋(こんや)町・鞘師(さやし)町・鍛冶町・大工町・銅屋(どうや)町・畳屋町の町名が確認される。ほかに、桶屋・木引(こびき)・檜物(ひもの)屋などの稼業、座頭町・博労町もあり、約三〇種類の稼業が記されている。稼業の名前がそのまま町名となっている町に、職人が集住していることはいうまでもなく、桶屋など町名となっていない稼業は、いまだ職人が集住するようになってはおらず、各町に散らばって居住していたことがわかる。また、藩庁の御用職人もしくは御用役職人の稼業には、「御かうやくみかしら」「御鉄ほう屋」などのように、「御」が付されていた。鉄砲屋頭を務めた国友氏は、御扶持人と記され、この時点では城下に鉄砲町は町割りされていない。
こうした、職人集団の出自をその由緒書からたどってみると、津軽出身者以外では、秋田・加賀・近江・山城・和泉・江戸といった地域を拾うことができ、その大部分は畿内先進技術地帯の出身者によって占められている。しかも、多くは為信の代に召し抱えられたという。つまり、彼らによって職人集団の礎が築かれたということができよう。藩政成立期、先進技術の導入に際して、まずは上方方面から技術者を招致し、その後十七世紀の前半、津軽出身の小知行(こちぎょう)を勤めていた人々などにその技術を継承させ、技術者の育成に取りかかっていたようである。