ところが、戦争ががぜん現実化した今、もはや藩は旧式軍制にこだわっていられず、すべての兵員に西洋銃器による武装を命じ、明治元年二月五日にはゲベール銃一〇〇〇挺の購入を箱館留守居(るすい)に申し付けた(資料近世2No.五〇九)。当時のゲベール銃の値段は一挺一三両と高価で、それに胴乱(どうらん)(弾薬入れ)等の付属品は四両もした。藩ではまとめ買いをすることで一挺一〇両に値引きさせているが、付属品も付けると小銃代金のみで一万四〇〇〇両にのぼり、藩財政はこうした戦費負担により決定的な打撃を受けたのである。
さて、三月十八日に任命された軍政局の軍事取調御用懸(かかり)(統括責任者)は御手廻組頭(おてまわりくみかしら)津軽平八郎・留守居組頭格加藤善太夫であり、同時に類役として御軍制取調御用兼として御手廻組頭山田十郎兵衛・御馬廻組頭木村繁四郎が、御軍制御用調方に諸手足軽頭館山善左衛門・長柄奉行格都谷森甚弥(とやもりじんや)が任命されている(同前No.五一二)。彼らはいずれも修武堂において藩兵訓練に携わってきた番方上士であり、軍制改革といっても西南雄藩のように、賢才の家臣を思い切って藩の枢要部に据えたものではなかった。さらに軍政局はその後数度にわたり人員・組織の整理統合が加えられた後、閏(うるう)四月二十六日には表11のように局中の役職が一応確定し、その職掌も明示された(「御軍政御用留」閏四月二十六日条 弘図津)。以下、表11をもとに軍政局の組織的特徴をみていこう。
図51.御軍政御用留
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図52.修武堂扁額
表11.明治元年閏4月25日御軍政局人員表 |
No. | 氏 名 | 局内役職 | 藩内役職 | 禄 高 | 前 職 | 備 考 |
1 | 山田十郎兵衛 | 御軍政局御用掛 | 御手廻大番頭 | 500石 | 御手廻組頭・御側向・武芸引担 | 明治1.6 御用人 |
2 | 木村繁四郎 | 〃 | 御馬廻組頭 | 300石 | 御持筒足軽頭格学問所取扱・武芸砲術引担 | 明治1.5 御用人兼 |
3 | 秋元蔵主 | 御軍政局評定方 | 御手筒足軽頭 | 150石外100石勤料 | 諸手足軽頭 | 明治1.8 大組足軽頭兼務 |
4 | 三橋左十郎 | 〃 | 御手筒足軽頭 | 250石 | 諸手足軽頭 | 明治1.8 御側御用人・御軍政局御用掛 |
5 | 貴田孫太夫 | 〃 | 御手筒足軽頭 | 200石 | 諸手足軽頭 | |
6 | 館山善左衛門 | 〃 | 御手筒足軽頭 | 200石外50石勤料 | 諸手足軽頭 | |
7 | 山鹿八郎左衛門 | 〃 | 江戸足軽頭 | 200石8人扶持外50俵勤料 | 御付御近習小姓・御付御目付役 | 明治1.6 諸手足軽頭 |
8 | 都谷森甚弥 | 〃 | 御長柄奉行格 | 100俵勤料 | 武芸調方取扱・砲術調方 | |
9 | 牧野栄太郎 | 〃 | 御長柄奉行格 | 100俵勤料 | 御徒頭格御備方御用 | |
10 | 大道寺源之進 | 御軍政局調方 | 御長柄奉行格 | 100石 | 御徒頭格鯵ヶ沢町奉行 | |
11 | 北川条五郎 | 〃 | 御使番 | 250石9人扶持 | 御付御近習小姓 | 明治1.6 緒錠口役 |
12 | 楠美泰太郎 | 〃 | 御使番 | 13人扶持 | 御武具奉行・御備方・京都留守居 | 明治2.2 御長柄奉行格 |
13 | 北原将五郎 | 〃 | 御使番 | 7人扶持勤料 | 御小姓組 | 明治2.3 寄合格 |
14 | 佐藤吉郎 | 〃 | 御使番 | 150石 | 御小姓組 | 明治1.6 二等銃隊頭・調方兼 |
15 | 武田代次郎 | 〃 | 御使番 | 150石 | 御付御近習小姓 | 明治1.6 二等銃隊頭・調方兼 |
16 | 矢川俊平 | 〃 | 御使番 | 7人扶持勤料 | 御付御近習小姓・御簾番兼 | |
17 | 岩田平吉 | 〃 | 御馬廻番頭格武具奉行 | 5人扶持勤料 | 御中小姓頭格 | 明治1.7 緒長柄奉行格 |
18 | 長谷川弥六 | 〃 | 御使番 | 100俵5人扶持 | 御馬廻番頭格 | |
19 | 戸沢弥蔵 | 御軍政局締方 | 御徒頭格御使番 | 200石 | 御徒頭格御付御近習番 | |
20 | 浅利万之助 | 〃 | 御徒頭格 | 100俵外3人扶持勤料 | 青森町奉行格武芸締方取扱 | |
21 | 手塚茂大夫 | 〃 | 御使番 | 100石 | 御手廻番頭格武芸締方取扱 | |
22 | 葛西太郎兵衛 | 〃 | 御使番 | 15両4人扶持 | 御馬廻番頭格武芸締方取扱 | |
23 | 伊藤宇太郎 | 〃 | 御使番 | 70俵5人扶持 | 御手廻番頭格武芸締方取扱 | |
24 | 喜多村弥平治 | 〃 | 御手廻番頭格 | 100石 | 御馬廻組 | 明治1.6 二等銃隊頭 |
25 | 秋元伝三郎 | 〃 | 御使番 | 50石4人扶持 | 御馬廻組 | |
