御軍政局の発足と組織

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すでに述べたように、明治元年(一八六八)三月十八日に藩は軍政局を設置する布令を発し、藩主自筆書・家老口達をもって諸士に示した(資料近世2No.五一二・五一三)。その内容は、今日のような時勢に立ち至り、兵制改革は自然の理勢で、これ以上旧来の軍法に拘泥(こうでい)しては、蝦夷地警備のため強兵を目指していた先代藩主順承(ゆきつぐ)の意志に反することにもなるので、刀槍の鍛錬はもちろんのことだが、惣兵を和蘭新式の銃隊に改変するというものである。藩の正規の軍制は四代信政(のぶまさ)が兵学者山鹿素行(やまがそこう)に傾倒(けいとう)して以来、山鹿流とされてきた。それが蝦夷地警備の関係から幕末期にはしだいに洋式化されてはきたが、長州藩奇兵隊のように封建軍隊の枠を超えて完全に皆兵化されたわけでも、完全に洋式銃器で武装されたのでもなかった。たとえば、藩兵力の中核である御手廻(おてまわり)・御馬廻(おうままわり)組の場合、武士たる者が第一に鍛えるべき武術とは刀槍であるとの意識が強く、藩主承昭(つぐあきら)がいかに銃器の必要性を説いたとしても、彼らにとってそれは時節柄の心得程度にすぎず、銃隊・砲隊への編成化は主に足軽層で進展している程度であった。
 ところが、戦争ががぜん現実化した今、もはや藩は旧式軍制にこだわっていられず、すべての兵員に西洋銃器による武装を命じ、明治元年二月五日にはゲベール銃一〇〇〇挺の購入を箱館留守居(るすい)に申し付けた(資料近世2No.五〇九)。当時のゲベール銃の値段は一挺一三両と高価で、それに胴乱(どうらん)(弾薬入れ)等の付属品は四両もした。藩ではまとめ買いをすることで一挺一〇両に値引きさせているが、付属品も付けると小銃代金のみで一万四〇〇〇両にのぼり、藩財政はこうした戦費負担により決定的な打撃を受けたのである。
 さて、三月十八日に任命された軍政局軍事取調御用懸(かかり)(統括責任者)は御手廻組頭(おてまわりくみかしら)津軽平八郎留守居組頭加藤善太夫であり、同時に類役として御軍制取調御兼として御手廻組山田十郎兵衛・御馬廻組頭木村繁四郎が、御軍制調方に諸手足軽頭館山善左衛門長柄奉行格都谷森甚弥(とやもりじんや)が任命されている(同前No.五一二)。彼らはいずれも修武堂において藩兵訓練に携わってきた番方上士であり、軍制改革といっても西南雄藩のように、賢才の家臣を思い切って藩の枢要部に据えたものではなかった。さらに軍政局はその後数度にわたり人員・組織の整理統合が加えられた後、閏(うるう)四月二十六日には表11のように局中の役職が一応確定し、その職掌も明示された(「御軍政御用留」閏四月二十六日条 弘図津)。以下、表11をもとに軍政局の組織的特徴をみていこう。

