これらに記述されている「おやす(小安)から、のたあい(野田追)」までの東蝦夷地、下海岸・噴火湾沿岸地帯を「箱館六ケ場所」と呼ぶようになったのは、詳(つまび)らかではないが記録でみる限り寛政12年(1800年)の前幕領時代(1799~1817)、これらの沿岸地帯「小安・戸井・尻岸内・尾札部(尾札部・臼尻・鹿部)・茅部(砂原・鷲ノ木)・野田追」の6ケ所を「村並」としてから以降である。なお、「村並」とした際の幕府の記録(休明光記附録巻五・箱館奉行羽太正養)には「箱館最寄口蝦夷地之内ノタヲイ迄」と記すのみで、箱館六ケ場所の呼称は用いられていないが、この村並化以降、とりわけ、文化年間(1804~17)以降の記録に、この呼称が多く登場することから、寛政12年(1800)の村並化が大きな契機として成立した可能性が強いと推察される。
「村並」化ということは、「村」に準じ、その部落を幕府の行政単位とし、和人の名主等の役職をおき統治させることである。前述のように、この地域は松前藩が蝦夷地と認定し、幕府にも「松前島絵図・松前島郷帳」に記し提出しており、乙名、脇乙名、小使らアイヌの役職が統治していた。それが、和人の土着(定住は認められていない)、出稼ぎ人の増加という実情に照らし和人地と追認「村並」とし、箱館六ケ場所と呼称するようになったのは、名実共に和人の経済圏とし、場所での利権の強化を図ったのではないかと思われる。松前藩はこれまで、蝦夷島を和人地と蝦夷地の2地域に区分し、和人の蝦夷地への定住を禁止しており、その往来さえも厳しく取り締まっていた。西蝦夷にあっては元禄4年(1691)熊石村関内以北への和人の出漁を禁じており(松前福山諸掟)、その後享保年間(1716~35)には出漁する漁民もみられるようになったものの(松前蝦夷記)、定住者は未だ見られなかった。これに対して東蝦夷は、元禄13年(1700)の「松前島郷帳」に記されているように、これまで蝦夷地であったヲヤス領を和人地に組み入れ、天明年間の「北藩風土記」に「ヲヤスムラ、高橋宗四郎支配、コノ地日本ト蝦夷トノ分境ナリ。故に戍楼(じゅろう)(番所)ヲカマエ、是ヲ衛(まも)ル、二月ヨリ八月マテナリ。松府犯罪人之流人ヲ放ツ地ナリ」とあって戍楼(じゅろう)(番所)を設けて蝦夷地への和人の往来を取り締まってはいたものの、当六ケ場所への出入り、入り稼ぎ、済し崩し的な土着についてはそれほど厳しい規制はなかったと考えられる。
寛政11年(1799)幕領化したとき、箱館奉行の公務日記、休明光記附録巻五(羽太正養)には「(当地域に)日本人多く罷在候」と記述されている。翌寛政12年(1800)六ケ場所が「村並」となったのも、このような実態を前提としていることであり、和人地は噴火湾を一挙にヤムクシナイ(八雲町山越)まで北上することになった。
<商場>
箱館六ケ場所の漁業交易区域としての成立は、松前藩主が家臣に、この区域を給地(禄高)として与え交易を認めたことに始まる。この給地を「商場(あきないば)」または「場所」といい、アイヌとの交易の場所であり、この制度を一般に「商場知行制」とよんでいる。前述『津軽一統志』によれば1669年(寛文9)頃、野田追が「商場」と記されており、また、1695年(元禄8)茅部場所が「商場」として記録に表れていることから、六ケ場所一帯が「商場」として成立したのは元禄期(1688~1703)と見ていいのではないか。
<場所請負制>
