1799年(寛政11)幕府は、松前藩に東蝦夷地を上知(領地返納)させ、蝦夷地の直接経営に乗り出した。羽太正養(蝦夷地取締御用掛・箱館奉行)が著した『休明光記』によれば、経営の中心は「千島列島を南下するロシアに対抗し、北辺を警備するとともに、択捉島(えとろふとう)など東蝦夷奥地の開発と、場所請負制度に関わる奉行直轄の場所経営、いわゆる「直捌制の実施」で、特に、後者の蝦夷地での経済的利益を幕府が吸収する性格を持っていた。
1800年(寛政12)3月、蝦夷地取締御用掛は、六ケ場所を『村並』として認可する事を決定し、住民による村の自治を行わせることとした。このことは、幕府の上知(領地返納)のねらいに照らし、六ケ場所漁業経営の充実と、それにともなう運上金の確保に他ならない。
<村並認可の文書>
一、箱館最寄(もより)口蝦夷地之内ノタヲイ迄、日本人多く罷在(まかりあり)候ニ付、村役人等申渡、箱館在々同様取扱候積ニ御座候事
右之通取計申候ニ申上候以上
(寛政十二年 庚申) 松平信濃守
申三月 石川左近将監
羽太庄左衛門
文書に署名している3名は、当時の「蝦夷地取締御用掛」である。
この職「蝦夷地取締御用掛」は、ロシアの南下とヨーロッパ船の頻繁な蝦夷地接近に危機感を持った幕府が、1798年(寛政10)3月、目付渡辺久蔵以下180名に上る大調査隊を蝦夷地に派遣、その復命書に基づき、同年(寛政10)の12月に設けられた江戸幕府最初の蝦夷地支配機構である。これは、1802年(享和2)2月の東蝦夷地の永久上知(幕府直轄)決定により組織を改廃、蝦夷奉行(長崎奉行と同じ遠国奉行)として設置、5月からは箱館奉行と称し東蝦夷地を支配、1807年(文化4)10月には、蝦夷地全域を直轄地とすると、本営を松前に移転し松前奉行と改称、1821年12月(文政4)の松前氏の復領まで、蝦夷地全域の支配を継続する。その後、国内外の情勢の激変に対応するため、この機構、箱館奉行は、1854年6月から1868年4月まで(安政元~明治元)再び設置される。この時期を、いわゆる前・後幕領時代と呼んでいる。
なお「村並」認可の文書に署名している羽太庄左衛門正養は、戸川安論とともに、初代箱館奉行(1802~1807年)を務め、退任(フヴォストフらの北辺襲撃の責任を問われ更迭)後、その公務を記録した『休明光記(きゅうめいこうき)』がある。
<『東夷周覧』より>
この六ケ場所の村並認可についての記録が、滕(とう)知文(福居芳麿)の著書、東夷周覧(とういしゅうらん)に見られる。これは滕(とう)知文が、1801年(享和元)箱館奉行羽太正養に随行し、陸路東蝦夷地を国後まで巡見した時の記録をもとに書かれたものであり、文中、六ケ場所の村並認可について次のように記述している。
「箱館ヨリ東ノ方ニ六箇場所ト唱フル所アリ。此所、昔ハ夷人アリテ住居セシカ、近年松前家領タリシトキヨリ、日本人モ打交ジリテ稼業ヲナシケリ。
コノ節公領トナリシヨリ、此六ケ場所ハ日本地トシ、村号ヲ給リタリト云。尤箱館近在ナル故、夷人ノ風俗モ自然日本ニ近ク、言語モ大抵ハ通スルナリ。
地名は『オヤス』『トイ』『シリキシナイ』『オサツベ』『カヤベ』『ノタオイ』此六ケ所ナリ。」
<『北海道史附録年表』河野常吉編には>
享和元年(1801年)「是歳(このとし)幕府、六箇場所『小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追』の地、和人の居住するもの多きを以て村並となし、山越内を華夷(かい)の境界となす」と記述されており、地名も漢字で表記されている。
これらの記録から『箱館六ケ場所の村並化は1800年、寛政12年に決定し、翌年、1801年、享和元年に、いわゆる公布・施行』されたものと推定される。
