①公儀の定めを守り、学問を怠らないこと。
②キリシタン改めに油断しないこと。
④犯罪人の走り込みに一夜の宿も貸してはならないこと。
⑤火の用心。
⑥堂社の修復と掃除のこと。
⑧葬式、法事は分限に応じて行うこと。
⑨徒党、争論は公儀の定を守ること。
⑩寺社領の住民が困窮しないようにすること。
⑪僧侶が弟子を取る場合は奉行へ届けること。
ここでは寺社の役務を明確にするほか、迷信、流言を排除することを命じたものであった。寺社領については、明暦三年(一六五七)の検地帳が耕春院(現宗徳寺)と藤先寺(とうせんじ)に現存するところをみると、この前年に信政の後見役信英の所領となる黒石領の検地が行われているので、寺社領の把握もなされたものとみられる(資料近世1No.八一八、八一九)。貞享元年(一六八四)から四年間をかけて実施した「貞享検地」は詳細を極めたもので、寺社領については年貢地か除地かを明記しており、堂社地七四六ヵ所が除地になっている。正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)は五代藩主信寿の時代のものであるが、貞享検地帳との照合が行われており、これ以後の寺社領を調査する基本となった。ここには領内の全寺社名・藩主からの寄進の石高・堂社の管理者が記されており、藩は寺社の経済的把握のみならず宗教者の把握を同時に行っている。寺社領は全部で三六九二石余で、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)の三八五九石余と比較してみて、寺社への寄進は信政の時期をもって終わったといってよい。
津軽領はキリシタン流罪の地であり、寛文元年(一六六一)には「切支丹改(あらため)衆」が置かれた。延宝六年(一六七八)に切支丹改役の岡文左衛門に加えて成田七郎右衛門を寺社奉行に任命した(同前No.三九五)。ここに至ってはじめて藩庁組織の中に寺社を担当する部署ができたことになる。寺社奉行は定員二人が月番で、官署が設けられていなかったので、寺社奉行宅で事務を取り扱った。配下に寺社役二人、寺社方物書三人、寺社方小使三人が属した(黒瀧十二郎『日本近世の法と民衆』一九九四年 高科書店刊)。
各宗派とも僧録寺院の後継住職は、家老宅において寺社奉行・大目付が出座して家老より申し渡された(「国日記」元禄十四年七月二十八日条)。また、僧侶が禁足などの処罰を申し渡される時は、寺社奉行宅で行われた(同前元禄十四年五月二十六日条)。
寺社の縁起は、真言宗最勝院を除いて、寺社の手で元禄十四年(一七〇一)・十五年に成立したものが残っている(資料近世2)。これは幕府が元禄五年にきわめて厳しい新寺建立禁止を発令したことを踏まえ、藩が領内寺社の由緒を把握して以後の建立を認めないためとみられる(『徳川禁令考』一九五九年 創文社刊)。
寺社の建立では、信政が明暦二年(一六五六)、父信義のため天台宗報恩寺(ほうおんじ)を創建し、薬王院(やくおういん)・神宮寺・袋宮寺とともに天台「四山」とした。大円寺(現最勝院)五重塔は寛文四年(一六六四)から築造されたが、九輪の金物が不足したため、領内奉加をもってこれに充てることを許可した(資料近世2No.四一一)。元禄十年(一六九七)には田茂木町(たもぎまち)に山王宮(さんのうぐう)(現大杵根(おおきね)神社)を建立した。同年、風神の広瀬宮(ひろせぐう)(現西津軽郡木造町舘岡の八幡宮に合祀)、風神の龍田宮(現西津軽郡深浦町田野沢)を創建し、水神の貴船宮(現青森市野内)、日・雨神の加茂宮(現南津軽郡浪岡町五本松)とともに領内「四社」に定め、風雨順調と五穀成就を祈らせた(『記類』)。宝永五年(一七〇八)に江戸浅草の熊谷(くまがい)稲荷宮を新寺町へ勧請(現新寺町稲荷神社)し、別当白狐寺(びゃっこじ)を置いた。
このように信政によって保護と規制の両面がとられ、藩の寺社制度が確立した。