1720年(享保5)11世藩主になった松前邦広は着任早々藩政改革に取り組んだ。勿論、藩の財政に関わる事項については積極的であり、莫大な漁業生産地である「商場」からの収益をあげるためいろいろな手だてを講じた。この時代、享保5年から元文(1735~40)にかけて、「商場知行制」は「場所請負制」へと漸次移行していく。「商場知行制」では、知行主(藩主、家臣)が「商場」を自己経営していたのに対し、「場所請負制」は、知行主が商人に「商場」の経営権を委ね「運上金」を納めさせるという制度である。これにより藩主・知行主は労せずし一定(各種の運上金を課したり、値上げも行った)の「運上金」(税収入)が確保された。
モチは餅屋の例え通り、経済活動は武士より当然商人の方が優れている。場所経営の自由が保証された商人たちは利益追求のため、アイヌとの交易の「商場」から、彼等を使役する漁業経営の「場所」へと構造改革を行った。
<運上屋>
「場所請負制」の拠点となったのは、その仕組みが置かれた「運上屋」である。
請負制の仕組みは、「場所」全体を管理・運営、商取引を仕切る組織として、場所責任者の支配人を置き、その下に・通辞(アイヌの通訳)・帳役(諸記録係)・番人(番屋の管理)の専門役を配置し、「運上屋(後に会所と改称、行政の機能をも持った)」と呼ばれた事務所を設け、そこを中心に場所経営を行った。この「運上屋」は関係者の宿泊所であり、生活物資・漁具資材・生産品の収蔵庫ともなる漁業経営の拠点として相当の規模のものであった。元文年間(1736~40)までには運上屋が「場所」の経営拠点であることから、殆どの「場所」が「運上場所」と呼ばれるようになった。
生産活動に携わる労働力は、土着(あくまでも正規の定住ではなく)や出稼ぎの漁師とアイヌたちであった。請負人(知行)は、アイヌ社会固有の階層・権力を認め、それを活かし、乙名−脇乙名、小使−土産取−平アイヌといった序列をつくり、この階層・権力を介しアイヌ全体を統治・掌握に当たらせ使役していったが、「場所請負制」のもとで「場所」の「運上金」の額が年を追うごとに引き上げられたために、生産者であるアイヌら漁民の酷使も行われていく。1789年(寛政元)国後・目梨(めなし)でのアイヌの蜂起は、請負人飛騨屋のアイヌに対する過酷な扱いが原因であるといわれる。幕府は、アイヌの蜂起とロシアの度々の接近という不穏な情勢から、1799年(寛政11)蝦夷地を幕領化、東蝦夷地での場所請負制は廃止とする。しかし、ロシアの動きが静穏となるにつれ、アイヌ「撫育(ぶいく)」の必要性も論じられなくなり、また、財政上の理由もあって、場所請負制の復活・松前藩の蝦夷地支配が回復するが、前にも増してアイヌの酷使の体制は一層強まり、加えて伝染病の蔓延などから人口は激変、アイヌ民族衰退へと進んでいく。いきおい和人の出稼漁民の重要性が増すが、高い入漁税(漁獲の2割)、高利の前貸し、漁獲物の売買規制など、全ての面で場所請負人の利益追求のために仕組まれ、これが和人漁民の成長を妨げた。場所請負制は、六ケ場所の発達を促し、また、蝦夷地の開発を担ってはきたが、広く見れば、アイヌを徹底的に犠牲にし末期には、和人漁民を搾取しつつ蝦夷地の資源を収奪することで、幕藩体制・権力の財政を支え、及びそれと結んだ商人に莫大な利益をもたらした制度と言っても過言ではない。
<運上金>
幕藩体制にとって場所請負制は、運上金の収益に他ならないことは前述の通りである。
「運上」とは、近世における小物成(こものなり)「雑税」の一種で、各種営業従事者に課した税であるが、蝦夷地で「運上金」といえば、一般に場所請負人が、その知行主・藩主に、一定の年期を限って経営を請け負う際に上納する請負金のこと「正税に相当するもの」を指している。この金額の決め方は、場所の生産力の高低、請負形態、年期などによって異なっていたが、場所請負形成期にあっては、年期1~3年が普通で金額も比較的低かったようである。その後1700年半ば以降、場所請負制の発展・漁業経営の規模拡大に伴い年期が長期化して運上金も高額になっていった。1786年(天明6)ころの例では、