1804年(文化元)『休明光記』に見る六ヶ場所
文化4年、松前奉行、羽太正養著『休明光記』の文化元年頃の条項に次の記述がある。箱館六ケ場所といふは、
・オサツベ
『ヲヤス・トイ・シリキシナイ・ウスジリ・サハラ ・ノタヲイ』
・シカベ ・ワシノキ
と記している。
この事から、箱館六ケ場所は、村並を認可した1801年後、少なくとも1804年以前に、「オサツベ」は尾札部・臼尻・鹿部の3つに分けられ、「カヤベ」は砂原と鷲ノ木に二分され、合計、9つの集落、すなわち『九村並』が成立したことになる。ただ、場所という呼称は小安村を除いて、いわゆる村並化以降も、六ケ場所が1858年(安政5)に新たに分立した掛澗・森・尾白内を加えて、正式な「村」と認可されるまで続いた。
1834年(天保5)の改定『松前嶋郷帳』に見る六ヶ場所
天保2年11月、幕府は全国の藩に対して郷帳の改定を命じた。同5年12月それが完成し、引き続き同6年12月に国絵図作製の命令が出され同9年5月に完成を見ている。その、郷帳の中から六ケ場所について記載する。
『松前嶋郷帳』天保5年(1834)
小安村 右持場 釜谷・汐首崎・瀬田来(せたらい)・蓬内(よもぎない)
戸 井 〃 鎌歌・原木(はらき)
尻岸内 〃 日浦・昆布井(こぶい)・根田内(ねたない)
尾札部 〃 椴法花(とどほっけ)・嶋泊・木直(きなおし)・川汲(かっくみ)
臼 尻 〃 板木(いたき)・熊泊・磯谷
鹿 部 〃 本別
砂 原 〃 掛澗(かかりま)
鷲ノ木 〃 尾白内(おしろない)・森・蛯谷古丹・本茅部・石倉
落 部 〃 茂無部(もなしべ)・野田追
以上、この時代、六ケ場所は九ケ村となり持場(漁場)が25ケ所記されている。
なお、天保の松前嶋郷帳り中でも「村」と表記されているのは小安村のみで、九ケ村の呼称は従来通り、小安村も含め「場所」として通っていた。
これらの九場所は、場所請負制の廃止とともに、その呼称は「場所」であるが、「村」に準じ行政単位としての「村役人」が置かれ、諸役(税)が課せられた。
以下はその諸役(課税)の状況の一端である。
<文化・文政以降の六ヶ場所の収納状況>から
『箱館御収納廉分帳』(市立函館図書館蔵)に1800年(寛政12)から1854年(安政元)当時の諸役(税制・課税)の状況が記録されている。その中から六ヶ場所関係分を抜粋してみる。
「四半敷役」(分割払いの税)
・箱館並びに六ケ場所は、一軒、三〇〇文を一〇月から一一月中に村役人に収める事。
・六ケ場所、村割歩割金は、村により分納の時期を定める。
「六ケ場所歩割金合計 九四五両二分」
・長崎俵物運上代り金
煎海鼠(いりこ) 一斤につき 一分四厘六毛二五
昆布 一石につき 一匁三分七厘一毛
「村割歩割金」
小安 七〇両 ・八月納七分 ・一一月納三分
・村割 六〇両
文政五年引継ぎ文政六年一一月願出て減額となる
天保元年(一八三〇)不漁続き四一両一分に減額となる
戸井 四五両 ・八月納八分 ・一一月納二分
・村割 三〇両(二五両)
尻岸内 一〇五両 ・四月納一分 ・八月納九分
(四一両)=*鱈釣
・村割 五五両
尾札部 一五〇両 ・四月納一分 ・八月納九分
(七八両)=*鱈釣
・村割 三五両
・夷人歩役 一二両二分 (文化六年疱疹流行夷人七、八分死失(しにうせ))
文化七年八両のち五両となる。
・新鱈冥加 六〇両
臼尻 一四〇両二分 ・四月納一分 ・八月納九分
(七五両)=*鱈釣
・村割 二五両
・夷人歩役 一二両二分
・新鱈冥加 六〇両
*鱈釣 一艘二人乗 五束 二〇〇〇文
同 三人乗 七束 二八〇〇文
(銭納のときは一束 四〇〇文として)
