表4.弘前城下の町人足役(1軒あたり) |
役 | 改訂前人数 | 改訂後人数 |
上 役 | 96人 | 96人 |
中之上役 | 90人 | 77人 |
中 役 | 84人 | 67人 |
下 役 | 72人 | 50人 |
下之下役 | 66人 | 35人 |
備 考 | 親方町・土手町・横町・亀甲町・紺屋町・新町・重盛町支配分のみ。 延宝7年(1679)の「大組頭支配七組分御町役人足出帳」より。 | 貞享3年(1686)3月13日の記事「要記秘鑑 廿三上」の町被仰出之部より。 |
一方、表5からわかるように町自体にも上・中・下のランク付けがなされており、領内の村々に村位が付けられたのと同様なことが城下においても実施された。上役の町は富裕な商人の多い豊かな町であり、下々役の町は反対に経済力の弱い町といえよう。下々役の町には「新」の付く町が多く、町そのものができてから日の浅いことも関連があるものと考えられる。表4と表5を関連付けてみると、表5の上役には親方町と土手町が入っており、表4の横町とは東長町であろう。
表5.弘前城下各町の上中下役 |
役 | 町 名 |
上 役 | 親方町(但松井四郎兵衛前より土手坂の上まで,当時は本町といった) 土手町(坂下より大橋まで) 東長町(田村和右衛門上屋敷より笹森町入口まで),上長町 |
中之上役 | 本寺町(土手より上る一丁目) |
中 役 | 下長町,土手町(土手町大橋より同新土手鍛冶町境まで) 東長町(笹森町へ入口東角より和徳町坂の下まで) 亀甲町,紺屋町,新町,茂森町,塩分町 |
下 役 | 本銅冶町・東銅冶町,本寺町(二丁目・五丁目) 鞘師町(三丁目・四丁目),黒石町坂下,五十石町後袋町 山伏覚勝院罷在候町(当時角仙町),川原町 西大工町・本大工町・東大工町,東桶屋町・西桶屋町,鍛冶町 土手鍛冶町より猫右衛門町(元禄16年2月11日に猫右衛門町を松森町と,新町を富田町と唱えるように仰せ付けられた),和徳町 |
下々役 | 笹森町,駒越新町,茂森新町,東長町北南横町,新寺町 |
備 考 | 「要記秘鑑 廿三上」の町被仰出之部より。 貞享3年(1686)3月13日の改訂。 |
ところが、元禄十四年(一七〇一)六月には町人足負担が地子銀(じしぎん)納へと変化する。「国日記」正徳六年(一七一六)正月二十九日条によれば、表6のように地子銀が設定され、城下の町々はほとんどが地子銀を上納し、このほかに町人足を使用する時は、日雇銭(ひようせん)をその都度徴収して賄(まかな)う方式が採られたのである。地子銀で雇用した町人足は小遣(こづかい)と称され、約一〇〇人が常に抱えられたので「百人小遣」と呼ばれた。百人小遣は支配頭二人のもとに小頭五人、小遣一〇〇人が所属し、給料は小頭が切米一二〇匁三人扶持、小遣は一〇〇匁二人扶持であった(「国日記」元禄十四年五月二十八日条)。百人小遣になった者は領内村々の出身者が多く、城下出身者には町はずれの者が多かった。
表6.弘前城下の地子銀(1軒あたり) |
上 役 | 52文目8分 |
中之上役 | 40文目 4厘 |
中 役 | 34文目8分 |
下 役 | 21文目5分 |
下之下役 | 11文目5分5厘 |
備 考 | 元禄14年(1701)6月朔日の規定 |
注) | 「要記秘鑑 廿三上」の町被仰出之部より。 |
町役の地子銀納は正徳三年(一七一三)正月に、元の人足役の徴収に戻ることになる。それは、地子銀徴収に当たって藩当局の出費が大きいという勘定奉行・郡奉行の提言があったからである。その際の人足役の割り付けは、貞享三年(一六八六)の規定で行うことになったが、町端の北横町・南横町・紙漉町・楮町などは今までと変わりなく地子銀を上納することに定められた。また、藩から扶持米などを支給されている町扶持人も、人足役ではなく、地子銀を上納することに定められた(「国日記」正徳六年正月二十九日条)。ちなみに、正徳元年の「町支配分限帳」(資料近世1No.一一五三)によれば、当時の町扶持人は高一〇〇石の町年寄松井四郎兵衛・松山善次の二人のほか、俵子五〇俵の町御買物役人が二人、五人扶持の酒屋改役人が二人、板反師二人、御弓師二人、御矢師二人、御鉄炮屋四人、御鍛冶七人、御能役者三七人、目明一人など計一四一人に及んでいる。表7がそれであるが、同役でも扶持に差がある理由は不明である。
表7.弘前城下の町扶持人 |
町扶持人 | 扶 持 | 人数 |
町年寄 | 100石 | 2人 |