・給地(知行主) 66カ所 運上金 3706両 場所平均 56両余り
・領主納戸納(藩主直轄) 19カ所 運上金 1662両 場所平均 87両余り
合計 85カ所 運上金 5368両 場所平均 63両余り
・運上金 200両以上の場所 6カ所(内4ヵ所 リシリ・マシケ・トママイ・ソウヤは藩主直轄場所)
・同 100~199両の場所 17カ所
・同 50~99両の場所 12カ所
・同 50両未満の場所 50カ所
以上となっており、藩主直轄場所は当然の事ながら、生産力も高く多額の運上金が課せられていた。
その後1822年(文政5)ころでは、東西蝦夷地運上金の総額は2万2千409両余りにも上昇し、年期も7~10年が最も多くなっていた。
場所請負人にとって、運上金は「正税」に相当するものであったが、ほかに「差荷料・仕向金・二分積金」などの「雑税」の上納も義務付けられた。これが、幕末には「別段上納金・増運上金」などと称して追加金が付加され、事実上運上金は大幅に増額されてきた。
なお、運上金の額は、その「場所」の生産性を示すバロメーターとの見方もできる。六ケ場所の運上金についての推移は後述するが、次に記す『蝦夷商賈聞書』にもその記録が残っている。
1739年(元文4)頃の六ヶ場所の状況 『蝦夷商賈聞書』より
1739年、元文4年頃の蝦夷地各場所の状況を記している『蝦夷商賈聞書(えぞしょうかもんじょ)』によると、六ケ場所は、小安を除いて戸井から野田追までの沿岸が7ケ所に分けられ、松前藩主が1ケ所、その他を6人の家臣が知行地として与えられている。この場所の請負は、戸井から尾札部までの4ケ所を随時箱館の商人が請負、特定の者が存在しておらず、まだ、はっきり場所請負人制度が確立していない、いわば移行期にあった。なお、小安については土着の和人が多く、蝦夷地ではあるが和人地と見做(みな)されていた。
『蝦夷商賈聞書』
松前城下より東西之蝦夷地運上所 出物之品 人間境(和人地)より通江地(蝦夷地)迄 書記申候 是よりカヤベと申迄 昆布出所
一、トエ申地 佐藤加茂左エ門殿御預り
・出物 赤昆布 ウンカ昆布と申大名物
黒昆布 シノリ同前(所) フノリ 秋の猟は鮫 鰤
箱館と申す所の人間共運上に請支配仕
*運上之儀年々不同 小船に而(て)箱館江通江候
一、シリキシナイと申す地 木村右エ門殿御預り
・出物類右同断也
箱館之者共支配仕候、
*運上不同 是も小船に而南部江通候
一、イキシナイ并コブイ 此両所 御家老蠣崎内蔵丞殿御預り
・出物類右同断
箱館之者共運上申請支配 運上金不同
一、トドホッケよりヲサツベ迄十里はかり 此間蝦夷村沢山に有り
・昆布大出所也 新井田公内殿御預り
*運上金壱ケ年に四拾両宛
箱館之者共運上申請 二百石ばかり之小船に而(て)度々箱館江通江申候
一、臼尻よりマツヤと申所迄 松前志摩守様江運上金揚る
・出物昆布はかり、小船に而(て)村々より箱館江昆布積通江候
一、カヤベと申地 北見与五左エ門殿御預り
・鯡 数子 昆布 夏出物 十月之初より膃肭臍(オットセイ)取申候
*運上金弐拾両 壱ケ年に指上け 亀田村と申所の者共年々商売仕候。
一、ヲトシ部、モナシ部、野田ヲイ、 此三ケ所 新井田権之助御預り
・出物 鯡 数子 昆布 夏の出物 冬はヲットセイ 沖より寄昆布ひらえ囲昆布(かこいこんぶ)と申 春 大坂船共 箱館江下り 右昆布(囲昆布(かこいこんぶ))積申候
・此カヤベよりヲシャマンベと申所迄 十月は皆オットセイ取商 貫目 形壱〆三,四百目迄 松前公儀江御取揚げ罷成、其外大き成は皆御預り方之分也
・右の地 秋は生鮭も少々上る 冬馬疋立間は馬に而(て)戸切地(へきりち)と申人間地江内浦越と申所より出ず