鹿部 四〇両 ・四月納一分 ・八月納九分
・村割 二八両二分
近年貧窮 村割金一切納めていない。
このため村割手伝金として尾札部より四両二分、臼尻より三両二分、都合八両を手伝い納めている。
砂原・鷲ノ木 三五五両 ・四月納一分 ・六月納七分一一月二分
・昨丑年(四二両三分二朱銭三五〇文)
・出荷物より五分の役を取立てるので村割なし。
・新鱈冥加 二〇両
野田追 四〇両 ・六月納三分 ・八月納七分
・村割 三二両二分
・昨丑年(七両二朱銭二四文)
・文化一四年より出荷物より五分役取立てるので村割なし。
「昆布役」船の大きさにより取立額が定められていた。
「家役」
・(本役)箱館とその近郷近村すべて一軒一三駄半で、銭納の場合は一駄につき八〇文を九月中に納めることと定められていた。
「浜役」
・箱館から小安までは七駄、他の村は四駄で、銭納は次のように定められていた。
箱館より小安までのもの一駄につき一〇〇文
汐首より臼尻領磯谷まで一駄につき一五〇文
鹿部は、 一駄につき一二〇文
砂原から野田追まで、 一駄につき 八〇文
「菓子昆布」
「御上り昆布」
・菓子昆布、御上り昆布はともに高級昆布としての特別税(物品税)菓子昆布一駄、銭納の場合は八一二文、御上り昆布一駄、銭納の場合は五二〇文納入と定められていた。
昆布税の免除について、難破船があって昆布積荷を損ねたときには、その都度、村々より役方へ貢納につき免除の願出がなされていた。
「判銭」
・小安から鹿部までの入稼(いりか)の家一軒につき、判銭一〇一文ずつ取り立てた。ただし、村役人(名主、頭取、小頭など)の家は判銭が免除された。
「船役銭」
・昆布採りの船にはその船種類・規格により・合図船一〆二〇〇文・三半船九〇〇文・持夫(もちっぷ)六〇〇文の船役銭が定められていた。
これらの役の徴収については、漁事改めの者が、七月初旬、六ケ場所の村々を廻村して、その年の納め役を取決め、九月中にはそれぞれ現物を持参して納めることとしていた。
物納する昆布が、船送り中、悪天候により「ふけ昆布」となり、納入不能となった場合は、時の相庭(相場)の五割増で銭納入することになっていた。
「荷物積取船役銭」と「穀役」
・六ケ場所の新鱈積船は、地元船(地船)、他国からの入稼船(他船)に限らず、その年の初航海のとき「蝦夷地初船役」として「穀役」を納めることになっていた。
・蝦夷地穀役は、昆布積や秋味鮭など「眞舟風願済(まはんねがいずみ)」の如何を問わず、すべて初船役として納めることになっていた。
・松前箱館の地元船が荷物積取船に雇われて、六ケ場所の荷を船積するときは「小廻(こまわ)し」と呼んで、初船役は納めず、判銭、一〇一文を納めることになっていた。
「切手判銭」
・松前箱館の者が六ケ場所に、鯡(ニシン)昆布漁に出稼ぎのための旅をするときは、願出荷より旅行中の身分証明書としての切手を下附し、判銭ひとり一〇一文取立てた。「鰮引筒船役」
・箱館市中の者や、在々六ケ場所の者が、近場所に鰮(イワシ)引網の漁業を経営するときは、筒船一艘あたり二五、六人か三〇人位まで、「筒船役」として一艘、一貫九二〇文と定め納めることとし、また「稼方役」として、大網一放(はなし)漁夫二〇人役、小網一放漁夫一一人役、漁夫一人あたり、役一〇一文として、場所へ出帆・帆改(ほあらた)めのとき、漁夫の人数と切手(身分証明)を照合して取立てた。
以上、『箱館御収納廉分帳』から、1800年(寛政12)~1854年(安政元)当時の諸役(税制・課税)について関係事項を抜粋してみたが、幕府は税収を上げるために、様々な方策を練っていたことが窺える。
ここに記録されている税の種類「役」は、「村税・所得税・事業税・手数料」の4つに大別できると思う。これらについて若干の考察を試みる。