図51.御軍政御用留
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図52.修武堂扁額

表11.明治元年閏4月25日御軍政局人員表
No.氏  名局内役職藩内役職禄  高前    職備    考
 1山田十郎兵衛軍政局御手廻大番頭500石手廻組頭・御側向・武芸引担明治1.6 御用人
 2木村繁四郎馬廻組300石持筒足軽頭学問所取扱・武芸砲術引担明治1.5 御用人
 3秋元蔵主軍政局評定方御手筒足軽頭150石外100石勤料諸手足軽頭明治1.8 大組足軽頭兼務
 4三橋左十郎御手筒足軽頭250石諸手足軽頭明治1.8 御側御用人・御軍政局
 5貴田孫太夫御手筒足軽頭200石諸手足軽頭
 6館山善左衛門御手筒足軽頭200石外50石勤料諸手足軽頭
 7山鹿八郎左衛門江戸足軽頭200石8人扶持外50俵勤料御付御近習小姓・御付御目付明治1.6 諸手足軽頭
 8都谷森甚弥長柄奉行100俵勤料武芸調方取扱・砲術調方
 9牧野栄太郎長柄奉行100俵勤料御徒頭格御備方御
10大道寺源之進軍政局調方長柄奉行100石御徒頭格鯵ヶ沢町奉行
11北川条五郎御使番250石9人扶持御付御近習小姓明治1.6 緒錠口役
12楠美泰太郎御使番13人扶持御武具奉行・御備方・京都留守居明治2.2 御長柄奉行
13北原将五郎御使番7人扶持勤料御小姓組明治2.3 寄合格
14佐藤吉郎御使番150石御小姓組明治1.6 二等銃隊頭・調方兼
15武田代次郎御使番150石御付御近習小姓明治1.6 二等銃隊頭・調方兼
16矢川俊平御使番7人扶持勤料御付御近習小姓・御簾番兼
17岩田平吉馬廻番頭格武具奉行5人扶持勤料御中小姓頭明治1.7 緒長柄奉行
18長谷川弥六御使番100俵5人扶持馬廻番頭
19戸沢弥蔵軍政局締方御徒頭格御使番200石御徒頭格御付御近習番
20浅利万之助御徒頭格100俵外3人扶持勤料青森町奉行格武芸締方取扱
21手塚茂大夫御使番100石御手廻番頭格武芸締方取扱
22葛西太郎兵衛御使番15両4人扶持馬廻番頭格武芸締方取扱
23伊藤宇太郎御使番70俵5人扶持御手廻番頭格武芸締方取扱
24喜多村弥平治御手廻番頭100石馬廻組明治1.6 二等銃隊
25秋元伝三郎御使番50石4人扶持馬廻組
26小林忠之丞馬廻番頭55俵4人扶持手廻組・御台所頭兼
27薄田又三郎馬廻番頭5人扶持勤料手廻組(無足)
28館山敏三郎馬廻番頭100石御小姓組
29近藤栄三郎馬廻番頭100石馬廻組
30会田熊吉軍政局調方副役手廻組50石馬廻組砲術調方
31篠崎進手廻組10両5人扶持西洋操練教授・銃隊教授・砲書取扱砲隊頭
32菊池礼吉馬廻組7両3人扶持御馬廻格人別調役明治1.4 武芸取扱数年精勤につき2人扶持勤料増
33伊東広之進馬廻組6両6人扶持武芸取扱・砲書取扱
34木村源吉馬廻組2人扶持勤料学問所孫学典勺明治1.5 稽古館司館取扱
35千田百次郎御馬廻格40俵2人扶持御馬廻格金木組御代官慶応2. 西洋測量学精勤につき御中小姓
36山澄吉蔵御馬廻格御中小姓6両4人扶持馬廻組組分不知分
37石郷岡鼎御中小姓格6両2人扶持学問所洋書調方・砲書取扱助役
38成田清門御中小姓格2人扶持勤料砲書取扱助役
39神豊三郎軍政局調方助役作事吟味役5両2人扶持砲書取扱明治1.9 御中小姓格御軍政局調方副役
明治2.1 御馬廻番頭
40長谷川献吉無役2人扶持外2人扶持勤料砲書取扱当分助役
41木村庄左衛門無役2人扶持勤料
42間山広吉無役2人扶持勤料
43野沢得弥無役2人扶持勤料砲術調方明治2.12 御留守居組御目見以上支配
注)御軍政御用留」・「分限元帳(嘉永四年改)」(弘図津)により作成。なお,局中の事務担当者である筆生12名については省略した。

 まず、御軍政局掛の職掌は局内事務の総轄であり、御手廻大番頭山田十郎兵衛・御馬廻組頭木村繁四郎が任命されている。弘前藩の番方組織は大番頭組頭番頭(ばんかしら)→平士という階層制であり、ここからすると、山田・木村の任命は番方最高位からの選出といえる。また前職をみると両人とも修武堂時代の武芸引担を担当しており、山田は御側向(おそばむき)として藩主の側近を勤め、元年六月には用人に転出している。木村も同五月に用人兼務となり、山田の転出後は御手筒(おてづつ)足軽頭三橋左十郎(みつはしさじゅうろう)が、軍政局評定方より御側御用人兼帯のうえ、御掛に昇進している。このように局中を総括する御掛の出自が番方最上位のみでなく、用人側用人として藩主、あるいは御用所(ごようじょ)を通して藩首脳と常に密接な関係にあったことは、軍制改革の本質をある意味で示唆(しさ)している。藩上層部が改革を主導していたという事実は、この改革が決して封建軍制の枠を越えようとするものではなかった証(あかし)になろう。
 こうした傾向は御軍政局評定方(御掛補佐と常務・教授・砲術方の統括)・同調方(評定方の役割分担)・締方(局中の監察・儀制をつかさどる)からもうかがうことができる。つまり、表11のNo.3の秋元蔵主以下No.29の近藤栄三郎までの二七人の藩内役職はいずれも番方上士・同格であり、足軽頭御使番(おつかいばん)(戦場での伝令将校)・番頭・徒(かち)頭といった役職には大いに上級役職への途が約束されていた。さらに前職の項をみると、七人の者が武芸締方・御備方といった修武堂時代からの軍制に参画していたのである。このように、軍政局上層部は番方上士らで固められていた。
 こ
れに対して、調方副役(調方の補佐で、行軍訓練・大砲や小銃の実質的教授はここで担当した)や調方助役(直接訓練に携わることはなかったが、兵学書や砲術書などを調べて、副役の助手役を勤めた)はまったく性質を異にするグループから成されている。彼らの役職は高い者でも御手廻・御馬廻番士で、中には御中小姓や作事吟味役(さくじぎんみやく)・無役(むやく)といった軽格(けいかく)も多い。しかし、前職をみると、彼らは江戸兵学を学んだり、藩校の官吏として勤め、軍事実務に明るい者であって、この階層により軍制改革の中核は形成されたのである。藩は五月二日に軍政局中の格合(かくあい)を定めたが、この時副役は御手廻番士格、助役は中小姓格とされた。よって副役・助役のほとんどの者が自己の格合を昇格させたことになる。事実、表11No.39の神豊三郎(作事吟味役格)や同No.43の野沢得弥(無役)が、それぞれ御馬廻番頭格・御目見(おめみえ)以上支配まで昇進した事例は、平時における封建身分制下では破格のことであった。