野本道玄の招聘

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津軽信政藩主だった時代には、数多くの諸方面の人材が招聘(しょうへい)され、津軽領の産業・文化両面の発達を促した。これらの人材が、領内の農業・林業・工業・鉱業の発展、儒学兵学などの学問導入に果たした役割は大きい(表21)。
表21 信政代に招聘された主な人物
項目名人  名
儒者小見山玄益,小泉由己,桐山正哲ほか
神道北川新次郎,河原岡新右衛門ほか
諸礼横山嘉右衛門,斉藤長兵衛
茶道本道玄,後藤兵司,高杉久伯
絵師鵜川常雲,今村朴元,新井寒竹ほか
兵学山鹿八郎左衛門,磯谷十助,同新八ほか
検地財津久右衛門,田中十兵衛ほか
測量金沢勘右衛門,清水貞徳ほか
医者樋口道与,中丸昌益,渡辺昌庵ほか
板行渡辺久左衛門,村上七兵衛ほか
紙漉今泉伝兵衛,新井吉兵衛,熊谷吉兵衛
金具師正阿弥儀右衛門
鋳物師釜屋嘉兵衛,渡辺近江
蒔絵師山野井四郎右衛門
塗師大野山六郎左衛門,金兵衛
養蚕森太郎兵衛,欲賀庄三郎ほか
造船美濃屋宇右衛門
大工竹中安左衛門,坂上専右衛門ほか
瓦師大坂久三郎,伝兵衛,八兵衛
平清水三右衛門
武芸本間民部左衛門,朝比奈所左衛門ほか
芸能日吉権太夫,林兵九郎,西岡三四郎
その他珍金兵衛(具足師),北原伝六(鷹匠)
来国吉(鍛冶)ほか

 この当時招聘された技術者の中で最も有名なのが、野本(のもと)(野元)道玄(どうげん)(一六五五?~一七一四)である。
 野本道玄は、木下勝俊(きのしたかつとし)の第一四子とされているが、真偽はらかではない。野本藤兵衛の養子となり、茶道に精進したという(浪川健治「蚕飼養法記」解題『日本農書全集 四七 特産三』一九九七年 農山漁村文化協会刊)。
 道玄津軽へ招聘されたのは、家老津軽政実の口利きによるものであり、本来知行一五〇石であったが、国元の不作のため扶持米などの形で支給され、身分としては「医者並」であった。彼の茶道の流派については津軽家の御家流とするかどうかを問わず伝授し、津軽家への仕官が決まれば水戸徳川家に挨拶に赴くこと、以前は備後三次(みよし)(現広島県三次市)藩主浅野長照に仕えていたこと、これらのことが書かれている(「江戸日記」元禄六年十二月十八日条)。津軽政実津軽家に仕える以前、長照の養父浅野長治の近習として仕えており、そのことから両者がつながっていた可能性は十分に考えられる。道玄が招聘時の条件どおり知行一五〇石を得たのは元禄十二年(一六九九)のことで、弘前への移住に伴うものであった(「江戸日記」元禄十二年十月十二日条)。

図99.野本道召し抱え江戸日記記事
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 道玄招聘の主な目的が彼の伝える茶道にあったことはいうまでもない。しかし、道玄茶道を伝授するのみならず、養蚕技術の導入、岩木山麓での茶の栽培弘前城下貞昌寺本行寺報恩寺梅林寺などの築庭、焼き物の指導、松森町に伝承されてきた獅子舞歌詞復元など、藩の産業文化の振興・発展に大きく貢献したと伝えられる(弘前市立博物館編集・発行『目で見る津軽の歴史』一九八〇年)。
表22 野本道津軽関係年表
西暦年号年齢主 な で き ご と
1693元禄63912月18日,野本道玄,御茶道として江戸で召し出される(医者並150石)。
1694元禄7406月6日,鶯の間において御茶道役の儀誓詞。
そのときから,清如堂においてしばしば茶の湯が催され,道玄茶道役を勤める。
1695元禄841銀20枚5人扶持(11月21日改,弘前家中分限帳の覚)。
1697元禄1043銀20枚5人扶持(分限帳御日記方)。
1699元禄124510月3日,道玄の趣意により,養蚕織物師欲賀庄三郎らをより招く。
10月5日,織物座設置を命ぜられる。
1700元禄13463月,楮町を開き,楮を植えさせる。
4月,紺屋町に糸取場を設置。
11月,京都より男女10余人の織物工を招く。
1701元禄14473月,紺屋町織物会所を設置。
8月,樹木派立より久渡寺にかけて,60余町歩桑園を開く(現在,野元の地名あり。)
12月,蚕飼養法記を執筆。
1702元禄1548「きんこまゆ」の種を下して,上質糸の生産を勧める。
1703元禄1649茶畑奉行の設置。
1704宝永元50蚕飼養法記を領内に頒布。
1705宝永251御医者格150石(分限帳御日記方)。
1706宝永35211月,門人後藤利朴と共に京都に行く(3年間)。
森太郎兵衛,道玄に代わり,織物会所監督。
1710宝永7565代藩主信寿,織物会所訪問督励。
1712正徳258御医者格250石(分限帳御日記方)。
1714正徳46010月5日没,本行寺に葬る。