領内海防と台場の構築

598 ~ 601 / 765ページ
津軽弘前藩は、蝦夷地警衛などに当たった実績と、その影響によって、同様の境遇にあった盛岡藩とともに、海防についても、同時期の奥羽諸藩に比較すれば、早くから関心を持っていた(原剛『幕末海防史の研究』一九八八年 名著出版刊)。
 寛政七年(一七九五)五月九日、津軽弘前藩は、幕府に対して、異国船が領内沿岸に姿をみせた場合に、城下から該当地域へ派する人数について届け出た。それによると、城下からその場所へ早速一番手人数を派し、様子をみて二番手・三番手人数を派する手はずとなっている。一番手の総人数は五四七人で(表47参照)、その装備には各種の大筒までが備えられているが(表48参照)、これらの運搬には「人夫」として領民が動員されていることが注目される。領内海防においても、武士身分のものばかりではなく、領民が担い手として位置づけられていた。
表47 一番手人数内訳(寛政7年)
備 考
番 頭1
与 力10
組 頭2
平 士30
物 頭2
警固足軽10
足軽20
鉄炮足軽30
手筒足軽10うち2人警固
奉行1
旗差之者8旗3本
長柄奉行1
長柄之者35うち6人警固
検 使1
目付1
大筒鉄砲方3
下役15
筆談之者1
物 書1
絵図師1
医 師2
馬 医1
忍之者5
目付1
目付1
小荷駄取扱役1
算 者2
普請方2
雑 卒346
小 計53491馬数56疋
総人数計547注参照
注1)この人数のほか、大筒・器械用具の運搬に、「領内人夫」が動員されている。
注2)小計の合計人数と、総人数の合計は一致しないが、史料によった。
「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。

表48 一番手人数所持の大筒
種 別員 数
30目筒3
50目筒3
100目筒2
200目筒1
300目筒1
500目筒1
1貫目筒1
石火矢2
棒火矢1
乱矢1
16
注)「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。

 その後も蝦夷地警備に兵を送る一方で領内沿岸の警備も強化されていった。文化四年(一八〇七)のカラフト島事件・エトロフ島事件を契機に、津軽弘前藩蝦夷地に兵を増派するとともに、五月二十四日には、青森馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派し、また三厩鰺ヶ沢深浦・十三にも物(者)頭一手(物頭と中小姓・留守居組のうちから一手一〇人宛)の固めの人数を配置した。この年の八月、藩主津軽寧親青森に赴いたが、その際、用人山鹿高美郡奉行野呂助左衛門兵学学頭岡本平馬に「外ヶ浜通御備場検分」を命じている。
 同年十一月、領分の「肝要の場所」に台場を設置することが命じられた。この台場設置は、先に松前に出張し、その後領内沿岸を巡視した幕府大目付中川忠英(なかがわただてる)の示唆によるとされる。そこで藩では、松前出張の公儀役人に随行してきた幕府雇の兵学家元木謙助の検分を経て、三厩・龍浜(たっぴん)・小泊・袰月(ほろつき)の出岬に台場を設けることとした。さらに、翌年にかけて大間越(おおまごし)浦(現西津軽郡岩崎村大間越)・深浦(現同郡深浦深浦)・金井ヶ沢(かねがさわ)(現同町北金ヶ沢)・鯵ヶ沢浦(現同郡鰺ヶ沢町)・十三浦(現北津軽郡市浦村十三)・蟹田(かにた)(現東津軽郡蟹田蟹田)・青森浦(現青森市)・七ツ石崎(現北津軽郡小泊村)・野崎(現東津軽郡今別町袰月)・龍浜崎(現竜飛崎、東津軽郡三厩竜飛)の合わせて一〇ヵ所に大筒台場を設置した。台場に設置する大砲は、砲術家佐々木専右衛門、さらに会田伊兵衛が製造に当たり、一貫目筒・五〇〇目筒・三〇〇目筒・二〇〇目筒計二〇挺を鋳造している(『記類』下)。しかし、これらの台場に配置された大筒の数・種別をみると、まだ一貫目木砲が主体であった(原前掲書、表49参照)。
表49 文化5年の津軽領大筒台場

































青 森3
蟹 田131
野崎151124艘
龍浜崎27125艘
七ツ石崎
(小泊)
35112
十 三3
鰺ケ沢131
金ケ沢32
深 浦13
大間越3
11163832379艘

 一方で、蝦夷地警衛に兵力を割いていた津軽弘前藩は、独力では領内の沿岸警備に当たることができないとして、文化五年(一八〇八)、幕府老中に対して所領に海岸を持たない領主に加勢を仰ぎたいと伺い出た。これに対して、老中は隣領に依頼するよう命じた。このため津軽弘前藩では、秋田藩佐竹家に対して加勢を依頼した。秋田藩は、当初この依頼を自領の海防蝦夷地警衛に人数を派していることを理由に断るつもりであったが、結局、津軽弘前藩の要請に応えることとなり、二〇〇人を加勢人数として準備した。さらに翌年、津軽弘前藩秋田藩に対して領内海防の「永々加勢」を仰ぐことになった(『御亀鑑』四・江府四 一九九二年 秋田県教育委員会刊)。この状態は、津軽弘前藩蝦夷地現地派兵を免じられる文政五年(一八二二)まで続いた。