宇都宮に到着した秀吉は、奥州の諸大名を呼び寄せて知行割を決定した(以下の記述は特に断らない限り、渡辺信夫「天正十八年の奥羽仕置令について」『日本文化研究所研究報告』別巻第一九集 一九八二年による)。この時に知行給与を受けた大名は、伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)のほかに、佐竹義重(さたけよししげ)(常陸(ひたち))・岩城貞隆(いわきさだたか)(岩城)・戸沢九郎(とざわくろう)(出羽仙北(でわせんぼく))・南部信直(陸奥)などである。すなわち、津軽・北出羽地方の大名を除いて、豊臣政権下で存続するほとんどの大名が、この段階までに臣従関係を結んでいることになる。
この時、伊達・最上氏のように、すでに大名権が確立している大名は、惣無事令以前に領国がそのまま安堵され(伊達氏の場合、小田原参陣の際にすでに会津・安積(あさか)・磐瀬(いわせ)などの諸郡の没収が決まっていた)、領国の仕置権を分与されていた。一方、これら二氏以外の大名は、知行高と知行地、あるいは、知行地のみが特定されて知行が給与されることになった。このことは、知行地が直接・間接的に豊臣政権より知行高が確認されたか、もしくは、いずれは豊臣政権により確認されるということを前提とすることを意味していた。
伊達・最上氏以外では、たとえば天正十八年八月一日に、佐竹義重が常陸(ひたち)国と下野(しもつけ)国に、佐竹氏が領有する二一万六七五八貫文の知行高が認められている。そして、貫高表示による知行高の記載は、佐竹氏が宇都宮に呼び出される直前の七月十六日、領内の給人(きゅうにん)に対して知行を書き出すことを命じ、直轄地と家臣知行地から指出(さしだし)(領内の家臣に知行地の面積などを申告させたもの)を徴収して作成した目録を提出して、それを豊臣政権によって認められたものである。
一方、さきの天正十八年七月二十七日付の秀吉朱印状(資料近世1No.一六)の南部氏の場合、安堵されたのは「南部之内七郡」であった。七郡とは、和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)・志波(しわ)・閉伊(へい)・岩手(いわて)・鹿角(かづの)・糠部(ぬかのぶ)という説と、和賀・稗貫ではなく、遠野(とおの)、久慈(くじ)だとする説があり、和賀・稗貫は九戸(くのへ)合戦の後に南部信直に与えられたともいう(小林清治「九戸合戦―中世糠部郡の終末―」大石直正監修『北辺の中世史―戸のまちの起源を探る―』一九九七年 名著出版刊など)。いずれにしても、ここには津軽郡が含まれず、為信が津軽郡を安堵されていたからということにはなるが、津軽領と南部領という、近世の大名領が成立することになる。また、この朱印状には領知高の記載がなかった。このことは、翌年の九戸合戦がそれを示すように、この段階では佐竹氏のように領内に指出を徴収して家臣知行制を実施できるほどの大名権を確立できていなかったようである。
また、戸沢九郎、秋田実季(あきたさねすえ)・小野寺孫十郎のほか、由利十二頭などの北出羽の諸大小名は、天正十八年(一五九〇)十二月から翌十九年一月にかけて、石高表示の領知高が与えられている。これらの大名は、大名権の確立が未成熟であったため、豊臣政権によるてこ入れが必要とされ、領知朱印状の発給に先立って、豊臣政権による検地が実施されたことによるものである。天正十八年七月、前田利家が検地を行うために出羽・奥州へ向かい、津軽地域にも赴いている(資料近世1No.一九~二一)。この時の検地の成果をもとに、知行高が決められたのであろう。たとえば、秋田実季は、天正十八年十二月に上洛し(『新羅之記録』下巻)、翌年一月に領知高五万二四〇〇石の安堵と(『秋田市史』第八巻中世 二七一号)、蔵入地二万六〇〇〇石余が設定される(同前二七〇号)。大浦為信も天正十八年十二月に前田利家とともに上洛しており(資料近世1No.二七)、これらの北出羽大小名と同じ扱いを受け、領知高三万石の安堵と蔵入地一万五〇〇〇石(天正十七年の惣無事令違反による)を設定されたと考えられる(長谷川前掲書)。
さて、秀吉は、宇都宮で第一段の奥羽仕置、すなわち諸大名の知行割を決定し、その後、天正十八年八月九日、会津黒川城に入りここで第二段の仕置令を出した。会津での仕置令の内容は、一つには小田原不参の大名の所領没収と新大名の配置、そして、二つ目には所領没収に当たって出された仕置策である。
小田原不参により所領を没収された大名は、おそらく、宇都宮での知行割の段階ですでに決まっており、会津での決定はその最終決定であった。ここで所領を没収された大名は、大崎義隆(おおさきよしたか)(大崎五郡)・葛西晴信(かさいはるのぶ)(葛西七郡)など、奥州の領主が圧倒的に多かった。また、さきに触れたように伊達氏は会津・安積・磐瀬を没収され、秋田・小野寺・戸沢氏などは太閤蔵入地が設定され、実質的には三分の一の所領が没収された。
秀吉が会津で出した仕置令は、「撫切令(なできりれい)」として有名であるが(資料近世1No.二四)、その本質は、没収地を新たに知行地として給与するためのものであり、もう一つは、大名権の未成熟な大名に対する知行割を決定するものであった。つまり、大名権が確立された大名については、検地は実施されなかったのである。太閤検地は、奥羽全域に等しく実施されたものではなかったのである。