村税(村割金)については、部落割り・戸数・生産性(昆布、鱈などの生産物、夷人漁夫の数など)が税額算定の基準となっていて、分割納入となっていた。所得税の主体は何といっても昆布であり、税額は、定額と地域差・品質の優劣について(菓子・御上り昆布の課税)相当考慮し算定したと考えられる。昆布については現物納入を原則とし、銭納となれば相当額の割増金を取られている。事業税については、その規模(船・網の規格・漁夫人数など)・内容(漁獲物など)・季節、状況に照らし、ケースバイケースで課税・徴収されていたと思われる。「穀役」もその1つであるが、蝦夷地ならではの税だった。また、判銭と称する権利金・手数料も、小安から鹿部までの入稼の家からの判銭、六ケ場所への出稼ぎ者からの切手判銭、それぞれ101文を取り立てるなど、収入源を求め徹底して徴収している。
これら、漁業に関わる税のほかにも、出油役(油の流通に関わる税)、木材切りだしに関わる役銭・伐材量に応じて(伐材1石苗木1本)の植樹または銭納、などなど、税の網は広く細かく村人を覆っていた。
この時代、社会の発展に伴う幕藩体制の肥大化、加えて急激に変化する国際情勢への対応に迫られ、幕府の財政が相当逼迫していたと考えられる。加えて、農村部での税収増はすでに限界に達しており、幕府は新たな財源を求めてあらゆる手立てを講じていた。そんな中での蝦夷地の資源、なかんずく漁業資源・漁場の発展は、幕府にとって格好の財源であったのではないか。
六ケ場所の漁民は、これらの「諸役」納入のためには過酷な労働を強いられた。と同時に生産を上げるために、漁場を拡げ、漁具や漁法にも改良を加え、それが漁業の発展を促したのも、また事実である。
1801年、六ケ場所の村並化にともない、蝦夷地との境界が山越内(八雲町山越)に移って以来、和人の漁民が増加する一方、年々アイヌの人口は減少し、文字通り和人居住地となって行く。
<一八一二年(文化九)各場所の和人とアイヌの人口> 『蝦夷地御用見合書物類 阿部家文書』より
和人の家・人数 アイヌの家・人数 合 計
小安村 六五軒・二七〇人 な し 六五軒・二七〇人
戸 井 二八〃・ 八一〃 四軒・九人 三二〃・ 九〇〃
尻岸内 五二〃・二一八〃 一一〃・ 三七〃 六三〃・二五五〃
尾札部 四四〃・一七六〃 二五〃・ 七三〃 六九〃・二四九〃
臼 尻 三四〃・一二二〃 二九〃・一二九〃 六三〃・二五一〃
鹿 部 二三〃・一〇七〃 な し 二三〃・一〇七〃
砂 原 八六〃・三八六〃 な し 八六〃・三八六〃
鷲ノ木 五五〃・二三〇〃 一七〃・ 八六〃 七二〃・三一六〃
野田追 三九〃・一五八〃 三二〃・一五一〃 七一〃・三〇九〃
六ヶ場所合計
四三六軒一、七四八人 一一八軒四八五人 五五四軒 二、二三三人
<一八五四年(嘉永七)六ヶ場所全体の和人とアイヌの人口>
六ケ場所全体の和人の家数 七二二軒 同人数 三、七六八人
〃 アイヌの〃 九六〃(一二%) 〃 三七七〃(九%)
合 計 八一八軒 四、一四五人
六ケ場所のアイヌの人口は、幕府が享和元年(1801)当場所の村並化・山越内以北を蝦夷地と定めたため、以降、減少しはじめ、文化9年(1812)には、小安・鹿部・砂原の3ケ所からアイヌの居住が消え、六ケ場所全体では、アイヌの家数は118軒・人数485人(総人口の約21%)となった。これが、42年後の嘉永7年(1854)には、アイヌの家数96軒・人数377人(総人口の約9%)に減少し、小安・鹿部・砂原に加え、戸井、掛り澗の2ケ所、計5ケ所からもアイヌの住居は消えている。それに比べ和人の家数は722軒、文化9年の1.5倍、人数3,768人、同じく文化9年の2倍を越えるなど急激に増加した。
