海防報告書にみる天保期の海防体制

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天保十三年(一八四二)七月二十六日、幕府はそれまでとっていた異国船打払令をやめ、このころ老中首座水野忠邦(みずのただくに)が中心となって、「享保・寛政之御政事」に復し、天保改革が始まった。何事によらず「仁政(じんせい)」を施すという名分のもとに展開していたこの改革の趣旨を異国人にまで及ぼすという理由で、文化三年(一八〇六)に食料・薪水(しんすい)の欠乏のために漂流したロシア船には、相応の品を与えて帰帆させるよう命じた触書(『御触書天保集成』下 六五三五号)の趣旨を復活し、様子をただした上で欠乏品を支給するよう命じる一方、海岸防備の一層の強化を命じた。これが「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」と呼ばれる触である。その発令に関連して、幕府は何本かの触を発している。そのうち、同年八月九日に発せられた触は、「海岸防禦之面々」に対して沿岸防備強化を命じ、さらに海防に動員した人数・兵器と今回の増加させた数を報告するよう、また、これまで領地沿岸に異国船が到来した際の書付、さらに海岸絵図を作成し、海岸の浅深、船着き場、それらと城下との距離、台場・遠見番所をそれに記し、それぞれ提出するよう求めたものだった(箭内前掲『通航一覧続輯』五)。
 この触書に対する津軽弘前藩の対応をみてみよう。
 天保期の海防報告書提出命令は、さきにも触れたように沿岸防備強化を命じ、さらに海防人員・兵器の増加数を報告するように命じたが、津軽弘前藩でも、この触を契機に、それまであまり顧みられてこなかった従来の体制の再点検・強化が行われた。たとえば、十二月二十一日に「非常御備」における武器の不足を補うため、当年から年割で新規の入手や手入れが実施されることになり、翌天保十四年三月八日には、三奉行からの申し出によって大筒台場・遠見番所(とおみばんしょ)の破損修理などが認められた。
 天保十四年(一八四三)三月の、「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)は、天保十三年の海防報告書の写とみられるものであり、内容的には領分海岸警衛状況を兵員・台場・装備について、それぞれ種別・員数等に関して細かく記述されている。それによれば、津軽領内で浦々や台場に常駐して海防に当たる兵員の総数は二四七人、万が一の際の松前派兵のために三厩に置かれている「松前御固人数」一〇〇人を加えると、計三四七人である(表50)。一方で、異国船が領内沿岸に姿をみせた場合には、城下からその場所へ早速一番手人数を派し、様子をみて二番手・三番手人数を派する手はずとなっているが、これは基本的に寛政七年(一七九五)五月九日に幕府に届け出た人数が継承されている。
表50 弘前藩海岸固人数とその配置(天保14年3月調べ)































大間越1112
大間越大筒台場32
月屋村遠見番所2
深 浦117
深浦大筒台場32
金井ヶ沢村浦番所21
金井ヶ沢大筒台場32
鰺ヶ沢124728
鰺ヶ沢大筒台場32
長浜寄物番所2
十 三1415
十三大筒台場32
十三遠見番所2
脇元村遠見番所2
小泊番所211
小泊七ツ石崎大筒台場52
上宇鉄遠見番所2
龍浜崎大筒台場52
三 厩221
今 別116
袰月浦番所2
袰月浦野崎大筒台場42
平舘浦番所23
蟹 田115
蟹田大筒台場32
蓬田1
中沢村2
後潟村1
小橋村2
内真部浦番所2
奥内村1
油川番所1131
青森出張陣屋11822
青森奉行1323212
青森大筒台場32
久栗坂村2
野内浦奉行1110
野内遠見番所2
浅虫村遠見番所3
総 計246(247)
注)史料上の合計人数は247人だが、実は246人である。
「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。

 大間越深浦鰺ヶ沢・十三・今別(現東津軽郡今別町)・蟹田青森・野内(現青森市野内)といった領内の主要地には、町奉行が「浦奉行」という名目で、湊目付・平士・横目付足軽を指揮して、非常時に港湾警備の指揮を執る体制が採られていた。さらに青森陣屋には、海防の指揮官となる物(者)頭が置かれるとともに、兵器装備も他の各港よりも多く備えられていた(表51・52)。
表51 津軽弘前藩海防武器数(天保14年3月調べ)

