この触書に対する津軽弘前藩の対応をみてみよう。
天保期の海防報告書提出命令は、さきにも触れたように沿岸防備強化を命じ、さらに海防人員・兵器の増加数を報告するように命じたが、津軽弘前藩でも、この触を契機に、それまであまり顧みられてこなかった従来の体制の再点検・強化が行われた。たとえば、十二月二十一日に「非常御備」における武器の不足を補うため、当年から年割で新規の入手や手入れが実施されることになり、翌天保十四年三月八日には、三奉行からの申し出によって大筒台場・遠見番所(とおみばんしょ)の破損修理などが認められた。
天保十四年(一八四三)三月の、「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)は、天保十三年の海防報告書の写とみられるものであり、内容的には領分海岸警衛状況を兵員・台場・装備について、それぞれ種別・員数等に関して細かく記述されている。それによれば、津軽領内で浦々や台場に常駐して海防に当たる兵員の総数は二四七人、万が一の際の松前派兵のために三厩に置かれている「松前御固人数」一〇〇人を加えると、計三四七人である(表50)。一方で、異国船が領内沿岸に姿をみせた場合には、城下からその場所へ早速一番手人数を派遣し、様子をみて二番手・三番手人数を派遣する手はずとなっているが、これは基本的に寛政七年(一七九五)五月九日に幕府に届け出た人数が継承されている。
表50 弘前藩海岸固人数とその配置(天保14年3月調べ) |
物 頭 | 目 付 役 | 浦 奉 行 | 同 下 役 | 湊 目 付 | 同 下 役 | 平 士 | 浦 番 人 | 同 下 役 | 浦 役 人 | 横 目 付 | 大 筒 役 | 同 下 役 | 足 軽 | 遠 見 番 人 | |
大間越 | 1 | 1 | 12 | ||||||||||||
大間越大筒台場 | 3 | 2 | |||||||||||||
月屋村遠見番所 | 2 | ||||||||||||||
深 浦 | 1 | 1 | 7 | ||||||||||||
深浦大筒台場 | 3 | 2 | |||||||||||||
金井ヶ沢村浦番所 | 2 | 1 | |||||||||||||
金井ヶ沢村大筒台場 | 3 | 2 | |||||||||||||
鰺ヶ沢 | 1 | 2 | 4 | 7 | 2 | 8 | |||||||||
鰺ヶ沢大筒台場 | 3 | 2 | |||||||||||||
長浜寄物番所 | 2 | ||||||||||||||
十 三 | 1 | 4 | 1 | 5 | |||||||||||
十三大筒台場 | 3 | 2 | |||||||||||||
十三遠見番所 | 2 | ||||||||||||||
脇元村遠見番所 | 2 | ||||||||||||||
小泊浦番所 | 2 | 1 | 1 | ||||||||||||
小泊七ツ石崎大筒台場 | 5 | 2 | |||||||||||||
上宇鉄遠見番所 | 2 | ||||||||||||||
龍浜崎大筒台場 | 5 | 2 | |||||||||||||
三 厩 | 2 | 2 | 1 | ||||||||||||
今 別 | 1 | 1 | 6 | ||||||||||||
袰月浦番所 | 2 | ||||||||||||||
袰月浦鷹野崎大筒台場 | 4 | 2 | |||||||||||||
平舘浦番所 | 2 | 3 | |||||||||||||
蟹 田 | 1 | 1 | 5 | ||||||||||||
蟹田大筒台場 | 3 | 2 | |||||||||||||
蓬田村 | 1 | ||||||||||||||
中沢村 | 2 | ||||||||||||||
後潟村 | 1 | ||||||||||||||
小橋村 | 2 | ||||||||||||||
内真部浦番所 | 2 | ||||||||||||||
奥内村 | 1 | ||||||||||||||
油川浦番所 | 1 | 1 | 3 | 1 | |||||||||||
青森出張陣屋 | 1 | 1 | 8 | 22 | |||||||||||
青森浦奉行所 | 1 | 3 | 2 | 3 | 2 | 12 | |||||||||
青森大筒台場 | 3 | 2 | |||||||||||||
久栗坂村 | 2 | ||||||||||||||
野内浦奉行所 | 1 | 1 | 10 | ||||||||||||
野内遠見番所 | 2 | ||||||||||||||
浅虫村遠見番所 | 3 | ||||||||||||||
総 計 | 246(247) |
注) | 史料上の合計人数は247人だが、実は246人である。 |
「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。 |
大間越・深浦・鰺ヶ沢・十三・今別(現東津軽郡今別町)・蟹田・青森・野内(現青森市野内)といった領内の主要地には、町奉行が「浦奉行」という名目で、湊目付・平士・横目付・足軽を指揮して、非常時に港湾警備の指揮を執る体制が採られていた。さらに青森陣屋には、海防の指揮官となる物(者)頭が置かれるとともに、兵器装備も他の各港よりも多く備えられていた(表51・52)。
表51 津軽弘前藩海防武器数(天保14年3月調べ) |
弓 (張) | 長柄 (筋) | 鉄炮 (挺) | 石火矢 (挺) | 大筒 (挺) | |
大間越 | 20 | 15 | |||
大間越台場 | 1 | 2 | |||
深 浦 | 10 | 10 | |||
深浦台場 | 1 | 2 | |||
金井ヶ沢村台塲 | 1 | 2 | |||
鯵ヶ沢 | 10 | 25 | |||
鯵ヶ沢台場 | 3 | ||||
十 三 | 10 | 15 | |||
十三台場 | 3 | ||||
小泊浦番所 | 5 | ||||
小泊七ツ石崎台場 | 4 | ||||