*運上金 権之助殿江上納 夏之内二百石斗なる舟に而(て)三度通*運上金不同
郷土はシリキシナイとイキシナイ(女那川)・コブイに分割され、知行主はそれぞれ、木村右エ門と松前藩家老の蠣崎内蔵丞。主な産物は、ウンカ・シノリ昆布、フノリ、鰤(ぶり)、鮫(さめ)とある。昆布は大名物と記述されており、折り紙付きであったことが窺われる。布海苔は当時、建築材料(漆喰)としての需要が多く、鮫はいわゆる「俵物三品、ふかひれ」として加工され高値で取り引きされたのであろう。これらを扱う商人はいずれも箱館の商人で運上金は定まっておらず、シリキシナイ場所については、小船で南部へ直接運ばれたもようである。なお、ヲサツベ場所については昆布大出所とあり、運上金も定まっていたことから、当時から主要産物は安定して収獲される昆布であったと推察される。
<六ヶ場所の知行主と場所請負人との関係>
この時期の「知行と場所請負」について、白山友正函館大学教授は、その著『松前蝦夷地場所請負制度の研究』のなかで、次のように結論づけている。
松前城下に比較的近い六ケ場所は、知行主自身による巡視や監督も容易であり、彼等は給地(場所)の直接支配(生産・販売)をしていた。ここでの商人は、一定の運上金を納め商売をするという従属的な存在で、後の請負人のような、請負人としての正式な任命の形式はとられていなかった。従って、請負人(商人)は運上金の多寡により随意決まるという、入札制のようなものであり、前述の文書(もんじょ)にもあるように請負人の特定の名前は見られない。また、運上金の金額はその年の漁獲により決められていて、その性格は多分に貢租、賜物的なものであった。
場所での知行主と請負人(商人)の立場は明確であった。知行主は生産者側−直接漁業に従事するアイヌ・土着および出稼ぎ和人の生産奨励・場所管理等の立場をとり、商人は生産物の集荷・仲買の役割を担い、場所経営には参加しなかった。
六ケ場所の生産物の集荷権は、箱館商人が握っており、2百石内外の小船で箱館港に集められた、昆布を主に鰊・数の子などの産物は本州の商人たちの手によって、消費地へと運ばれて行った。ただ、これら産物の内、囲い昆布は箱館・大阪直輸契約であった。また、オットセイ漁の請負については、運上金先払いの条件で亀田の百姓が特権を得ており、獲物の内、一定の規格品は献上品となり、その他のものは知行主の所有となった。
以上、北海道経済史研究所研究叢書(第26~8編 S36・2)「松前蝦夷地場所請負制度の研究」より。
『蝦夷商賈聞書』以降の記録をみれば、宝暦3年(1753)ヲヤスが高橋七郎左衛門の商場(旧記抄録)に、天明2年(1782)トイ・ハラキが佐藤権左衛門の商場から藩主の商場へ、次いで工藤平右衛門の商場となる(工藤家年々秘録)など、知行主の移動が見られるが、天明年間、1781~1788年代には、商場(場所)も『ヲヤス・ト井・シリキシナイ・ヲサツベ・カヤベ・ノタヲイ』の六ケ場所として定着、場所経営を請け負う商人達も固定し「場所請負制」がしだいに確立していった。
1786年(天明6)・1791年(寛政3)頃の六ケ場所の場所請負商人と運上金 『蝦夷地収納運上金帳』より。
請負商人について『蝦夷地収納運上金帳』には次のように記されている。これを見れば六ケ場所は概ね箱館の商業圈に入り、請負人の契約も3~5年など相当の年数継続して行われ、運上金も、1739年(元文4)頃『蝦夷商賈聞書』ではヲサツベ40両、カヤベ20両以外不同であったが、この時代になると各場所とも定まってきたもようである。
・天明
(場所) ・寛政 (商人名) (運上金) (摘 要)
・道中記より
・……
ヲヤス ・……
