右にみてきたように、天正十九年十月までに確定された津軽氏の領知高は三万石程度であったと考えられる・高橋富雄『東北の歴史と開発』(一九七三年 山川出版社刊)によると、慶長三年(一五九八)に津軽氏の領知石高は四万五〇〇〇石であり、また、陸奥国に直轄地(蔵入地(くらいりち))が一万石あったという。両者の石高の差違については、後述することにして、まずは、陸奥国に設定されたという蔵入地についてみてゆくことにしよう(以下は、渡辺信夫「南部・津軽藩と若狭海運」福井県立図書館他編『日本海海運史の研究』一九六七年、および、長谷川前掲『近世国家と東北大名』による)。
天正十九年から慶長六年(一六〇一)にかけて秋田領に設定された蔵入地の年貢率平均は一七パーセントであったという。文禄四年(一五九五)十二月、若狭小浜の豪商組屋源四郎が津軽の蔵米二四〇〇石の販売を請け負っているが、この秋田領での割合を当てはめてみると、津軽地方の蔵入地の石高は一万四一〇〇石余となる。
また太閤蔵入地の石高は、出羽国を例にすると、蔵入地の代官を命じた大名の領知高の半分であるといわれる。津軽地方に太閤蔵入地が設定された場合、さきにみたように津軽氏の領知高が三万石であることから、その石高は一万五〇〇〇石程度であったと考えられる。したがって、組屋が請け負った津軽の蔵米から推測される津軽地方の蔵入地の石高とほぼ一致する。
陸奥国に設定されたという太閤蔵入地は、津軽地方に設定されたこの約一万五〇〇〇石に相当するものであり、津軽氏の三万石と合わせて四万五〇〇〇石が津軽地方の石高として決められたのであった。そして、津軽地方に太閤蔵入地が設定された時期は、秋田実季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同じく、天正十九年(一五九一)一月の時点であったと思われる。
その後、政権が徳川氏に移った後、津軽地方に設定された太閤蔵入地は、自動的に津軽氏の領地として編入されたのである。そして、ここに幕藩体制下における津軽氏の本高四万五〇〇〇石が確定したのである。また、冒頭にみた津軽氏の領知高四万五〇〇〇石は、本高に蔵入地分の一万五〇〇〇石が加えられたことによるものと思われる。
さて、津軽地方に設定された蔵入地の所在地であるが、秋田・常陸の佐竹領の場合、伝統的所領で、豊かな生産力があり、また、交通面でも重要な地に設定されている。これに倣(なら)うと、農業生産がかなり発達していた、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川の分岐点を中心とする津軽平野一帯を蔵入地としながら、岩木川西岸で、岩木川と岩木山に囲まれた水田地帯を主として蔵入地に指定したと考えられる。この地域は、①津軽氏の伝統的所領、②岩木川に面して水運に恵まれている経済的に重要な地域、③岩木川と後背の岩木山を防御線とすることができる軍事的要衝、といった条件が整っていた。また、太閤鷹を確保・独占するという点からは、岩木川東側の平川沿いにも設定されたとみられる。そして、その支配形態も、秋田氏と同じように、太閤蔵入地・津軽氏知行地の双方が各村に含まれ、代官として津軽氏が収納を管理し、蔵入地の農民の人身支配も行ったと思われる。そして、津軽氏が蔵入地の代官となったということは、豊臣政権の一翼を担う大名としての位置を確認することであり、在地のしがらみを克服し、岩木川東岸への勢力拡大・進出が可能となった。
太閤蔵入地はその総高が二〇〇万石を越えていたといい、その配置・機能も朝鮮への侵略態勢の一環であったという(藤木久志『日本の歴史』一五 織田・豊臣政権 一九七五年 小学館刊)。次に、津軽地域になぜ一万五〇〇〇石の太閤蔵入地が設定されたのかということについてみてみることにしよう。後にみるように(本節三参照)、天正十九年(一五九一)十二月、秀吉は、津軽氏に対して津軽地域での巣鷹(すだか)の売買を禁止し、鷹の保護を命じた(資料近世1No.四二)。鷹の保護が命じられたのは、単に津軽地域が松前と並んで鷹の産地であったからというのではなく、「御鷹」、すなわち、太閤鷹であったからであり、この地方の蔵入地が鷹の産地を含んでいるのもそのためのものであった。さらに、この「御鷹」は、津軽からの使者が、日本海沿岸を南下して、秀吉のもとにもたらされたのである。秀吉は、放鷹(ほうよう)(鷹狩りのこと)にその政権に具備された武力示威装置としての機能を期待し、そのためには、政権のシンボルである鷹が恒常的に供給されることが必要とされたのであった。津軽地域の蔵入地からの蔵米は、鷹運搬のための費用とすることを認められたものであったのであろう。
また、慶長元年(一五九六)三月、秀吉は仁賀保(にかほ)兵庫ら由利五人衆に、秋田実季より「伏見向嶋橋板」(伏見作事板)を受け取り、敦賀へ廻漕することを指示した(『能代市史』資料編中世二)。そして、このとき、舟賃は「秋田蔵米」を充てることになっていた(同前)。また、七月には秋田実季をはじめとして、津軽氏は由利五人衆らとともに「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として、伏見城築城のための秋田の杉材の運搬と、敦賀への廻漕を行っている(資料近世1No.六三)。これら「隣郡之衆」にも、三月に由利五人衆が指示されたように、やはり、秋田実季の領内の蔵入地からの蔵米を舟賃として充てるよう指示されていたものと考えられる。そして、これら「隣郡之衆」の領内にはいずれも太閤蔵入地が設定されており、後に、自領の蔵入地からの蔵米によって、作業にかかった費用は秋田氏へ返済されたという。すなわち、「隣郡之衆」の領内の太閤蔵入地は、秋田の杉材の運搬・廻漕をその目的として設定されたと考えられる。
以上のように、津軽地方に設定された約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の目的は、太閤鷹の保護と秀吉への上納の際の費用として、さらに、北羽地域の大名・小名と同じように「隣郡之衆」の一員として、伏見作事板を秋田から運搬・廻漕する際の費用として蔵入地の蔵米を充てることにあったのである。また、これらの地域の領主は、大名権の確立が未成熟な大名が多く、豊臣政権による統一的な課役の負担は、彼らの財政を圧迫することになる。太閤蔵入地の設定は、それを未然に防ぐことにあり、これらの地域の領主が、近世的な幕藩制的領主権力を確立してゆくこの時期に、大きな影響を与えたのであった。