確かに、六ケ場所のアイヌの人数は急激に減り、5つの村(場所)での居住を見ることはなくなったが、その他の場所にあっては、幕末まで雑居地として共に漁業を営んでいた模様である。
1854年(嘉永7年3月)『箱館六ヶ場所調べ 田中正右衛門文書』にみる郷土のようす
乍恐以書付奉申上候(恐れながら書き付けを以て申し上げ奉り候)
尻岸内持(持場) 日浦
鎌歌より当所迄 行程二四丁三〇間
嘉永元申年(一八四八)御備
一 幕串(まくぐし) 五〇本 (幕を張るために立てる細い柱)
天保六未年(一八三五)御備
一 松明(たいまつ)一五〇本 (非常用の照明として)
同
一 草鞋(わらじ) 一五〇足 (非常用として)
一 弁天小社 一ケ所 但、亀田村神主 藤山大膳持
昨丑年(一八五三)御改
一 家数 九軒 人別 三五人 内、男二〇人 女一五人
一 昆布 鰯(いわし)布苔(ふのり) 産物に御座候
一 元揃昆布 二〇〇〇把 前同断 但、一把ニ付直段二三〇文
一 長切昆布 前同断(前に同じ二千把) 但、一把ニ付直段二五〇文
一 鰯粕 近年漁事無御座候
一 布苔 一〇〇〆匁 去丑年取上高 但、直段一〆目ニ付二一〇文
一 馬数 三疋 内、牡馬一疋 牝馬二疋
但、当時用立候馬二疋、病馬老馬二才等ニ而用立不申馬一疋
一 船数 五艘 内、持符(モチップ)四艘 磯船一艘
一 小川 但、川幅式余 歩行渡ニ御座候
一 野菜物之外 畑作無御座候
一 山道越 峠上詰鎌歌日浦境 但、峠境より下日浦入口迄七丁三〇間
一 山道越峠 但、峠上詰六丁 夫より峠夕迄二一丁三〇間
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内持 日浦
小頭 (東)助五郎
乍恐以書付奉申上候
尻岸内
日浦より当所迄 行程二一丁
嘉永元申年(一八四八)御備
一 幕串(まくぐし) 五〇本
天保六未年(一八三五)御備
一 松明(たいまつ) 一五〇本
同
一 草鞋(わらじ) 一五〇足
一 八幡社 一ケ所
えびす
一 蛭児小社 一ケ所
一 稲荷小社 一ケ所 但、三ケ所共亀田村神主 藤山大膳持
昨丑年(一八五三)御改
一 家数 二〇軒 人別一一四人 内、男五八人 女五六人
前同断(昨丑年(一八五三)御改)
一 蝦夷(アイヌ)小家四軒 人別 一三人 内、男五人 女八人
一 鰯(いわし)鰤(ぶり)布苔(ふのり) 産物ニ御座候
一 駄昆布 三九駄 去丑年取揚高 但、一駄ニ付直段 八七文
一 元揃昆布 四九〇〇貫目 前同断 但、一把ニ付直段 三〇〇文
一 長切昆布 八〇〇〇〆匁 前同断 但、金一両ニ付直段 九〇〆匁
一 鰯粕 二八〇〇〆匁 前同断 但、金一両ニ付直段 三八〆匁
一 鰤 近年漁事無御座候
一 布苔 *二〇〇五貫匁 去丑年取揚高
但、直段一〆目ニ付 二二〇文
一 山林 但、雑木船皆具 家木材出仕候
一 馬数 一五疋 内、牡馬一疋 牝馬一四疋
但、当時用立候馬一〇疋、病馬老馬二才等ニ而用立不申馬五疋
一 船数 四三艘 内、大(おお)、中遣(なかわたし)船一艘 図合船一艘 筒船四艘 持符二二艘 磯船一五艘
一 鰯引網大小 三投
一 鯡刺網 五〇放
一 字イキシナイ川 但、川幅九五間 船渡ニ御座候
一 村中川 但、川幅三間 仮橋御座候
一 野菜物之外 畑作無御座候
一 山道峠 但、峠登リ口より下リ日浦迄一七丁三〇間
*原書、布苔の二〇〇五貫匁は二〇五または二五〇貫匁の誤記と思われる。
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内
頭取 (野呂)利喜松
小頭 (野呂)福太郎
御百姓代(野呂)平四郎
乍恐以書付奉申上候