(張)
長柄
(筋)
鉄炮
(挺)
石火矢
(挺)
大筒
(挺)
大間越2015
大間越台場12
深 浦1010
深浦台場12
金井ヶ沢台塲12
鯵ヶ沢1025
鯵ヶ沢台場3
十 三1015
十三台場3
小泊番所5
小泊七ツ石崎台場4
龍浜崎台場14
三 厩5
今 別10
袰月野崎台場4
平舘浦番所5
蟹 田10
蟹田台場13
油川番所5
青森出張陣屋52025
青森大筒台場13
野内浦奉行1010
58140630
注)「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。

表52 津軽領内の大筒台場と人員・装備(天保14年3月調べ)
台場
















































大間越3(1)2(2)111
深 浦3(1)2(2)111
金井ケ沢3(1)2(2)1111
鯵ヶ沢3(1)2(2)21
十 三3(1)2(2)111
小泊七ツ石崎5(3)2(2)111(1)
龍浜崎3(1)2(2)11111
袰月浦野崎4(2)2(2)1111
蟹 田3(1)2(2)1111
青 森3(1)2(2)1111
注)( )内が今回増加(員)分(新規配置分を含む)
「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。

 大筒台場は、大間越深浦金井ヶ沢鰺ヶ沢・十三・小泊七ツ石崎・龍浜崎・袰月浦野崎・蟹田青森の各所に設けられていた(表52)。さらに、異国船の監視に当たる遠見番所が、月屋村(つきやむら)(現西津軽郡深浦町)・長浜(ながはま)(現西津軽郡木造町か)・十三・脇元(わきもと)(現北津軽郡市浦村)・上宇鉄(かみうてつ)(現東津軽郡三厩村)・野内・浅虫黒石領田沢村(現同郡平内町)、浦番所金井ヶ沢小泊・平舘・内真部(うちまっぺ)(現青森市)・油川(あぶらかわ)(現同市)・黒石領土屋村(現東津軽郡平内町)・同狩場沢(かりばさわ)(現同町)の各所に設けられていた。それぞれの番所には番人が置かれるとともに、鉄炮などを常備する番所も存在していた。
 この報告書をみる限り、兵員の増強と武器の増加がみられる点から、幕府の触書の趣旨に沿って海防強化をした姿を幕府に報告しようとしたことがうかがえるが、反面、浦々において新規に増員したと報告された兵員は、たとえば浦々にすでに存在した蔵役人や町同心等の兼務による充当であることなど、人員配置の限界を示す点もみられる。また、武器の不足に対して年割で新規の入手や手入れが実施されたり、台場番所の破損や設置といった諸点は、事後のつじつま合わせともいえよう。
 なお、海防報告書のなかに並記されている津軽黒石藩海防体制についてもここで簡単に触れておきたい。同藩の沿岸警備の持ち場は、その所領である夏泊半島沿岸(平内領)の警備である。平常時の体制は表に示したとおりであり、総人数は五五人となっている(表53・54)。文化年間以来平内領の警備体制は整えられてきてはいたが、強化されたのは天保の半ばごろのこの時期からと考えられている(『黒石市史』通史編I 一九八七年 黒石市刊)。この海防報告書の提出形態からもわかるように、津軽弘前藩では津軽黒石藩領である平内領の沿岸海防も一体のものとしてとらえ、津軽黒石藩自体もその動きに追随する形で自己の役割を担っていたことがわかる。
表53 黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ)
代官目付諸士浦役人小頭小役人番士番人下番足軽
土屋村浦番所24
田沢村遠見番所25
小湊代官所211441510
狩場沢番所23
総 計55
注)「御国元海岸御固人数書并御武器書」(弘図八)より作成。

表54 津軽黒石藩平内領海防武器数(天保14年3月調べ)
弓(張)長柄(筋)鉄炮(挺)
土屋村浦番所55
田沢村遠見番所3
小湊代官所101010
狩場沢村浦番所1010
合 計102528
注)「御国元海岸御固人数書并御武器書」(弘図八)より作成。