・山崎小吉右衛門 「高橋荘四郎支配所」時代
・作右衛門代嘉七(松前) 四〇両
ト井 ・浜田屋兵右衛門(箱館) 四〇両 一七八九年(寛政元)から三ヶ年
・北村武左衛門
・亀屋武兵衛 (箱館) 三〇両 一七八六年(天明六)~一七九一年(寛政三)
シリキシナイ ・亀屋武兵衛 (箱館) 三〇両
・白鳥 庄助
・白鳥屋新十郎 (箱館)一〇〇両 ~一七九二年(寛政四)までヲサツベ
・白鳥屋新十郎 (箱館)一〇〇両
・浜田屋兵右衛門
・角屋太郎右衛門(箱館) 四〇両
カヤベ ・角屋吉右衛門 (箱館) 四〇両
・角屋吉右衛門
ノダヲイ
・モナシベ ・江口屋兵右衛門(箱館) 七〇両
・ユウラフ ・材木屋藤右衛門(松前) 三〇両
(ノダヲイ) ・河崎屋新六 (松前)
・白鳥新十郎 ~一七九二年(寛政四)まで
次に、これらの場所に課された、運上金の推移について見てみる。
一七九七・九八年(寛政九・一〇)頃の各場所の知行主と運上金等の状況
『蝦夷地御用中一件留(阿部家文書)・松前東西地利』より
(場所) (知行主) (運上金)・運上金以外の税 ・手場所(藩主場所)
ヲヤス 高橋壮四郎 六八両・差荷物三品代金 二両一分と銭六五〇文
ト井 工藤清右衛門 四三両・差荷物四品代金 一両二分と銭七五〇文 他手場所運上金 三八両二分
シリキシナイ 木村与右衛門 二四両・差荷物八品代金 二両三分と銭六五〇文 他手場所運上金 八三両二分
ヲサツベ 新井田嘉藤太 一五〇両・差荷物一〇品代金 九両三分と銭五五〇文 他手場所運上金一四七両
(金右衛門)
カヤベ 北見常五郎 一五〇両・差荷物一三品代金 八両二分と銭一貫五〇文 他手場所運上金 一一両 但し、運上屋は「サワラ」に所在
ノダヲイ 新井田伊織 六〇両・差荷物二九品代金 二一両三分と銭七五〇文 但し、運上屋は「モナシベ」に所在
以上(北海道百科事典・箱館六ケ場所より抜粋)
この記録では、ノダヲイを除き各場所、運上金が上がっており、加えて、手場所運上金・差荷物(大型荷物)代金の付加税が加算され、総額では全場所(ノダヲイも含め)相当な上昇となっている。特に手場所運上金が147両ヲサツベ・83両シリキシナイと突出しており、ヲサツベ場所では運上金と、ほぼ同額、シリキシナイ場所ではこれを上回っている。手場所とは藩主商場で、昆布の良質で生産量の多い生育地であったと推察される。運上金の高騰・付加税は、藩の財政状況あるいは、知行主の台所事情によるものであろうが、一方、六ケ場所の生産力・漁獲高が上がってきたことを物語っているともいえるのではないか。
次の『松前国中記』にも記述されているように、行政上は蝦夷地であった六ケ場所も、もうこの時代(寛政年間)には、成熟した漁村として和人が定住しており、事実上、和人居住地となっていたと推測される。
1789~1800年(寛政年間)頃の六ケ場所の状況『松前国中記』より。
松前国中記は記録年代が不詳とされているが、南茅部町史では尾札部場所の知行主、新井田家の系譜からの推察と、また、ヲサツベ場所の記に「近年、新鱈船(しんだらぶね)といふて、臼尻の澗に入り、鱈辛塩切、江戸江登。尤、四五百石積弐艘位積御改 御判共 此所(臼尻の澗)より直走願也」とあり、この地方の新鱈船の江戸への直走が寛政年間後半からという記録から、『松前国中記』に書かれている内容の年代は、ほぼ寛政年間であるとみている。
<松前国中記より六ヶ場所の状況>
蠣崎左士殿ヨリ上り地
シヲトマリ 産物 秋味川有
フルカワシリ 産物 右同断
井シサキ村 人家アリ
産物 昆布 秋ハ鰤 鮫
但し塩首迄之内に漁す
中タイショ
シロ井シ
ヲヤス村 人家アリ 城下より追放人此村に送る也
ウンカ川
カルヤヲヤス
シヲクビ崎
ユムキナ井
メツタマチ