尻岸内持 古武井
尻岸内より当所迄 行程一里一一丁四五間
嘉永元申年(一八四八)御備
一 幕串(まくぐし) 二五本
天保六未年(一八三五)御備
一 松明(たいまつ) 一五〇本
同
一 草鞋(わらじ) 一五〇足
一 八大龍神社 一ケ所 但、亀田村神主 藤山大膳持
昨丑年(一八五三)御改
一 家数 一二軒 人別四八人 内、男二九人 女一九人
一 鰯(いわし)鰤(ぶり)産物ニ御座候
一 元揃昆布 四〇〇〇把 去丑年取揚高 但、一把ニ付直段 三〇〇文
一 鰯粕 近年漁事無御座候
一 鰤 前同断
一 鱈 八〇束 去丑年取揚高 但、一束ニ付直段 八〇〇文
一 布苔 三五〇貫匁 前同断 但、一〆匁ニ付直段二二〇文
一 馬数 一八疋 内、牡馬二疋 牝馬一六疋
但、当時用立候馬九疋、病馬老馬二才等ニ而用立不申馬九疋
一 船数 二八艘 内、筒船一艘 持符六艘 磯船二一艘
一 鰯引網 一投
一 鱈釣這縄 六〇枚
一 鯡刺網 二〇放
一 山林 但、雑木船皆具 家木材出仕候
一 古武井川 但、川幅凡五間余 歩行渡ニ御座候
一 野菜物之外 畑作無御座候
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内持 古武井
小頭 (増輪)半兵衛
乍恐以書付奉申上候
尻岸内持 根田内
古武井より当所迄 行程一六丁
嘉永元申年(一八四八)御備
一 幕串(まくぐし) 二五本
天保六未年(一八三五)御備
一 松明(たいまつ) 一五〇本
同
一 草鞋(わらじ) 一五〇足
一 蛭児(えびす)社 一ケ所 但、亀田村神主 藤山大膳持
一 稲荷社 一ケ所 前同断
一 浄土宗 地蔵庵 一ケ所 但、箱館称名寺末
昨丑年(一八五三)御改
一 家数 四〇軒 人別二四七人 内、男一四八人 女九九人
一 鰯(いわし)鰤(ぶり)布苔(ふのり)産物ニ御座候
一 駄昆布 七二駄 去丑年取揚高 但、一駄ニ付直段 八八文
一 元揃昆布 三〇〇〇把 前同断 但、一把ニ付直段 三〇〇文
一 長切昆布 四〇〇〇〇〆匁 前同断 但、金一両ニ付直段 九〇〆匁
一 鰯粕 四〇〇〇〆匁 前同断 但、金一両ニ付直段 三九〆匁
一 鱈 三五〇束 前同断 但、一束ニ付直段平均八〇〇文
一 硫黄 当時休山
一 布苔 三五〇〆匁 去丑年取揚高 但、一〆匁ニ付直段 二二文
一 馬数 五〇疋 内、牡馬五疋 牝馬四五疋
但、当時用立候馬三一疋、病馬老馬二才等ニ而用立不申馬一九疋
一 牛 五疋 内、牡馬四疋 牝馬一疋
但、当時用立候牛三疋、病牛老牛二才等ニ而用立不申牛二疋
一 船数 四三艘 内、弁財船二艘 筒船三艘 持符二〇艘 磯船一八艘
一 鰯引網 二投
一 鱈釣這縄 一五〇枚
一 鯡刺網 二〇〇放
一 村中川 但、川幅一間余 仮板橋ニ御座候
一 ヱサン山道越
但、登詰温泉川有之眼病ニ宜、根田内椴法華境 根田内凡二〇丁余
右下タ海岸より二〇間程引上リ山岸ニ温泉場有之冷病ニ宜草囲湯小屋一軒入湯之者居小家無之
根田内より海岸通り凡九六丁程御座候
一 野菜物之外 畑作無御座候
右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上
寅二月 尻岸内持 根田内
小頭 (福澤)乙右衛門
(以上 市立函館図書館所蔵 嘉永七 六ヶ場所有高調子書上より解読 荒木恵吾)
1854年(嘉永7~安政元)という年は、日米・日英・日露和親条約が締結され、長い間守られてきた徳川幕府の鎖国政策に終止符を打たれた年である。それにともない、4月15日には、米国軍艦3隻が箱館に入港、続いて(4月21日)提督ペリーがポーハタン・ミシシッピーの2艦を率いて入港、8月30日には、ロシア提督プチャーチンも戦艦ディアナ号で箱館に入港するなど、対応を迫られた松前藩にとって未曾有の年となった。