26 | 小林忠之丞 | 〃 | 御馬廻番頭格 | 55俵4人扶持 | 御手廻組・御台所頭兼 | |
27 | 薄田又三郎 | 〃 | 御馬廻番頭格 | 5人扶持勤料 | 御手廻組(無足) | |
28 | 館山敏三郎 | 〃 | 御馬廻番頭格 | 100石 | 御小姓組 | |
29 | 近藤栄三郎 | 〃 | 御馬廻番頭格 | 100石 | 御馬廻組 | |
30 | 会田熊吉 | 御軍政局調方副役 | 御手廻組 | 50石 | 御馬廻組・砲術調方 | |
31 | 篠崎進 | 〃 | 御手廻組 | 10両5人扶持 | 西洋操練教授・銃隊教授・砲書取扱砲隊頭 | |
32 | 菊池礼吉 | 〃 | 御馬廻組 | 7両3人扶持 | 御馬廻格人別調役 | 明治1.4 武芸取扱数年精勤につき2人扶持勤料増 |
33 | 伊東広之進 | 〃 | 御馬廻組 | 6両6人扶持 | 武芸取扱・砲書取扱 | |
34 | 木村源吉 | 〃 | 御馬廻組 | 2人扶持勤料 | 学問所孫学典勺 | 明治1.5 稽古館司館取扱 |
35 | 千田百次郎 | 〃 | 御馬廻格 | 40俵2人扶持 | 御馬廻格金木組御代官 | 慶応2. 西洋測量学精勤につき御中小姓 |
36 | 山澄吉蔵 | 〃 | 御馬廻格御中小姓 | 6両4人扶持 | 御馬廻組組分不知分 | |
37 | 石郷岡鼎 | 〃 | 御中小姓格 | 6両2人扶持 | 学問所洋書調方・砲書取扱助役 | |
38 | 成田清門 | 〃 | 御中小姓格 | 2人扶持勤料 | 砲書取扱助役 | |
39 | 神豊三郎 | 御軍政局調方助役 | 作事吟味役格 | 5両2人扶持 | 砲書取扱 | 明治1.9 御中小姓格御軍政局調方副役 明治2.1 御馬廻番頭格 |
40 | 長谷川献吉 | 〃 | 無役 | 2人扶持外2人扶持勤料 | 砲書取扱当分助役 | |
41 | 木村庄左衛門 | 〃 | 無役 | 2人扶持勤料 | ||
42 | 間山広吉 | 〃 | 無役 | 2人扶持勤料 | ||
43 | 野沢得弥 | 〃 | 無役 | 2人扶持勤料 | 砲術調方 | 明治2.12 御留守居組御目見以上支配 |
注) | 「御軍政御用留」・「分限元帳(嘉永四年改)」(弘図津)により作成。なお,局中の事務担当者である筆生12名については省略した。 |
まず、御軍政局御用掛の職掌は局内事務の総轄であり、御手廻大番頭山田十郎兵衛・御馬廻組頭木村繁四郎が任命されている。弘前藩の番方組織は大番頭→組頭→番頭(ばんかしら)→平士という階層制であり、ここからすると、山田・木村の任命は番方最高位からの選出といえる。また前職をみると両人とも修武堂時代の武芸引担を担当しており、山田は御側向(おそばむき)として藩主の側近を勤め、元年六月には用人に転出している。木村も同五月に用人兼務となり、山田の転出後は御手筒(おてづつ)足軽頭の三橋左十郎(みつはしさじゅうろう)が、軍政局評定方より御側御用人兼帯のうえ、御用掛に昇進している。このように局中を総括する御用掛の出自が番方最上位のみでなく、用人・側用人として藩主、あるいは御用所(ごようじょ)を通して藩首脳と常に密接な関係にあったことは、軍制改革の本質をある意味で示唆(しさ)している。藩上層部が改革を主導していたという事実は、この改革が決して封建軍制の枠を越えようとするものではなかった証(あかし)になろう。
こうした傾向は御軍政局評定方(御用掛補佐と常務・教授・砲術方の統括)・同調方(評定方の役割分担)・締方(局中の監察・儀制をつかさどる)からもうかがうことができる。つまり、表11のNo.3の秋元蔵主以下No.29の近藤栄三郎までの二七人の藩内役職はいずれも番方上士・同格であり、足軽頭・御使番(おつかいばん)(戦場での伝令将校)・番頭・徒(かち)頭といった役職には大いに上級役職への途が約束されていた。さらに前職の項をみると、七人の者が武芸締方・御備方といった修武堂時代からの軍制に参画していたのである。このように、軍政局上層部は番方上士らで固められていた。
これに対して、調方副役(調方の補佐で、行軍訓練・大砲や小銃の実質的教授はここで担当した)や調方助役(直接訓練に携わることはなかったが、兵学書や砲術書などを調べて、副役の助手役を勤めた)はまったく性質を異にするグループから構成されている。彼らの役職は高い者でも御手廻・御馬廻番士で、中には御中小姓や作事吟味役(さくじぎんみやく)・無役(むやく)といった軽格(けいかく)も多い。しかし、前職をみると、彼らは江戸で兵学を学んだり、藩校の官吏として勤め、軍事実務に明るい者であって、この階層により軍制改革の中核は形成されたのである。藩は五月二日に軍政局中の格合(かくあい)を定めたが、この時副役は御手廻番士格、助役は中小姓格とされた。よって副役・助役のほとんどの者が自己の格合を昇格させたことになる。事実、表11No.39の神豊三郎(作事吟味役格)や同No.43の野沢得弥(無役)が、それぞれ御馬廻番頭格・御目見(おめみえ)以上支配まで昇進した事例は、平時における封建身分制下では破格のことであった。