龍浜崎台場 | 1 | 4 | |||
三 厩 | 5 | ||||
今 別 | 10 | ||||
袰月鷹野崎台場 | 4 | ||||
平舘浦番所 | 5 | ||||
蟹 田 | 10 | ||||
蟹田台場 | 1 | 3 | |||
油川浦番所 | 5 | ||||
青森出張陣屋 | 5 | 20 | 25 | ||
青森大筒台場 | 1 | 3 | |||
野内浦奉行所 | 10 | 10 | |||
計 | 5 | 8 | 140 | 6 | 30 |
注) | 「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。 |
表52 津軽領内の大筒台場と人員・装備(天保14年3月調べ) |
台場名 | 大 炮 役 | 大 炮 役 下 役 | 一 貫 目 玉 筒 | 五 百 目 玉 筒 | 五 百 目 大 石 火 矢 筒 | 三 百 目 玉 筒 | 二 百 目 玉 筒 | 百 目 玉 筒 | 百 目 大 石 火 矢 筒 | 五 十 目 玉 筒 | 三 十 目 玉 筒 | 十 匁 玉 筒 |
大間越 | 3(1) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | |||||||
深 浦 | 3(1) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | |||||||
金井ケ沢村 | 3(1) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | 1 | ||||||
鯵ヶ沢 | 3(1) | 2(2) | 2 | 1 | ||||||||
十 三 | 3(1) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | |||||||
小泊七ツ石崎 | 5(3) | 2(2) | 1 | 1 | 1(1) | |||||||
龍浜崎 | 3(1) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | |||||
袰月浦鷹野崎 | 4(2) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | 1 | ||||||
蟹 田 | 3(1) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | 1 | ||||||
青 森 | 3(1) | 2(2) | 1 | 1 | 1 | 1 |
注) | ( )内が今回増加(員)分(新規配置分を含む) |
「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。 |
大筒台場は、大間越・深浦・金井ヶ沢・鰺ヶ沢・十三・小泊七ツ石崎・龍浜崎・袰月浦鷹野崎・蟹田・青森の各所に設けられていた(表52)。さらに、異国船の監視に当たる遠見番所が、月屋村(つきやむら)(現西津軽郡深浦町)・長浜(ながはま)(現西津軽郡木造町か)・十三・脇元(わきもと)(現北津軽郡市浦村)・上宇鉄(かみうてつ)(現東津軽郡三厩村)・野内・浅虫・黒石領田沢村(現同郡平内町)、浦番所が金井ヶ沢・小泊・平舘・内真部(うちまっぺ)(現青森市)・油川(あぶらかわ)(現同市)・黒石領土屋村(現東津軽郡平内町)・同狩場沢(かりばさわ)(現同町)の各所に設けられていた。それぞれの番所には番人が置かれるとともに、鉄炮などを常備する番所も存在していた。
この報告書をみる限り、兵員の増強と武器の増加がみられる点から、幕府の触書の趣旨に沿って海防強化をした姿を幕府に報告しようとしたことがうかがえるが、反面、浦々において新規に増員したと報告された兵員は、たとえば浦々にすでに存在した蔵役人や町同心等の兼務による充当であることなど、人員配置の限界を示す点もみられる。また、武器の不足に対して年割で新規の入手や手入れが実施されたり、台場・番所の破損や設置といった諸点は、事後のつじつま合わせともいえよう。
なお、海防報告書のなかに並記されている津軽黒石藩の海防体制についてもここで簡単に触れておきたい。同藩の沿岸警備の持ち場は、その所領である夏泊半島沿岸(平内領)の警備である。平常時の体制は表に示したとおりであり、総人数は五五人となっている(表53・54)。文化年間以来平内領の警備体制は整えられてきてはいたが、強化されたのは天保の半ばごろのこの時期からと考えられている(『黒石市史』通史編I 一九八七年 黒石市刊)。この海防報告書の提出形態からもわかるように、津軽弘前藩では津軽黒石藩領である平内領の沿岸海防も一体のものとしてとらえ、津軽黒石藩自体もその動きに追随する形で自己の役割を担っていたことがわかる。
表53 黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ) |
代官 | 目付役 | 諸士 | 浦役人 | 小頭 | 小役人 | 番士 | 番人 | 下番 | 足軽 | |
土屋村浦番所 | 2 | 4 | ||||||||
田沢村遠見番所 | 2 | 5 | ||||||||
小湊村代官所 | 2 | 1 | 14 | 4 | 1 | 5 | 10 | |||
狩場沢浦番所 | 2 | 3 | ||||||||
総 計 | 55 |
注) | 「御国元海岸御固人数書并御武器書」(弘図八)より作成。 |
表54 津軽黒石藩平内領海防武器数(天保14年3月調べ) |
弓(張) | 長柄(筋) | 鉄炮(挺) | |
土屋村浦番所 | 5 | 5 | |
田沢村遠見番所 | 3 | ||
小湊村代官所 | 10 | 10 | 10 |
狩場沢村浦番所 | 10 | 10 | |
合 計 | 10 | 25 | 28 |
注) | 「御国元海岸御固人数書并御武器書」(弘図八)より作成。 |