この年、箱館開港の重大性を考慮した幕府は、松前藩より、箱館および同所から5~6里(20~24キロメートル)の領地を上知(幕領化)し、再び箱館奉行を置き東蝦夷地を直接支配下に置いた。この年からいわゆる後幕領時代に入ったのである。
嘉永7年3月に提出された『箱館六ケ場所調べ(田中正右衛門文書)』は、このような緊迫した国際情勢を踏まえ、非常事態に備えての六ケ場所の実態調査、軍事目的の色彩の強いものだと思われる。したがって、調査内容の中には、戦陣を設けるための、幕串・松明・草鞋の備品、徴用できる牛馬、船種・数、あるいは峠道・河川の状況などがあり、詳細に記述されている。合わせて報告者である、村役人の役職・名前も明記されている。
なお、漁業についても本村、支村別に種別・生産高・単価、船の種類・数等、詳細に記載されており、郷土の漁業を知る上で数少ない貴重な資料である。
これをもとに江戸時代末期の郷土の漁業のようすを概観してみる。
この時代の主要生産物は当然のことながら「昆布」である。嘉永6年(1853)の昆布の総生産高は、「元揃昆布」13900把(1把=7.5キログラム)「長昆布」12000貫、合わせて約150トン・1戸平均1.85トンとなる。これは総生産高で平成6年度の日浦漁協の天然・促成昆布の量に匹敵する。また、「長昆布」12000貫(90貫=1両)を金額に換算すると133両余となり、1戸平均1両2分余で相当な収入と考えられる。昆布以外の海藻類では「布苔(ふのり)」の生産が本村・支村で目立つ、これは食用ではなく建築用材(漆喰の糊材)として使われたものであり、相当需要のあったものと推察される。
箱館六ヶ場所調べ(田中正右衛門文書)より抜粋
魚類では、尻岸内・古武井・根田内の「鯡(にしん)」刺網漁、同「鰯(いわし)」引網漁、古武井・根田内の「鱈(たら)」延縄漁がおこなわれ、製品として「鰯粕」5800貫、金額にして150両余、「乾鱈」470束(1束=800文)の生産を上げている。また、調査した年は水揚げがなかったようだが、「鰤(ぶり)」の一本釣りもおこなわれていた。なお、戸井町史等にも記述されているが、恵山沖・津軽海峡東口は昔から「鰤の好漁場」として記録に残っている。最も重要な船については、総数119隻、内、磯船が55隻、持符(モチップ)(mo-chip)というアイヌの側板(わきいた)つき丸木船が52隻と小型漁船が殆どであるが、筒船、図合船といった漁船としては比較的大型の船(筒船で、約2.5m×15メートル×0.8メートル)が9隻、大型の弁財船(べんざいせん)(北前船、小型でも5、600石積はあった)が根田内に2隻、尻岸内には貨物船の大型中遣船(なかわたしぶね)が1隻記録されている。これらは昆布等の運搬に使用されたのであろう。
また、船揚げや鰯粕絞りなど労力に使う馬牛の頭数が合計で91頭、これも相当な数である。馬については、入稼の樵夫達が連れて来たという。この馬は南部馬で性格が温厚、粗食・強靭、寒さに強く、樵夫達は内地に帰る時に山に放し、再びやって来た時に又捕らえ使役したという。なお、現在、ドサンコと呼ばれている小型の馬はこれらの南部馬の子孫だと言われている。
なお、この調査『1854年(嘉永7)箱館六ケ場所調べ』での郷土の人口は「四五七人・内アイヌ一三人、戸数、八五戸・内アイヌ四戸」と記録されている。本村・支村別では、尻岸内127人・内アイヌ13人、戸数、24戸・内アイヌ4戸、日浦35人、戸数9戸、古武井48人、戸数12戸、根田内247人、戸数40戸で、支村の根田内が、総人口の54%・総戸数47%を占め、漁業でも昆布漁以外は本村をしのいでいる。