何れも 産物 昆布 鰤 鮫 布苔 雑木抔(など)も出る
佐藤彦太夫殿 知行所
ト井ノカワシリ 産物 昆布 鰤
御場所(藩主)
シスン
ヲカヘトマリ
ト井
ム井ノトマリ 産物 春ハ布苔 夏昆布 秋ハ鰤 鮫
ハラキ 御百姓入交リ 昆布其外取也 夷共も抱ゐ□テ
カ子カシタ □もなり 御運上場所の名前 惣名戸井の名前ニ而御判申請ル
木村又八殿 知行所
小名 カフスコウタ
ヒウラ 産物 昆布 布苔 鰤
御場所(藩主)
ムイノトマリ 所産物 春ハ布苔 夏昆布 秋鰤 鮫 口黒鱒
アカシノマ
シリキシナイ
イキシナ井
コフイ
子タナイ
サフナ井 惣して産物 昆布 布苔也 昆布取竿
此絵図のごとし 長さ七尋(ひろ)より拾尋余迄有是ニ而昆布の根元ト見分テ祢ぢり祢ぢり切取也 船ハ磯舟といふて甚小船なり 壱人ツ々乗 其外海へくくり入取も有 又鎌かり取といふて 柄の長サ四尋五尋あり 此先きへ鎌付 かり取も有
エサン崎 甚高山也 い王ふ(硫黄)沢山有 此い王ふ(硫黄)
運上ニ而取□より今々い王ふ(硫黄)の焼煙立 温泉抔(など)もあり 甚タ難所
新井田孫三郎殿 知行所
小名 ミツナシ トゝホッケ ウヨウシ ウツタフ石
ヲサツベ キナヲシ ホンキナヲシ ヒルカ濱 マケシカ(マ)ウタ
ケンニチ ヤキヲサツベ ツキアケ カツクミ
シチ(ウ)シ川 イワ(タ)キ ウスジリ タ(ク)マトマリ
ヒロトマリヲカカイ ケムナ泊 イソヤ
クルワ尻 ホロ ホヤタヲ(タ) トコロ サル石
シベウタ カモヘ泊 シカヘ
ククノヘ ホンヘツ イテカ澗 マツヤ
産物 昆布 鯡 鰤 鮫 布苔 かば しな 縄鱈
*近年新鱈船といふて臼尻の澗ニ入 鱈辛塩切 江戸江登尤四五百石積弐艘位積是御改御判共此所より直走願也
又木直し
おさつべ 此三ケ所の沢五葉松 木師 桂 其外雑木沢山有
かッ汲
北見常五郎殿 知行所
小名 ノホリ崎 カヤベ ニコリ(ワ)カナ 井シクラ
サワラ 産物 鯡 干鱈 鱒 膃肭臍(オットセイ) 鮭 昆布
但し亀田村箱館村々百姓 合図船 三半船ニ而春ハ追鯡取 此茅部へ参り取也 其外陸通り商賣ニ荷物馬付 賣買す 砂崎という能鯡取場所もあ里
新井田兵作殿 知行所
小名 ヲトシベ
ノタオ井 産物 鯡 干鱈 昆布 秋味川有
青山栄治殿 知行所
小名 ヲリツホ クロイワ モナシベ クンス(ヌ)井
ユーラップ オシャマンベ
此所江城下より 十月より翌年相立年三四月まで膃肭臍(オットセイ)奉行下ル 夷におっとせゐ取 塩漬封印追々取次第城下江上る
産物 鯡 干鱈 鱒 おっとせ 秋味川有
御場所(藩主)
シツカリ 産物 煎海鼠 秋味有
尻沢部(箱館尻沢部村・現住吉町)より是迄之場所場所の産物 何品ニ而も不残 箱 館村之小廻船則 合図也 是ニ而積廻し 箱館ニ而商内す 尤 近場所之内 馬付ニ而 も相廻す事もあり 上方船中国船箱館より積登る(以下略)
『松前国中記』の状況をみれば、『蝦夷商賈聞書』に比し、産物の種類が大幅に増加しており漁獲される季節についても記されている。主要生産物の昆布については、漁獲方法・道具など詳細に記述されている。特筆すべきは、『新鱈』についての記述である。後述するが、これは、高田屋嘉兵衛等により江戸へ出荷され評判をとった特産物と言われており、合わせて、当時の塩の流通や江戸への東回りの航路(冬期の)の状況が窺われる。
また、硫黄・木材など海産物以外の産物にも目を付けている。(尚、恵山の硫黄はこの時代に白鳥屋新十郎により採掘されたと記録にある)オットセイについては当時、精力剤として珍重され高い値段で取り引きされたといわれている。
この時代、海路に就いては、東回り江戸への航路の開発など相当開けており、陸路についても馬を利用するなど、開発されつつあったことが窺われる。