町御買物役人 | 50俵 | 2人 |
酒屋改役人 | 5人扶持 | 2人 |
板反師 | 5両3人扶持 | 2人 |
御弓師 | 10両5人扶持 30俵 | 2人 |
御矢師 | 7両4人扶持 30俵 | 2人 |
御鉄炮屋 | 40俵 20俵(2人) 15俵 | 4人 |
御鉄炮台屋 | 2両2歩2人扶持 | 1人 |
御鉄炮金具屋 | 30俵2人扶持 20俵 | 2人 |
御鑓屋 | 50俵 3両4人扶持 | 2人 |
御具足屋 | 50俵5人扶持 30俵 25俵 20俵 5人扶持 3人扶持 | 6人 |
御刀鍛冶 | 30俵4人扶持 25俵 | 2人 |
御研屋 | 50俵 30俵 | 2人 |
御金具屋 | 30俵2人扶持 30俵(2人) | 3人 |
御鞘師 | 25俵 | 1人 |
御塗師 | 7両5人扶持 5両5人扶持 4両2人扶持 30俵 15俵2人扶持 3両2人扶持(3人) | 8人 |
御蒔絵師 | 30俵 6両4人扶持 | 2人 |
御仕立屋 | 30俵 7両5人扶持 15俵2人扶持(2人) | 4人 |
御染屋 | 40俵 5両3人扶持 | 2人 |
御釜屋 | 7両7人扶持 4両2人扶持 | 2人 |
御鋳物師 | 3人扶持 | 1人 |
御鍛冶 | 30俵 25俵(2人) 20俵(4人) | 7人 |
薬鑵屋 | 3両2人扶持 | 2人 |
指物屋 | 30俵3人扶持 | 1人 |
木地挽 | 30俵2人扶持 3人扶持 | 2人 |
張付屋 | 5両5人扶持 20俵 | 2人 |
畳屋 | 40俵 5両2人扶持 3両2人扶持(2人) 20俵2人扶持(2人) 20俵(2人) 17俵 | 9人 |
御蝋燭屋 | 30俵 金1枚5人扶持 3両2人扶持(2人) 20俵2人扶持 | 5人 |
御油屋 | 3両2人扶持 | 1人 |
御庭木作 | 20俵5人扶持 | 1人 |
御紙漉 | 30俵 | 1人 |
御切付屋 | 40俵 30俵 | 2人 |
時鐘撞 | 銭100目2人扶持(2人) 4人扶持(4人) | 6人 |
牢守 | 2両2人扶持 | 2人 |
瀬戸物焼 | 30俵 | 1人 |
御豆腐屋 | 20俵 | 1人 |
町年寄手付并小遣 | 銭100目2人扶持(2人) 銭50目2人扶持(4人) | 6人 |
目明 | 10俵 | 1人 |
御能役者 | 15俵(14人) 10俵(18人) 5俵(5人) | |
※俵には4斗入・3斗5升入・3斗入があるが、注記しなかった。 | ||
計 | 141人 |
注) | 正徳元年(1711)「町支配分限帳」(弘図津)から作成。 |
正徳三年(一七一三)五月の城下町役の「覚」(前掲「正徳期町方屋敷割裏書記録」)では、一年に人足九六人を負担する上役は一四八軒余、以下、七七人を負担する中の上役は二二軒半、六七人を負担する中役は四一〇軒余、五〇人を負担する下役は四〇四軒余、三五人を負担する下々役は三一九軒余であった。このうち、名主・月行事・町年寄小遣・御用屋敷・新田会所・能役者屋敷・人馬請払所・鍛冶役所・具足役所などが役負担を免除されている。このため、人足役負担の合計は五万九〇七二人余、町扶持人の地子銀の合計は五貫六六一匁余、五匁・七匁・一〇匁・二五匁の地子銀を払わなければならない町の地子銀の計は四貫九三九匁余で、合計一〇貫六〇〇匁余にのぼった。以降、弘前城下の町人は居住地によって人足役か地子銀のどちらかを負担していったのであろう。
さて、城下の有力な商人たちには藩から臨時の運上(うんじょう)金や冥加(みょうが)金が賦課される場合があった。正徳三年(一七一三)五月に五代藩主津軽信寿(のぶひさ)は、富山藩主前田利興(としおき)とともに幕府から江戸芝増上寺の方丈造営を命じられ、国元に普請御用金の上納を命じた(「国日記」正徳三年閏五月七日条)。それによれば、丹波屋清三郎をはじめとする一六五人が一〇五〇両を割り当てられ、納入した。また、安永四年(一七七五)五月の甲州川々普請手伝では、上方の金策が不調に終わったため、国元で茨城屋安右衛門など四人の富商に合計一万五〇〇両の上納金を命じる一方、弘前・青森・深浦・碇ヶ関などの商人に四〇〇〇両以上の米銭を要求している。この時、城下の町方への御用金割当は一三〇〇両であった(同前安永四年六月十七日条)。このように幕府から津軽弘前藩に普請役が賦課されると、御用金や冥加金が城下の町方や領内の商人に強制的に割り当てられたのである。